「国民国家」という「ミドルサイズ」をどう活用するのが「有効」か
さて、今日は少し真面目に「国民国家」というものについて考えてみたい。先日の先崎彰容さんとの対談でも少しだけ話題に出たのだが、今日、国民国家というものの精神的な基盤――吉本隆明的に言えば「共同幻想」、ベネディクト・アンダーソン的に言えば「想像の共同体」――としての国民国家が、私たちの等身大のライフスタイルや、あるいはその逆にグローバルな経済構造とうまく噛み合わなくなってきているという問題が存在する。
先日の、別の万博をめぐるシンポジウムで、映像作家の中村佑子さんが「この大阪万博には“生々しさ”が足りない」といったことを述べていた。中村さんは、身体的なアプローチを中心に構成された万博建築と、スマートフォン上のアプリケーションと連動したパビリオン展示がうまく噛み合っていない点を問題にしていたのだが、僕に言わせればどちらかと言えばこれは共同幻想あるいは想像の共同体としての国家というものの機能不全の問題だ。
平易に言い換えれば今僕たちが感じている等身大の生活の生々しさ、つまりリアリティは、グローバルな市場を舞台にしたインターネットプラットフォームと強く結びついている。YouTubeやX(旧Twitter)、FacebookやAmazonといったものと、だ。
実際にYouTubeやXの仕様や、Amazon Primeの配送料設定が変わると、自分たちの生活が大きく変えられたと私たちは感じるだろう。その一方で、国家というものが知識として自分たちの暮らしを支え、人生に対して大きな決定力を持っていることは理解できていても、なかなか実感することができない。(「社会保険料」の高さがここ数年までほとんど「実感」されず議論の対象になりにくかったように。)
残念ながら国家という「中途半端な規模感」のものをめぐる言説は、「生々しさ」「リアリティ」を欠きやすく、その結果として自分探し層やコンプレックス層(SNS言説の主要プレイヤー層)のアイデンティティをめぐるゲームの素材として「消費」される構造が定着している。
大阪万博をめぐる言説が、端的に言えば国内政治の左右対立に巻き込まれてしまい、まともに機能していないのも、ここに原因がある。政府・自民党や、大阪市・大阪府を支配する大阪維新の会を批判する材料としてしか、左派は万博を最初から捉えるつもりはなく、また後出しジャンケン的にリベラル勢力を攻撃することで、自分を強く、賢く見せたくて仕方のないコンプレックスを動員して支持を得ようとする政治家や言論人は、「万博は意外と悪くない」「またリベラルは間違った」と言うチャンスを最初から伺っていたはずだ。
その結果、万博について真剣に議論することは実質的にほぼ不可能になっている。つまり、寂しいひとたちのアイデンティティの、しかも“消去法の受け皿”としてしか国家というものが要請されていない(というか、その欲望が世論形成の中核にある)という悲しい現実がここにある。
では、これに対してどう考えたらいいのか。
もちろん最初に考えなければならないのは、「ベタに啓蒙すること」だ。大阪万博が実際に大阪の数十年単位の都市計画や行政のあり方に直結しているように、国家や地方自治体の舵取りは、市民生活の質や人間の基本的な権利の保障において、強すぎるほどの決定力を持っている。
国政をアイデンティティゲームとして活用することが選挙戦略として、あるいはメディアや言論人の生存戦略としてどれだけ有効であったとしても――いや、有効であるからこそ――その使い方は抑制されなければならない。もちろん、「ベタに啓蒙すること」だけが正解ではないだろう。しかし、絡め手から攻めるにしても、まずはこの状態を解消しなければならないというコンセンサスをベースとして形成する必要があるだろう。
そしてその一方で、僕はこう考える。
国民国家という「中規模」の存在が、以前に比べて等身大のリアリティを喪失してしまうことは、ある意味で不可避な現象であり、これを受け入れた上で、その位置付けを再構築していくことが必要なのではないか。
ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』には、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期における西ヨーロッパの国民国家の弱体化の問題が指摘されている。端的に述べれば、世界恐慌に象徴されるこの戦間期の混乱に対して、ナチズムやスターリニズムが国民国家を超えた、ある意味でグローバルなビジョンを提示したのに対し、国民国家内の再分配を基本とする社会民主主義勢力は、国内で完結した対応策に固執した結果、有効なビジョンを提示できなかったことが指摘されている。(一応断っておくが、広く知られているように『全体主義の起源』とはナチズムとスターリニズムを批判するための本である。そのナチズムとスターリニズムの検証の中で、当時の社会民主主義がグローバルな手段を持ち得なかったという弱点が論じられているのだ。)
今起きている問題もこの戦間期の国民国家の揺らぎに近い。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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