改革を急ぎすぎた“鬼平”の最後 藤田監督

転載元:産経新聞『阪神タイガース事件史』

平成8年(1996年)9月。兵庫県西宮市に激しい雨が降った。
かれこれ3時間が過ぎようとしていた。
ずっと、ある家の玄関を見張っていた。
「待つのも記者の仕事」と教えられたが、手がかじかんで来たのを覚えている。

駆け出しのころ、くぐった思い出がある玄関。
先輩記者の命令で、写真を借りに来た。
大選手の家の応接間で緊張して座っていた記憶が蘇った。
藤田平邸。私が記者として初めて入ったプロ野球選手の家だった。
それから、15年が過ぎた。
前代未聞の事件が発生し、その理由を聞きに、家の前で待っていたのだ。
15年前と違って、全く応答がない。
 
前年に中村勝広監督代理を務め、この年から指揮官となった藤田監督は当時の三好一彦球団社長から大きな信頼を得ていた。
阪神球団の生え抜きで初の2000本安打達成者。
ファンの期待も大きかった。
 
思い出の藤田邸…新庄とも妥協せぬ“野球職人”の素顔
しかし、信念を曲げない頑固さがあった。ニックネームは、池波正太郎氏の人気時代小説「鬼平犯科帳」の主人公で火付盗賊改方長官として辣腕を振るった長谷川平蔵から取った「鬼平」。
外国人選手や人気者の新庄剛志とも妥協せず、自分の考えを通した。
そのため、誤解されることも多かった。
選手とのコミュニケーションは言葉足らずだったのだろう。
まさに職人かたぎだった。
 
現役時代は、田淵幸一や江夏豊など個性の強い派手な選手の中では、無口でおとなしい部類だった。
負けると何もしゃべらなくなる主力選手もいたが、どんな状態でも記者の質問に、ぼそり、ぼそりと言葉数こそ少ないが、拒否することはなかったように思う。

個人的なことだが、自宅をお邪魔したあと、甲子園球場で会ったときに「よっ」と、笑顔で声をかけてもらった。
トップスターの一言が新人記者にはうれしかった。
やさしい印象しかない。
阪神担当となった1年目が藤田監督というのも個人的には何かの縁かなと思った。
長いつきあいになると思ったものだった。
 

覆された続投宣言
ところが、8月28日にそんな予感を吹き飛ばす事件が起こった。
チームは最下位争いをしていた。
そんなときに、藤田監督が「オーナーの留任要請があったのか」との報道陣の質問に、はっきりと肯定した答えを口にした。
久万俊二郎とオールスター期間中に話し合ったというのだ。
三好球団社長には寝耳に水だった。
「オーナー発言? 私、知りません。そんな話し合いがあったのも、知りません。その場所におらんかったし、知らんわ」
最後は言葉が乱れ、動転しているのがわかった。
頭越しの出来事に、プライドが傷つけられたようだ。
そして、すぐに、完全否定した。
藤田監督の「続投宣言」は簡単に覆された。
このころ、阪神の久万オーナー取材は本人の意志か、誰かのアドバイスなのか、すべてFAXでのやり取りになっていた。
「誠心誠意、お答えしています」と担当者は言っていたが、中身のない回答も多かった。
この件の回答もすぐには出てこなかった。
翌29日、久万オーナーと三好球団社長の緊急会談が行われた。
久万オーナーは「私から辞めろということは、絶対ありません」と言ったようだ。
それを藤田監督は続投要請と解釈した。
三好球団社長は「オールスター期間に会ったのは、激励するつもりで言った言葉。オーナーはこの時期に進退問題に触れることはない。他人の意見を聞かずに勝手に決めることもない」と話した。
 
コミュニケーション不足が…
ところが、なぜか藤田監督は強気だった。
翌年の春季キャンプの宿舎が現状のままでいいかどうか、選手に尋ねた。
阪神の1軍宿舎は高知県安芸市内のビジネスホテル。
2軍は高知市寄りのリゾートホテル。
藤田監督は1軍がいいホテルに止まるのが当たり前だと考えた。
球団とキャンプ地の安芸市は長いつきあいがあり、そう簡単に変えられるものではない。
この独断的行為でフロントと完全に対立した。
留任か、解任か。球団内部ももめていた。
チームに帯同していた球団幹部は「私が監督の話を聞く。私なら話しやすいだろう」と、歩み寄る姿勢を示した。
藤田監督が批判したスカウト部門の編成部長は「1年契約で、それで終わりと言われれば仕方がない。私も同じ立場です」と厳しかった。
三好球団社長が重視する2人の意見が分かれた。
 
9月3日、大阪市福島区の阪神電鉄本社で緊急球団役員会が開かれた。
チームは広島へ遠征していたが、久万オーナー、手塚昌利電鉄社長、三好球団社長らが集まった。
4時間の会議。
三好球団社長は「皆さんの関心を持っておられることの検討に入りました」と藤田監督の解任をにおわせた。
5日の新聞は次期監督の話題でいっぱいだった。
自らの信念で愚直に阪神を強くすることだけを考え、実行に移そうとした藤田監督。
就任のときは蜜月関係だった三好球団社長と、その後もしっかりとコミュニケーションを図っていれば、任期も1年では終わらなかっただろう。

前代未聞の解任拒否
もっとも、これで終わらないのが当時の阪神。
6日に藤田監督に解雇を通告。
それから6日後の12日、甲子園球場で、三好球団社長と藤田監督の最後の会談が行われた。
球団広報からは「午後6時から記者会見をします」との発表があった。
藤田監督とともに、この日の主役の三好球団社長は電鉄本社での本社役員会に出席し、その後球団役員会を行い、解任が正式に決まった。
甲子園球場の球団事務所は報道陣でいっぱいだった。
阪神の球団事務所のプレスルームは決して狭くはない。
それが、まるでラッシュアワーのような混雑ぶりとなった。
テレビカメラも所狭しと並んだ。
夕方のニュース番組に間に合わせるため、中継車を出したテレビ局もあった。
球団としては、こんなみっともないゴタゴタは早く収束させ、次の監督人事に移りたいと考えていただろう。
お決まりの「お家騒動」に終止符を打ち、新監督探しへ進む手はずは整っていた。
ところが、三好球団社長から「解雇です」と通告された藤田監督が「断る」と拒否。前代未聞の事態だった。
この藤田監督の「断る」の一言で計9時間15分にわたる「解雇」「いやだ」の押し問答が繰り広げられた。
当初の予定を約2時間過ぎた午後8時4分、三好球団社長が「来季の契約はしないと藤田監督に伝えました」と会見。
しかしまだ、途中経過だった。
 
日にちをまたいだ“籠城”
“籠城”は、まだまだ続いた。事務所は入り口の階段を上がって左右に分かれていた。
右側で交渉が行われ、プレスルームは左側。トイレは右側にある。
球団関係者の誰かがトイレに出て来ると、報道陣はぞろぞろと左から右へ移動。何度、繰り返したか定かではない。
そのうち、締め切り時間が迫ってきた。
本社で原稿を待っていた上司も「こんなんはじめてだ。どないなっとんねん」と焦り始めた。
返す言葉がなく、漏れ聞こえてきた情報を伝えるしかない。
「(藤田監督は)どうも、久万オーナーを呼べと言っているらしいです」と伝えると、上司からは「ほんまか。来くるわけないやろ」とあきれた言葉が返ってきた。
午後11時を過ぎたころには、甲子園球場の騒音にも慣れているはずの近隣の住民から、報道陣の車が邪魔だし、うるさいと苦情が入った。
スポーツ紙の記者は「最終版に間に合わないかも…」とざわつき始めた。
 
当時、スポーツ紙各社の阪神担当は1社あたり4人から5人いた。
午前0時を過ぎると一人一人と帰社していく。
大量の人数を動員していたテレビ局も最終のニュース番組の時間が終わると一気に減った。
結局、一般紙の締め切り時間にも間に合わなかった。
話し合いは深夜2時半になって一度水入り。
「阪神トラブル」「解任通告に異議あり」「藤田監督徹底抗戦」…。
翌日の朝刊紙面には、そんな文言が躍ったが、結末には触れられなかった。

いなくなったスター選手
しかし、翌日はあっけなかった。
久万オーナーと三好球団社長が協議し、三好球団社長と藤田監督が再度話し合うと、今度はわずか30分で決着。
三好球団社長は解任の理由を「チームの士気が思ったほど上がらず、今季も低迷が続き、ファンの期待に応えられなかった。思い切ってチームを一新して来季に望むには新監督でスタートを切る方がよいと判断した」と説明した。
では、任命責任はどうなのか。
今思えば、トカゲの尻尾切りにも思える。
三好球団社長と協力して強いチームを作る藤田監督の夢は破れた。
古い体質を打ち破り、若手を思い切って起用。
調子が悪い選手は実績に関係なく外した。
今までは1軍で調整させていた外国人選手も躊躇なく2軍に落とした。
グラウンドの改造にも着手した。
だが、急ぎすぎた感は否めず、フロントとの意思疎通を欠いた。
 
阪神は昭和40年代に選手として一時代を築いたスター選手の田淵、江夏に続き、切り札だった藤田監督まで球団からたたき出した。
 
私は、この藤田と、後藤次男、そして去年まで采配を…何と3年も執らせてもらってた真弓、この3人が虎の3バカ監督と思ってる。
そら金田正泰とか、中西太とかもヘボだったが取り柄もあった。
しかし、この3人に関しては、それもほぼ皆無。
この記事を書いた記者が、同情的に書いてるから、補足のつもりで書き足しときたいが、藤田に監督たる資質はゼロだった。
リーダーとしての引率力、
選手とのコミュニケーション、
若手を使う際の将来ビジョン、
チーム内のあらゆる部分でのバランス感覚に欠け、
さらに言うなら、マスコミへの対応も下手。
中村が途中解任された前年から監督に就いて半年、その時点で藤田の監督としての資質は劣悪とわかったはずなのに、惰性で監督を続けさせた。
 
私は中村が前年、シーズン途中で辞めたのは、久万オーナーの「スカタン」発言ではないと思ってる。
それは引き金にはなったろうが、辞める気になったのはシーズン前から、
フロントが、次期監督として藤田を2軍監督に据え置いたことへの反発、不信感。
 
暗黒タイガースの元凶は、ヘボ監督の品評会では見つからない。
三好球団社長(91年~98年)がアホやから、タイガースは暗黒から抜け出せなかった。