私がこの企画の問題点だと感じていることを、生成AIの力も借りつつ整理してみた。
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私は、障害者や性風俗の悲惨な現実を描くこと自体を否定しているのではないし、原作の発禁を求めているわけでもない。問題だと思うのは、認知的な困難を抱えた女性の失敗、性的搾取、周囲への迷惑、そして死を、かわいらしい絵柄との落差によって連続的な見せ場にし、その「衝撃」を商品価値としてきた作品を、さらに広い市場へ増幅するという企画判断である。社会的弱者を描く作品であることと、社会的弱者の苦痛を消費する作品であることは両立する。善意や取材、社会問題的な説明が含まれているだけでは、その問題は解消されない。
以下、いくつかの反論を想定して、再反論することで議論を深めたい。
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◯1.「すでに広く一般に流通しているマンガをアニメ化して何が悪いのか?」
これは一番自然な反論だろう。マンガとして出版が認められている以上、別媒体に展開する自由もある。アニメ化だけを特別に問題視するなら、結局は「気に入らない作品を広く見せるな」という表現規制ではないか、と。
しかし、出版可能であることと、あらゆる規模・文脈での展開が批評上妥当であることは別問題である。マンガ単行本と映像作品では、到達する観客の範囲、切り抜かれ方、キャラクター商品としての流通、声や動きを与えられたときの生々しさが違う。原作の発禁を要求することと、企業が多額の資金を投じて増幅する企画を批判することも違うだろう。
「作るな」ではなく、「なぜこれを大規模に増幅するのか。その増幅によって何が起こるかを製作側は考えているのか」ということ。
表現の自由には、表現や企画を批評されない権利までは含まれない。
◯2.「悲惨な現実を描くことまで差別と言われたら、社会問題を描けない」
これには一定の説得力があるだろう。知的障害のある女性が家族や制度から取りこぼされ、夜の街で性的・経済的に搾取されることは実際にありうる。それを「偏見を助長するから描くな」とすれば、不可視化に加担することになる。きれいで模範的な障害者だけを描くことも、別種の差別ではないか。これに関してはこう反論したい。
「問題は悲惨さを描いたことではなく、悲惨さがどんな説明装置と娯楽装置に組み込まれているかである」
本作では、漢字や空気が読めない、遅刻する、物を壊す、性的な距離感を誤るといった特徴が、DV、性暴力、近親相姦、風俗での搾取、殺害へと次々に接続されます。個々の出来事が現実にありうるとしても、それを一人の人物に集中させれば、「こういう認知特性をもつ女性は、性的に無軌道で、周囲に迷惑をかけ、最後には破滅する」という類型を強化しかねない。リアリズムは「事実としてありうるか」だけでは測れないものだ。
「なぜこの事例を選んだのか」「何を反復して見せるのか」「誰の内面には入り、誰を外側から観察するのか」「読者に同情、嫌悪、優越感、恐怖のどれを与えているのか」
擁護的な読みでは、みいちゃんの破滅は障害そのもののせいではなく、家族が療育や診断を拒み、社会的支援から切り離したことの帰結だ、とされている。作中には、診断と福祉につながったことで別の人生を送る人物も配置されており、「障害と環境の双方を描いている」と読むことができるのだから、と。
参考:https://nlab.itmedia.co.jp/cont/articles/3667674/
これも無視できない反論だろう。作品にその構造がまったくない、と否定することはできない。
しかし、福祉への接続という主題が含まれていることと、作品全体が偏見を再生産しないことは同義ではない。
制度上の原因を説明していても、読者が長時間消費するのは、みいちゃんの失敗、性的搾取、奇矯な言動、周囲の困惑といった場面だ。説明上のメッセージが「制度の不足」でも、演出的な快楽が「危なっかしい女の観察」に置かれていれば、受容の中心は後者になりうる。「作者が何を言いたかったか」だけでなく、「作品が何を繰り返し見せ、何を商品価値にしているか」を問う必要がある。
◯4.「障害者だと明示されていない。勝手に診断する側こそ偏見では?」
作者自身は、「みいちゃんがどんな子なのかは読者の判断に委ねている」「特に障害福祉を描く目的の作品ではない」と述べている。一方で、支援学校の教員や風俗女性を支援する団体には取材したと説明している。
参考:https://nikkan-spa.jp/2092621
したがって、「知的障害者を描いた作品だ」と断定すると、「作中で診断されていない人物を、批判者が勝手に障害者扱いしている」と返される。この反論も封じておきたい。診断名の断定と、障害を想起させるコードの利用を論じることは別だ。
作品が、読み書き・計算・状況判断・衝動制御・対人距離などの困難を束ね、さらに療育や福祉制度を物語に導入している以上、障害表象として受容されることは十分予測可能である。作者が診断を留保することで、責任だけが消えるわけではない。むしろ、属性を明示せず、「ちょっと足りない」「何をやってもダメダメ」といった日常語で特徴づけることには、障害を個人の滑稽さや欠陥として消費させる危険がある。講談社の公式紹介にも、実際にこうした表現が用いられている。
参考:https://shonen-sirius.com/c/miichantoyamadasan.html
「愛くるしい」「憎めない」「健気」という語が繰り返され、山田さんが彼女に心を寄せる構造になっている。したがって、作者はみいちゃんを蔑視しておらず、読者にも共感を求めている、という反論もありうるだろう。
これに対しては、「愛情と客体化は両立する」と答えておく。
「かわいそうだけれど愛くるしい」「迷惑だが憎めない」という眼差しは、露骨な嫌悪より善意に見えるかもしれない。しかし、それは対等な主体としての理解ではなく、失敗や無知や無防備さを愛玩するパターナリズムにもなりえる。特に「かわいい絵柄」と過酷な搾取の落差自体がセールスポイントになると、みいちゃんの苦痛が、観客に衝撃と庇護欲を与えるための感情商品になってしまう。この点では、悪意の有無より「どんな鑑賞位置を観客に与えているか」が問題となる。
◯6.「悪いのは搾取する男や店や家族であって、風俗女性や障害者を批判してはいない」
物語の道徳的な悪役は、みいちゃん本人ではなく、彼女を搾取する周囲だ。したがって、むしろ性産業の搾取性や社会の無関心を告発している、という読みはありえるだろう。
だが、搾取者を悪人として描くだけでは、構造批判にはならない。異常に悪辣な彼氏、店長、家族に原因を集中させると、搾取は「悪い個人が、判断力の乏しい女性を食い物にした事件」として処理されてしまう。しかし本来問うべきなのは、「なぜセーフティーネットから漏れるのか」「なぜ性産業が福祉の代替的な受け皿になるのか」「支援者や行政はどこにいるのか」「本人の意思と搾取をどう区別するのか」「性産業内部にもどんな多様な労働経験があるのか」といった、制度や労働の問題だ。
作品がそこまで描かなければならないという義務は、当然ながらない。ただし、描かないまま「夜の世界のリアル」を標榜するなら(アニメ化においてそうした宣伝が、公式にしろ非公式にしろ行われるなら)、その「リアル」はかなり選択的だ、と批判できるだろう。
性風俗で働く女性を「かわいそうな被害者」とだけ捉えることは、本人の職業選択や労働者としての主体性を否定する。作品批判の側が、性産業を自動的に堕落や破滅と結びつけていないか、という指摘にも、一理はある。
私は風俗一般を否定しようとは思わない。問題なのは、性産業を描いたことではなく、性産業にいる女性を「搾取される無知な女性」と「事情を理解して立ち回れる女性」に分け、前者の破滅を見世物化することではないか。性風俗を労働として描くなら、技術、交渉、同僚関係、安全管理、報酬、職業上の葛藤なども存在するはず。それがほとんど捨象され、暴力・性被害・転落の舞台としてのみ利用されるなら、結果的に性産業への偏見を補強するだろう。
「風俗=悪」と描いたことより、「風俗を社会的弱者が破壊されるスペクタクルとして消費していること」が、今作においては問題なのだ。
◯8.「実在のモデルと取材に基づいているのだから、偏見ではなくリアルだ」
作者は、みいちゃんに昔の知人というモデルがいること、支援学校教員や支援団体などに取材したことを明かしている(先述したインタビューを参照)。
これに対しては、「モデルや取材の存在は、正確性や倫理性の証明にはならない」と反論しておきたい。一人の実在人物を参照していることは、むしろ「その一例をどこまで集団の典型として読ませるのか」という問題を発生させる。また、取材によって個々の描写が事実らしくなればなるほど、その事実をどう選択・配置したかという編集上の責任は重くなる。
「本当にこういう人がいた」は、フィクション批評における万能の免責符ではない。現実には、どんな極端な人物も出来事も存在しうる。問題は、それを代表的なイメージとして大衆に流通させる際のフレーミングだ。
◯9.「受け手が差別的に使うことまで作者やアニメに責任を負わせられない」
作品名やキャラクター名が蔑称化(「あの人、『みいちゃん』っぽいよね」)しても、それは悪意あるユーザーの責任であり、作品の責任ではない。どんな作品でも切り抜きや誤読は起こる。こうした反論も、アニメ化を容認する立場からは想定できる。これは原則として正しい部分はある。読者のあらゆる反応を作者に帰責するのは無理だ。
だが、個々の悪用を作者の故意とみなすことはできないが、予見可能になった受容を、以後の企画判断から切り離すこともできない。すでに作品が差別的なミーム、呼称として使われているなら、アニメ化する企業はその受容環境を知ったうえで、宣伝コピー、描写、放送枠、注意書き、監修、広報展開を設計する責任があるだろう。
とりわけ公式宣伝まで「ちょっと足りない」「ダメダメ」「愛くるしい」という語彙を踏襲するなら、差別的受容はまったくの作品外部だ、と言い切るのは難しいのではないか。
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……以上である。
しかし、すでに差別的なミーム化を伴い、弱者の破滅が話題性と商品性に直結している作品を、いまさらに大規模展開するという判断には強い疑問がある。なのでこの文章を書いた。
・宣伝で「衝撃」「かわいそう」「ちょっと足りない」を消費しないか
……こうした点を製作側が考慮するかどうかを、注意深く見守りたい。
おそらく一番重要な批判は、「あなたは『当事者が傷つく可能性』を理由に、障害のある女性を善良で理性的な被害者としてしか描くなと言っていないか。迷惑をかけ、性に奔放で、支援を拒み、ときに他人まで傷つける障害者も存在する。そのような人物をフィクションから排除するほうが、人間性を奪っているのではないか」という論点だ。
最後に念を押しておきたいが、そのような障害者を描いてはいけないのではない。だが、従来から偏見の対象になってきた特徴を一人のキャラクターに凝縮し、その失敗と破滅を連続的な見せ場にし、「愛くるしさ」と「衝撃」の落差で販売するとき、単に「人間の、世界の複雑さを描いてみせた」というだけの説明では済まない。
問題は人物の善悪ではなく、観客に与えられる快楽と社会的文脈にある。そこを履き違えてはいけない。
長々書いてるけど要は「私は気に入らない」でしょ? 変に理屈こねるよりストレートにそう言ったほうが話聞いてもらえると思うよ