南都七大寺 お正月吉祥天巡り ─ 薬師寺・興福寺 平成31年1月2日 ─ | タクヤNote

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吉祥天とはヒンドゥー教の女神『ラクシュミー』が仏教に取り入れられたもので、上代の寺院では吉祥悔過法要として正月の法要の本尊とされたことに始まり、幸福や美をもたらすおめでたい福神ということも加わり、祀られている寺社では正月に開帳されることが多いのです。
南都七大寺の一つ興福寺の中金堂が昨秋に落慶されたので昨年10月27日に行きまして、そのことをタクヤNoteの12月6日の記事16日の記事に前後編として書きました。そしてその時に、そこで国宝館から厨子入り吉祥天倚像が移されたものの、1月1日~7日の間以外は公開されずお厨子は閉められていると聞いたのです。
「それなら開帳されているお正月にもう一度拝観に来よう」と思い、今年1月2日に再び興福寺へ。そして同じ日に前からお正月期間に秘宝の吉祥天像が公開される西ノ京の薬師寺と合わせて“南都七大寺 お正月吉祥天巡り”をやって来ました。今回はその1月2日のレポを記事に書きたいと思います。
 
まず最初に訪れたのは西ノ京の薬師寺。調べてみると小生が薬師寺を参拝するのは平成27年3日3日以来と4年ぶりとなります。前回は東大寺二月堂修二会(お水取り)のお松明のために奈良に来ていたようで、薬師寺には梅を見に訪れていたようですが、そのことはこのブログには上げていなかったようです。それから4年ぶりの薬師寺となりました。
 
薬師寺に到着したのは午前11時半ごろ。拝観受付の所に大きな年末年始行事を紹介する看板が立てられていて、そこには吉祥天公開の案内も書かれていました。
 
 
吉祥天像が公開されているのは白鳳伽藍の中央を成す金堂です。近年に再建された真新しいお堂というイメージがありましたが、昭和51年に落慶してから早や40年。近寄ってじっくり見ると真新しかった青丹の柱や連子窓もずいぶん古びていて、既に再建白鳳伽藍も長い歴史の一部に刻まれつつあるのかと、少し淋しい気持ちになったりしました。
 
 
さて、吉祥天画像はどこにあるかと言うと、白鳳期の本尊、薬師三尊如来の真正面。本尊を隠すように、厨子に入れられて置いてありました。吉祥天画像が納められている厨子は三井財閥を支えた実業家で「千利休以来の茶人」と讃えられた、数寄者でも知られる文化人・益田孝氏が大正9(1920)年に寄贈されたもの。小生も金堂の堂内に入り、吉祥天画像に礼拝です。
 
 
吉祥天画像が金堂で公開されるのは1月1日~15日までですが、その内 国宝の本物の吉祥天が公開されるのは1~3日の三が日だけ。残りは平成27(2015)年に鎌倉女子大学講師の日本画家 大河原典子氏が、原画を忠実に再現した『平成の吉祥天』がお前立として公開されます。
 
平成の吉祥天(大河原典子筆) 画像引用:http://artscape.jp/study/art-achive/10001813_1983.html 
 
「真新しい平成の吉祥天も見たかった」という気もあったのですが、小生が参拝をした1月2日に公開されていたのは国宝の本物でありました。
高さ53.0センチメートル、幅31.7センチメートル。見学者の中には「こんなに小さいの?」という声が多数ありましたが、丈六の薬師如来の前に置かれているから、比較で小さく見えたのでしょう。
文化庁による国宝指定名称は『麻布著色吉祥天像』。明治時代以前までは薬師寺の鎮守・休ヶ岡八幡宮に秘宝として伝えられ、現在も薬師寺で受け継がれている法要『修正会吉祥悔過会』が宝亀2(771)年に始められた時の本尊として作成された当初のオリジナル、1,250年もの昔のものと考えられています。
 
吉祥天画像[奈良時代・国宝]  画像引用:薬師寺HP 
 
頭の周りに光背となる輪が描かれていることから仏画であることがわかりますが、全体的に仏画というより美麗な女性画という印象を与える絵です。豊満な面立ち、太い眉や分厚い唇など、盛唐文化が色濃い作風となっています。正倉院宝物と並ぶ日本美術史を語る上での貴重な作品となっています。
 
吉祥天画像(部分) 画像引用:薬師寺大宝蔵殿 薬師寺の文化財保護展パンフレットより(平成23年)
 
小生が吉祥天画像を前にしての感想ですが、お厨子に納められているのは良いのですが、金堂の中は開けられた正面の扉から入って来る太陽光が主な採光だったので、お厨子にはめられたガラスに陽光が反射して、吉祥天が非常に見づらかったです。その時はナングレア(無反射)ガラスに入れ変えた方が良いのではと思いました。
見づらいのも問題ですが、いくら短期間とは言え退色劣化しやすい古代の図画を太陽の光に晒するのは避けた方が良いのではないか。直接太陽の光に当たらないような公開方法を取った方が良いのではと思いました。

 
吉祥天画像厨子 画像引用:薬師寺大宝蔵殿 薬師寺の文化財保護展パンフレットより(平成23年)
 
吉祥天画像の公開期間は吉祥天の御朱印が戴けると聞いていたのですが、こちらが迂闊だったのかも知れませんが、いずこで戴けるかちょっと解らず、結局この日は御朱印を戴かずに帰りました。やもうえず他のもらった方がSNSにアップした御朱印の画像を紹介します。
 
薬師寺 吉祥天 御朱印 画像引用:http://emadoujou.blog.fc2.com/blog-entry-170.html 
 
薬師寺には約1時間半、午前11時過ぎまでいまして、薬師寺を後にして次の吉祥天巡りである興福寺に到着したのは、約30分後午前11時半でした。
興福寺に到着した小生は、落慶直後にはお厨子の扉が閉ざされていた吉祥天像の御開帳を拝みに、約二か月ぶりの中金堂へ。拝観料を払って前庭に入りました。さすがお正月の三が日ということなのでしょうか、中金堂の前は二か月前とは明らかに様子が違ってました。参拝が順番待ちになっていて、列に並ぶ人が中央参道まではみ出していたのです。結局入堂までは10分近く待つことになりました。
 
 
落慶がJRでポスターなどで広告を見ることが多かったこともあって、新しいお堂に興味を持たれた参拝者が初詣に選ばれたのかと思われますが、東金堂や国宝館と違って仏像の数も多くない中金堂にこんなに人がとびっくりしたのでした。
小生は初詣というより、純粋に吉祥天像のみをお目当てでの参拝でありました。吉祥天像は内陣の東側(向かって右)、ご本尊の釈迦三尊と四天王の多聞天・持国天の間のスペースの、お厨子が閉ざされていた時と同じ場所。薬師寺のように吉祥天悔過のために場所が移動されるようなことはありませんでした。
 
 
厨子入り吉祥天倚像[南北朝時代・重文]は像高64.3センチメートルと中金堂の中では最も小さな像。倚像の名の通り、台座に腰掛けた姿をしています。高さ102センチメートルの厨子の内部は、極彩色の吉祥天曼荼羅図で埋め尽くされています。吉祥天像も厨子絵も、秘仏として扱われて来たことが幸いしたのか、彩色も銅製鍍金の微細な装身具も当初の状態をほぼ損傷せず維持されています。
台座裏に書かれた墨書銘によると、当初の名称は『興福寺金堂御本尊吉祥天女』。暦応3(1340)年五月晦日に唐招提寺長老の慶円によって御衣木加持と開眼供養が営まれ、翌六月朔日に興福寺に施入されました。
 

木造厨子入り木造吉祥天倚像[鎌倉時代・重文] (仮金堂)
画像引用:『興福寺国宝展』(2005年大阪市立美術館)図録

 

像の作者は奈良・椿井仏所に属する大仏師 寛慶。この寛慶なる仏師、三重・万寿寺の地蔵菩薩坐像などの作者としても知られますが、作風として顔も体も丸~い像を作られるのです。元々日本彫刻は人の顔をふくよかにしますが、寛慶の場合はそれが著しく、万寿寺の地蔵菩薩でも本当に真~ん丸さが際立っているのです。

 

三重・万寿寺 木造地蔵菩薩坐像(寛慶作)[南北朝時代・重文] 画像引用:https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_3055.html  
 
そのためにこの可哀そうな吉祥天は、面立ちの細く容姿端麗の誉れ名高い浄瑠璃寺の吉祥天立像と比較されて「デブ」「ブス」なんて誹りを受けることが多いのです。そんな評判を聞いておそるおそるの参拝となりましたが、小生の私的な印象の話になりますが、結構興福寺の吉祥天女もイイ女だと思いましたよ。

 

木造吉祥天倚像(部分)[鎌倉時代・重文]
画像引用:『興福寺国宝展』(2005年大阪市立美術館)図録
 
吉祥天像も700年の歴年を感じさせない状態の良さですが、厨子の方も同様の彩色に目を奪われます。

厨子は春日厨子で、厨子絵は当代を代表すると言われる南都絵所絵仏師・命尊の手によるもの。陀羅尼集経に基づき、扉には梵天と帝釈天の脇侍、吉祥天像の後ろとなる奥板には七宝山や白象などが描かれています。

 

厨子 奥板 画像引用:『興福寺国宝展』(2005年大阪市立美術館)図録

 

この像とはたぶん初対面では無いと思うのですが、実を言うとよく覚えていないのです。これまで吉祥天像を置いていた国宝館へも何度も行ってますし、興福寺をテーマにした展覧会を過去に博物館で観て、図録をひも解くとこの吉祥天像が載っていたので、間違いなく拝ませていただいたことがあったはず。ただ、興福寺には教科書に載るような天平時代や鎌倉時代の国宝が数多あり、いつもそちらの方に気を取られてしまい吉祥天像を見たかどうか記憶に残っていないのです。

700年前の彩色がこれだけ鮮やかに残っている吉祥天ですから、もっともっと注目しなくてはいけなかったのでしょうが、ある意味中金堂に移されたことによって、その存在感が増した。価値が見いだされた像であると言えると思います

 

新中金堂落慶で何故この像が選ばれて安置されたのか。同じ法相宗の薬師寺と対比すれば出て来るのは『修正会吉祥悔過会』であります。悔過会とは上代、国家が仏に罪や罪悪を懺い改め国家安泰に祈るという法要で、二月に営まれるのが修二会で東大寺のお水取りが有名。それに対して一年の始まりである正月に一年の国家安寧と繁栄を願うのが修正会であります。奈良時代の官寺であった南都七大寺では、薬師寺の他、東大寺と法隆寺では現在も毎年修正会が営まれています。

修正会はその本尊によって「薬師悔過」「釈迦悔過」など呼び名が変わり、中でも吉祥悔過は薬師寺の他、東大寺(現在の東大寺修正会の本尊は廬舎那大仏)で営まれていました。

かつて営まれていたであろう興福寺の修正会は、中金堂も失われて現在は途絶えています。国家鎮護の大寺である興福寺にとって修正会は非常に重要な行事であるはずで、さらに吉祥天像を中金堂に招きお正月に開帳されるとあれば、いやでも修正会吉祥悔過会の復興を期待してしまいます。

興福寺のホームページを見る限りでは、このブログをアップした時点では中金堂において特別な法要などの年中行事の予定されていないよう。将来新しい中金堂でどのような宗教行事が行われるのか。それはこれからの興福寺がどのような仏教寺院になるのかということであり、とても注目をしてしまいます。

 

最後に紹介するのは新兵器のフィッシュアイレンズを使っての、興福寺の全景の撮影です。吉祥天を拝観した1月2日に撮影をしました。左から南円堂、北円堂、中金堂、国宝館(食堂)、東金堂、五重塔となっています。

 

 

南大門跡の基壇の一番端に立って、やっとすべてのお堂がワンショットで写せました。実は昨年10月27日の新中金堂初参拝の時から撮影しようと思っていたのですが、その時は正倉院展も周ったこともありバタバタして撮影が出来ず、年が明けてようやくこのショットを撮ることが出来ました。

これも中金堂が興福寺の中心にあっての構図。中金堂が落慶したことで、扇の要のように興福寺の中央で全体を締まっているというのがよくわかる写真となりました。

 

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