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日本サッカー界の門番「JFL」が持つ唯一無二の魅力とは?…人間の生き様が交錯するディープな歴史を理事長・加藤桂三が語り尽くす【サッカー、ときどきごはん】

 

選手を諦めて入った裏方の道
一度離れてもまた戻ってきた
クラブが潰れて再び離れようとするものの
サッカーは彼を離そうとはしなかった

プロの世界を支える独特のリーグ「JFL」
そのリーグを裏方として支え続けてきた
そんな日本フットボールリーグ理事長の加藤桂三に
ディープな世界とオススメのレストランを聞いた

 

■フロントスタッフとして鳥栖フューチャーズ解散、サガン鳥栖立ち上げを経験

生まれは静岡県の浜松市、曳馬町というところです。

サッカー界で有名人と言えば、私のすぐ近くで生まれた柳下正明ですね。今は名指導者として知られていますが、私にとっては中学校の一学年後輩にあたります。家も近所で、小学校こそ隣同士だったものの、曳馬中学校で一緒になり、彼がサッカー部に入ってきたのが付き合いの始まりでした。

その後、私も彼も浜名高校に進みました。サッカー部に入ったものの高校時代は万年補欠でしてね。試合に出た記憶もほとんどありません。当時の浜名高校は非常に強くて、私の一年時にはインターハイで全国優勝も果たしました。静岡県内でも3年連続でインターハイに出場するような、まさに黄金期だったんですよ。

当時は今と違って、夏のインターハイ、秋の国体、そして冬の選手権という三冠が大きな目標でした。選手権はまだ大阪で開催されていた時代です。

当時の静岡では少し変わった風潮もありました。清水東高校や藤枝東高校といった進学校の選手たちは、勉強もよくできましたから、夏のインターハイまで全力でサッカーをやり、それが終わると大学受験のために引退していく。選手権まで残るのは一部の主力選手だけで稀な時代だったんです。

でも私たちは学生生活の最後までサッカーを続けていましたね。1年時の1974年に佐賀に開催されたインターハイで優勝を経験し、2年時は山梨、3年時は新潟と、毎年インターハイの舞台には連れて行ってもらったんです。しかし、全国高校サッカー選手権大会だけは縁がありませんでした。

私が3年生のときの1976年に初めて選手権が東京開催になったんです。あの東京進出が、高校サッカーの歴史を大きく変えたと思います。それまでよりも規模が大きくなったんです。

3年生時の選手権大会では、私たちは静岡予選で静岡学園に敗れてしまいました。そのときの選手権の決勝が、あの有名な「浦和南高校vs静岡学園」ですよ。満員の国立競技場で5-4の激闘でした。その翌年、後輩の柳下たちの代が選手権に出場したんです。

私が卒業後の進路を決める際、サッカーを続けるなら大学推薦してもらえるということになって、拓殖大学へ進学したんです。最初は真面目にプレーしようと考えていたんですけど、東京の夏があまりに暑くてね。1年生の途中で、早々に選手としての限界を感じてしまいました。

そこで、今で言うマネジメントの世界に足を踏み入れることになったんです。大学サッカー連盟、いわゆる「学連」の仕事です。たまたま日本大学や東京農業大学に進んだ高校の先輩たちが学連にいて、「お前も手伝え」と声をかけてくれたのがきっかけでした。

当時の日本サッカー協会は、まだ渋谷の岸記念体育館の中にありました。職員も十数人しかいない小さな組織です。学連もその中の一角に同居していて、私は大学生ながら、協会の方々の小間使いのようなこともしていました。

日本代表が検見川で合宿をしていれば、車を出して荷物を運んだり、雑用を引き受けたり。そんな日々を過ごしながら、私はサッカー界の裏側を肌で感じていました。

大学卒業後は、一度サッカーから離れて旅行会社に就職しました。もともと旅行業に興味があったので、10年ほどはごく普通のサラリーマン生活を送っていたんですよ。ところが、30歳を過ぎた頃、世の中がJリーグ発足に向けて大きく動き始めました。

その流れの中で私の地元である浜松に「PJMフューチャーズ」という新しいチームが誕生しました。その監督を務めていたのが、高校時代から本田技研工業での活躍をよく知っていた、桑原勝義さんだったんです。本田技研を離れて新しい挑戦を始めるというその姿に、私は心を動かされました。それで私も会社を辞め、正式にフロントの職員としてサッカーの世界に身を投じることになったんです。

フューチャーズは発足からほどなくして、活動の拠点を佐賀県へと移すことになりました。静岡県には清水エスパルスやジュビロ磐田など、Jリーグを目指しているクラブがたくさんいた激戦区でした。

ですが当時はまだ九州だけを本拠地とするJリーグのクラブが一つもなく、地域全体を巻き込む壮大な夢が語られていました。この移転を牽引していたのが、佐賀大学の教授であり、地元のサッカー界を支えていた坂田道孝先生(故人)です。

坂田先生に誘われる形で、私は新しい土地での受け入れ準備を整えるため、1人で先乗りとして佐賀へ向かいました。選手たちが生活するための住居を探し、日々の練習場を確保することが、私に課された最初の大きな任務です。

しかし、現地で私を待ち受けていたのは、理想とはかけ離れた厳しい現実でした。佐賀県立陸上競技場こそ立派な佇まいを見せていましたが、日々の練習に使うためのサブグラウンドは、全く手入れがなされていませんでした。

坂田先生に福岡の空港まで迎えに来ていただき、その足でグラウンドへ向かったんですけど、芝生なのか雑草なのかも分からないような、荒れ果てた状態で。あまりの惨状に、「先生、これではどこで練習をすればいいのですか?」と、2人で途方に暮れたことを昨日のことのように思い出します。

結局、佐賀での受け入れ態勢が整うまでに、予想していたよりも1年ほど多くの時間を要することになりました。そのため、チームの籍こそ佐賀県へと移したものの、最初のシーズンは浜松に拠点を置いたまま活動を続けるという、異例の形をとらざるを得ませんでした。

浜松には整備された素晴らしい練習環境がありましたから、そこをベースにして、九州でホームゲームがあるたびに長い距離を移動するわけです。九州の熱いファンが待つホームスタジアムへ、浜松から通う日々は本当に体力を要するものでした。

その後、1996年6月に念願だった鳥栖スタジアムが完成します。あの素晴らしいスタジアムが落成したとき、私はこれでようやくチームも落ち着き、長く生き延びることができるだろうと胸を撫で下ろしました。

しかし、華やかなスタジアムの誕生とは裏腹に、クラブの台所事情はすでに限界を迎えていました。親会社からの資金援助が途絶え、1996年の終わりを迎える頃には、チームはついに解散という最悪の結末を迎えることになってしまったんです。

年末の12月と、年が明けた1月の2カ月間にわたり、私たち職員の給与は遅配となっていました。お金の問題がここまで深刻化してしまっては、これ以上ここで活動を続けることはできないと、誰もが察していました。

私は苦渋の決断を下し、お世話になった佐賀の地を離れて、一度は浜松へと引っ越しをすることにいたしました。チームが消滅していくあの寂しさは、今でも胸に深く刻まれています。

ところが、一度は諦めかけた夢が、地元の熱意によって再び動き始めました。フューチャーズの解散を受け、佐賀のサッカーの灯を消してはならないと、多くの方々が立ち上がりました。

坂田先生をはじめとする地元の関係者から、1月の末頃に私の元へ連絡が入りました。新しいクラブとして、サガン鳥栖を立ち上げるから戻ってきてほしいという、切実な願いでした。私は再び佐賀へ戻り、新チームの立ち上げという、前例のない困難な作業に追われることになりました。

当時の引き継ぎは、まさに超法規的とも言えるような、通常のルールでは考えられない手続きの連続でした。前の会社の権利をどのように新しいクラブへ移行させるのか、その調整は困難を極めました。しかし、Jリーグの川淵三郎チェアマン、日本サッカー協会の専務理事を務めておられた木之本興三さん(故人)のご配慮や、Jリーグから立ち上げのために来てくださった熊地洋二さんなど、多くの関係者の尽力によって、サガン鳥栖はなんとかジャパンフットボールリーグ(旧JFL)への参入を認められたんです。

サガン鳥栖ができてからの2年間は、とにかく無我夢中でクラブの基盤作りに奔走いたしました。最初のうちは、プロの試合をどのように運営すればよいのか、そのノウハウを持つ人間が現地には誰もいませんでした。

そのため、何かしらの経験を持つ私が現場に残り、周囲をサポートしていく必要がありました。しかし、地元のボランティアの方々が本当に熱心に協力してくださったので、回を重ねるごとに、皆さんが運営のコツを掴み、しばらくすると自分たちの手で立派に試合を開催できるようになっていきました。

その頃には、長くチームを支えてくださっていた坂田先生も、重い病に倒れられて、現場に顔を出すことが難しくなっておられました。精神的な支柱を失った寂しさはありましたが、地元のボランティアやお医者さんたちのグループが中心となり、地域に密着したクラブとしての形が次第に整っていきました。

私が側にいなくても、もうこのクラブは地元の皆さんの力で十分に歩んでいける。そう確信できた1998年の終わり、私は2年間務めた鳥栖のフロントを退き、故郷へ帰る決意を固めたんです。

ところがそこに思わぬ連絡が届きました。日本サッカー協会で常務理事兼事務局長を務めておられた豊島吉博さんからの電話でした。豊島さんとは、それまでそれほど深い面識があったわけではありません。ただ、サガン鳥栖が誕生する際のあの困難な引き継ぎの際、豊島さんは協会で大きな力を貸してくださっていたんです。

その年の秋、鳥栖の試合でブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)のスタジアムへ赴いた際、豊島さんがマッチコミッショナーとして会場に来ておられました。私はそのシーズン限りで鳥栖を辞めることを決めていたので、これまでの感謝とお礼を伝えるために、豊島さんの元へご挨拶に伺いました。

「今季でチームを離れ、浜松へ戻ることにいたしました」と、短い言葉を交わしただけだったんですが、豊島さんはそのときの会話をしっかりと覚えていてくださいました。

年が明けた頃、豊島さんから呼び出され、都内でお会いすることになりました。その席には、後にJリーグの各クラブで活躍することになる、当時協会で働いていた若手のスタッフも同席していました。そこで豊島さんから、思いもよらない提案を受けたんです。

「1999年から、いよいよJ2リーグがスタートすることになった。それに伴い、これまでのジャパンフットボールリーグは役目を終える。しかし、J2へ行かないホンダなどの企業チームや、アマチュアの最高峰を目指すチームのために、新しく『日本フットボールリーグ(新JFL)』を立ち上げることになった。その事務局に来ないか?」

当時はまだ、新しく始まるJ2リーグがどのような盛り上がりを見せるのか、誰も正確には見通せていない時代でした。そして、新しく作られるJFLというリーグが、どのような役割を担っていくべきなのか、手探りの状態だったのも事実です。

豊島さんからの突然の打診に、私は大変に驚きました。当時の私は次の仕事も決まっておらず、少しの時間をいただいて深く考えましたが、これまでお世話になったサッカー界のために、もう一度だけ力を尽くしてみようと決意いたしました。こうして1999年、私は新しく誕生したJFLの事務局長として、東京で新たな挑戦を始めることになったんです。

 

■1999年発足の新JFL事務局長としてプロへの登竜門を確立

1999年の2月、事務局長に就任したものの、新しいリーグですからやるべきことは山積みで、何からどう手を付けていいか迷っていました。

ですが当時のリーグ事務局には、後にセレッソ大阪のフロントなどで活躍することになるスタッフや、後にスペインのクラブ運営に関わるスタッフなど、優秀な若い人材がたくさんいて、彼らが中心となって大方の準備を進めてくれていました。

当初の予定では、J2への参入を見送ったホンダなどの企業チームや、アマチュアの最高峰を目指すチームを合わせた、わずか8つのチームでリーグを構成することになっていました。国士舘大学なども含めて、文字通り無理やりチームを集めて、なんとか日程や対戦カードを組み終えていた状態でした。

ところが、リーグがまさに開幕しようとする直前のタイミングで、急遽、横浜FCの参入が決まったんです。横浜フリューゲルスの消滅に伴い、サポーターの手によって誕生した新しいクラブでしたから、特例としての受け皿が必要になりました。

すでに8チームで日程をすべて確定させていたのですが、チーム数が1つ増えたことで、最初からすべてを組み直さなければならなくなりました。今のJFLのようにチーム数がたくさんあれば調整の余地もあるんでしょうが、当時はまだ全体の数が少なかったですから、一からスケジュールをパズルのように組み立て直す作業は本当に大変でした。

それでも当時のスタッフが必死に頭を悩ませて調整してくれたおかげで、なんとかゴールデンウィークの後に無事リーグを開幕させることができたんです。

このJFLというリーグの歴史を紐解く上で、皆さんがよく混同されるのが、Jリーグが開幕する前に存在した旧JFLと、1999年に新しく発足した私たちの新JFLとの違いです。名前はジャパンフットボールリーグ、あるいは日本フットボールリーグなのですが、その役割や中身は全く異なるものでした。

そもそも、日本の全国リーグの始まりは1965年に創設された日本サッカーリーグ(JSL)です。そして1993年のJリーグ創設に伴い、そのJSLを引き継ぐ形で誕生したのが旧JFLでした。この旧JFLの初期の時代は、Jリーグへの参入を強く希望する、レベルの高い「予備軍」のチームが数多くひしめき合っていました。

1993年のJリーグ開幕時、本当は発足から参加する10チームに入りたかったものの、惜しくも選から漏れてしまったチームがいくつかありました。ヤマハ(現・ジュビロ磐田)や、フジタ(現・湘南ベルマーレ)、日立(現・柏レイソル)、そしてヤンマー(現・セレッソ大阪)といったチームです。

これらに加えて、東芝(後のコンサドーレ札幌)や富士通(後の川崎フロンターレ)、東京ガス(後のFC東京)といった、今考えてみればそうそうたる顔ぶれの企業チームが旧JFLに在籍していました。

旧JFLは当初、一回戦総当たりの1部と2部という2部構成でスタートいたしました。私が在籍していたPJMフューチャーズは2年度目からこのリーグに参入し、最初の年は2部からのスタートでした。その後、3年度目からは2部が統合されて1部構成の大きなリーグへと変わっていきました。

この旧JFLから、毎年のように強力なチームがJリーグへと勝ち上がっていきました。最初の年には磐田と湘南が昇格し、2年目にはC大阪と柏が続きました。フューチャーズも準会員となってJリーグ入りを目指していたものの、3年連続4位となかなか結果が出せず、その間に京都サンガやアビスパ福岡、ヴィッセル神戸といったチームに次々と追い越されてしまいました。

やがて東芝が札幌へ移転してプロクラブとなり、富士通、東京ガスがプロ化していきました。こうして、企業チームがサッカーへの関わり方を少しずつ変え、次々とプロのクラブチームへと脱皮していったのが旧JFLの時代だったんです。

JリーグのJ1は、最初の10チームからスタートし、段階的に数を増やしていきました。1998年に18チームまで増やし、1999年から2004年までは16チームに戻したものの、2005年から2023年までは、新型コロナウイルスの影響があって20チームになった2021年をのぞいて、ずっと18チーム構成でした。

最初に18チームの体制が整うまでに約6年の歳月を要したのですが、まだまだプロの世界に挑戦したいという地域やチームがたくさんある。それならさらにサッカーの熱を全国へと広げていこう、ということで、1999年にいよいよJ2リーグが新設されることになったんです。

このJ2の誕生に伴って生まれたのが、今の「新JFL」でした。1999年度のJリーグはJ1が16チーム、J2が10チームという体制になり、それ以外のチームの受け皿として新JFLがスタートしました。

発足当時のJFLは、プロへは行かないと決めているホンダのような純粋なアマチュアの強豪企業チームと、プロ化を目指すもののまだ発展途上にあるチームとが混在する、独特なリーグとなりました。

最初は水戸ホーリーホックと横浜FCの2チームだけが、明確にJ2への昇格を目指していました。水戸は経営的な厳しさを抱えながらも奮闘しており、横浜FCは横浜フリューゲルスの解散を受けてできたという事情を考え特例措置として、まずはJFLで2年間しっかりと実績を積み、運営面でも認められればJ2へ引き上げるという約束の元で戦っていました。

実際に、1年目には水戸がJ2へと進み、2年目には横浜FCが目標通りに昇格を果たしていきました。そしてこの2つのチームが上がってしまうと、リーグは一瞬、とても静かな時代を迎えることになります。残ったチームの多くは、プロ化を目指さない、あるいはアマチュアの最高峰としてここでしっかりと活動を続けていこうという企業チームばかりだったからです。2、3年ほどは、そのような落ち着いた状況が続きました。

しかし、J2という新しいプロリーグの存在が全国に知れ渡るにつれて、状況は再び大きく動き始めます。当時、Jリーグのチェアマンだった川淵三郎さんは、J2のチーム数をさらに増やしていきたいという強いお考えを持っておられました。それは単にリーグの規模を大きくするという意味ではなく、日本全国のあらゆる地域にサッカーの活動の場を広げ、地域を活性化させていきたいという、Jリーグの理念の実践でもありました。

その川淵チェアマンの情熱が、地方の様々なチームを刺激することになります。その代表的な例が、徳島ヴォルティスの前身である大塚製薬でした。大塚製薬は、かつて旧JFL時代にもJリーグ入りを一度は検討したものの、企業の事情などからプロ化を断念し、アマチュアとして活動を続けていたチームでした。

ところが、2003年、徳島県の知事が新しく代わられたのです。飯泉嘉門さんという、非常に活動的で熱心な知事でした。飯泉知事はサッカーに限らず、スポーツを通じた地域の振興に大変に積極的な方で、大塚製薬に対して「ぜひプロ化してJリーグを目指してほしい」と強く働きかけました。

かつて一度は断念し、もうプロ化はしないと言っていた大塚製薬も、知事の情熱や地域の熱い後押しに動かされ、再びJリーグへの挑戦を決意することになります。そして大塚製薬という大企業が、地域のチームを支えるという新しい形でプロクラブへの道を歩み始めました。

愛媛FCの存在も大きかったですね。愛媛は、日本サッカー協会で長年事務局長を務め、JFLの創設にも尽力してくださった豊島さんのご出身地でもありました。「将来は必ず愛媛にJリーグのチームを作るんだ」という強い思いが、そこにはありました。当時の愛媛FCは、まだ十分な資金があるわけでもなく、体制も整っていませんでしたが、地域の情熱を背景にJFLへ参入し、一歩一歩プロへの階段を上っていきました。

また、北陸や富山の地域では、YKKと北陸電力がそれぞれ素晴らしいチームを持っていました。これらの企業チームも、やはり時代の流れの中で、単一の企業がチームを所有して維持していく形から、地域社会全体でチームを支えていく形へと変化を求められていきました。やがて両チームが統合され、カターレ富山としてプロ化していく基盤が、このJFLの中で作られていったんです。

Jリーグのクラブが誕生していくプロセスで、最も重要だったのは「サッカーチームとの関わり方」の変化でした。かつての日本リーグ時代は、三菱重工や日立製作所、古河電工といった日本を代表する大企業が、自社の記章を胸につけたチームを直接所有し、すべての面倒を見ていました。

しかしJリーグの思想は、そうした企業中心の形から脱却し、ホームタウンと呼ばれる地域社会や、そこに住む住民のみなさんが一体となってチームを支えることにありました。「ビッグクラブは、まずは私たち責任企業がしっかりと支えるけれども、スタジアムは行政と地域が一体となって立派なものを作り、みんなのクラブとして育てていこう」という考え方です。

J2が少しずつ軌道に乗り始めた頃、川淵チェアマンは全国の様々な地域を精力的に回って、プロ化の可能性を説いておられました。その際、チェアマンがよく口にされていた言葉があります。

当時、JリーグからJ2の各クラブへの配分金は、年間で約1億円支払われていました。私がかつて鳥栖のフロントにいた頃、チームの年間の総予算はだいたい2億円から3億円ほどでしたから、川淵チェアマンは「年間3億円の予算があれば、十分にJ2でプロのクラブとしてやっていける。Jリーグから1億円の配分金を出すのだから、地元で残りの2億円を集めればいい。そうすればプロのクラブが作れる」と、計算していらっしゃいました。

そのような力強い論調で全国の地域を励ましていかれましたから、それを聞いた地方のサッカー関係者や行政の首長たちは、「それなら自分たちの地域でもできるのではないか」「うちの街にもJリーグを呼べるのではないか」と、大きな希望を持つようになりました。良い意味での誤解と、前向きな錯覚が、全国の地域に次々と広がっていったんです。

もちろん、プロ化を実現するためには、もう一つ非常に大きな壁がありました。それは、Jリーグの基準を満たすための「スタジアム」の確保です。すでに立派な陸上競技場がある地域であれば、少しの改修を加えるだけでJリーグの試合を開催することができましたが、適切なスタジアムが全くない地域では、一体どのようにして施設を整備していくのか、行政との間で大変に深い議論が必要となりました。

こうしたスタジアムの問題や地域の熱意が複雑に絡み合いながら、最初に大きな動きを見せたのが九州地域でした。JFLの舞台からJリーグへの参入を目指す、第2、第3の波が九州から巻き起こったんです。

九州におけるプロ化の先頭を走っていたのは、言うまでもなく鳥栖と大分トリニータでした。この2つのクラブがJ2でしっかりと地歩を固めると、その後を追うようにして、ロアッソ熊本やギラヴァンツ北九州、そしてV・ファーレン長崎といったチームが次々とJFLの舞台に名乗りを上げてきました。

一時期の九州リーグやJFLの九州勢の勢いは、本当に目を見張るものがありました。地元の九州リーグからJFLへと駆け上がり、「自分たちの街からJリーグを目指すんだ」という熱気にあふれたチームがひしめき合っていた頃は、JFLの試合であってもスタジアムにお客さんが5000人も集まるような、プロさながらの素晴らしい熱戦が毎週末のように繰り広げられていました。その後、この熱気は北信越地域へと飛び火し、ツエーゲン金沢やAC長野パルセイロ、松本山雅FCといったチームが、やはりJFLを舞台に激しい昇格争いを展開していくことになります。

ただ、リーグの全体像を冷静に見つめると、かつての旧JFLの時代と、私たちが運営していた新JFLの時代とでは、集まってくるチームの規模感や性質に少しずつ変化が生じていました。旧JFLの初期にいた日立やフジタ、ヤマハといったチームは、すでにプロ化を見据えた巨大な企業資本がバックボーンにありましたから、チームの持っている財政的な規模も、選手のレベルも、最初から非常に高い。

一方で、新JFLの時代に進出してきた地方のクラブチームは、地元の熱意は素晴らしいものでしたが、誰もが知っているような日本の大企業がその財政を支えているわけではありません。

「みんなで少しずつお金を出し合い、クラブチームとして知恵を絞って頑張っていこう」という、手作りのクラブが主流になっていたんです。そのため、リーグ全体が備えている経済的な規模や、組織としての体力という面では、旧JFLの時代に比べると少し小さく、より繊細なコントロールが必要な状況になっていました。

それでも、JFLは日本サッカー界における唯一無二の「門番」であり、プロへの登竜門としての役割を立派に果たし続けていました。J1から始まったプロのピラミッドがJ2へと広がり、やがてJFLから毎年多くのチームがプロの世界へと羽ばたいていきました。

現在、JリーグはJ1、J2、J3を合わせて全60クラブという非常に大きな規模にまで成長いたしました。JFLが発足した1999年の時点では、J1の16クラブとJ2の10クラブを合わせて、日本にはまだ26しかプロのクラブが存在していなかったんです。

単純に計算しても、新しく増えた34のクラブの多くが、私たちが守ってきたJFLの舞台を経験し、ここでの厳しい戦いを経てプロのライセンスを勝ち取り、昇格していったことになります。JFLというリーグが、日本のサッカーを全国の隅々にまで浸透させるための、極めて重要な役割を果たしてきたのだと、私は思っています。

 

■サッカー界に大きな衝撃を与えたFC町田ゼルビアのJFL降格

しかし、リーグの規模が拡大し、J2のチーム数がほぼ上限に達し始めた頃、日本サッカー界は新たな課題に直面することになりました。それが、J3リーグの創設に関する議論です。

当時、J2のチーム数がいっぱいになり、これ以上単純にリーグの規模を増やすことが難しくなっていました。それまでは、JFLで成績を収めたチームがJ2へと一方的に上がっていくだけの片道切符だったのですが、全体のチーム数を固定するためには、プロのリーグからも成績の下位に終わったチームを下のリーグへと落とさざるを得ない、そういう時代がいよいよやってきました。

その象徴的な出来事が、FC町田ゼルビアを巡る動きでした。町田は一度J2へと昇格したものの、厳しいプロの戦いの中で成績が振るわず、1年でJFLの舞台へと降格することになってしまったんです。一度プロの華やかな世界を経験したクラブが、再びアマチュア中心のJFLへと落ちていく。この事態は、当時のサッカー界に大変に大きな衝撃を与えました。

この頃、Jリーグの側でクラブの運営や経営の制度設計に深く関わっておられたのが、かつてアルビレックス新潟を劇的な形で大きく育て上げ、後にJリーグの専務理事などの要職を歴任された中野幸夫さんでした。

中野さんは、従来の大企業が支える企業チームの仕組みではなく、地方の市民や地域社会がゼロからチームを支えていく「市民クラブ」の本質を誰よりも深く理解されている。新潟という地方都市で、下部リーグから何万人もの観客を集めるような巨大なクラブを自らの手で作り上げてきた、現場叩き上げの素晴らしいリーダーでした。

その中野さんをはじめとするJリーグの幹部の方々は、町田がJFLへ降格した際の状況を非常に深刻に捉えておられました。JFLは基本的にはアマチュアのリーグですから、Jリーグのような手厚い配分金は一切ありません。そればかりか、プロの華やかな舞台から一転して、再び企業のグラウンドや地方の小さなスタジアムで、アマチュアチームを相手に戦わなければならなくなるんです。

プロの基準でスタッフを雇い、選手と契約を結んでいたクラブが、突然JFLへと落ちてしまった場合、観客の動員数は目に見えて減少し、スポンサー収入も大きな打撃を受けることになります。

配分金もなくなり、収益性が著しく薄れる中で、一度プロ化したクラブとしての組織を維持していくことは、経営の面から見て極めて困難であり、下手をすればクラブそのものの存続が危うくなりかねないという、非常に強い危機感が共有されました。

「一度プロのリーグに入ったクラブが降格した際、その受け皿となるリーグもまた、一定のプロ的な経営環境を備えたリーグでなければ、クラブとして成り立たなくなってしまう」

その厳しい現実に対応するためには、J2の規模をさらに限界まで広げるか、あるいはJ2の下に、もう一つの新しいプロリーグであるJ3を創設するしか道はありませんでした。こうして、クラブの経営破綻を防ぎ、日本のプロサッカーのピラミッドをより強固なものにするために、J3リーグを新設しようという具体的な話し合いが急速に進められていきました。

私はJFLの事務局長という立場で、本当に数多くのサッカークラブの栄枯盛衰を間近で見つめてまいりました。その中で、私が何よりも痛切に感じていることがあります。それは、「サッカークラブにおけるトラブルの原因は、そのほとんどすべてが財政問題、つまりお金の問題である」ということです。

クラブが上を目指そうとすればするほど、より高いレベルの選手を補強しなければなりませんし、指導者の招へいやスタッフの増強、さらにはスタジアムの整備や日々の移動費など、莫大なお金が必要になってきます。

しかし、地方の新しいクラブやJFLに在籍するチームの多くは、それだけの支出を支えるに足る強固な経済基盤を、最初から持っているわけではありません。上へと昇格したいという強い情熱と、実際の懐事情との間に、どうしても大きなギャップが生じてしまいます。その歪みが最も急激に、そして最も深刻な形で現れやすい場所こそが、プロとアマチュアの境目に位置する、このJFLというリーグだったんです。

では、その財政的な歪みから生じる危機を、どのようにして未然に防ぎ、あるいは乗り越えていくべきなのでしょうか。私は、そのクラブを率いるトップに立つ人間の「力量」と「考え方」次第であると考えています。

ここで言う力量とは、単にその経営者個人のビジネスの能力が高いとか、サッカーに詳しいということだけを指すのではありません。その人が、自分が活動している「地域の力量」をどれだけ正確に見極め、それに見合った形でクラブをコントロールできるかという、本当の意味でのマネジメントの力を意味しています。クラブの身の丈に合った予算を組み、地域社会の身の丈に合った成長のスピードを冷徹に見極めることができるか。そこが一番の鍵です。

トップに立つ人間一人の力だけでは、クラブは決して大きくなりません。一緒に汗を流してくれる地元のスタッフや、スポンサーとして支えてくれる地元の中小企業の経営者たち、そして何よりも、スタジアムの建設や利用で大きな鍵を握る、地元の行政との関わり方が極めて重要になります。

その地域の首長が、サッカークラブの存在をどのように位置づけ、どれだけ本気になって街づくりの中心に据えてくれるのか。その行政との深い信頼関係を築き上げることも、クラブのトップに求められる最も重要な力量の一つです。

今でもよく見かける光景ですが、大企業がバックボーンにいる歴史のあるチームであっても、親会社から定期的に人事異動で社長さんが赴任してこられるケースが多々あります。しかし、その社長さんが、本当にプロのスポーツビジネスというものを深く理解し、地域密着の意味を分かって経営に当たっているかというと、そうではないことが多い。J1のトップクラブであっても、あるいはJ2のチームであっても、問題を抱えているケースが少なくありません。

企業としての論理と、地域に根ざしたスポーツクラブとしての論理は、時に大きく矛盾することがあるからです。むしろ大企業の看板があるがゆえに、地域との間に微妙な距離が生じてしまい、経営が行き詰まってしまうような事例を私たちは数多く目にしてきました。

これがJリーグの舞台であれば、リーグ側が用意している様々な経営の監査制度や、ライセンスの厳しい審査、あるいは手厚い配分金などによって、ある程度のトラブルは事前に回避され、あるいは表面化する前に解決される仕組みが整っています。しかしJFLの舞台では、もっと原始的で、もっと剥き出しの、プリミティブな問題が突如として発生することがありました。

昨日まで元気に戦っていたチームが、資金が完全に底をついたという理由で、シーズン中であるにもかかわらず突然リーグを退会してしまったり、チームそのものが一瞬にして消滅してしまったりするような、生々しい財政の危機が、すぐ目の前に転がっているようなリーグだったんです。

 

■JFL最初の大きな危機 プロフェソール宮崎の金銭トラブル

私がJFLを運営してきた長い年月の中で、本当にお金の問題で冷や汗をかいた危機が何度かありました。

一度目の大きな危機は、2002年のシーズンに在籍していた、プロフェソール宮崎というチームを巡る問題でした。このチームは、今思い出しても本当に危うい、非常に不思議な成り立ちをしたクラブでした。

チームの運営を主導していたトップの人物は、言葉は悪いですが、どこか信用できない雰囲気をまとった、大変に調子の良い方でした。「JFLに上がることができたら、選手たちを全員プロ契約にして、自分がどこからか莫大な資金を集めてきて、十分なお給料を支払って大々的にやらせるから大丈夫だ」といった景気の良い話を、周囲に熱心に触れ回っていました。当時はまだJFLの参入審査も今ほど厳格ではありませんでしたから、その言葉を信じる形でリーグへの参入が認められました。

さらに厄介だったのは、その調子が良いだけの運営体制とは裏腹に、サッカーの競技力自体は非常に高かったということです。Jリーグのクラブを戦力外になったものの、まだまだ十分に動ける実力を持った若い選手たちを、言葉巧みに何人も集めてきていましたから、JFLの並み居る強豪を相手にしても、ピッチの上ではなかなかの好勝負を展開して、どんどん勝ち点を積み上げてしまったんです。

ところが、シーズンが開幕してみるとクラブの台所事情が完全に破綻していることがすぐに露呈いたしました。選手たちへのお給料の支払いが滞るようになり、リーグへ納めるべき大切な年会費も、一向に支払われる気配がありません。

ちょうどこの2002年は、日本と韓国が共同でワールドカップを開催した歴史的な年でした。そのため、JFLの側でも変則的なリーグ運営を行っていました。前年の16チームより多い18チームでリーグを構成し、その代わり、ワールドカップの期間中に日程が圧迫されるのを避けるため、一年間をかけて「一回戦総当たり」の19試合だけで全ての順位を決定するという、極めて特殊なシーズンとなっていました。

そして、翌年からはリーグを16チームに戻すため、その年の成績の下位4チームを無条件で地域リーグへと降格させ、地域からの昇格は2チームに絞るという、過酷なレギュレーションが敷かれていました。

試合数が通常よりも大幅に少なかったことが、皮肉にもこのプロフェソール宮崎にとっては幸いいたしました。遠征の費用や試合の運営費が少なくて済みましたから、シーズンの途中で完全に破綻することだけはなんとか免れ、ギリギリの状態で最後の試合までスケジュールを消化することができたんです。

しかし、ピッチの上の戦いがすべて終わり、宮崎の最終順位が最下位に確定したとき、私たちの前に本当の危機が押し寄せてきました。シーズンが完全に終了したにもかかわらず、彼らがリーグに支払うべき1000万円という会費が、未納のまま残されていたんです。

これだけの穴が空いてしまっては、事務局の運営費が出なくなってしまいますから、私たちは頭を抱えてしまいました。最下位が確定しましたから、ルール通り「来シーズンは九州リーグへ降格」という処分はすでに決まっていましたが、この未払金のお金を一体どこから回収すればよいのか、皆目見当がつかない状態でした。

そんなある日、私の携帯電話に、見知らぬ番号からの連絡が入りました。受話器の向こうから聞こえてきたのは年配の男性の声でした。

「もしもし、突然の電話で申し訳ありません。私は宮崎で牛肉を扱う商売を営んでいる者です。プロフェソール宮崎は、来年一体どうなってしまうのでしょうか」

その実直そうな口ぶりに、私は一瞬言葉を失いましたが、リーグの事務局長としての立場から、冷静に事実をお伝えすることにいたしました。

「お電話ありがとうございます。プロフェソール宮崎につきましては、今シーズンの最終順位が最下位と確定いたしましたので、リーグの規約に基づき、来シーズンはJFLから下の九州リーグへと降格することが正式に決まっております」

私がそうお伝えすると、電話の男性は、深くため息をつきながら、さらにこう問いかけてきました。

「そうですか、やはり降格してしまうのですね。……実は私、あのチームを個人的にずっと応援してきた者なのですが、チームの人間から『まだリーグに支払うべき大切な会費が1000万円ほど残っていて、これが払えないと大変なことになる』という話を聞かされまして。このお金が払えない場合、チームは来年、九州リーグで試合をすることさえできなくなってしまうのでしょうか」

その男性は、クラブのトップの人間から、年会費の未払いの事実を正確に聞かされていたようでした。私は非常に心苦しかったのですが、規約の厳しさをそのままお話しするしかありませんでした。

「非常に申し上げにくいのですが、リーグ全体の運営を預かる身といたしましては、現在の未納の状況は極めて深刻な問題として捉えております。このまま会費が支払われない場合、来シーズン、下の九州リーグ側が彼らの参入を受け入れるかどうかは、最終的には九州リーグ側の判断に委ねられることになります。ただし、私たちJFLの事務局としても、これだけの巨額の未払いがあるという事実を、そのまま九州リーグへ申し伝えざるを得ません。そうなれば、大変に厳しい対応が取られる可能性が高いと考えます」

私がそう答えると、受話器の向こうで少しの沈黙があった後、その方は、思いもよらない、とんでもない言葉を静かに口にされました。

「……分かりました。それほどまでに大変な状況であるならば、その1000万円というお金、私が代わりに全額お支払いいたします」

10万円や100万円の話をしているのではありません。1000万円という巨額の現金の話です。私は思わず受話器を強く握り締め声を張り上げてしまいました。

「ちょっと待ってください。お気持ちは本当にありがたいですし、事務局としてもお金が入ることは助かりますが、あなたのような個人の方から、そのような大金を直接いただくわけにはまいりません。あなたとリーグとの間には、何の法的な契約も関係もありませんから、そのような形でお金を受け取ることは絶対にできません。まずは落ち着いていただいて、そのお金を出すというお話は、一度チームの責任者の方としっかりと直接話し合ってください。私たちはあくまで、チームという組織からの正式な支払いを待つことしかできないんです」

私は必死になって彼を止め、まずはクラブの人間と連絡を取り合うようにお願いをして、電話を切りました。

その後、どのような話し合いが行われたのか、その詳しい内幕までは私は知り得ません。しかし数日後、驚いたことに、プロフェソール宮崎のクラブの正式な口座から、私たちのJFLの口座に向けて、未納だった1000万円の会費が、一括できちんと振り込まれてきました。

おそらく、あの実直な男性が、本当にご自身の大切な資産を投げ打って、チームの穴を埋めるためにお金を出してくださったのでしょう。信じられないような、まるで嘘のような、しかし本当にあった生々しいお金の危機のお話です。

それほどまでに素晴らしい支援者に恵まれながらも、プロフェソール宮崎というチームは、その後の経営体制が改善することはありませんでした。翌年、九州リーグへと舞台を移したものの、結局そこでも資金が続かず、わずか2年ほどの間に、チーム自体が完全に消滅して、日本のサッカー界からその姿を消してしまいました。

今でも現在の宮崎県サッカー協会には、当時そのチームの現場で走り回っていたスタッフが在籍していて、彼と顔を合わせるたびに、「あの2002年の宮崎の騒動は、本当に大変な経験だったな」と、当時の思い出話を懐かしく語り合うことがあります。これが、私がJFLの事務局長として直面した、お金に関する最初の大変な危機でした。

そして、この宮崎の事件からしばらく経った後、私たちはもう一つの、さらに根の深い財政の危機に直面することになります。それが、群馬県を拠点に活動していたクラブを巡る問題でした。

 

■アルテ高崎の消滅とJFL最大の汚点 FC神楽しまね解散の裏側

アルテ高崎は、宮崎のような得体の知れない個人が立ち上げたチームとは異なり、地元のしっかりとした学校法人がバックボーンとなって運営されている、一見すると堅い組織でした。そのクラブの代表を務めておられたのが、堀越哲二さんという、地元でも名のある教育界の重鎮だったんです。

堀越さんは大変に情熱的な方で、サッカーを通じた若者の育成と、地域社会への貢献という大きな理想を持っておられました。しかし、このアルテ高崎は、同じ群馬県内でほぼ同時期に産声を上げて、瞬く間に全国的な注目を集めることになったザスパ草津(現:ザスパ群馬)によって翻弄されました。

隣町の草津がJリーグへの階段を一気に駆け上がっていく姿を目の当たりにして、堀越さんの中に「草津には絶対に負けたくない」という強い対抗心が燃え上がったのでしょう。元Jリーガーの実力ある選手を次々と集め始めました。

学校法人でしたから資金はそれなりに潤沢にあると思われていました。ですが、あまりに急激なチーム拡大の歪みは、やがて取り返しのつかない事態を引き起こします。堀越代表は2011年にクラブから退き、2012年には学校経営に絡む詐欺事件で突然逮捕されてしまいました。

2011年のアルテ高崎も、シーズンが終わるまでリーグへの年会費が一円も支払われないままになっていました。代表が不在となったため、私は学校側の残された担当者と何度も話し合いの席を持ちました。しかし、法人自体が混乱の極みにありましたから、学校側も困惑するばかりで、事態は一向に進展しませんでした。

このとき、私は日本サッカー協会の顧問弁護士に相談できる制度を利用して、今後の対応について知恵を借りました。当時の状況を説明すると、弁護士からは非常に現実的な、しかし少し奇妙なアドバイスを受けました。

「加藤さん、全くお金が回収できないのも困りますが、一番理想的なのは、例えば会費の半分とか六割、七割程度をなんとか振り込ませることです。少しでも未納の額を残した状態にしておけば、それを理由に規約に基づいてチームをすんなりと退会処分にできます。逆に、100%綺麗に全額を支払われてしまうと、チームを強制的に辞めさせることが難しくなってしまいますからね」

そんな法律の専門家としての冷徹な見立てを聞きながらも、世の中がそんなにこちらの理想通りに動くわけがないだろうと、私は半ば諦めかけていました。ところが年が明けた頃、驚いたことに、高崎の担当者から未納分すべての年会費が、口座にきっちりと全額払い込まれてきたんです。

お金が回収できたことはリーグの運営としては本当にありがたいことでしたが、同時に頭の痛い問題が残りました。全額が支払われた以上、チームには新シーズンもJFLで戦う正当な権利が残ります。しかし、肝心の運営法人は代表の逮捕によって機能不全に陥っています。一体このチームを誰がどのように維持していくのか、皆目見当がつきませんでした。

そんなとき、チームの後藤義一監督から、私の元に一本の連絡が入りました。後藤監督はジェフユナイテッド市原(現:ジェフユナイテッド千葉)などで活躍した名選手で、指導者としても本当に熱心で、何より人間性の素晴らしい男でした。

「加藤さん、代表はあんなことになってしまいましたが、私はこの高崎で、選手たちと一緒にまだサッカーを続けたいんです。チームを存続させる方法はありませんでしょうか」

実直な後藤監督からの悲痛な訴えに、私は事務局長として冷静に諭すしかありませんでした。

「後藤さん、あなたの熱い気持ちは本当によく分かります。しかし、あなたはあくまで現場を預かる監督だ。クラブの経営というものは、現場の人間が片手間で背負えるほど生易しいものではないよ。あなたがそこまで大きなリスクを背負う必要があるのか、もう一度冷静に考えなさい。もしやるとしても、一体誰と、どうやって資金を集めるつもりですか」

私が問いかけると、後藤監督からは「今、チームを助けたいと言ってくれている地元の仲間が何人か集まっています」という答えでした。そこで私は、年が明けてリーグのスタッフを連れて急ぎ高崎へと向かい、後藤監督に頼んで、その支援者の方々を一堂に集めてもらいました。

会議室には、地元の商店主や中小企業の経営者らしき方々が、10人ほど集まっておられました。みなさん、チームを残したいという純粋な善意に満ちあふれた表情をしていました。私はその一人ひとりの顔を見つめながら、あえて厳しい現実を突きつけることにいたしました。

「みなさんがチームを愛し、残したいという気持ちは十分に分かりました。しかし、全国リーグを維持していくということは、そう簡単な話ではありません。後藤監督とも話し合って、今後の選手は全員アマチュアとして雇用し、人件費を完全にゼロにするという方針は聞きました。しかし、人件費がかからないとしても、全国を転戦するための遠征費や、日々のグラウンド代、試合の運営費などで、年間で最低でも5000万円の現金がどうしても必要になります。これは絶対に削ることのできない数字です」

「もし本気でこのチームを救うおつもりがあるならば、まず一人500万円ずつ、手元のお金を出してください。それでまず5000万円の準備金を作ります。シーズンが始まって、自分たちの力で新しくスポンサーや資金が集まったなら、そのお金は皆さんのところに少しずつ返していけばいい。まずはこのチームを動かすための5000万円です。いま、一人500万円を出すお覚悟はありますか」

私がそう言った瞬間、それまで熱っぽく語り合っていた10人の支援者たちは、一斉に下を向いて、完全に黙り込んでしまいました。10万円、20万円の寄付ならできても、個人の責任で500万円という大金を即座に投げ打つことができる人など、そういるわけがありません。それが、地方におけるスポーツクラブ経営の冷酷な現実でした。

その様子を見て、後藤監督もようやく自らが背負おうとしていたものの重さに気づき、静かに存続を諦める決断を下しました。アルテ高崎はそのシーズン限りでJFLを退会し、チームは解散することになりましたが、泥沼の破産へと進む前に幕を引いたことは結果として正解だったのだと今でも思います。

愛すべきサッカー人である後藤監督が、経営の重荷に潰されずに済んだことには本当に安堵いたしました。その後、彼の指導者としての将来を心配して、別のチームでの活動の道なども色々と紹介して回りました。

最終的に東京国際大学の指導者へと就任し、古河電工(現:ジェフユナイテッド千葉)のOBである前田秀樹さんたちと共に、素晴らしいセカンドキャリアを築いていくことになります。あのとき、高崎の大きな借金を背負わずに済んだことは、彼にとっても本当に良かったのだと、私は今でも静かに胸を撫で下ろしています。

この宮崎と高崎の2つの事件こそが、私の事務局長時代における、最も生々しいお金の危機の記憶でした。

しかし、私がJFLの長い歴史の中で直面した「最大の汚点」とも言えるお金のトラブルは、ここからさらに時代が進んだ、2022年の出来事でした。島根県松江市を拠点に活動していた、FC神楽しまねというクラブを巡る問題です。

この神楽しまねだけは、JFLの歴史において、唯一「年会費を完全に滞納されたまま、取りっぱぐれてしまった」という、私にとっては痛恨極まりない、本当にとんでもない結末を迎えたクラブでした。

事の始まりは、チームが新しいシーズンに向けて新体制を発足させる際、クラブの社長が突然交代したことでした。それまでの前の社長は、地元でも非常に手堅い会社を経営されている、信頼の置ける立派な人物でした。その方が役員として睨みを利かせているのだから、滅多なことで経営が行き詰まるはずがない。誰もがそう確信していました。

ところが、その信頼は脆くも崩れ去ります。その年の夏を迎える頃、クラブの資金が完全に底をついてしまったという、衝撃的な報告が私の元に届きました。神楽しまねは、所属する選手たちの約3分の1と指導者陣をプロ契約として雇用し、残りの3分2がアマチュアという構成でした。ただでさえ厳しい地方の台所事情の中で、プロ契約の維持や全国への遠征費が重くのしかかり、まだシーズンを半分以上も残した段階で、日々の運営費すら払えない状態に陥ってしまったんです。

何度も公式な文書を作成し、経営の責任を果たしてほしいと訴え続けましたが、事態は遅々として進みません。そんな絶望的な状況下で、私が何よりも恐れていたのは、シーズンの途中でチームが突然試合を放棄し、リーグから勝手に離脱してしまうことでした。もしそんなことが起きれば、リーグ全体の順位表や日程が完全に狂ってしまい、JFLの信用は失墜してしまいます。

しかし、驚くべきことに、神楽しまねはボロボロになりながらも、その年のリーグ戦の全日程を、最後までギリギリのところで戦い抜きました。私は今でも、あの過酷な状況の中でピッチに立ち続けた当時の選手たち、そして現場のスタッフたちには、言葉では言い尽くせないほどの深い感謝の念を抱いています。給料が何カ月も支払われないという極限状態の中で、日々の生活を抱えながら、よくぞ最後まで戦ってくれたと思います。

当時、チームを率いていたのが実信憲明監督でした。彼はかつてガイナーレ鳥取で選手としてプレーしていた頃からよく知っている、本当に根のいい、素晴らしい人間でした。私が現地で彼と顔を合わせ、「監督、現場は本当に大丈夫なのか」と声をかけると、彼は力なく首を振りながら、「いや、加藤さん、本当はもう全く大丈夫じゃないんです」と、正直な胸の内を明かしてくれました。

プロ契約の選手たちは、毎月わずか20万円ほどのお給料で、文字通りサッカー一本で生活をしていました。それが突然ゼロになってしまっては、明日からの食費や家賃の支払いさえままならなくなります。アマチュアとして別の仕事をしながらプレーしていた選手たちはまだしも、プロの選手たちにとっては文字通りの死活問題でした。

小遣い程度の僅かな補助金がどこからか出ていた可能性はありますが、生活を維持できるレベルには到底及ばなかったはずです。それでも、彼らはプロとしてのプライドを捨てず、最後のホイッスルが鳴るまで、JFLの品格を守るために走り続けてくれました。

私はシーズン中、なんとかチームの権利を残し、翌年もJFLで活動を続けさせるための救済策を模索し、何度も役員たちの元へアプローチを続けました。すると、シーズンも終盤に差し掛かった頃、思わぬところから一条の光が差し込んできました。現在は大阪を拠点に活動している、島根に大変にゆかりの深いある実業家の方から、私の元に突然の連絡が入りました。

「加藤さん、地元の神楽しまねが大変な危機に瀕していると聞きました。もしよろしければ、私が相応の資金を出して、このチームの再建を引き受けたいと考えています。一度お話しさせていただけないでしょうか」

私はすぐさまその方とお会いし、じっくりと話を伺いました。素性の分からない人にお願いするわけにはいきませんから、その方のビジネスの実績や、なぜそこまでして島根のサッカーを救いたいのかという情熱、そして具体的な再建のビジョンを、非常に慎重に見極めました。話し合いを重ねる中で、「この人のお話であれば、十分に信頼を置くことができる。チームを任せても大丈夫だ」と感じました。

私はその大阪の支援者の方に、「ぜひ、今のクラブの役員たちと直接具体的に話し合いを進めてください」と橋渡しをいたしました。同時に、それまで実質的に身を引いていた前の社長の元へも足を運びました。その前の社長は非常に責任感の強い方で、自らの個人資産から最低限の資金を捻出し、チームがアウェイの試合を戦うための遠征費を陰で支え続けてくださっていました。

島根の松江から、例えば三重県や大阪の試合会場へ向かう際、彼らは移動費を極限まで削るため、すべて「日帰り」の強行軍で遠征を行っていました。朝5時に松江を大型バスで出発し、高速道路を何時間も走って10時頃に現地へ到着し、そのままピッチに立って激しい試合を戦い、終わるとまたバスに揺られて夜遅くに島根へ戻ってくるという過酷な移動を続けていたんです。

しかし、人間というものは不思議なもので、こうした極限の逆境にあればあるほど、チームの結束は固くなるのでしょう。皮肉なことに給料が未払いに陥った後のほうが、チームの成績はいいんです。選手たちの魂のこもったプレーには、本当に胸が熱くなりました。

私は、当面の1億円とまではいかなくとも、せめて7000万円から8000万円ほどの資金が用意できれば、翌シーズンも神楽しまねをJFLに存続させることができると確信していました。大阪の素晴らしい救世主も現れ、前の社長も必死に足元を支えてくれている。

そして何よりも、これだけの歴史を重ね、地域の人々が大切に育ててきた全国リーグの参加資格を、ここで簡単にフイにしてしまうのは、島根の社会にとってもあまりにもったいないことです。だからこそ、私はJFLの事務局長として、周囲からの批判を恐れず、年が明けてリーグ戦の開幕が間近に迫る最後の最後まで、彼らのための権利を維持し、ギリギリまで粘って待ち続ける決意を固めました。

リーグ内の他のチームの役員や関係者からは、「あんな経営破綻したチームをいつまで待つつもりなんだ」「早くライセンスを取り消してリーグの編成を確定させてくれ」と、毎日のように厳しいお叱りや突き上げを食らいました。メディアの方々からも、今後の見通しについて執拗な取材を受けました。それでも私は、一月末の本当に最後の瞬間まで、島根の奇跡を信じて、書類を机の上に残し続けたんです。

しかし、私のその淡い期待は、最悪の形で裏切られることになりました。クラブの経営の全権を握っていたはずの社長が、突然すべての連絡を絶ち、文字通り「ばっくれて」行方をくらましてしまいました。

社長が完全にいなくなってしまったため、大阪の支援者の方との正式な買収交渉も、法的な手続きを進めることが全くできなくなってしまいました。クラブの事務所に残されていたのは、何も事情を知らされていない、高齢の経理担当者ただ一人でした。その方も給料が出ない中で、一人ぽつんと事務所の椅子に座って困惑している姿は、本当に気の毒で見ていられないほどでした。

最終的に、役員の重鎮たちは、現れた大阪の救世主の手を借りてチームを存続させるという道を選ばず、法人のすべてをチャラにして、そのまま清算してしまうという最も冷酷な決断を下しました。1月末の最終期限を迎え、「これ以上の猶予は認められない」として、神楽しまねのJFL退会とチームの消滅が正式に決定いたしました。

日本サッカー界の最高峰の門番であるJFLの歴史において、年会費を取りっぱぐれたままチームを潰してしまった。この出来事こそが、私の長い事務局長人生における、最大の痛恨事であり、消すことのできない「汚点」となってしまいました。

JFLに在籍するチームは、ホンダのような歴史ある一流の企業チームから、プロ化をひたむきに目指す市民クラブ、あるいは学校法人が運営するチームにいたるまで、その組織の形態や規模があまりに多様です。

そのため、Jリーグのように「一律の厳しい財務ルール」を当てはめて、細かく監査を行うような仕組みを作ることは、現実的には不可能です。それでも私たちは、毎年必ず各チームから決算報告書を提出してもらい、その数字を私の目で一つずつ厳しくチェックし、クラブの健全性を常に確認し続けてまいりました。

その中で、いろいろなクラブが毎年のように大変な経営の危機に瀕しているという話をよく耳にしていました。普通の一般企業であれば、これほどの債務超過や赤字を積み重ねていれば、とうの昔に倒産してこの世から消えてなくなっているはずです。

しかし、なぜだか不思議なことに、日本のサッカークラブというものは、普通なら潰れているはずの状況にあっても、最後の最後でなぜか潰れずに生き残っていくケースが多々あります。もうこれ以上は絶対に無理だ、完全に万策尽きたと誰もが諦めかけたその瞬間に、どこからともなく「最後にお金を出してくれる人」が、ふらりと姿を現すんですよ。

それは、私たちが普段行っている、何か物を製造したり販売したりしている一般的なビジネスの世界とは、明らかに異なる不思議な原理が働いているからだと感じます。一言で言ってしまえば、それはクラブを取り巻く人々の、理屈を超えた「愛情」が、冷酷な経済の数字を上回ってしまう瞬間があるからなのでしょう。

もちろん、Jリーグの側でもこうした財政の歪みを防ぐため、毎年の決算の数字には非常に神経を尖らせています。ここ数年は、世界的なコロナ禍という未曾有の事態がありましたから、「単年度の赤字」や「債務超過」を即座に咎めないという、特例の猶予ルールが設けられていました。

しかし、その猶予期間もいよいよ終わりを迎え、本来の「債務超過は一発でライセンスアウト」「3年連続の赤字は即降格」という厳格なルールへと元に戻ろうとしています。現在でもJ2やJ3の一部の地方クラブでは、単年度の赤字を抱え、薄氷を踏むような思いで経営を維持しているところが少なくありません。

これからは、大企業の絶対的なバックアップがある一部のビッグクラブを除いて、地方の市民クラブはより引き締まった、真の身の丈に合った経営を心がけなければ、生き残っていくことはできなくなるでしょう。

私たちが運営しているJFLの舞台においても、提出された決算報告書を眺めながら、「一体このチームは、これほど小さな数字の中で、どのようにして全国リーグの遠征費や日々の運営費をコントロールしているのだろうか」と、首を傾げたくなるようなチームが、決して多くはありませんが、時折見受けられます。

そのような危うい兆候が見られたとき、私はすぐさまそのクラブの社長の元へ連絡を入れ、「この数字は一体どうなっているんですか。本当に今シーズンを最後まで戦い抜くことができますか」と、直接厳しく問い詰めることにしていました。

そうすると、彼らはなんとなくの言い訳や、これからの資金調達の見通しをあれこれと言ってよこすのですが、受話器を置いた後も、私の胸の中には「うーん、本当にどうやって回していくつもりなのだろうか」と、深い不安が残ることがよくありました。

その代表的な例が、一時期メディアでも大きな騒動となった、鈴鹿ポイントゲッターズ(現・アトレチコ鈴鹿クラブ)を巡る問題でした。

鈴鹿の運営を主導していたのは、東京に本拠を置く、本業では確かな実績を残している新興の企業でした。しかし、そのオーナーのサッカークラブに対する考え方や、地域との関わり方には、どこか危うい、私たちの理念とは少し異なる独自の論理が強く働いていました。

様々なトラブルが重なり、いよいよリーグとしてもこれ以上の存続は認められない、JFLからの除名や降格もやむなしという、本当に崖っぷちのところまで追い詰められてしまったんです。

その鈴鹿の絶体絶命の危機を救ってくれたのが、かつて読売クラブ(現・東京ヴェルディ)の黄金期を支えた名選手であり、指導者としても素晴らしい実績を持っていた、斉藤浩史さんでした。

彼が自ら矢面に立ち、新しい体制を整えてチームの面倒を見るという形で手を差し伸べてくれたおかげで、鈴鹿のサッカーの灯はなんとか消えずに守られました。私は斉藤さんが見せたあの男気と、現場を支え抜いた不屈の努力には、今でも心からの深い感謝の念を抱いています。「よくぞあの過酷な状況の中で、チームを最後まで踏みとどまらせてくれた」と、今でも彼と会うたびにその手を強く握り締めたくなります。

確かに、プロのリーグに入れば、Jリーグからの配分金という新しい収入が入ってきます。しかし、その華やかな収入の裏側には、プロのクラブとして維持しなければならない、莫大な「支出の義務」がセットで付いてくるんです。

より高いレベルの試合運営を行うためのスタッフの雇用や、スタジアムの設備投資、そして何よりも、規約によって定められた「一定人数以上のプロ契約選手の保有」とそのお給料の支払いは、クラブの財政に容赦なく重くのしかかってきます。

入ってくるお金も増えるけれど、出ていくお金はそれ以上に膨れ上がる。スポーツビジネスの冷酷な方程式です。私は「予算の規模と、自分たちの足元をよく見つめ直しなさい」と言い続けましたが、いくつかのクラブはプロとしての茨の道を歩む方を選択いたしました。

 

■レイラック滋賀FC J3昇格までの劇的ドラマ

JFLが歩んできた激動の歴史は、日本サッカーが全国へと拡大していくための、試行錯誤の歴史そのものでした。1999年に新しく発足してから20数年の月日が流れ、今や日本のサッカー界は、J3からJFLへの「プロからの降格」、そしてJFLからJ3への「プロへの昇格」という、双方向の激しい入れ替えが当たり前のように行われる、新しい時代を迎えました。

このプロとアマチュアが交錯する激しい構造の中で、これからのJFLというリーグが、日本サッカー界においてどのような形でどのような役割を果たしていくべきなのか。私たちは今、その未来の設計図をもう一度描き直さなければならない、極めて重要な岐路に立たされています。ただ過去のやり方を踏襲するだけでなく、直近の数年の間に、リーグのあり方を根本から考え直さなければならない時期が、目の前までやってきています。

しかし、厳しい経営の現実があったとしても、夢があるのも間違いないのです。サッカークラブの経営は決して簡単ではありませんが、このJFLという舞台があったからこそ、地域社会にこれまでにない巨大な夢と、感動の灯がともった素晴らしい事例も、私たちは数多く目にしてまいりました。

その代表的な例が、2025年のレイラック滋賀FC(旧:MIOびわこ滋賀)のドラマチックな躍進劇でした。

滋賀県という土地は、古くから高校サッカーの伝統がありながらも、全国レベルの社会人リーグで戦うような大きなチームが、長年存在しない地域でした。そこへJFLの舞台が誕生したことで、「自分たちの街からJリーグを目指すんだ」という、本当に熱い応援の輪が、地元の市民や子供たちの間に爆発的に広がっていきました。

しかし、その華やかな盛り上がりのすぐ直前、レイラック滋賀は、実は地域リーグへの「降格一歩手前」という、文字通りの絶体絶命の危機に瀕していました。

J3昇格の3年前となる2022年、滋賀の成績は極めて低迷していて地域リーグへ落ちてしまう可能性が非常に高い状況でした。

その年のJFLは、名門のホンダが首位を走り、その後を奈良クラブとFC大阪という、プロ化を目指す2チームが激しく追いかける展開となっていました。もし、ホンダがそのまま1位で終え、なおかつ奈良とFC大阪がJリーグ参入条件を満たすことができなければ、滋賀は地域リーグへの降格が決定してしまいます。

残り3試合のときに滋賀のスタジアムで長年チームの代表を務め、手弁当でクラブを支え続けておられた権田五仁会長と会うことができました。権田会長はすでに半分以上、地域リーグへの降格を覚悟したような表情で、私の前に深く頭を下げてこられました。

「現在のチームの状況を考えますと、今シーズンでの降格は避けられないかもしれません。もし落ちてしまったなら、私たちはもう一度、地域のゼロのところから、必ず出直して帰ってまいりますから、どうか見守っていてください」

ところが、最終節のピッチの上で奇跡的なドラマが起こりました。絶対に勝利が必要だったはずの首位のホンダが、まさかの引き分けに終わり、激しく競り合っていた奈良とFC大阪が勝利を収め、この2つのクラブが同時にJ3への昇格をもぎ取っていきました。さらに、滋賀自身も最後の2試合を死に物狂いで連勝したため、劇的な形で「JFL残留」を決めることができたんです。

しかし、劇的な残留を果たしたとはいえ、当時の滋賀の財政事情が極めて深刻であることには変わりありませんでした。権田会長個人の献身的な支えだけで、チームの規模を維持していくことは完全に限界を迎えていたんです。

そんなチームの元に、まさに天から舞い降りた救世主のような、素晴らしいスポンサーが現れました。地元で大きな成功を収めている、大手の美容整形外科のオーナーの方が、「滋賀のサッカーの灯を消してはならない」と、莫大な資金を投じてクラブの新しいオーナーに就任してくださいました。

新しいオーナーは、クラブの形を根本から変えました。それまでは滋賀県の南部を中心に活動していたのですが、スタジアムの整備や地域の応援をより強固なものにするため、活動の拠点を織田信長ゆかりの歴史ある「彦根市」へと大胆に移転させました。

新しく作られた美しい彦根のスタジアムの周りには、それまでサッカーに触れる機会の少なかった地元の市民や企業が集まり、新しい形の熱いコミュニティが瞬く間に形成されていきました。

この再建の背景には、実は新オーナーご夫妻の、本当に涙なしには語れない、深い愛の物語が隠されていました。

新しい体制がスタートし、チームが本格的にJ3への昇格を目指して動き出そうとしていたまさにその矢先、長年オーナーを陰で支え、誰よりも熱心に滋賀のサッカーを応援してくださっていた最愛の奥様が、重い癌に冒されていることが発覚したんです。お医者様からは「もう、これからの先の手の見通しが立たない」という、極めて厳しい宣告を受けました。

奥様は、病床に伏しながらも、常にチームの勝敗を気にかけ、「私が生きている間に、滋賀のチームがプロの華やかなJリーグの舞台へと駆け上がる姿を、どうしてもこの目で見たい」と、切なる願いを周囲に語り続けておられたそうです。しかし大変に残念なことに、チームが悲願のJ3昇格を果たすよりも少し前の段階で、奥様は静かに息を引き取られてしまいました。

現場のスタッフも、選手たちも、そして新オーナー自身も、その奥様の遺志を誰よりも深く理解していました。「何が何でも、今シーズンで絶対にJ3へ上がる。それが、天国へ旅立たれた奥様に対する、私たちの最大の恩返しであり、果たさなければならない唯一の約束なのだ」とチームが結束したのです。

それまでは全員がアマチュアとして慎ましく活動していたクラブでしたが、新しいオーナーの豊富な資金力を背景に、J3の舞台でも十分に通用するような強力な実力派選手を全国から次々と補強し、瞬く間にJFLのトップを争う強豪へと変貌を遂げていきました。

あのとき、もし最後の数試合で負けて地域リーグへ落ちていたなら、この素晴らしい救世主との出会いも、地域の感動的な盛り上がりも、すべては歴史の闇に埋もれて消えていたはずです。一見すると危うい地方の小さなクラブの営みの中にも、こうした人と人との温かい結びつきや、人生をかけた劇的なドラマが、常に息づいている。だからこそ、私はこのJFLというリーグの現場を、愛さずにはいられないのです。

 

■JFLというリーグが持つ唯一無二の魅力とは

ここで、改めて私自身の口から、このJFLというリーグが備えている、唯一無二の「真の魅力」とは一体何であるのかを、読者の皆さんにお伝えしたいと思います。

そもそも、Jリーグというプロの世界は、あらかじめ定められた高いプロの基準、たとえばスタジアムの規模や、数億円にのぼる予算、強固な運営法人などをすべて完璧に満たしたチームだけが集まり、日本サッカーのピラミッドの頂点を目指して戦う、厳格なプロの社交場です。そこには、揺るぎないプロとしての品格と、高い競技レベルが保証されています。

一方で、私たちのJFLの魅力とは、そうしたJリーグの一元的な価値観とは異なる、多様な「思惑」と「生き方」を持ったチームが、同じ一つのピラミッドの中で激しくぶつかり合う、その「多様性と柔軟性」の中にこそあります。

JFLには、将来は必ずプロの華やかな世界へと打って出たいと願う、地方の野心あふれる市民クラブが在籍しています。彼らにとってJFLの舞台は、年間を通じて全国の強豪と真剣勝負を繰り広げ、プロの厳しい興行を自らの手で運営していくための、最も素晴らしい「体制作りの準備期間」であり、実力を蓄えるための最高の登竜門としての役割を果たしています。地元の地域リーグの戦いだけでは、プロへ向けての組織の体力を養うことは、どうしても困難だからです。

しかし、その一方で、JFLには「私たちは、プロの世界へは絶対に行かない。アマチュアの最高峰として、この日本のサッカー界の発展を足元から支えていくのだ」という、強固な信念を持った素晴らしい企業チームが、厳然たる存在感を示して門番として君臨しています。かつてリーグの競技レベルを限界まで引き上げてくれたホンダや、残念ながらJFLの舞台からは離れてしまいましたが、長年素晴らしい戦いを見せてくれたソニー仙台FC、さらにはかつて圧倒的な強さを誇った佐川急便SGホールディングスなどの企業チームです。

これらの企業チームには、プロのクラブとは全く異なる独自の素晴らしい魅力がありました。会社の確固たる福利厚生や安定した身分を背景に、Jリーガーにも引けを取らないほどの非常に優秀なサッカーエリートたちが全国から集まり、単一の企業のために、そしてアマチュアのプライドをかけて、極めて質の高い美しいサッカーを展開していました。

プロを目指す地方の若いクラブたちにとって、これらの名門企業チームは、まさに「目の上のたんこぶ」のような、本当に高くて分厚い壁として立ちはだかっていました。「Jリーグへ上がりたいけれど、あのホンダの組織的な守備を崩せない」「ソニーの鋭いカウンターにいつも泣かされる」。

そうやって、アマチュアの門番たちにコテンパンに叩きのめされ、悔し涙を流しながら、それでも彼らを倒すために知恵を絞り、戦術を磨いていったからこそ、地方のクラブの競技レベルは、Jリーグへ入る前に本物のプロのレベルへと引き上げられていったんです。

J3リーグを新設した際、私たちJFLの側が最も強くこだわった大きな目標が一つありました。それは、「Jリーグの下部リーグが新しくできたとしても、JFLというリーグが備えている『純粋な競技レベル』だけは、絶対にJ3のチームに負けないだけの高さを維持し続ける」ということでした。

JFLの魅力の本質は、まさにこの複雑で、一筋縄ではいかない人間関係や、多様なチームの生き様が交錯する点にあります。プロへ行きたいけれど行けないチームの焦り、プロへ行かない門番たちの意地、そしてかつてJFLに在籍した大学の瑞々しい挑戦や、Jリーグクラブのセカンドチーム(ジェフリザーブスやファジアーノ岡山ネクストなど)が若手の育成のために必死に戦っていました。

Jリーグが「頂点を目指す一本の美しい直線」であるならば、JFLは「あらゆる人々のサッカーへの情熱と生き方が交錯する、深く複雑な曼荼羅」のようなリーグです。

近年、JFLの舞台からJ3へとステップアップしていったチームの戦いぶりを眺めていると、私のこの「競技レベルではJ3に負けない」という信念が、決して間違っていなかったことが立派に証明されていると感じます。

その最も輝かしい例が、いわきFCの素晴らしい躍進でした。いわきFCは、JFLの舞台で強固なフィジカルと圧倒的なスピードを磨き上げ、J3に昇格するやいなや、並み居るプロのクラブを次々と撃破して、わずか一年でJ2へと駆け上がっていきました。他の多くのチームも、JFLでの厳しい戦いを経て上がっていったクラブは、プロの1年目から非常に優秀な成績を収め、リーグの上位に食い込む健闘を見せています。

実際の公式戦で彼らが直接戦う機会は、毎年の天皇杯の舞台などに限られていますが、ピッチの上でJ3のチームと対峙したとき、JFLのチームは「プロ相手であっても、絶対に実力では負けていない」という強いプライドを持って戦い、実際に何度も素晴らしい勝利を挙げてきました。

この高い競技レベルの維持こそが、JFLが日本サッカー界のために果たし続けている、最も大きな力添えであり、誇るべき最大の特徴です。JFLというリーグは、華やかな光が当たるプロの世界を、そのすぐ真下から支え、鍛え上げるための、極めて重要な場所なんです。

 

■JFL理事長のオススメは一人客にも配慮が行き届いた蒲田の中華料理店

え? レストラン? 何ですか、それ(笑)?

昔、鳥栖の立ち上げで苦労していたころの、佐賀の懐かしい美味しいお店なんかは、30年の月日の間に、残念ながらほとんどが店を閉めてしまったんですよ……。

うーん、それじゃ、蒲田の素晴らしい中華料理店「パンダ 南蒲田店」さんを紹介しておきましょうかね。場所は、京急蒲田駅とJR蒲田駅の間に広がっている、賑やかなアーケード街の下に店を構えている中華料理屋さんです。

何がそれほど素晴らしいのかと言うと、もちろん、出される料理がどれもほどよく美味しいということもあるんですけど、何よりも私のような「一人客」に対する配慮が行き届いていることなんです。

ふらりと中華料理屋さんに入って、少しビールを飲みながら美味しいものをつまみたいと思っても、普通のお店ですと一皿のボリュームが多すぎて、酢豚を一つ頼んだだけでお腹がいっぱいになってしまうことがあるじゃないですか。

でも「パンダ」さんは、ほとんどすべての定番メニューを小さな「小皿」のサイズで提供してくれてます。価格も一皿が350円から400円前後という、大変良心的な設定です。

この小皿の仕組みがあるおかげで、好物の酢豚をつつき、麻婆豆腐や炒め物など、一度に3品も4品もいろんな味を贅沢に楽しむことができるんですよ。1人でも楽しく食事できますから、近くに行ったらぜひどうぞ。

パンダ 南蒲田店

 

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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート

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