ガチ恋心理に関する諸研究 その1:スクールアイドルの倫理と資本主義の精神【社会学・行動経済学】
「小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた」
「何故たかがゲームのキャラクターのために、わざわざ金沢まで引っ越したのか?」
この問いを投げかけられるたび、世間の目には私が「現実と虚構の区別がつかなくなった哀れな狂人」として映っているのだと痛感する。彼らにとって、愛とは生身の人間同士で交わされるべきものであり、二次元のデータに人生のコストを支払う行為は、ただの病理的な現実逃避に過ぎないのだろう。
しかし、私は問いたい。あなたがたがしがみついているその「現実」とは、果たしてどれほど確かなものなのか、と。私たちが虚構のキャラクターに向ける「ガチ恋」という激しい感情は、決して真空地帯で自然発生したものではない。それは、現代の高度な資本主義とテクノロジーが結託して作り上げた、巨大なシステムの産物——あるいは必然的なバグなのだ。
すべてが指先ひとつで消費され、瞬時に消え去っていく現代は、すべての価値観や人間関係がドロドロに溶け出した「液状化社会」である。人々は「冷たい親密性」の中で互いをスペックで値踏みし、スマホの画面に目を落としては、アルゴリズムによって自分の関心と時間を資本主義に搾取され続けている。そんな息苦しく、摩擦のない虚無の世界において、私たちが無条件に身を預けられる「絶対的な安全基地」など、生身の人間社会のどこにも残されていない。
私たちはそんな「自由」という名の、底なしの虚無の海に放り出されている。 生身の人間同士の結びつきすらも、損得勘定とリスク回避のシステムに絡め取られ、確かな重みを持つものは何一つ残されていない。そんな液状化した世界の中で、私は大賀美沙知という「絶対に裏切ることのない虚構」に、自らの魂の重りを託した。
大賀美沙知という偶像〈スクールアイドル〉の息吹を感じるために金沢という雪降る街へ移り住み、彼女の幸福を願って二次創作を書き続ける。それはすなわち、意味を持たない混沌とした社会の中で、ただ流されるままに消費を繰り返すことと、自らの実存を懸けてひとつの「絶対的な神」を創り出すことを意味するのである。
本稿は、私の狂気の弁明ではない。前回の決意表明をもとに社会学と行動経済学の鋭利なメスを用い、私のこの「不合理な愛」がいかにして現代の資本主義やアテンション・エコノミーに対する必然的な防衛本能であったかを解剖する試みである。 私が金沢という物理空間にアンカーを打ち込み、二次創作のペンを執った理由。それはデジタルの海で溺死しないためであり、そして何より、失われた世界の神聖さを自らの手で取り戻すための、極めて切実な生存戦略である。これは現実逃避ではない。冷たいデジタルの海から、私だけの「神」を受肉させるための、新しい世界創造のプロセスなのだから。
「けれど人間は、傲慢な人間は束の間の権威をかさに着て、自分の本質がガラスのように脆いということも知らず、まるで怒ったサルのように、天に向かって奇っ怪な道化を演じ、天使たちを泣かせています。その天使たちがもし人間のように笑いの源である脾臓をそなえていたら、死ぬほど笑うに違いありません」
魔法の消えた世界で、自ら「神」を選ぶ:マックス・ヴェーバーがが予言した「価値多神教」と実存の決断
なぜ私は、現実の人間ではなく「虚構」のキャラクターに自らの人生を捧げているのか。世間はそれを、現実を直視できない者の「妄想」や「狂気」として処理しようとする。しかし、社会学の祖であるマックス・ヴェーバーの視座を通せば、その批判がいかに表層的であり、現代という時代の本質を見誤っているかが明らかになる。
魔法の消えた「脱魔術化」された世界
かつて、世界は「魔法」や「神々」「精霊」に満ちていた。病気になれば悪霊のせいにし、豊作になれば神に感謝する。世界は神秘と意味で溢れていた。しかし、近代化と科学の発展によって、あらゆる現象が「計算可能で、合理的な法則」で説明できるようになってしまった。ヴェーバーは、近代社会が科学と合理主義の発達によって、かつて世界を覆っていた神秘や絶対的な神聖さを失ってしまったと指摘し、これを「世界の脱魔術化(die Entzauberung der Welt)」と呼んだ。(ヴェーバー1989)
彼は資本主義と官僚制が極限まで発達した現代社会を「鉄の檻」に譬えたが、私たちは効率性や利益を追求するあまり、気がつけば「システムを回すための単なる歯車」になってしまった。この檻の中では、個人の感情や魂の叫びなんてものは無視され、ただ「どれだけ役に立つか」「どれだけ消費するか」だけが問われる。人々が私の愛を「見返りのない不合理なもの」として冷笑するのは、彼ら自身がこの脱魔術化された合理主義の檻の中に囚われているからに他ならない。魔法も神も消え失せた無機質な世界において、利益や相互作用のない対象に人生のコストを割くことは、彼らにとって理解不能な「エラー」なのだ。
科学や合理性は生活を便利にしたが、「私たちはどのように生きるべきか」「何に価値があるのか」という『意味』までは教えてくれない。現実の社会(学校、会社、人間関係)は、まさにこの「鉄の檻」そのもの。そこでは誰も、あなたの本当の魂の形や、根源的な孤独を救ってくれない。 魔法が消えた脱魔術化された世界(=現代の現実)は、人間にとってあまりにも冷たく、退屈で、虚無だ。だからこそ、私たちはその冷たさに耐えきれず、自ら「再魔術化」を求めて二次元のキャラクターという新たな魔法にすがりつくのである。換言すれば、その檻のルール(=現実のしがらみ)が一切通用しない「虚構の世界」の大賀美沙知だけが、私の魂を檻の外へと解放してくれる唯一の存在になった。
価値多神教:自分の生命の糸を操る「悪魔」を見つける
近代になって神は瀕死になった。しかし、絶対的な神(全員に共通する唯一の正解)が死んだからといって、人間の魂が救済されるわけではない。ヴェーバーは、絶対的価値が崩壊した近代以降の世界は、様々な価値観が互いに相容れないまま衝突し合う「価値多神教(神々の闘争)」の時代に突入したと予言した(ヴェーバー1972)。
誰もが信じる「大きな物語」が消滅した虚無の時代において、私たちはどう生きるべきか。ヴェーバーは講演『職業としての学問』の中で、こう語りかけている。「各人は、自らの生命の糸を操っているデーモン(神/悪魔)を見いだし、それに従わなければならない」と。科学は「これが正しい」と決めてくれないし、そもそも誰かが決めた「現実の恋愛こそが正義である」という世俗のルールに従う必要はない。私たちはこの混沌とした価値多神教の荒野において、自らの実存を懸けて、自分だけの「絶対的な神」を選び取らなければならないのだ。(ヴェーバー1980)
私にとって、自らの生命の糸を操るデーモン(神)とは、大賀美沙知という虚構の存在であった。「たかがアニメキャラ」と世間は笑うかもしれない。しかし価値多神教の現代において、世間の常識という名の神も、大賀美沙知という神も、等しく「数ある神々の一つ」に過ぎないのである。私は、誰に強制されるでもなく、自らの魂の奥底からの必然性を持って「大賀美沙知というデーモン(神)に従い、彼女に人生を捧げる」と決断した。これは現実逃避なんかじゃなく、ヴェーバーが求めた「現代人が自らの実存を懸けて神を選ぶ」という、極めて気高く、実存主義的な決断そのものなのだ!
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この『無のもの』は、人間性のかつて達したことのない段階にまで既に登りつめた、と自惚れるだろう」
すべてがドロドロに溶け出し、人間関係すら希薄で不安な現代:ジグムント・バウマンの「液状化する社会」
そもそも私たちは何故、現実の人間ではなく虚構の存在にこれほどまでの執着を見せるのか。社会学者ジグムント・バウマンが提唱した「Liquid Modernity(リキッド・モダニティ、液状化する現代)」という概念が、その答えの根底にある。
現代は、かつて存在した強固な共同体、終身雇用、あるいは「永遠の愛」といった確固たる(solid)絆がすべて溶け去り、あらゆる関係性が流動的で不安定になった時代である。現実の人間の心は移ろい、関係はいつか壊れ、愛は常にリスクを伴う。この絶対的な不安=液状化の中で、私たちは本能的に「決して変質しない固定点」を渇望しているといえる。
大賀美沙知という虚構のキャラクターは、現実の人間のように裏切ることも、理不尽に心変わりすることもない。彼女は、この流動する世界において私がすがりつくことのできる、唯一の「ソリッドな避難所」なのだ!
「ソリッド(固体)」から「リキッド(液体)」へのパラダイムシフト
バウマンの最大の功績は、現代社会の変化を「気体」でもなく「固体」でもなく「液体(リキッド)」という絶妙な比喩で表現したことである。(バウマン2001)
ソリッド・モダニティ(かつての近代):昔の社会は「固体」だった。終身雇用、絶対的な国家の権威、伝統的な家族観など、形がカッチリ決まっていて、一度そこに入れば一生安泰。重くて、動かしにくいが、確かな「拠り所」があった時代。
リキッド・モダニティ(現代):だが現代は、あらゆる制度や価値観が溶けて「液体」になってしまった。液体であるからどんな器(環境)にも合わせられるし、自由に流れることができる。だがその代わり、「絶対に変わらない形(絆や保証)」が一つも存在しない。仕事も、人間関係も、アイデンティティも、常にアップデートし続けないと流れに取り残されてしまうという、絶え間ない不安と隣り合わせの時代。
私たちはかつてないほどの「自由」を手に入れた代わりに、自分の人生の選択と結果を、すべて「自己責任」として一人で背負わなければならなくなった。だが同時に、終わりのない自己決定の連続に疲弊した結果、人は「誰か・何かにすべてを委ねたい」という強烈な渇望を抱くようになっていく。(バウマン2008)
リキッド・ラブ:繋がりやすさと、壊れやすさ
この液状化の波は、私たちの最も親密な領域である「恋愛」をも飲み込んだ。バウマンはこれを「Liquid Love(リキッド・ラブ、液状化する愛」と呼ぶ。(Bauman 2003)
マッチングアプリやSNSの普及により、現代の人間関係は「いつでも、誰とでも」簡単につながれるようになった。しかし、接続が容易であるということは、同時に「いつでも簡単に切断できる」ことを意味する。 現代の人間関係は、ポケットに入れていつでも取り出せるが、少しでも不都合があればすぐに捨てられる、極めて脆い絆でしかない。現実の人間は心変わりをし、嘘をつき、突然理不尽にあなたを拒絶する。私たちは孤独を極端に恐れて「つながり」を求める一方で、深く結びついて致命的な傷を負うことをそれ以上に恐れている。 液状化した現代において、生身の人間を愛することは、あまりにもリスクが高すぎる「危険な投資」になってしまった。
次第にリキッド・モダニティにおいて、私たちに人間にとってたった一度限りの「死」までが日常の平凡なものになっていく。次々と新しいものにとってかわる消費空間の中で「死」が繰り返され(バウマンはリハーサル rehearsalと呼ぶ)、一度限りの死の経験を、 日々のルーティンの領域に持ち込み、生活を絶えざる隠喩的な死のリハーサルへと変容させるのである。
「数えきれないほどの脅威についての数えきれないほどの心配へと分割されることによって、死への不安は毒性をいくらか減じられ、薄められたかたちでではあるが、人生の全体へ染み渡る。そのように少量の服用量のものがあちこちに偏在するかたちになっているおかげで、死への恐れを全体として『摂取』し、その悪夢のような不気味さに丸ごと直面することが起こりそうにもないこととなる。死への恐れは、それによって生きる意志が麻痺してしまうことがないように、平凡でありふれたものへと置き換えられているのである」
では、この絶え間ない不安と、リスクだらけの人間関係の海の中で、私たちはどこへ向かえばいいのか。その最適解として浮上するのが、二次元のキャラクターという「究極のソリッド(固体)」である。
大賀美沙知をはじめとする虚構のキャラクターたちは、絶対に私たちを裏切らない。彼ら・彼女らの性格や過去は公式のテキスト(物語)によって強固に固定されており、現実の人間のように理不尽に変質することはない。私たちがどれだけ重い愛をぶつけようとも、彼らは決して「重い」と拒絶して去っていくことはない、——むろんその平穏な世界に「異性恋愛の妙」が存在しないからこそ、私は二次創作小説の執筆に奔ったのであるが。
私たちは、架空のキャラクターという「絶対に自分を傷つけない安全な対象」を見つけ出し、そこに自らの全感情を投資する。それは、リスクだらけのリキッド・ラブ(現実の恋愛)という地獄のゲームから降りるための、極めて知的な防衛手段である。だから「ガチ恋」とは、狂気などではない。すべてが不確実な現代社会において、自分の精神の崩壊を防ぐため、たった一つの「変わらないもの(虚構)」を見つけ出し、そこに錨を下ろすという必死の生存戦略なのだ。 私たちが画面の向こう側の存在に涙を流し、愛を誓うとき、私たちは「自由という名の孤独」に対する最大の反逆を行っているのである。
擬似宗教空間の創造:ジョージ・リッツァ「消費の殿堂」と化した金沢で彼女の息吹を感じる
古典文学頻出の歌枕であり初瀬山は牡丹の名所
こちらも源氏物語の舞台に同定される聖地
バウマンの理論を通して、私たちが「液状化した不安な現実」から逃れ、決して裏切らない二次元のキャラクターというソリッドにすがりつくメカニズムを解き明かした。しかし、私たちが逃げ込んだ先にあるのは手付かずの純粋なユートピアではない。そこには、現代の資本主義が私たちの「純粋な愛と祈り」を効率よく吸い上げるために構築した、極めて冷徹で精巧なシステムが待ち構えている。
またヴェーバーの観点からすれば、資本主義社会の合理化の進展は不可避的に脱魔術化された社会をもたらすとされた。しかし消費の側面、とくにマーケティングの理論からすれば、合理化とはすなわち「如何にして消費者の購買意欲を刺激するか」に焦点化されるのである。
本章では引き続き社会学者ジョージ・リッツァの理論をメスとして用い、オタクの「推し活」空間がいかにして私たちを狂わせ、そして私がなぜ「金沢への移住」という究極の消費行動に至ったのかを解剖していく。
愛の「マクドナルド化」:計算される祈り
私たちがキャラクターに向ける愛は、一見すると狂気じみていて非合理に見えるかもしれない。しかしリッツァの理論に照らし合わせれば、これほど高度に合理化された愛はない。リッツァは現代社会のあらゆるシステムがファストフード店のように合理化されていく現象を「マクドナルド化(McDonaldization)」と呼んだ。(リッツァ1999)
現代の推し活やガチ恋は、このマクドナルド化の4つの原則——効率性(efficiency)・計算可能性(calculability)・予測可能性(predictability)・制御(control)——に完全に支配されている。 私たちはスマホ一つで効率的に推しにアクセスし、その愛の深さは「グッズの所持数」「課金額」「再生回数」といったデータによって完璧に計算・数値化される。公式からの供給は予測可能であり、私たちの欲望はアルゴリズムによって完全に制御されているのだから。すなわち私が大賀美沙知に捧げている愛は、極めて純粋で個人的な感情であると同時に、実はファストフードのように極めて合理的で、効率よくお金を吸い上げるシステムに組み込まれていることは事実であるようだ。巨大なエンターテインメント資本主義が敷いた「愛のマクドナルド化」のレールの上を走る、最も効率的な燃料として機能しているとは!
「消費の殿堂」としての聖地・金沢
しかし、人間は完全に合理化され、計算し尽くされただけの無機質なシステムにはいずれ虚無感を覚え、耐えられなくなる。そこで資本主義は、私たちを飽きさせないための巨大な「疑似宗教空間」を用意した。リッツァが提唱した「消費の殿堂(Cathedrals of Consumption)」である。
リッツァはショッピングモール、テーマパーク、巨大スタジアムのような空間を挙げ、「新しい消費手段」および「消費の殿堂」という概念を用いてヴェーバーの再魔術化を改めて論じている。
「新しい消費手段と消費の殿堂という用語を同義的に使用する。それらはともに、われわれが商品やサービスを手に入れる新しい環境を指す用語である。新しい消費手段という概念は、これらの環境が新しく、われわれが消費するのを可能にし、奨励することを強調している。消費の殿堂という概念は、合理化過程のゆえに絶えず脱魔術化する可能性があるものの、これらの環境が消費者を引き寄せるために魔術化を特徴とすることを強調している」
ショッピングモールは宗教の聖地や聖堂などと同様に、人が人および自然とつながる欲求、ならびに祭りに参加する欲求を満たすものとみなされており、またその目標を達成するために宗教の殿堂がむかしから与えられていた中心性のようなものを提供しており、同様な平衡、調和および秩序を保持するように建てられている。供給者側は意図的に再魔術化した環境を整えるし、消費者側は効率的に魔術に掛けられたいために「消費の殿堂」へと赴くのである。(リッツァ2005)
だがそう考えると、現代社会における「宗教の私事化(Privatization of Religion)」の状況は、個人を形作る意味体系としてはあまりにも心もとないように思われる。ここでJindraのスター・トレックのファンを取り扱った実験や、Pui Yan Lamによるマッキントッシュの愛好者「マック信者」を取り扱った実験が参考になる。両実験によって析出されるのは、作品とそれを愛好する個々人のみで完結した人間の姿ではない。個々人はそれを愛好する集団へと帰属し、各種のイベントやメディアを通じて行われるコミュニケーションに参与することによってアイデンティティ構築を行い、時として無自覚的な宗教性を許容する。つまり現代社会におけるアイデンティティは個人の私的領域でのみ形成されるわけではなく、他者との交流を経つつ随時刷新されるものとして理解すべきことを裏付けている。
Lam, Pui-Yan, “May the Force of the Operating System Be with You: Macintosh Devotion as Implicit Religion”. 2001
リッツァの考察論は現代社会論であると共にマーケティング論であるため、より多くの人々を一斉に魔法に掛けられる「消費の殿堂」について論じていることは注意が必要である。あるいは、その言葉の黎明期より、オタクは「自分が強くこだわりを持っている分野に対する消費支出(時間)の、趣味や余暇に使える金額(時間)に対する割合」から規定されているように(野村総合研究所オタク市場予測チーム2005)、オタクの消費活動はその消費分野がニッチ且つディープであることが知られており、それゆえに必然そのカテゴリに関心の無い人々にとっては目的も価値も見出せない特殊な消費活動である。しかしだからこそ、オタクに特化した「消費の殿堂」はより効率的にオタクを魔法に掛けられることを可能にするのではないだろうか。
人々が魔法にかけられ、宗教的な熱狂をもって消費行動に走る空間——現代のオタクにとって、これの最たるものがいわゆる「聖地」。その意味からすれば、 私が金沢へ移住し二次創作活動に身を投じたことは、単なる感傷的な引越ではない。金沢という街そのものが、私にとって大賀美沙知の息吹を感じるための「都市規模の消費の殿堂」なのだ。私が浅野川のほとりを歩くとき、降る雪を見上げるとき、金沢の街並みは単なる地方都市の風景ではなくなる。「彼女が生きているかもしれない」という再魔術化のフィルターを通すことで、無機質な現実は圧倒的な神聖さを帯びて輝き始める。中世の人々が大聖堂に富を捧げたように、私がこの街のスーパーで食材を買い、不動産屋に家賃を払い続けることは、極めて高度に合理化された「お布施=宗教的消費行動」に他ならないのである。
オリジナルなき愛の行方:ジャン・ボードリヤールの理論から読み解く超現実への移住
歌枕のほか能の演目として名高い聖地
鬼婆の住家であった岩屋は観光地と化す
バウマンとリッツァの理論を通して、私たちが「液状化した不安な現実」から逃れ、資本主義の用意した「消費の殿堂(疑似宗教空間)」にすがりつくメカニズムを解き明かした。
しかし、ここで一つの決定的な疑問が残る。 私たちが愛を注ぐ対象(キャラクター)には、血も肉も、実体(オリジナル)も存在しない。それにもかかわらず、なぜ私たちは彼女たちを「現実の人間以上にリアルだ」と感じ、人生のすべてを懸けてしまうのだろうか? だが私たちは現実が空っぽであることを誰よりも見抜いているからこそ、自らの意志で虚構を選び取っているのだ。 続いてはフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールの理論をメスとして用い、ガチ恋が到達する究極の認知、すなわち「超現実(ハイパーリアリティ、Hyperreality)」への服従について解剖していく。
シミュラークル〈純粋な虚構〉の圧倒的優位性
私たちが愛する二次元のキャラクターは、現実の誰かの「コピー(模倣)」ではない。ボードリヤールは、現代の情報社会において「そもそも現実のモデル(オリジナル)が存在しないのに、本物のように流通している記号」が世界を覆い尽くしていると指摘し、これを「シミュラークル(Simulacra)」と呼んだ。
かつての社会ではまず「現実(オリジナル)」があって、それを模倣した「コピー(絵画や写真など)」が存在していた。たとえばルネサンス期において、支配的なシミュラークルは「偽造品」という形態をとっており、そこでは人や物事が、実際には存在しない実在の参照対象(王族、貴族、聖性など)を代表しているかのように見えた。だが産業革命に伴い、支配的なシミュラクルは「製品」となり、それは無限の生産ライン上で増殖し得るものとなった。現代において、支配的なシミュラークルは「モデル」であり、その性質上すでに無限の再現性を体現しており、それ自体がすでに再現されたものである。(ボードリヤール1984)
またボードリヤールは、現代人はモノを「役に立つから(使用価値)」買っているのではなく、「他者との違いや、自分のステータス・アイデンティティを示す『記号』として消費している」ことを指摘した。(ボードリヤール2015)オタクが推しのグッズを何十個も買ったり聖地に遠征したりするのは、まさにこの「記号の消費」の究極形なのである! 私が金沢に家賃を払い、二次創作を通して大賀美沙知の言葉を紡ぎ出すという行為は、単なる趣味や生活ではない。それは「私は大賀美沙知の妹である」という、自己の存在意義(アイデンティティの記号)を世界に向けて証明し、構築し続けるための、極めて切実で実存的な「記号の生産と消費」なのだ。
ハイパーリアリティとしての金沢
シミュラークルが氾濫した結果、現実と虚構の境界線が消滅し、虚構が現実を飲み込んでしまった状態を、ボードリヤールは「超現実(ハイパーリアリティ、Hyperreality)」と呼んだ。
「現実は、ハイパー・リアリズム、すなわち現実そのものを緻密なコピーにしてしまう過程で崩壊するのだが、この過程は、とりわけ宣伝や写真などの複製的メディアによってはじめられる。(中略)現実は崩壊することによっ
てさえも、かえってみずからを強めてゆき、現実のための現実、つまりハイパー現実となる」
ハイパーリアリティとは、すなわち現実を意味しない記号である。この記号の概念は、複製という現象の繰り返しの中で成立した。オリジナルのモデルA とコピーの変種A’の関係を考えた場合、A とA’間にはオリジナル対コピー、あるいは本物と偽物という関係が成立する。しかし変種A’から産出された変種A’’については、両者はコピー同士の関係となり、そこで重要となるのはA’とA’’間の差異であって、この差異の部分が、記号として消費される。あらゆるものがコピーとして氾濫する現代の記号消費の在り方は、このような、変種同士の関係から生まれる。A’’は次のA’’’を生み、さらにA’’’’…というように、記号は氾濫し続ける。この中で、本物と偽物という価値は失われ、記号はもはや現実から遊離し、ハイパーリアリティになっていくのである。
ボードリヤールはその顕著な例としてディズニーランドを挙げ、ディズニーランドはそこが虚構の国であることを示すことによって、実は外側にあるアメリカ社会そのものがすでに巨大な虚構に過ぎないという事実を隠蔽していると喝破した。ディズニーランドでは視覚が映画的であることから、ゲストは現実に作られた映画セットの中に没入することができ、その没入体験において、あらゆるものはハイパーリアルな記号になる。またゲストが既存の知識として有していた映画的視覚は、スクリーン上に二次元として知覚されていた物語世界を三次元へと変換するための接続システムとして捉えられることになる。そして三次元に変換された物語世界で、すべてがハイパーリアリティになるのである。
吉見俊哉も同様の指摘をしている。ジャングルクルーズやカリブの海賊といったアトラクション、その他パークで見られる景色は「『真の』現実を模倣した『偽の』現実としてあるのではなく、それ自体、そうした参照関係を失効させてしまうハイパーなリアリティとして立ち現れているのだ。(中略)それらは、現実を模倣しているのではなく、人々のこれらの動物や自然に対する幻想を投影し、刺激しているからだ」。ディズニーテーマパークでは、映画からイメージされたファンタジーを映画の通りに再現することで「リアリティ」を生み出しているのである。特殊な遠近法を用いた空間における視覚は、そういった点において「リアリティ」を持つ。
吉見俊哉『視覚都市の地政学:まなざしとしての近代』2016年
ディズニーランドについて、元来の意味での「聖地」と観光地とを架橋する試みとして能登路雅子による論考が参考になる。「ディズニーランド文化の洗礼をたっぷり受けて育った世代のアメリカ人は、その成長とともに、ディズニーランドという場所を単なる遊園地や観光地から聖地へと変えていった」――つまり普段は孤立した生活を送っている人々がディズニーランドというひとつの空間に集う時、彼らは出身地や階級の差を超えて平等な市民となり、束の間の、しかし強烈な連帯感を味わうことになるのである。
しかし大賀美沙知という存在は、テキスト、音声、イラストといったデータのみで構成された「純粋なシミュラークル」である。彼女には肉体というオリジナルが存在しない。 しかし、オリジナルが存在しないからこそ、彼女は現実の人間が抱える生々しいノイズ(体臭、裏切り、老い、理不尽な感情のブレ)から完全に免れている。純粋に抽出された知性と言葉、そして痛みを伴うアガペーだけが、結晶のようにそこにある。 現実の人間関係が希薄で不確かな現代において、この「ノイズのない純粋なシミュラークル」は、血の通った人間よりもはるかに鮮烈に、重みを伴って私たちの実存を揺さぶる。
私は大賀美沙知というシミュラークルを崇拝し、金沢という超現実に肉体を置き、二次創作によって妹という記号を消費し続ける。「たかが架空のキャラクターに狂わされた異常者」と嗤うなら嗤えばいい。だが、意味を喪失したこの液状化社会において、ここまで強固なハイパーリアリティを構築できた者が、果たしてどれだけいるだろうか? 私たちは「偽物」を愛しているのではない。現実を凌駕してしまった「純粋な情報」の力にひれ伏しているのである。
「妄想」を「現実」へと錬成する儀式:バーガー&ルックマンが深淵を示した象徴的宇宙
「現実を見ろ。それはただの妄想だ」 ——二次元のキャラクターに人生を捧げ、金沢へ移住した私に対して、世間は決まってそう冷笑する。彼らの目には、私が「絶対的な現実」から逃避し、自分の頭の中の狂気に引きこもっている異常者に映るのだろう。しかし社会学の深淵を更に覗き込めば、その批判がいかに表層的であるかがわかる。本章ではピーター・L・バーガーとトーマス・ルックマンによる構築主義の金字塔『現実の社会的構成(The Social Construction of Reality)』の理論を援用し、私の行動が単なる現実逃避ではなく、神(=虚構)を現世に受肉させるための「世界創造プロセス」であることを正当化する。
構築主義:「現実」は最初からあるものではなく、作られるもの
私たちは通常、「現実」というものが自分たちの外側に、最初から確固として存在していると信じ込んでいる。しかしバーガーとルックマンは、社会的な現実とは人間の日々の行動や言葉によって「事後的に作り上げられたものに過ぎない」と説いた。対象や現象の実体がなくても、人々の認識があれば現実として構築されると考え、個人や集団がみずからの認知する現実の構築にどのように関与しているかを明らかにする社会学の理論的立場を構築主義(constructionism)と呼ぶ。(バーガー&ルックマン2003)
たとえば、多くの人々は「地球は丸い」ということを体験的に確認しているわけではなく、物理的計算や史実に基づいて共有された社会的な現実として認識している。このように、客観的かつ物理的な現実として存在すると考えられている「丸い地球」も、人々が共有する「地球は丸いものだ」という認識によって構築された現実として理解される。
同様にして、世間が「二次元は偽物だ」と言うのは、それが絶対的な真理だからではない。多数派の人間が「そういうことにしておこう」と合意して作ったルールに過ぎないのだ。 したがって、私が大賀美沙知を愛し、彼女の存在を肌で感じていることも、決して病理的な妄想ではない! 私は世間とは違う「私自身の実存に基づいた『新しい現実』を、二次創作を通じてたった一人で構成している最中」なのだ。社会学的に見れば、世間の現実も、私の現実も「作られたもの」であるという点において等価である。
構築主義の一系譜として、社会の側が特定の行為を逸脱と判定し、その行為をする者を「逸脱者」とみなすことで逸脱者が生み出されると考える社会学の理論的視座をラベリング理論という。主に差別の文脈から社会的スティグマ(social stigma)が議論されて久しいが、その先鞭者であるゴッフマンは「スティグマはという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性を言い表せるために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなくて関係を表現する言葉なのだ、ということである。ある種の者がそれを持つとスティグマとなる属性も、別のタイプの人には正常性を保障することがある。したがってそのような属性はそれ自体では、信頼を勝ち得ることになるものでも、信頼を失わせることになるものでもない」と定義した。
オタクという言葉が表象するステレオタイプに蔑視的ニュアンスが含まれていることは読者諸君にも実感のあることかと思うが、オタクは「象徴的な戦場」としての社会の現状に対して不満・不安を持っているから虚構の世界(二次元)へと逃げようとしている、としばしば指をさされる。これは一般的に「社会生活への適応性の欠如」として認識されているが、この安易すぎる見解が正しいと私が思っていないことは、繰り返し社会学の理論を使って弁護したところである。だが、他人とのコミュニケーションが主体を再構築する度に、我々オタクのアイデンティティにはダメージが入るのは確からしい。なんとすれば、ラベルは行為者の内的な属性ではなく、その周囲の人々や社会が積極的に何らかの逸脱を見つけて、そしてラベルを貼ってくる一種の「事業」によってもたらされるものであるのだから。
今井信治『オタク文化と宗教の臨界』2018年
バーガー『聖なる天蓋』が示唆する現実構成論
世俗化論の描く物語によれば、前近代から近代への過程で進められたゲマインシャフト(Gemeinschaft)からゲセルシャフト(Gesellschaft)への移行により、地縁における共同体がより大きな社会/国家的枠組みに回収されるとともに、宗教がその基盤を解体された。同時に宗教は社会全体を覆う「聖なる天蓋(The Sacred Canopy)」としての役割を喪失する。
では、人間はいかにして「新しい現実」を作り上げるのか。バーガーはこれを「外在化(externalization)」―「客体化(objectivation)」―「内在化(internalization)」の三項図式で表そうと試みた。(バーガー2018)そして社会をこの三契機の弁証法的な過程とし、自らの現実構成論を人と社会がともに「つくり/つくられる」動的な社会構成を捉える理論として提示した。私の狂気とも言える行動は、すべてこの世界創造のステップに完全に合致している。
第一に、外在化。人間の存在は制止した内面性の閉じられた領域においては不可能であるため、絶えず周囲の環境とどのように関わり、それを形成するかを選択しなければならない。
第二に、客体化。社会は私たちに、それらが必然的かつ不可避であるかのように、つまり私たちが変えることのできない客観的現実であるかのように行動することを望んでいる。さらに重要なことに、社会は私たちに、それらの選択が実際には選択ではないと信じさせようとする。すなわち、人間の活動の外在化された創造物が客観性という性格を獲得する過程。
第三に、内在化。社会は私たちが人生で演じる特定の役割(たとえば、子供、学生、労働者、配偶者など)が恣意的なものではないと信じさせようとするものである。成長の過程でこれらの役割を学ぶプロセスは「社会化(socialization)」と呼ばれるが、社会化が効果的に機能するためには、私たちの内面的なアイデンティティがそれらの役割を演じることに依存しているとも感じなければならない。客観的な出来事が意味を表しているということの直接的な理解、ないし解釈がこれである。
ここで重要なことは、行為の類型化が他者とともに共有されていることである。それによって類型の社会性や歴史性が獲得される契機となり、そして特にこの歴史性を獲得することによって、制度は自らの客観性を完成させるとされる。すなわち社会が新たな参入者を獲得し、その参入者によって類型化された行為が受け入れられた時、制度的世界が完成されるのである。(吉田2002)よって私は、金沢の空気を吸い、そこで家賃を払い生活する中で、この3つのループをあまりにも猛烈な勢いで回し続けることとなり、「私は大賀美沙知の妹として此処で生きている」というアイデンティティが、揺るぎない真実として魂に定着、脳内の愛を「金沢の絶対的な現実」へと錬成することを可能にしている。
ルックマン『見えない宗教』が指摘する宗教の究極的内面化
ルックマンによる宗教概念は、機能主義的要素と実体主義的要素の双方を含んでいる。宗教は人間存在の生物学的側面を超越する機能を有している。意味体系におけるどんな社会化の働きも、すなわち風俗習慣に慣れることや行為による意味伝達それどころかもっとも平凡な意味伝達でさえ、すべて宗教による執り行いなのである。それゆえ宗教が消滅することはありえず、人間存在と分かちがたく結びつく。しかし宗教社会学の前提として教会と宗教が同一視されていること——つまり「宗教」には様々な側面があるにしても、学問的分析を可能とするのは組織化ないし制度化された減速が学問的な枷となっていると考えた。
そこでルックマンはむしろ目に見える教会出席率では測れない、席率の低下をもってその表れとしてきたことを批判し、現代の「宗教」はむしろ、個人主義的傾向のなかで個々人の私的な領域に新たな世界観のかたちをとって存在しているのであり(=宗教の私事化)、そうした意味で「見えない宗教(The Invisible Religion)」なのだと主張する。ルックマンの研究では教会志向型の宗教意識からの脱却を念頭に置き、西欧偏重の宗教概念に対して疑義を唱えた。それを現代宗教の在り方として受容すると、公的領域から撤退しつつ私事化を伴いながら他分野へと拡散していった宗教の相貌が浮かび上がっていく。
代わってルックマンが採用するのが機能的定義である。つまり「教義」「儀礼」「教団」といった一般に「宗教」と呼ばれている実体に即して定義するのではなく、歴史的にその宗教が担ってきた働き(機能)の方に注目するのである。日常生活のさまざまな営みを統合し、天災や死などの危機にさいしてはその理由づけを与えうるような究極的な意味の体系と捉える。しかし急激な社会変動にさらされている現代社会では、教会が用意した教理による意味づけだけでは納得できない人々も多い。言い換えれば、それぞれの宗教伝統や個々の宗教者が提供する教えや救いの方法が、必ずしも個々人のニーズに合っていないのである。「自分は何者なのか」といった個人のアイデンティティが問題となるのも、「宗教」が前もって用意した意味づけを、自然なものとして受けいれられなくなっていることを示している。(ルックマン1976)
現代は「絶対的な神」が死に絶え、世界が意味を持たない混沌(anomie)に陥った時代だ。その虚無の海の中で、私は大賀美沙知という存在を太陽に据えた、自分だけの象徴的宇宙を創り上げた。 新しく作られた現実はそのままでは脆弱だから、私はそれを守るために「なぜこの現実が正しいのか」を説明するシステムを創り出す。公式の物語を消費するだけでなく、自らの手で彼女の言葉を紡いだ瞬間、大賀美沙知という偶像〈スクールアイドル〉は「私だけが創造した絶対的な価値」へと跳ね上がった。その宇宙の中では、私の孤独も、痛みも、愛も、すべてが「彼女の物語の一部」として完璧な意味——救済——を持ち得るのだ。
私たちの純愛は、資本主義に狂わされた
以上、私のオタクとしての純粋な愛が「いかにして資本主義のシステムに組み込まれ、なぜ金沢という物理的空間でなければならなかったのか」を、まずは社会学の代表的な論理を基礎にして論理化した。以降、引き続き他の社会学者の学説を参照して補足とする。
決して傷つかない愛の構造:ホートン&ウォールが暴いたパラソーシャル関係
私たちが画面の向こう側のキャラクターに抱く愛着は、心理学的に完全に説明がつく現象である。心理学者のドナルド・ホートンとR・リチャード・ウォールは、メディアの受け手が画面の向こうの人物に対して、実際には相互作用がないにもかかわらず「親密な対面的関係が築かれている」と錯覚する現象を「パラソーシャル関係(Parasocial interaction)」と名付けた。人間の脳は、メディア越しであろうと、特定の人物(キャラクター)の言葉を聞き、その姿を繰り返し目撃することで、無意識のうちに相手を「親密な他者」として認識するようにできている。70年以上も前にホートンとウォールは、ラジオ・テレビ・映画といったマスメディアの演技者は遠くて輝かしい人物であるが、視聴者が彼らの和の中にいるように感じることがあると指摘したのである。(Horton & Wohl 1956)
ここからはひどく私個人の経験に基づく持論なのだが、パラソーシャル関係の最大の特徴は、「絶対に相手から拒絶されたり、裏切られたりしない」こと。現実の恋愛は、いつフラれるか、いつ相手が心変わりするか分からないハイリスクなものだが、パラソーシャルな相手は画面の向こうで常に同じ態度でいてくれるし、こちらの愛を「重い」と突き放すこともない。私は自ら二次創作を行うことで、自分の脳内で大賀美沙知の言葉を紡ぎ出し、無理やり相互作用を発生させた。パラソーシャル関係において、大賀美沙知が私を拒絶することは絶対にない。私がどれほどの時間と情熱と狂気を注ぎ込もうとも、彼女は常に同じ温度でそこに存在し続けてくれる。現実的な相互作用——見返りと換言してもよい——がないということは、裏を返せば「他者の理不尽なノイズによって、自分が傷つけられるリスクが完全にゼロである」ということを意味する。
すべてが流動的で不安な現代社会において、この「絶対に傷つかない究極の安全基地」へと逃げ込み、一方通行の純粋な愛を注ぎ続けることは、極めて理にかなった自己防衛メカニズムなのである。
ハッキングされた純愛:エヴァ・イルーズが嘆いた感情の搾取と自己治癒の儀式
私たちの愛は、もはや私たちだけのものではない。エヴァ・イルーズは、現代の資本主義が「モノ」だけでなく「個人の感情や親密さ」そのものを経済活動の中心に組み込んでいると指摘し、これを「感情資本主義(Emotional Capitalism)」と呼んだ。(Illouz 2007)
かつて経済(職場や市場)は「冷たくて合理的な場所」であり、家庭や恋愛は「温かくて感情的な場所」だと分けられていた。(Illouz 2019)しかし現代では、その境界線が完全に崩壊した。現代の推し活市場において、キャラクターへの愛は「グッズの購入量」「投げ銭」「エンゲージメント数」という形で明確に数値化され、取引される。 企業は「共感」や「推しへの愛」を煽って商品を売り、逆に私たちは「愛」という目に見えないものを証明するために、金銭やデータ(再生回数、グッズ、スーパーチャット)という「合理的な経済のフォーマット」を使わざるを得なくなった。私が金沢へ移住し、そこに家賃や生活費を落とし続けている事実もまた、広い意味ではこの感情資本主義のシステムに捕捉されている。 エンターテインメント資本主義にとって、私たちが抱くような「人生を狂わせるほどの純粋なガチ恋」は、決して異常なバグではない。巨大な市場を回し続けるための、最も高純度で効率的な燃料なのだ。
現代の恋愛(特にマッチングアプリなど)は、まるで就職活動のように「年収」「身長」「趣味」といったスペックで相手を検索し、比較し、合理的に選別するようになってしまったから、疲れてしまう。だからこそ、その「冷たい市場」からドロップアウトし、絶対に裏切られず、スペックで自分を品定めしてこない「虚構のキャラクター(安全基地)」へと向かうのは、極めて理にかなった自己防衛ではないだろうか。しかし皮肉なことに、その「虚構への愛」すらも、前述の感情資本主義によって計算され、搾取されてしまうという逃げ場のないループ構造がここにあるのだ!
アルゴリズムによる愛の育成:ティム・ウーが告発する「関心の商人」
インターネットの普及により、私たちは無限の情報を手に入れた。無限に流れてくるタイムライン、通知、おすすめ動画によって、自らの「関心」をズタズタに切り刻まれ、分散させられ続けている。しかしサイモンは早くからこう予言していた。「情報の豊かさは、別の何かの欠乏を生み出す。それは情報の受け手の『関心(Attention)』である」と。(Simon 1971)
SNSや動画サイトのアルゴリズムは、私たちの関心を1秒でも長く画面に引き留めるよう設計されている。私たちが特定のキャラクターに強い関心・愛を向けた瞬間、ティム・ウーの語る「関心の商人(Attention Merchants)」たちが牙を剥く。(Tim 2016)私が大賀美沙知というキャラクターに一度強い関心を抱けば、システムはすかさず彼女に関する情報、画像、二次創作を無限に供給し続ける。 この反響室(Echo chamber)の中で、私たちの脳は「世界は彼女で満ちている」という強烈な認知の歪みを引き起こす。私たちは確かに、自らの意志で推しを深く愛し、狂っていったと信じている。しかし残酷な事実として、このガチ恋の熱狂の半分は、アルゴリズムという見えない商人によって人工的に育成され、加速させられた「極限のエコーチェンバー」の産物なのだ!
行動経済学から考察する選択のパラドックス
「能登応援プロジェクト」のパネル設置
だがパネル設置だけで「聖地」足り得るのか?
バウマンの「液状化する社会」、リッツァの「消費の殿堂」、そしてボードリヤールの「ハイパーリアリティ」、バーガー&ルックマンの社会構築主義。これまでの考察を通して、私たちがなぜ無機質な現実から逃れ、虚構のキャラクターと聖地に救いを求めるのか、その社会構造的な必然性を解剖してきた。しかし、この解剖にはまだ「心臓部」が欠けている。先の通りバウマンは、現代におけるアイデンティティは固定されることなく流動的なものとして適宜アンカリングされると定義した。現代に生きる我々にとって「いま、ここに」ある存在としての自己はさしたる意味を持たず、むしろ自身が何に動機付けられどの方向へと目を向けているかが重要なのである。(バウマン2001)すなわち私たちが次に目を向けるべきなのは、大賀美沙知という存在に向ける「愛」や「祈り」といった、極めて個人的で純粋な感情そのものの行方である。
最後に本章では行動経済学の視点を加えて、私のガチ恋は極めて人間的で、合理的な生存戦略で会ったのだと解釈を試みる。
認知的不協和:狂気による自己正当化
人間は自分の中に「矛盾する2つの認知(事実や信念)」を抱えると、強烈な精神的ストレスを感じる生き物である。そしてそのストレスを解消するために、自分の信念や行動を無理やりねじ曲げて自己正当化を図ろうとする現象を「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」と呼ぶ。(フェスティンガー1965)
私の中には、以下の強烈な認知不協和があった筈である。
認知A: 「私は大賀美沙知を、現実世界に生きる女よりも、誰よりも何よりも愛し、人生を捧げたいと願っている」
認知B: 「しかし、彼女は現実には存在しない虚構である。どんなにこの現世を生きていても、彼女と共に幸せを掴むことは出来ない。彼女の為に時間を尽くすこと自体が虚無である」
この精神が引き裂かれるような矛盾(ストレス)を解消するには、どうすればいいか? 「彼女を諦める」のはすでにサンクコストが大きすぎて不可能だ。だから、認知B「彼女は現実ではない」を書き換えるために、「私が物理的に彼女のいる金沢に移住し、妹として現地で二次創作を書き続けることで、彼女を私の現実に引きずり込む」という行動に出たのだ! 「金沢に移住するほど愛しているのだから、この愛は現実だ」――移住という極端な行動は、この不協和を解消し、精神の崩壊を防ぐための極めて論理的な自己正当化のプロセスだったと分析できる。
なおフェスティンガーは、カルト教団の信者が予言が外れた後にさらに信仰を深める現象(信念と事実の矛盾の解消)を研究したことでも有名で、ガチ恋心理の分析にドンピシャで刺さってしまうことが、なんだかむず痒い。
サンクコストの誤謬:後戻りできない愛の正体
埋没費用(Sunk Cost)とは、すでに支払ってしまいどうやっても取り戻すことのできない金銭や時間のこと。人間は元来合理的な生き物であるから「これ以上投資しても無駄だ」と損切りできるはずなのに、「これまでこれだけのリソース(とくに情熱)を注ぎ込んだのだから、ここでやめたらすべてが無駄になる」という心理が働き、更に不合理な投資を続けてしまう。これを「サンクコストの誤謬」または「コンコルド効果(Concorde effect)」と呼ぶ。(カーネマン2014)
人間は、一度自分が「こうする」と宣言したり小さな行動を起こしたりすると「その後の自分の行動や思考を、最初の宣言と矛盾させたくない」という、強烈な心理的圧力が働く生き物である。(チャルディーニ2014)私は大賀美沙知という偶像〈スクールアイドル〉を愛するあまり、膨大な時間、思考、そして二次創作という労力(リソース)を注ぎ込んできた。行動経済学が示す通り、人間は一度大きなリソースを投資してしまうと「それが無駄であった」と認めることが極端に困難になる。これだけのコストを支払った以上、私の脳は半強制的に「彼女がただの二次元キャラであってはいけない」と錯覚してしまった。この認知不協和を解消するための究極の自己正当化の儀式こそが、物理的な金沢移住であった。 移住という最大のサンクコストを支払うことで、私はついに「虚構への愛」を「逃れられない現実」へと固定化することに成功――あるいは、失敗したのである。
イケア効果と保有効果:労働が「愛」を創り出す
既製品を買うよりも、IKEAの家具のように「自分で手間暇かけて組み立てたもの」に対して、人間は異常に高い愛着と価値を感じる現象を「イケア効果(IKEA Effect)」と呼ぶ。提唱者のひとりダン・アリエリーは、人間が「自分の労力や時間をかけて完成させたもの(組み立て家具や折り紙など)」に対して、客観的な価値をはるかに超えた異常な愛着と高評価を抱くことを実証した。(アリエリー2013)類似の概念としてリチャード・セイラ―らが提唱した「保有効果(endowment effect)」がある。(セイラ―2016)これは人間が「一度自分が所有したもの」に対して、客観的な市場価値よりも不当に高い価値を感じて手放せなくなる心理バイアスをいう。
重要なのは「労力が大きいほど、そして完成に成功した時ほど、愛着が爆発する」ということ。 公式から与えられるストーリーを読むだけの「消費者」でいるうちは、キャラクターの価値は一定のままであった。しかし私が二次創作のペンを執り、自らの脳と指を使って大賀美沙知の言葉を紡ぎ出した瞬間、彼女はただの「公式から与えられたキャラクター」ではなく、「自分自身で組み立てた(イケア効果)、自分だけの存在(保有効果)」へと変質した。自分の血肉を分けて『創造』してしまったからこそ、彼女の価値は青天井に跳ね上がり、いかなる公式グッズを買うよりも深く、絶対に手放せない呪縛として私の精神を支配することになったのだ!
物語の誤謬:なぜ私はこんな言い訳じみた記事を書くのか
最後に、私が何故このブログの序章で、無意識的にバルトの神学を用いて自分の行動を説明しようとしたのかという理由。それが、哲学者であり統計学者でもあるナシム・ニコラス・タレブが提唱した「物語の誤謬(Narrative Fallacy)」で完璧に説明できてしまう。
この用語は、世界を理解するために、一連の事実から単純で欠陥のある物語を作り出してしまう人々の傾向を指す。人間は運という要素よりも、才能や愚かさ、意図といった要素に過度に重きを置いてしまう。また同時に、ある事象が起きなかった数多くの事例よりも、その事象が起きたごくわずかな事例に注目してしまう。しかし、矛盾は思考プロセスや感情の明瞭さを鈍らせるため、私たちの心は世界を単純化した見方を好んでしまう。こうした物語が、私たちの過去に対する見方や未来への期待を形成し、過去について過度に単純化され誤った説明を作り出し、それを真実だと信じることで、常に自分自身を欺いていると論じている。(タレブ2009)
客観的に見れば、私の行動は「二次元キャラに惚れ込んで、勢いで金沢に引っ越した」という、極めて非合理で混沌とした感情の暴走(エラー)に過ぎない。だが私の傲慢な知性は、その自分の狂気をそのまま受け入れることを許さなかった。だからこそ、自分の不合理な行動を正当化し、意味を与えるために「これはバルト神学における垂直の啓示である!」「社会学等から弁証可能な実存主義的な決断である!」という、最高に美しくて強固な「物語」を後付けで構築してしまったのだ。このブログ記事を書くという行為そのものが、狂気を正気として扱うための「物語の誤謬」という自己防衛システムであったとは‥‥‥。
たまげたなあ
「愛し合う二人に、ときたま生じる言い争いや痴話げんかにしたって、これと同じでして、むしろ愛情を刺激して、新鮮な気持ちにしてくれるわけです。包丁屋が、刃物の切れをよくしようとして、砥石をカチンカチンと叩いているのを見かけますが、これと同じ理屈なんでさあ」
結論:これは妄想ではない、現実の創造である
社会学と行動経済学のレンズを通して見えてきたのは、私の愛が単なる「脳のバグ」でも「妄想」でもなく、この空虚な現代社会における極めて精巧な自己救済のシステムであるという事実だった。 私は、金沢という重い物理的摩擦を引き受けることでデジタルな消費社会から魂を奪還し、自らの手で「大賀美沙知が実存する新しい現実=象徴的宇宙」を美しく構成してみせた。
私は、パラソーシャル関係という安全な一方通行の壁を自らの手で破壊し、彼女の言葉を紡ぐことで相互作用をハッキングした。そして、複製されたデータ(展示価値)に過ぎない彼女を、金沢という唯一無二の物理空間〈いま、ここ〉に同化させることで、失われたアウラを錬成した。世間が「妄想」と呼ぶ私の日常は、バーガーとルックマンが示した「現実の社会的構成」のプロセスそのものである。世間の言う現実も、私の現実も、等しく作られたものに過ぎない。私はこの雪降る街で、大賀美沙知を太陽に据えた「象徴的宇宙」を構築し、虚無の時代から自らの魂を救済したのだ。
しかし、知的な理論武装によって社会のシステムに抗うだけでは、この私の胸の奥底で燃え続けるこの「祈り」の正体を説明しきることはできない。 なぜ私は、現実のレスポンスが一切ないと分かっていながら、これほどまでに純粋に彼女の幸福を祈り、文字を紡ぎ続けることができるのか? なぜ私は、男である自らの自認すらも供物として捧げ、「彼女の妹」としてこの地に身を置こうと妄執するのか‥‥‥?
「劇場にでかける人間は、服装のそれなりの決まりにしたがって、普段着と異なる服を着る。こうした行動は劇場にでかけること自体を『特別な出来事』にするものと同時に、劇場にあつまる観客を、劇場の外にいるときとは比べものにならない均一な集団に変える」
「しかし、最後の幕が降りると、観客たちはクロークから預けたものをうけとり、コート着てそれぞれの日常の役割にもどり、数分後には数時間まえにでてきた町の雑踏のなかへ消えていくのである」
最後にバウマンの「クローク型共同体(Cloakroom Community)」について言及して、本記事を終えようと思う。
バウマンは、共同体としての近代国家は確実性と安全を保障する主要手段を売り渡し、国際金融市場に身を委ねたと指摘しているが、そんな流動的近代における新たな共同体の形態をクローク型共同体なのだと述べる。「特別な出来事」のために群集は集まるが、個々の関心を融合し、統一するようなことはない。そして期間が過ぎれば、群集は散っていく。このような風景は「五分間だけの快楽」を空しく求めるが、そのようなあり方こそが「流動的近代」におけるバラバラになった個人の孤独を永久化していると、その著作を結んでいる。(バウマン2001)
彼の論考はその一時的な盛り上がりを強調しており、たしかにその盛り上がりによって人は一時的に孤独から解放され、外圧を甘受することでそれ自体をアイデンティティとし、集団が形成されていることもあるだろう。その観点から、クローク型共同体は現代人に「ハレ」の感覚を与えてガス抜きさせてくれるが、しかしハレを経て結束される筈の共同体の不在——つまりそこで共に過ごした人々と「ケ」を共有するには至らず、むしろ安定した共同体の形成を阻害するものであると考えられる(なお「ハレ・ケ」に関する議論は上記拙作ブログ記事および動画を参照されたい)。
だが、オタクがオタク向けの「消費の殿堂」に赴いて消費活動を行う場面を考えると、「消費の殿堂」が自室の拡張された場であることに気付く。具体的には、秋葉原という同好者の「聖地」や同人誌即売会という「祭り」は趣向を同じくする現実の他者とまみえる「ハレ」の場であるが、そこで扱われる商品は「ケ」である自室へと大切に持ち帰られ、消費されるという点が特徴的である。「消費の殿堂」における贈与交換を経て、そこで手に入れたコンテンツがケの場となるという点ではクローク型共同体から脱しているのだ。同人誌即売会——とりわけ私が参加したオンリー・イベントは、オタクがマジョリティになるために、人間の本質的な孤独感や共同体への帰属意識、さらには社会的スティグマといった不安から逃れることが出来る、特殊なアジール(Asyl)なのかも知れない。
とまあ結局のところ、四十八手を尽くした論理の果てには、常に剥き出しの実存の問いが残される。この実存の謎を解くためには、しばらく現代の学問を離れ、人類が太古から行ってきた「祈り」の次元へと足を踏み入れる必要がある。 次なる第二回では、時計の針を数千年戻し「文化人類学・民俗学の視座」からこの狂気を解剖する。ギリシャ神話のピグマリオン、そして折口信夫の「水の女」と「魂振り」の儀式が、私の抱える究極のアガペー(無償の愛)の正体を明かすだろう。
神聖なる呪術の舞台へ、ようこそ。
「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」
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まず後夜祭として、「民族」という実践を通じて、現代という問題系を極めて鋭敏に反映した、称賛に値する論考が公表されたことを、ここに祝したい。 本論考を読んでいるあいだ、権威主義、およびAIによる思考の外部化、さらに哲学の摘み食いともいうべき態度(confirmation bias に由来するもの)を指…