お隣の孤爪さんは、あまり帰ってこない。
拝啓、お母さん。
この春から、大学二年になりました。
キャンパスにも日々の生活にも慣れてきて、バイトも勉強も充実していると思います。
そんな私の目下関心の事といえば、お隣さんのことです。
え?お隣さんとは仲良くしなさい?いやいや、分かっていますとも。
誰の子だとお思いですか。コミュ力おばけの母の子ですよ。あ、おばけは言い過ぎですか。そうですか。
「……あ、の、隣の、孤爪、です」
『あ、わざわざご丁寧に』
「……」
『……』
「……」
『……あの』
チャイムが鳴り、開けた玄関の先には見たことのない男の子が立っていて。
孤爪と名乗ったその子は、どうやら昨日まで空き室だった隣の部屋に引っ越して来たようだった。
合わない目線と、続かない会話にしびれを切らし声をかけてみると、サッと目の前に差し出された紙袋。
あ、もしかして挨拶の……?
ご好意を無下にするわけにもいかず、『ありがとうございます』と御礼を言えば、「……孤爪、です」ともう一度名乗った。
うん?さっき聞いたよ?
ヒ◯シじゃないんだから……。
と脳内一人ツッコミを展開している内に、ぴゃーと効果音でもつきそうなほど足早に、隣の部屋の玄関が閉まった。
一人、紙袋を手に持ち自室の玄関前でぽかんとする私は、はたから見れば不思議な人だろう。
学校でもバイト先でも、友人づくりに苦労したことがない私には、お隣の孤爪さんは初めて出会うタイプの人だった。
いただいた紙袋を手に、扉を閉める。
うーん。良い人そうには見えたし、まぁ、この先なにかあればその時に仲良くなればいっか。
と着地したところで、頂き物が某超有名店の焼き菓子だと知った。
『……いや、ほんと、何者なの孤爪さん』
❃
実はというと、挨拶の日以来、孤爪さんとは会っていない。
歳が近そうな気がしたから、もしかしたら生活リズムが被るかな?と思っていたけれど、マンションですれ違うこともなければ生活圏内で見かけることもなかった。
というか、私はあの日以来、隣の部屋の扉の音を聞いていない。
『……まさか』
いやいやいや。そんな、ドラマみたいなことがあるわけない。
玄関を開けたら孤爪さんの体が転がってきて……なんて、あるわけないよ。……ない、よね?
思わず想像してしまったよからぬ発想に、冷や汗がじっとりと背筋を伝う。
い、一応確かめるだけ確かめてみようかな。
ほら、もし、何か困っていることがあったら大変だし、逆に留守ならそれはそれで私がこれ以上踏み込むことでもないってハッキリするし。
よからぬ想像は、とりあえず脇に追いやって。
ただ手ぶらで、『大丈夫ですか?』と聞きに行くわけにもいかないので、冷蔵庫の中から作り置きしておいた肉じゃがを取り出し、タッパーに詰め替えた。
隣の部屋だけど、保冷剤も入れておこう。
可愛いリンゴのイラストが入ったそれは、バイト先で使っているもの。
――いざ、出陣だ!
そう意気込んで、玄関を開けた。
「えっ」
『ぎゃー!出た!出た!』
「ちょ、うるさ」
扉を開けた先に、ゆらりと蠢く何かが目に入り。
ホラー映画よろしく、思わず声を上げてしまった。
『……あれ?孤爪さん?』
「そうだけど」
びくりと揺れた肩に合わせるように耳に届く、少し低い声。
薄い涙の膜が邪魔しているけど、よくよく見ればその何かとは人で。孤爪さんで。めちゃくちゃ顔をしかめていて。
『ご無事で!?』
「何言ってんのか分かんない」
『辛辣ですね!』
「君、阿呆って言われない?」
んー、抜けてるね。とは良く言われます。と、へらりと笑ってみせると、体中の二酸化炭素を吐き切るつもりかなってぐらい、大きなため息をつかれた。
『生活音が全くしなかったので、行き倒れていらっしゃるかと』
「……あぁ。そういうことね」
『お元気そうで良かったです!』
「ふ、は、ふふ、」
『……え』
カクカクシカジカ、こういうわけで、念のため生存確認をと思いまして。と伝えると、孤爪さんはどこか納得したように一つ頷いたあと、口元を抑えながら綺麗な笑みを浮かべた。
孤爪さんが笑うたびに、その振動で耳にかけている髪の毛がサラリと揺れる。
凄く綺麗な笑顔だなと思い、胸の中に星が落ちたような気がした。
「はは、ごめん。俺、こっちにはあんまり来ないから」
『……こっち?』
「うん。この部屋、物置きとして借りてるから、住んでる所は別なんだよね」
『へ、え……』
マンションの一室を物置きとして借りるって、イマイチ掴めない感覚だなぁ。
もしかして、もの凄くお金持ちとか……?
はたまた、物が捨てられないタイプとか……?
または――、別の場所には一緒に住んでいる人がいる、とか……?
「ふふ、静かすぎて気にされたの初めて」
『あ、えと、なんかごめんなさい』
「どうして?気にかけてくれたんでしょ」
『要らぬお節介でしたけどね』
へへ、と笑って頭を下げれば、胸に落ちた星がずっとずっと下に堕ちて。
真っ暗な闇の中に、流れ星になることもなく消えていった気がした。
「ねぇ、それ」
『?』
それ、と孤爪さんが指差す先には、意気込んで詰めたお手製の肉じゃがが入ったタッパー。
今さらながら思い出す、当初の目的。
と同時に、燃えさかるような熱が体と頬を染め上げた。
――たった一言、挨拶した程度の人間から手作りの食べ物なんか受け取らないよね。
「もしかして、おれにくれるの?」
『えっ、と……』
「違ってたらごめんね」
『……孤爪さんに渡そうと思っていたのですが、』
「うん」
『知らない人からの差し入れなんて、気持ち悪いですよね。ほんと、そこまで気が回らなくてごめんなさい……』
恥ずかしすぎて顔が上げられない。
まるで、初対面の時と立場が真逆だ。
「まぁ、普通は受け取らないかもね」
『っ、で、すよね』
「おれは食べたいけど」
『……え?』
「だって、凄く美味しそうだもん」
だもん。……だもん。
え、この世に孤爪さん以上に「だもん」が似合う人間っているのかな。
『孤爪さんって、可愛い』
「え」
ハッとして、無意識のうちに放たれた言葉に、息を呑んで口を押さえた。
「それは、ちょっと嫌、かな」
『で、すよね……』
「格好いいって言われたい、かな」
『で、すよね……、はい?』
あ、嫌ってそういう感じの……?
男らしいぜ!みたいに思われたい、的な?
「勇者より賢者がいい、かな」
『へ?』
「おれ、ガッといくタイプじゃないから」
『え、あ、はい……?』
「整えてから、一気にいくタイプなんだよね」
――だから、賢者かなって。
そう言って、にんまりと綺麗な弧を描くように口角を上げた孤爪さんは、どこか不敵で無敵そうに見えた。
「ねぇ、それ食べてもいい?」
『えっ』
「え?」
『食べるんですか……?』
「おれのなんだよね?」
いや、まぁ、そのつもりでしたけれども。
本当に本気で食べる気なのかな、と思案していると、くいと服の裾を引かれた気がして。
視線を落とせば、服の端っこをつまむ綺麗な指先。
たまらず顔を上げれば、交わう視線。
「飲食と寝るスペースくらいはあるから」
『えっと』
「うちで一緒に食べたい」
こてん、と首を傾げる孤爪さん。
いや待って。なに、この可愛い生き物。
多分、可愛いって自覚されている気がするけど、それすらも超越する可愛いさって、ある意味凄い才能ですよ、孤爪さん。
『お部屋に入っても大丈夫なんですか……?』
「二人なら、たぶん大丈夫なんじゃない」
『……彼女さん、とか』
「いるわけないよね」
いや、知りませんよ。むしろ、いる方にオールインしていましたよ。
とは、とても言えず。
射るような猫目に見つめられ、言葉を選ぶ余裕もなく、『ソウナンデスネ』と曖昧な笑みでやり過ごした。
「もしかして、彼氏いるとか」
『いるわけないですよ!』
「ふ、ふふ、力説しなくても」
『う、あ、』
恥ずかしさを誤魔化すように、『元カレに振られてからもう一年ですよ』と、別に知りたくもないだろう情報までペラペラと喋ってしまう、この口のチャックを誰か閉めてくれないだろうか。
「へぇ、元カレねぇ」
そう呟いた孤爪さんの声が、少しだけ苛立ちを含んでいるような気がした。
「じゃあ、その話でもしながら食べようか」
『えっ、いや、』
「嫌とか、言わないよね?」
『……モチロン、ヨロコンデ』
「ふふ、良かった」
嫌とは言わせない。
そんな眼圧を感じ、こくこくと首を上下に動かした。
……お部屋に入ったらまず、お水を貰おう。
玄関を開け、「どうぞ」と促されて家主よりも先に扉をくぐる。
ばたんと閉まる音が、いつもより世界に大きく響いた気がした。
・
・
保冷剤のリンゴマーク見た孤爪さんが、「これ、駅前の」と呟く。
『はい!バイト先なんです』と言うと、「君、ほんとに阿呆だね」と暴言らしからぬ言葉を吐かれて、うっとなる。
ふわりと頭上に感じたぬくもりに、そろりと視線を上げれば愉しそうに口角を上げた孤爪さんがいて。
「個人情報だだ漏れ注意」と言いながら、頭の天辺から髪の毛先までゆっくりと撫ぜる指先に、堕ちた星がまた光り始めた。