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街中でジングルベルが鳴り始める時期になると、毎年どうしても切ない気持ちになってしまう人生のイベントが、私にはあるんです。
人間、半世紀も生きているといろんなことが起きてしまいます。そんな残念な気持ちを皆さんに吐き出したいんですよ。
さあ、皆さん。私と一緒に、嫌な気持ちになりましょう。
別に自分は成功者とは露ほども思っていません。むしろ、失敗も多いし赤面するようなやらかしもたくさんあります。それでも前を向いて幸せに生きていける、というのはありがたいことです。そんな私と、人生上手くいかなかった人との間に、人として、どれほどの違いがあったのでしょう。
不動産は、そういう自分の人生を多面的に映してくれます。好むと好まざるとを別にして。今回は、そんな話を全3回でお届けしていきます。
同級生の死亡届を出しに行った
そもそも、不動産投資というものは、本来、夢のような明るい未来のために手がけるべきものです。
あこがれの、不労所得。働かなくても、資産があるだけで、その借り手がいて、毎月毎月チャリンチャリンと上がりが転がり込んでくる。
寝ていても入ってくるおカネを数えながら食べたいときにとんかつを食べ、子どもたちとその友達をディズニーランドに連れていき、愛する恋女房と豊かな時間を送り、ホテルで素敵なディナーを楽しむ。そういう夢が、私にもありました。
しかしながら、そうは問屋は卸さない。不動産投資で否応なく向き合わされる現実は常に胸糞が悪いことの連続で、これをどうやって心の中で処理したらいいのか悩むのが人生なのでしょう。
滞納。室外機盗難。水漏れ。夜逃げ。火災。逮捕。酔って壁に穴をあける馬鹿。不動産管理会社が倒産。おのれ、クズどもめ。クズどもめ。クズどもめ。
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何度、悪夢で目が覚めたことでしょう。何度、深夜の警察からの電話で起こされたことでしょう。思い出す記憶のその一粒一粒が黒いシミとなって人生に広がり、不快で不満で仕方がない。
それでも、生きていくにあたって「こちら側」で私はいたいんです。自分の力で、自分の人生をなんとかできる側、に。
私は1973年生まれの53歳、就職氷河期世代。心技体そろった見事なおっさんです。
まさに1971年ぐらいから私の生まれた1973年ぐらいまでは団塊ジュニアと呼ばれる人口のボリュームゾーンです。無駄に同級生がいっぱいいます。何をやるにも数多いる同世代のライバルとの競争になり、頭一つ出て勝ち抜かなければ良い人生を送ることのできない緊張感と、頑張っても報われない徒労感を抱きやすい時代を生きてきた自負があります。
バブルが崩壊してその後遺症に日本経済が苦しむころに大学を卒業し、大事な20代の大半が「失われた10年」にどっぷり漬かっていました。もてはやされた「フリーター」という自由な生き方は、現在ではただの非正規雇用という敗者の塊に追いやられるという時代です。レールを外れてしまうと、もう二度と元の人生には戻れない。それが現実です。
十年ほど前になりますが、同じ時代を生きた同級生の死亡届を出しに行ったのは、まさに世間が来たる楽しいクリスマスを想像して浮かれているころでした。
神の息づかいを肌で感じるべき時期に、原罪から解放された彼の魂は、神の御許に召されていったのです。そして、それを見送った私は、さらなる重石を背負ってキレネのシモンのようにゴルゴダの丘を登ることになったのでした。
「彼」の魂がその死によって救われ、私がそれを引き継いで毎年彼のことを思い出して人生で苦しんでいる、彼我の差はどこにあるのでしょう。
過酷な受験戦争で人格が歪む
まだ夢をいっぱい抱いていた小学生であったころ、私が通っていた四谷大塚は中学受験を志す者のメッカでした。
そこは、名門中学校や進学校を志す選ばれし正会員2000人ほどの小学生が「毎週やってくる」国語算数理科社会400点満点の学力テストで順位を競い、上から順番に教室が割り当てられて向学心を煽られながら切磋琢磨していました。
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いま思えば、修羅でした。自分の息子たちにあの受験戦争をもう一度経験させたいかというと、私はそうは思いません。
ただ、団塊ジュニアの氷河期世代は、いい学校に入り、いい大学に進学し、いい企業に就職するのが「人生を成功させる秘訣」と誰もが信じ込んでいました。本当に、信じていたんです。
競争することに抵抗感のない私は受験戦争にどっぷりと浸かる中で、しかしどう頑張っても学年トップになることは一度としてありませんでした。
ちなみに、私の世代の英俊はいま財務省で張り切っているH松氏で、彼は常に学年順位1位を毎週独占していて、カンニングで問題になったT條氏と常にワンツーだったためポールポジションとか呼ばれておりました。
一方の私と言えば、同学年2000人の子どものうち、ずっと5位から200位をうろうろしておりました。それなりに頑張ってはいたんですがねえ。もっぱら50位台が定位置だったんですが、過酷な受験戦争に適応しすぎたら、そら人格も歪むよなと思ったりもします。
いかに私の人格が歪んでいるかをnote(ブログ)に書きました。生まれてきてすいません。
中学受験でお悩みの方、特に偏差値が伸びなくて我が子はデキが悪いのではないかとお困りの親御さん。読者にも、いっぱいおられるかもしれません。でも、安心してください。勉強ができても私のように人間的にクズだと、どんなに成績が良くてもいまの私同様ロクな大人にならず良い人生は送れないんですよ。本稿は、私という燻って生きてきた生き証人がいると思って是非ご笑覧ください。
四谷大塚で出会った「ハカセ」
死んだ彼との出会いはもちろんその中学受験、四谷大塚でした。とても勉強のできる男だった。一言で言えば、秀才。
彼は本名をもじって「ハカセ」と呼ばれており、私と同じく「中野国立一組」という非常に限られた、勉強のできる子どもだけが集まる教室で良く隣り合って学んでおりました。
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初対面の挨拶で、送迎している彼の母親と私のお袋とが同郷秋田の出身だったからという理由で「仲良くしてね」という話になり、一緒に学んでいたんです。ハカセは家が裕福で、中野駅にほど近い家から車で送迎され勉学に集中していて「すげえな」と率直に感じていました。
そのハカセは中野に住んでいた不動産バブル紳士の倅だったこと、大人になると「妾」や「2号」という存在があること、そしてそれらの新興階級にとっての息子は「商品」であり良い学校に通う子を持つことがステータスであることを、後から知りました。
それは、私自身が実父からすればいわゆる「妾腹」であり、私のお袋もまた芸能から夜の街を経て愛人稼業で身を興した女で、そのお袋からすれば産んだ一粒種が私でした。
その結果、特に名家でもない船乗りの一族に過ぎない山本家が昭和の家柄らしく非常に複雑であることを知ったのは、バブル景気が終わり親父が破産しかけ借金取りが実家に押し寄せてきたときです。
カネというものは、簡単に人を狂わせるものだというのは子どものころから実感しておりました。まあ、バブルでしたからな。
そんな世相において、同じ秋田から出てきた妾である母親同士がすんなり仲良くなるものでもなく、水面下では「絶対にハカセよりも良い点を取ってね」やら「ハカセより良い学校に入ってね」などとお袋に詰められる日々でした。
当時、受験戦争とはそういうものなのだと素直に思っていましたが、いいジジイとなったいまは「あれは母親同士のマウント合戦の具に、私の成績や進学先がいいように利用されていたのだ」と解するようになりました。まるで、息子の脳みそがブランド品のバッグであるかのように。
いまでこそ、お袋の介護で毎週車いすを押しデイケア送迎に粛々と従事していますが、人生の晩年に差し掛かると鉄板の上で焼かれて脂の落ち切ったカルビのように味気ないものになってしまいます。子どもの学歴も、その成功も。いまでも、私の幼少期は何だったのかと思わないでもありません。
私は子どものころから、何か紙を見ると特に数字は割とすんなり覚えてしまうという特技があり、記憶力には若干の自信があります。
ただ、非常に残念なことに、いまでもあるんですが、複雑な計算式とかは一発で暗算で出せるのに、すっげー簡単な計算、例えば3桁の引き算とかを豪快かつ頻繁に間違えます。漢字とか。うーん、なんでミスるんだろうね。
複雑なことのほうが得意で簡単な計算問題で毎回何個か間違えるし、ごく最近まで「見」「貝」など、四角いところに入っている横棒が1本足りないとか、平気で見落としてしまう欠点をずっと持っています。
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一方、ハカセと言えば勉強量にモノを言わせてしらみつぶしに学んでいくタイプでした。
当初、成績帯はほとんど私と同レベルで、何だか知らんがハカセ本人も母親もやたら私どもをライバル視してきて非常にダルかったんです。どうして人は人と比べてしまうのか。
ハカセの母親は長い黒髪で、端正だけどどことなく平板で能面のような顔立ちをしていたので、個人的に心の中で「こけし」だと思ってました。
ある日の送迎で、こけしが髪をなびかせて「今週も、山本君よりハカセ君のほうが順位が上だったわね」って煽ってくるので、お袋と共に憤慨し「来週はもっと勉強して、絶対にハカセより順位で上回ってやる」という運びとなり、その後、私なりに発奮して頑張り始めました。なんだあいつ、っていう。
そこから受験が終わるまで文字通り毎日、ハカセと週テストで競い、6年時の「合否判定テスト」という総まとめ試験も隣に座って受験していました。
そして、蓋を開けてみたら、ハカセと私はピッタリ、完全に同じ合計点… 受験した約4600人の同学年の中でふたりとも同点5位という成績でした。
あれは凄かった。どうも、こけしも私のお袋も自己採点して満足な点数を挙げたと確信し「これは相手に勝ったろ」と思い、マウントを取ろうと採点結果表を見せ合った結果、ドローだったという話でして。
何してんだよ。子どもの成績で母親同士マウント取り合おうとするんじゃねえよ。受験戦争というものはこうも人を狂わせるわけで、そら人格も歪むよなと思ったりもしますね。本当に。
それぞれの人生
中学受験が終わると、あれだけ日々競争し、毎日顔を合わせていたハカセとは、ぱったりと会うこともなくなりました。
彼は第一希望だった某御三家に、私は第一希望だった筑波大附属駒場中学校(筑駒)を受ける前のくじ引きで落ち、開成中学校と慶應義塾中等部他にご縁を戴いたものの親に勝手に慶應に入れられ、長い反抗期を迎えました。
まあ私の人格が歪んでいたから仕方ないなと思いますが、それでも暖かく受け入れ続けてくれた慶應義塾には深く感謝しています。
慶應義塾大学(PHOTO:PIXTA)
いまのようにSNSで小学校の友達とつながることもなく、共通の友人からハカセの風聞もまったく聞かないまま私は1年留年して慶應義塾大学法学部を卒業しました。内部進学の慶應ボーイというけれど、私はずっと童貞・非モテ路線まっしぐらです。
バブルが崩壊した反動でガッツリと就職氷河期だったのですが、そんな私を見込んで内定をくださって入社した国際電気を半年で辞めてしまいました。
すでに証券投資を始めていて、当時はITバブルの真っ最中で買う株が続々と値上がりし、一晩で数千万の利益を上げる日もありました。そんな相場に夢中になっているのに、当時労働組合のあった国際電気の大卒初任給は月給20万5000円。
人事研修に熱心だったので、営業志望だった私は現場にも出してもらえず、いまにして思うと「何で辞めてしまったんだ…」と頭を抱えるぐらいもったいない退職をしてしまいました。
その後は、投資活動をしたり独立してパソコン部品の並行輸入や私立探偵の仕事を立ち上げたりしてましたが、その間、親父の再度の破産未遂や、思わぬ投資のさらなる成功などもあって、アップダウンの激しい人生を送っていました。
いま思うと、受験戦争から社会人としてのひとり立ちの際に、多くの人生経験を積ませていただいた結果、40年経って、私はなんだかんだ何があってもそんなに動じないタフなおっさんに成長できたのではないかという自負はあります。
倒産しそうな親父の産業廃棄物業界や資源貿易の仕事も引き受け、自分でも証券投資やプログラミング、ゲーム開発の仕事なども手掛けていたので、細々とした実務や作業がたくさんあり、とにかく忙しかったです。
一方、ハカセはと言えば、90年代ネットバブルの象徴的な銘柄とも言える某ドットコム社という会社の幹部として、株式上場を目指して頑張っていました。
それを知ったのは、ハカセが割といい感じでイキってる記事が東洋経済に載っているのをたまたま見て、知ったんです。あの中学受験のころの、自信家で傲慢な感じの見下ろしたアングルの写真で「ああ、ハカセは変わっておらんのだな」と思いました。
いろんなところでコキ使われて馬車馬のように働いて消耗している自分に比べて、ハカセはやりたいことをやって目立つ仕事をしていて羨ましいなと率直に感じていたことをよく覚えています。嫉妬しました。あいつ、上手いことやっていて、いいなあと。
同時に、誇らしく思いました。あれだけの受験戦争で、ほぼ同じ成績を取り、頑張ってきた私たちが、いま、まさに成功者になろうとしている。励みになります。
もっとも、その後、私も2ちゃんねるの事業化に関わり人生最大の黒歴史の幕を開けちまうわけですが、そんなことはどうでもよろしい。
ただ、あのころは、同じ境遇で頑張ってきたハカセは才能を見事に開かせこんなに報われているのに、それにひきかえ自分はなんなんだっていう劣等感を強く抱いたわけですよ。ちくしょう。やはり、人間は他人と比べて生きるのは不幸なのだ、と凄く思います。
ハカセと20年ぶりの再会
その数年後、ハカセは経営に携わっていた某ドットコム社の失墜と共に話を聞かなくなったと思ったら、今度はハカセが新たに自分の会社を立ち上げるにあたり、電通に勤める業界の友人を通じて私に出資を求めてきました。
そのときは、ハカセとは交流もなかったので、私ご指名で投資相談に来られたのには率直に驚きました。こけし譲りの真っ黒の髪をツヤツヤのオールバックにし、ややふくよかな体を包むいい感じの艶やかなネイビーブルーのスーツを着てたハカセが私のオフィスに尋ねてきたときは、懐かしいと同時に焦げ臭さを感じました。
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当時お互い32歳、受験戦争以来、20年ぶりの再会です。ただなんつーか、ハカセは同世代で勉学を競った仲間というよりは、そのまま社会人になって「にこやかに近づいて、隙あらば、相手を喰ってやろう」と言わんばかりの風貌になっていたわけで…。思っていた以上に傲慢で、ますます人を喰ったような態度をしていました。
「親のカネもあるし、貯金も多いから自分の資金だけでも充分やっていけるが、俺に投資をしたいと思っているなら多少は出資を受け入れてやっても良い」という話で…。そうですか…。
とはいえ、話を聞くに有望そうな事業でもあったので、再会をアレンジしてくれた友人とも共同で数千万ほど出資をしました。まあ、頑張ってくれ、と。
しかし、事業のスタートから3年も経たずに倒産しそうだから追加出資をして欲しいという連絡がハカセからあったときは「やっぱりな」とは思いました。
彼の名誉のために言うならば、ベンチャー投資というのはそういうもので、株式上場できるのは一握りです。ベンチャー企業の大半は、倒産はしないけど未公開株に投資をした側が現金化しがたいリビングデッド状態になるのが常なんですよね。
むしろ、集めた出資を溶かして会社清算するぐらいのほうが、こちらのバランスシートにいつまでも現金化できない有価証券が残り続けるよりは良い、というケースもあるのです。
ただ、ハカセの件は少し様相が異なっていました。
芸能人を使った派手なサービスプロモーションや、六本木や西麻布での遊興費で会社のカネを使い潰した可能性があるということでした。まあ、そうでしょうね。ただ、厄介だったのはハカセの事業を紹介してきた業界の友人が「特別背任ではないか」とハカセ以下経営陣を刑事告訴すると言い始めたのです。お前が誘ってきたんだよ?
何よりも、企業が破綻にいたる過程で、もともと大変不遜だったハカセの態度もますますXXLサイズとなり、あれだけの受験戦争を経ていたんだからそら性格も歪むよなと思わざるを得ません。
というか、上手くいかない会社の経営者なのに何をそんな威張ってるねん。
私も出資とは別に仕事も少しだけ発注していて焦げ付いたままだったこともあり、株主であると同時に債権者として破綻後に集会に顔を出したりもしました。
その債権者集会でハカセと並んで来ていたのは、なんとハカセの、あの母親、こけしだったのです。どういうことなの。
会議の席上、ハカセと深々と頭を下げるこけしは、家財道具一切を売却するのでどうか告訴を取り下げて欲しいと涙ながらに懇願し、不明を詫び、可能な限りの補償をすると宣言していました。
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しかし、会議の後も一向に管財人が動く気配もなく、約束されていたハカセ母子から入金される様子がありません。一族にカネはあるという話ではなかったのか。
おかしいなと思って調べてみると、財産家であったとされた父親はすでに離婚してしまっていたうえ、ハカセもこけしが受けた財産分与や慰謝料もすでにほぼ全額を費消してしまっており、信用状態はゼロになっていました。
そして、会社の倒産から数カ月もせずハカセ母子は個人破産に追い込まれます。まあそれは当然ですけど。そこで何が起きていたのか、いちいち調べてもいません。
ただ、代理人・管財人を通じてしか連絡が取れなくなり、ハカセを支えていった人たちもすべて彼の元を去ってしまいました。人間、カネさえ出れば一定期間は傲慢な人物についていくことはできますが、払われないとなると担いでいた神輿を地べたに投げ捨ていなくなるのが世の常なのです。
英俊と言われた男のビジネス人生がここでいったんは終わりを迎えることになりました。
もちろん、起業家なんてこの程度の失敗はあり得ることで、何度でも復活してくるし、そのぐらいのことはハカセはやってくるだろう、またどこかで彼が立ち上がったとき「あのころは凄かったな」とお茶でも酒でも美味しく飲める日がくるのだろう。そのときはそう思いました。
※続く