【雑記】あの時、ああしていれば。
日々、度々、日常の中で、大小様々な後悔に襲われる。
あの時、ああしていたら。
あの時、こうしていれば。
往々にしてそのような後悔たちは、青く痛みを伴う。
これは誰しも、人生の中で少なくとも一度や二度は経験すると思う。
失われたもの、もうここにはないものへの執着を呼び起こしたりもする。
私も今までなんとかどうにか生き延びてきた中で、ここには到底、書き出せない程の後悔に襲われ、当時の自分を罵ってしまいそうになる。
後悔とは所謂、静止画の様なものだと思う。
その時点での私たちの選択がそこにあって、姿かたちを変えずに留まっている。
そして私たちは瘡蓋を剥がすように何度も何度もその静止画を網膜に焼き付けている。
ところが、その裁量や決定権というのは当時の私たちにしか持ち得ないものであり、その後の顛末や行方は、今の時点の私たちには知り得ない事象である。
Aの下り坂を進み人生ゲームを一抜けしていたのか、Bの獣道を右も左も分からず右往左往したのち、開始時点よりも向こう側に戻され途方に暮れていたのか。
私たちが今足を下ろしているこの地点は、AでもBでもなく、今しかない「現在」という新たな地点であること。
それは熟睡している時に見る夢の中の平行世界のような、賽の目が出るまで分からないシュレディンガーのあらすじだと思う。
私たちはそれを分かりきっていても、どうしてもAやBの行方知れずの自分を探しに幾度も夢想し、後悔に浸り、ある時は怒りを抱えたりもする。
つい最近までそれはまさに私の日課を超えた行為への執着でした。
まるで当時の私が完璧な指揮権を持ち、一ミリの狂いもなく正確な羅針盤を持った指導者であり、コマンダーであったかのように。
それでも道を踏み外し、ハズレのくじを引き、日々呪詛のようなタラレバに囚われているのだと。
しかしこれらは悪いことばかりではない。
一度踏み抜いた落とし穴は、私たちは痛みを伴いながらも、すいっとひとっ飛びで避け飛び越えられる防衛本能と学習能力を持ち合わせているからだ。
これは後悔という逆剥けに血を流し続けてきた私の実体験から来る持論なので、確証はありません。
ですので、拙い部分もあると思いますので、これは一つの持論なのですが、
静止画であったAとB、現在への別れ道で私は賽の目を間違いなく振り、AやBを選んでいれば知る事のなかった現在を選び、その後の同じ姿かたちの外れのコマを全て引きました。
もちろんAやBを引いていた場合、同じ外れのコマを引いたか、別の正解のコマを開いていたかもしれない。
もし正解のコマを開いていた場合、他に減らす事の出来た外れのコマは恐らくありませんでした。
何が言いたいのかというと、後悔と学習はいつでも隣り合わせであり、それは今後の船旅のアドバンテージに転じると思うのです。
更に特典をいえば、最初に大きな外れを引いたことで、より慎重になり、決断を早まることなく、常にリスクを疑い、より安全かつ納得のいく道筋はないかと、ふうと一息つけるようになりました。
自分だけではあやふやで確証が持てない時はすぐに進路を決める決断は下す必要はなく、時には様々な人の助けや進言を頼りにすることも弱さではないのだと、再度強く実感しました。
日々の後悔で私の体は車の後部に括り付けられ引きずり回されたようにボロボロになっていました。
しかしある時、括り付け痛めつけていたのは自分だったのだとふと気づきました。
これも、勿論同じ外れを引かないように戒める為に、流血を承知で内省を反芻していたからだと分かっています。
それ自体は悪いことではありません。
前述したように後悔と学習は朝と夜のように鏡合わせで付かず離れずの関係性だからです。
しかしどこかで、括り付けていた自己を許してあげる必要があります。
傷ついた自己を許し、労り、そしてまた賽の目を振らねばなりません。
その来るべき決断の時のために体力を維持しなければなりません。
私は確かに外れを引いたかもしれない。
確かにその痛みは瘡蓋になりまだ癒えていない。
それでも私は確かにあの時、勇気を出して賽を振り、同じ外れのコマを全て開けたのだと。
それは選択肢が増え、A・Bだけでなく、その後も可算的な道筋が私たちを待っているということでもあるのかなあと。
今はそう思う訳です。
長くなってしまいましたが、私も日々の後悔に振り回され続けずに、時には間違える自分に許しを与えながら、新たな選択肢の芽を発芽させたのだと、可能性の発露に転じながら、しぶとく踏ん張って生き抜いていきたいと思います。
誰に届くかも分かりませんが、途方にくれた誰かに届き、不安の芽を摘めたらいいな。
そして、お先真っ暗だと夜中にひとりで泣いていたあの時の私へ、一日でも早く届きますように。
茉莉花🦋.*˚


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