《思う》→《考える》→《哲学》?言葉の違いについて考えてみた。
「考えたい」と思った人が《哲学》にたどり着く。
《考える》とはどういうことだろう。
今回の議論は、そんなシンプルな出発点から始まった。
例えば私たちが同じ夕陽を見ているとする。夕陽を見て私は「美しい」と感じる。
これは感想であり、《考える》には満たない。《思う》あるいは《感じる》とも言い換えられるかもしれない。
《思う・感じる》という段階の感想から、私の思考は分岐し深まっていく。
私はこの夕日のどういう部分に惹かれたのだろう。
私はなぜこの夕陽を美しいと感じたのだろう。
同じ太陽であるのに、夕陽の見え方はなぜ昼間とは全く異なるのだろう。
今、同じ瞬間に同じ夕陽を見ている他人は、どのように感じているのだろう。
このように、「なぜだろう」と疑問を持ったり、自分の感想を他の人と比べたりするときに、《考える》に進化するのではないだろうか。
「夕日が美しい」
これは《思う・感じる》であり
「なぜ夕日を美しいと思うのだろう」
これが《考える》である。
《思う・感じる》という感想は、その一歩先で理由や背景に踏み込むことで《考える》になる。
本日の課題図書は
『14歳からの哲学 考えるための教科書』(池田晶子/2003)。
この本が指す「14歳」とは、年齢としての14歳ではなく、《考える》あるいは《哲学》という言葉に改めて対面してしまったあなたへ、という意味だろう。そんな私たちへ向けた、哲学のハードルを飛び越えるための導入の一冊である。
この日集まった私たち4人が、この本をもとに、《哲学する》とはなんなのかを考えてみた。哲学という言葉は、たぶん重くとらえられすぎている。
《考える》と《哲学》
《思う・感じる》と《考える》という二つの言葉について考察した私たちの議題は、次の段階へと進む。それは、《考える》と《哲学する》という二つの行為の違いについてである。
《考える》と《哲学する》という二つの言葉は、似ているようでやはり大きな違いがあるように感じる。
私はそこに、知識的なギャップがあると考える。
自分自身の考えと、先人たちが遺した「考え」(=知識)が重なったときに、はじめて「哲学」になるのではないか、というのが私の一つの意見である。
例えば私は「人生の意味とはなんなのだろう。」と《考える》。
楽しく生きていたい、好きな人の傍に居たい、たくさんの場所を訪れたい。
私はこのように、
「○○したい」から私の人生には意味がある、
と定義づけてみる。
結論から言えば、これは既に《哲学》である。答えのない問いについて深く考えている時、私たちは既に《哲学》している。
自らの意見に喝を入れるような形になるが、私たちはきっと哲学者たちの知見を重くとらえすぎているのだ。
《哲学》という言葉の語源はギリシャ語の「フィロソフィア」で、「知を愛し、真理を追及する姿勢」を意味するという。
私たちが自分の脳みそと持てる限りの言葉を使って《考え》ているとき、我々は《真理を追及している》といえるのではないだろうか。
《哲学》と《正しさ》
ここで私たちは、辞書の存在を考えてみる。
当たり前だが、言葉の意味を無視することはできない。
今回の私たちは、言葉を介して意見を交換してる以上、そこに一定の定義づけがされることには大きな意味がある。共通認識を持つことは、私たちの意思疎通をより単純にしてくれる。
その上で、私は辞書に縛られすぎてしまうことにはちょっとした不安を感じる。使い方によっては、《考える》から《哲学》への飛躍に、制限をかけてしまうのではないだろうか。
「自由に発想する」
これもまた、この本の一つのテーマである。
言葉の辞書的な意味に捕らわれず、《考える》ことができるから、人は自由で居られるのだ。
《哲学》≒《考える》
ではあるが、
辞書を引く=正しい
とは限らない。
辞書の上では一つの意味しか持たない「美しい」という言葉も、《哲学》という観点では人の数だけの意味を持つようになる。
これは言葉が持つ自由度であり、《哲学》≒《考える》がもつ無限性でもある。
言葉を意味だけで止めてしまっては、それは《哲学》ではない。
美しいを美しいで終わらせず、なぜ美しいのか。
それを美しいと感じた「私」とは何者なのか。
そこまで思考を展開していくことが《哲学》である。
「美しい」という言葉だけでなく、その言葉を用いた「私」自身の意味を構築するその過程こそが《哲学》なのだ。
言葉をどのように広げ、どう使い、どう展開するのか。その自由度の中にこそ、《哲学》は生きているのかもしれない。
1時間の議論が終盤に差し掛かるとき、《正解》という言葉が私たちを捕らえた。
《正解》という物差しは、本当に《正解》なのだろうか。
そもそも何を基準にした物差しなのか。
考えることで、必ずたどり着ける《正解》があるのだろうか。
時間の都合で私たちはこれ以上会話を深めることは出来なかったが、きっと各々が、今後も《考え》続けているに違いない。
哲学は特別なものではない。
今日は、日常的な行動としての《考える》という行為と、似ているようでちょっと違う《哲学》という言葉について考えてみた。
《哲学》は、特別なものではない。日常に溶け込んでいる《考える》という行為の前提を少し疑ってみたり、別の角度から眺めてみたりする。前に進むためというより、むしろ後ろを振り返って疑問を持ってみること。小さな疑問は、「地動説」のような大きな真理にたどり着くこともあるかもしれないし、そんなたいそれたことはできないかもしれない。だがそれでいい。
疑問を持って自らの思考に挑み続けること。これが《哲学》だ。
私はふと考えた。
「今日の会話には、何か意味があったのだろうか」
私は、ないと思う。意味はなかったと思うし、ただそれでもいいと思う。これはあくまでも個人的な思考として終わり、私の《哲学》は私だけのために存在すればよい。
ほぼ月1開催の『哲学部屋』に興味を持ったあなたは、ぜひシェア街の門を叩いてみてほしい。ぜひ私たちと一緒に《哲学》しよう。
執筆:やじまりいな
編集:しょうま


コメント