日活ロマンポルノ俳優Mが“右翼の大物”邸宅に小型機で特攻 ロッキード事件のさなかに起きた“衝撃事件”から50年
児玉誉士夫批判から“特攻”の決行へ
愛国を掲げる児玉が米企業と結びつき、政界工作の疑惑の渦中にあった――そのことは、前野にとって看過できないものだった。前野は児玉を「みっともない」と痛烈に批判した。それだけではない。「児玉の家に飛行機で突っ込んだら面白い」とも口にし、実際に児玉邸の下見にも行っていたという。仲間たちは冗談だと思っていた。だが、冗談ではなかった。 1976年3月23日朝、前野はついに計画を実行する。表向きは、撮影と訓練だった。前野は「特攻隊の映画をつくるのでスチール写真を撮りたい」と親しいフォトグラファーや美容師、同じ飛行クラブの操縦教官を調布飛行場に集めた。また、日活撮影所から借りた旧日本軍の特攻隊員風の制服も用意していた。 地上でその姿の撮影を終えると、8時50分ごろ、操縦教官が操縦する小型飛行機にフォトグラファーと美容師が乗り、前野は単発機「パイパーPA-28チェロキー」を操縦して飛び立った。上空での撮影を終えたあと、教官機は先に戻り、前野だけが訓練の名目で飛行を続けた。前野機は世田谷方面へ飛び、等々力上空を旋回した。 午前9時50分ごろ、機体は児玉邸へ急降下し、庭の立木をなぎ倒したあと、大きな音とともに玄関の屋根と2階の一部に激突して炎上した。児玉は別棟の2階にいたため無事だったが、前野は操縦席で黒こげになって死んでいた。 突入直前には、無線に「天皇陛下万歳」の声が響いたという。機体はバラバラになり、現場からは「七生」と書かれた白い布片も見つかった。中央に赤い丸を配し、「七生報国」と記された鉢巻の一部だった。 七生報国とは、「何度生まれ変わっても国に報いる」という意味を持つ言葉で、三島由紀夫も市ヶ谷事件の際に同じ4文字を鉢巻に記していた。前野がこの突入を、自らなりの“特攻”として位置づけていたのだろう。 事件後、前野が2月中旬に新潟県湯沢町のスキー場で大量の睡眠薬を摂取する自殺未遂を起こしていたことが報じられた。このとき前野は、「シナリオを書くために、死に直面した心境を確かめたかった」といった旨を説明していた。また、「死を恐れていない」「来世がある」といったことを周囲に話していたこともわかっている。前野が、死を強く意識した精神状態にあったことはうかがえる。