明治の皇室改革の目的は悲願の不平等条約改正を達成すること、そのためヨーロッパ王室に倣い、天皇が近代君主となることにあった。ならば、女系継承を容認する皇位継承法の変更はいかなる天皇像を目指すのか?(令和8年7月17日)
(画像は国宝「嵯峨天皇宸翰光定戒牒」部分@Wikipedia)
「女性皇族が婚姻後も皇族身分を保持」し、かつ「旧11宮家の男系男子の養子縁組」を可能とする「改正皇室典範」が、今日17日の参院本会議で賛成多数により可決、成立した。今後、陛下がご自身の署名をなさり、法律が公布されることになる
〈https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g22109064.htm〉
天皇は憲法の規定に基づき、内閣の助言と承認のもと、国事行為を行う。その筆頭にあげられるのが、「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること」である。公布される法律の原本に、天皇は署名と押印を行う
〈https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/goshitsumu.html〉
このご署名は近代の改革によるものである。天皇がご自身のお名前(諱。いみな)を公文書に書き入れるのは、明治以後に始まった。従来は文字どおり、諱=忌み名であって、実名をみだりに口にすることが禁忌され、みずから署名なさることもなかった
いまでも、天皇は在位中、公的には実名では呼ばれない。天皇が固有名詞で呼ばれるのは崩御ののちである。すなわち、「追号(ついごう)」「諡号(しごう)」である。ただし、外交上の公文書などには His Majesty Emperor Naruhito と実名が用いられる
◇1 嵯峨天皇宸筆の異例の公文書
比叡山延暦寺には、国宝「嵯峨天皇宸筆光定戒牒(こうじょうかいちょう)」が伝わっている。弘仁14(823)年4月、最澄の高弟・光定が大乗菩薩戒を受けた。戒牒はこのとき朝廷から与えられた通知(受戒証明書)なのだが、「三筆」のおひとり・嵯峨天皇の宸筆(しんぴつ。直筆の文書)とされる
しかし、ご署名はどこにもない。末尾の署名は慣例どおり、大納言藤原三守のものである。けれども本文は、天皇が文書を「代筆」された。異例の公文書とされる所以である
本文が嵯峨天皇の宸筆と認められる根拠は、①文書を受け取った高僧・光定が撰述した文献「伝述一心戒文」に、「厳筆徴僧が戒牒を書し給ひ、恩勅之を賜ふ」(原文は漢文。光定が嵯峨天皇から直接、直筆の戒牒を授かったという意味)とあること、②戒牒の筆跡、書風が嵯峨天皇の好みとピッタリ合致していること、などである。楷行草を交えた荘重な書風で、空海に学んだものと推定されている
(左葉の後ろから3行目に「厳筆書微僧戒牒而恩勅賜之」とある)
〈https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008757?page=37〉
公文書に天皇のご署名が入らないのは、古来の決まりである
建武の新政当時でさえ、この伝統は守られた。後醍醐天皇は「綸旨(りんじ)」で直接命令する手法を多用されたが、それでもなお、みずから署名なさらないというルールを崩されなかった。公文書は「側近が、天皇の言葉を奉って、発行する」という古来の形式が固守されたのである
ところが、後醍醐天皇が配流された隠岐島を脱出されたのちに発行された綸旨のなかには、宸筆の文書が何点も見つかっているという。側近の不在中、対応を急ぐことから、側近の名を用い、側近の花押(サイン)を真似て書かれたと見られている
たとえば、出雲大社に伝わる宸筆綸旨に、きわめて重要な2通がある。うち1通は「紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」で、国の重要文化財になっている。天皇は元弘3(1333)年3月、同社に対して、草薙剣の代わりとして、同社の古い神宝の剣を献上せよと求めたのだが、ご署名はないという
〈https://www.sankei.com/article/20211007-KXP72B2AJVMO5MSFTX3QIOUXBY/?348718〉
つまり、後醍醐天皇の新政でさえ、公文書にみずからの名前を署名することはなさらなかった。天皇は政治の実務の世界から超越したお立場にあるからであった。実務を行い、責任を取るのは、官僚である
◇2 軍服、フランス料理、和洋折衷の宮殿
明治の近代化は、天皇統治のあり方を一変させた
天皇が公文書にみずから署名し、国璽を捺印することになったのは、正式には明治19年2月の「公文式(こうぶんしき)」制定によってである。第3条に「親書ののち、御璽を鈴し、内閣総理大臣、これに副署し」とある
こうして諱のタブー、不親政の伝統が破られ、秘書役の蔵人が代理署名する慣例が改められた
〈https://dl.ndl.go.jp/pid/787968/1/216〉
明治の変更はほかにもある。以下、いくつか取り上げる。
1、(可視化)ひとつは、よく指摘されるのは、「姿を見せてはならない存在」から「見せる存在」に変わったというものである。御簾越しにしか拝せないお立場から、全国を巡幸し、国民の前に姿を現す天皇像へと一変したとされるのだが、間違いであろう
以前、何度か指摘したように、古代においては、御代替わりに京都・加茂川で行われる御禊を見に、人々が集まったし、江戸時代には切手札を手にした庶民が即位礼を拝観したことが屏風図に記録されている
なぜ見誤ったのか、といえば、「閉ざされた中世・近世の朝廷」というステレオタイプにとらわれているからだろう。明治以降の「近代化」を強調したいあまり、単純な図式に満足し、客観的な事実を見落としている
それなら何が変わったのか、衣食住の各局面で考える
2、(軍服着用)まず服装だが、かつて天皇は長い髪に薄化粧し、「袿袴」「御引直衣」など公家衣装を召していた。しかし明治5年、明治天皇は断髪し、大元帥の軍服を着用されることになる。少なくともオモテの世界はヨーロッパ風へと塗り替えられた
いまも、祭祀の場では祭服、御公務は洋装と使い分けられている。1日に何度も着替えられるのは、陛下ならではであろう
3、(フランス料理)食の世界では、天武天皇4(676)年以来の肉食のタブーが破られた。明治天皇みずから牛肉を食され、これが新聞で大きく報道された。やはり明治5年のことである。「我ガ朝ニテハ、中古以来肉食ヲ禁ジラレシニ、恐レ多クモ天皇、謂レナキ儀ニ思召シ、自今、肉食ヲ遊バサル旨、宮中ニテ御定コレアリタリ」
明治維新直後から、御前会食の公式料理はフランス料理となった。宿願である「不平等条約の改正」には国際基準に合わせる必要があった。明治6年にはフランス料理が正式に採用された
4、(宮殿は和洋折衷)明治の皇居は当初、「西の丸御殿」が使用された。しかし明治6年に全焼したのち、しばらくは赤坂離宮(旧紀州徳川家屋敷)が仮皇居とされた。明治12年に再建計画が本格化したものの、洋風建築か和風建築かで大論争が起こり、和洋折衷で妥協された
設計の中心となったのは、代々、禁裏建築に関わった木子清敬である。足かけ5年、415万円余という巨額の総事業費を投じて、明治21年、明治宮殿は完成した。翌年の大日本国憲法発布式はこの宮殿で行われたが、残念ながら昭和20年の空襲で全焼した
5、(一世一元)近代以前、改元は御代替わりのほか、自然災害や疫病、あるいは瑞相を理由として、頻繁に行われたが、明治元年9月に「一世一元の制」が導入されることとなった。「明治改元の詔」には、「其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す」とある
〈https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m01_1868_04.html〉
6、(終身在位制)同時に、終身在位制が導入された。明治以前は約半数の歴代天皇が譲位されている。しかし明治22年の旧皇室典範は、「天皇が崩じたとき、皇太子が即位する」と定め、譲位は予定されていない
変更の理由は、院政の弊害を防ぐこと、ヨーロッパでは終身在位が当たり前だったこととされる
7、(女帝否認)終身在位制の導入は、女性天皇の否認にもつながった。女性天皇が即位し、終身在位ののち、その子孫に皇位が継承されるなら、男系主義で続いてきた「万世一系」の皇統が侵されるからである
天皇が民の世界から超然たる地位にあるためには、他姓の男子の交わりは排除されなければならない。女帝を容認することはできないのである
8、(一夫一婦制)ほかには、一夫多妻が改められ、キリスト教的一夫一婦制へ移行したことが指摘される
明治天皇には嫡妻である昭憲皇太后のほかに、5人の側室(典侍、権典侍)がいた。大正天皇(嘉仁親王)は成人した唯一の皇男子で、明治12年、権典侍の柳原愛子から生まれ、皇后が養子(嫡男)として育てられた
明治22年の皇室典範は、庶出の男子にも皇位継承権を認めていた。しかし同31年に施行された明治民法は、民間での一夫一婦制を法的に確立し、重婚を禁止した。だが、民間では、明治後期には私生児の割合が10%にまで迫ったという
大正天皇の御結婚はその2年後である。天皇は九条節子(貞明皇后)との間に、裕仁親王(昭和天皇)をはじめ、4人の親王(皇男子)をもうけられた。大正天皇はまた、側室を持たれなかった
昭和天皇も、先帝も、側室を持たれなかった。昭和22年制定の皇室典範は、一夫一婦制を前提とし、皇位継承資格は「嫡出子」に限定されている。日本の皇室としばしば比較されるイギリス王室では同様に、非嫡出子の王位継承は認められていない。しかし一方で、イギリス社会ではいまや非嫡出子が出生児の半数を超えているという。日本は2%と低い水準だが、じわじわと増えているらしい
◇3 天皇を近代君主と位置づける欧化主義
近代の天皇親政への転換は、どのようにして行われたのか?
慶応3(1867)年12月の「王政復古の大号令」には「諸事神武創業の始に原づき」との一節があった。江戸期の国学者らが掘り起こした歴史観であり、国学や水戸学などの思想を基盤としていた
しかし武家政治を打破し、神武天皇の親政に戻るという理想は、近代化の現実と衝突し、やがて国学者たちは政治の中枢から排除されていった。天皇が軍服をまとい、フランス料理で海外要人をもてなし、洋風の宮殿で、法律に署名するのは、ヨーロッパの君主制に学び、天皇を近代君主として位置づける欧化主義の結果である
けれども、それでもなお、近現代の天皇は、祭祀を第一のお務めとする祭り主であり続けてきた。少なくとも、昭和40年代までは、である。それから50年、今日、成立した「改正皇室典範」のもとで、皇室はどこへ向かおうとしているのか?
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勉強になるな〜 皇室が養子を受け入れるのだろうか?疑問だな〜