改めて問う!刑法175条~表現の自由は守られているのか~国旗損壊罪 最新情報【山田太郎のさんちゃんねる688】2026.5.27配信文字起こし
※本記事は配信を基に、AIツールを用いて内容を整理したものです。
国旗損壊罪の最新状況と表現の自由をめぐる攻防
山田:
山田太郎のさんちゃんねるです。今日は刑法175条について議論していきたいと思いますが、その前に、連日お伝えしている国旗損壊罪について、まず最新の状況を速報として皆さんにお伝えしたいと思います。
先週金曜日の朝8時からPT(プロジェクトチーム)が開かれ、私も出席してかなり意見を述べてきました。現在は法案の概要、いわゆる骨子を作成している段階です。この骨子が今後、法律の条文へと落とし込まれていくことになりますので、まだまだ予断を許さない状況です。
骨子案については、ひとまず座長一任という形でまとまったとのことですので、現時点でどのような内容になっているのかを皆さんにお伝えしたいと思います。
もう3回目の説明になりますので、最初からすべて話していると今日のテーマが国旗損壊罪だけになってしまいます。刑法175条の話にも早く入りたいので、今回は途中経過としての最新情報をお話しします。
まず大きな論点の一つが、何を対象物とするのかという点でした。そもそも「国旗とは何か」というところでかなり議論になりました。当初は非常に広範なものを国旗と捉える考え方があり、アニメや漫画、さらには生成AIによって描かれたものまで国旗に含まれるのではないかという議論もありました。
しかし、この点については私もかなり強く主張しました。その結果、「社会通念上、国旗として供されていると認識されるもの」という整理になりました。
また、旗とは何かについても、「一般的に布や紙で作られ、主に竿に掲げて標識・表象とするもの」という定義が示され、実社会で用いられる有体物であることが骨子の中で明確に整理されました。
その結果、骨子案ではアニメ、漫画、ゲーム、生成AIなどによる創作物は対象外であることが明記されました。表現行為そのものについては、ひとまず守られたのではないかと考えています。
次に問題となったのは、どういう状態が処罰対象になるのかという点です。
今回の法案が非常にややこしくなっている理由は、「侮辱を目的とする」という要件を外そうとしていることにあります。
もともとの外国国章損壊罪は、侮辱目的が必要な目的犯です。つまり、侮辱する意図があったことを立証しなければなりません。しかし、その考え方をそのまま日本国旗にも適用すると、「日本国旗を侮辱する」という思想・信条の問題が入り込んでしまいます。
今回の議論では、思想・信条の問題を切り離し、「国旗そのものが損壊される状態を防ぐ」という構成を取ろうとしています。
その結果、例えば雨風にさらされて汚れてしまった場合や、意図せず破れてしまった場合など、思想・信条とは無関係なケースとの区別をどうするのかが大きな論点となりました。
骨子案では、この点について「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法または状態」という表現が採用されました。
これに対しては、「感情の問題であり主観的ではないか」という批判もあります。しかし、侮辱目的や個人の内心を詮索するのではなく、外形的・客観的に判断するという考え方で整理されて、実際、この表現自体は既存の法律にも使われています。
小山:
ストーカー行為等規制法やDV防止法の中に、「汚物や動物の死体その他の著しく不快または嫌悪の情を催させるような物を送付してはならない」という規定があり、法律用語としては既に存在しています。
山田:
「人に著しく不快とは何なのか」「著しくという文言を付けると処罰が難しくなるのではないか」といった議論もありました。
そもそも処罰するために作る法律なのに、最初から適用が難しくなるような構成でよいのかという意見もありましたが、現時点ではこの表現で整理されています。
行為類型については、「自ら公然と損壊、除去または汚損する行為」とされています。当初は、SNS等でそれらを発信する行為も独立した類型として明記されていました。
しかし、それは表現行為そのものと受け取られる可能性があるため、公然性の判断の中で扱うべきではないかという議論になりました。その結果、現時点では「自ら公然と損壊、除去または汚損する行為」という整理になっています。
もちろん、公然性の中でSNS投稿がどう位置付けられるのかという論点は残っていますが、少なくとも独立した行為類型として明記する形は見送られました。
法定刑については、「2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金」とされています。実はこれは器物損壊罪よりも軽い刑です。
小山:
器物損壊罪は上限が3年ですが、今回の法定刑は外国国章損壊等罪に合わせたものとのことでした。
山田:
器物損壊罪で対応できるのではないかという意見もありますが、法定刑だけを見ると、今回の国旗損壊罪の方が軽いことになります。
小山:
法務省は、器物損壊罪には非常に高額な財産を破壊したケースも含まれるため、より重い上限刑が必要だという説明をしています。例えば高価な防衛装備品などを破壊した場合には、損害額が数億円規模になる可能性もあり、そのようなケースを想定しているという説明です。
山田:
さらに、器物損壊罪との決定的な違いがありまして、それは、自己所有の国旗も処罰対象になるという点です。
器物損壊罪は他人の物を壊した場合に成立するため、自分の所有物を壊しても通常は罪になりません。しかし、今回の国旗損壊罪は、自分が所有している国旗であっても対象となります。この点が器物損壊罪との大きな違いです。
そして最後に、私がかなり粘って入れてもらったのが、「表現の自由等に配慮する」という文言です。
これについて、「表現の自由に配慮と書かれたくらいで何が変わるのか」という批判を受けることもあります。しかし、実は非常に重要な意味があります。
なぜなら、この文言が法律の中に入ることで、実際の裁判や起訴の場面で、その行為が表現の自由の範囲内なのかどうかが正面から論点になるからです。
もちろん、表現の自由は憲法21条で保障されています。しかし、それに加えて法律の条文自体に「表現の自由への配慮」を明記することで、その行為が表現活動として行われたものかどうかを最初に検討する必要が生じます。
この点については本当に粘りました。
議論の中では、実写映画などの芸術的表現も問題になりました。しかし、社会通念上創作と認められる芸術作品については、当然ながら表現そのものであり、表現の自由によって保護されるべきだという整理になりました。
そのため、実写映画等の芸術的表現については、骨子の中で注記という形ながら明記されることになりました。
今回、私が特に力を入れたのは、まず国旗の定義を限定することでした。そして、SNSによる発信行為を独立した処罰対象として扱わない方向に修正すること。さらに、漫画・アニメ・ゲーム・生成AIなどの創作物を対象外であると明確にすること。そして、「表現の自由等への配慮」を盛り込むことでした。
これらについては、担当事務局長とも直接議論しながら、骨子の修正をかなり強く求めてきました。
もともと私は反対の立場で主張していました。そもそも国旗は法律によって敬われるべきものでもなければ、法律によって存在を守るべきものでもないのではないか。法律を作ること自体がおかしいのではないか。
また、このような法律は何も歯止めがなければ表現の自由に大きく抵触するのではないか。そのような反対論を展開してきました。
しかし、現実にはそれだけでは議論が収まらない状況もありました。その中で、表現の自由を守るためにはどこまで歯止めをかけられるのか、どこまで規制を限定できるのかという現実的な路線で取り組むことになりました。
もちろん、今回の内容が100点満点だとは言いません。合格点かどうかについても、最終的には皆さんに判断していただくしかありません。しかし、少なくとも表現の自由を守るための戦いとして、骨子段階ではそうした修正を積み重ねてきたということです。
他に反対していた議員もいましたが、最終的には退席する議員もいるなど様々な経緯があり、結果として完全反対者がいない状態で座長一任となりました。そのため、この骨子をベースに法案作成が進められることになります。
ただし、本当の勝負はこれからです。骨子ではなく、実際の法文になった段階で初めて法律の具体的な姿が見えてきます。
ここまで何度も会議に出席し、粘り強く議論を続けてきました。途中経過を細かく公表すると、かえって議論を歪めたり誤解を招いたりする可能性があるため、これまではあまりお伝えできませんでした。しかし、現時点ではこのような状況になっています。
とはいえ、法文が完成するまでは気を緩めることなく、引き続きしっかり取り組んでいきたいと思っています。
刑法175条とは何か わいせつ物頒布罪と表現規制の問題
山田:
ここからは「刑法175条を問い直す」ということで、今日は「わいせつ物頒布罪等は本当に必要なのか」というテーマについて考えていきたいと思います。
このテーマも非常にボリュームがありますので、どんどん進めていきます。
そもそも、なぜ今回この話を取り上げることになったのかというと、ある企業の事案で「モザイクの掛け方が厳しくなるのではないか」という話が出てきたからです。ただ、この件については民間側の自主規制の問題も絡んでいるため、慎重にならざるを得ません。
もし公的機関がプレッシャーをかけていたり、何らかの指導を行っていた事実が確認できれば、それは政治的な問題として取り上げることができます。しかし、現時点では民間企業自身の判断である可能性もあり、その場合に政治が介入することは適切なのかという問題があります。
実際、この件についてはさまざまな関係者と話をしていますが、現時点で他社に同様の事案が広がっているわけでもなく、公的機関が動いた形跡も確認できていません。
したがって、今日は個別事案を論じるのではなく、刑法175条そのものと、今後どのように表現規制の問題と向き合っていくべきなのかについて考えていきたいと思います。
まず、「刑法175条とは何なのか」というところから見ていきますが、実は、わいせつに関する規定には175条だけでなく174条もあります。
小山:
175条と174条は、どちらもわいせつに関する犯罪です。
175条は、わいせつ物を頒布したり、公然と陳列したりする行為を処罰する規定です。一方の174条は、公然わいせつ罪で、公然とわいせつな行為を行うことを処罰します。
少し極端な例ですが、例えばオリンピック会場で全裸になってわいせつな行為を行った場合は174条で6か月以下の拘禁刑等が対象になります。しかし、わいせつな書籍などを頒布した場合は175条で2年以下の拘禁刑等になる可能性があります。
そう考えると、どちらが本当に重い犯罪なのかという疑問も出てきます。
山田:
そうなんだよね。ただ、現代はインターネット時代でもあるからね。
小山:
例えば、インターネット上で性的な内容をライブ配信しただけなら174条に当たるのではないかという議論があります。一方で、その配信を録画してアップロードしたり、アーカイブとして保存しておいたりすると175条の問題になる可能性があります。
ですから、どちらの方が社会的影響が大きいのかは一概には言えません。ただ、175条の方が表現活動そのものと密接に関わるため、表現の自由をめぐる議論では175条が取り上げられることが多い印象があります。
山田:
そこで、175条の内容をもう少し分解して見ていきたいと思います。
条文には「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物」という表現がありますが、ポイントになるのは「頒布」「公然陳列」「有償頒布目的所持」の三つです。
まず「頒布」とは、不特定または多数の者に配ることを意味します。したがって、不特定多数ではない相手とのやり取りは頒布には当たりません。
また、「公然陳列」も不特定または多数の者が認識できる状態を指しますので、一対一のやり取りであれば該当しません。
さらに「有償頒布目的所持」とは、お金を取って頒布する目的で保有・保管している状態を指します。実際に頒布していなくても、頒布する目的で所持していれば処罰対象になり得るということです。
では、構成要件についても見ていきましょう。
小山:
対象となるのは、「わいせつな文書、図画、電磁的記録、それに係る記録媒体その他の物」で、頒布については先ほど説明した通りです。
そして「公然と陳列」ですが、ここでいう陳列とは、人がその内容を認識できる状態に置くことを意味します。
重要なのは、認識手段が視覚に限定されていないことです。聴覚によって認識できる状態に置くことも含まれると解されています。
現在は音声コンテンツも非常に増えています。例えば同人作品のボイスコンテンツのようなものが、内容次第では「公然と陳列」に該当する可能性もあります。実際の判例は多くありませんが、法理論上は刑法175条の対象となっても不思議ではありません。
山田:
条文を見ると「図画」だけではなく、「文書」や「電磁的記録」も含まれている。つまり、画像に限らないということなんだ。
小山:
例えば、ろくでなし子事件でも問題になりましたが、そのままでは視覚的に認識できないデータであっても、「電磁的記録」に当たる可能性があります。
条文上は「視覚的に認識できること」が必須条件として明記されているわけではありません。そのため、どこまでが対象になるのかは非常に難しい問題です。
山田:
そして、有償であることや所持・保管の問題もありますが、ここで少し話を進めると、「法益」という考え方が重要になります。
刑罰というものは、基本的には個人の法益、つまり個人の人権や尊厳を守るために存在しています。殺人罪、傷害罪、窃盗罪、強盗罪などは典型例です。これらは誰の権利が侵害されたのかが非常に分かりやすい。
ところが175条はそうではありません。
175条が守ろうとしているのは、いわゆる「社会的法益」と呼ばれるものです。例えば「健全な性風俗」や「性的道義」といった概念、ここが非常に曖昧なところで、個別の被害者が存在しないのです。
そして最大の問題は、最初の判断を行うのが警察だということです。
警察が「これはわいせつだ」と判断することで捜査が始まり、犯罪として扱われる。その意味で、警察の裁量が事実上の立法機能を果たしているのではないか、という批判があります。
これは憲法21条との関係でも大きな問題になります。日本国憲法との関係について整理すると、最も重要なのは憲法21条です。
小山:
憲法21条1項では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定されています。ここで重要なのは、性的表現も表現の自由に含まれると考えられていることです。
もちろん、性的表現は表現の自由に含まれないという学説も存在します。しかし現在の一般的な理解では、性的表現も憲法上保護される表現に含まれると考えられています。
問題は、それがどこまで保護されるのかという点ですが、さらに21条2項では、「検閲は、これをしてはならない」と定められています。
一般的に検閲とは、表現物が世の中に出る前に公権力が内容を審査することを指すと解されていますが、広い意味では事後的な規制についても、表現の自由を守るための重要な規定だと考えることができます。
そう考えると、刑法175条は憲法21条との関係でかなり問題を含み得る規定だと言えます。
山田:
そうなんですよね。少し話はそれますが、今後さらに大きな政治課題になると思っているのが、「匿名表現の自由」の問題です。
私は以前から、国旗損壊罪やSNS規制についても「かなり厳しい状況になる」と言ってきました。そのたびに「大げさだ」と言われることもありましたが、現実には規制強化の方向で議論が進んでいます。
そして今、匿名表現の自由についても同じような流れが起きています。
特に野党側から強い声が上がっており、それに与党が呼応する形で、「匿名だから好き勝手な発言が行われ、問題が起きるのなら、匿名そのものをやめればよいのではないか」という議論が本格的に始まっています。
これは非常に警戒しなければならない状況です。国旗損壊罪の議論もそうですが、こうした議論は一気に進みます。法務省も当初、国旗損壊罪についてはそこまで現実味があるとは考えていなかったと思います。
私たちも何度もレク(説明・意見交換)を受けましたが、法務省側は「法制審議会を経ていない以上、刑法改正のような話は現実的に無理だろう」と高をくくっていたように見えました。
実際、「議員がいろいろ言っているけれど、そんなものは通りませんよ」というような反応もありました。しかし現実には、議員立法という形で国会提出が進められています。
SNS規制についても同様ですし、匿名表現の自由についても、現在かなり厳しい方向へ状況が動きつつあります。
だからこそ、この問題についても真剣に取り組まなければなりません。党内の状況も厳しく、国会全体の空気も厳しい。そうした現状があることを、まず皆さんにお伝えしておきたいと思います。
刑法175条の歴史と判例
なぜ「わいせつ物頒布罪」は今も残り続けているのか
山田:
それでは、175条の話に戻ります。まず現在どのような状況になっているのか、小山さんから説明してください。
小山:
刑法175条違反、つまり「わいせつ物頒布等罪」の検挙件数は、現在、過去最低に近い水準まで減少しています。この5年間で半減以下になっているのが特徴です。
令和6年(2024年)の最新統計では、検挙件数は372件となっています。
刑法175条違反の検挙件数は、戦後直後の1946年、1947年には29件、56件と極端に少ない数字がありますが、それを除くと300件台というのはかなり少ない水準です。
5年前の2020年には887件ありました。その後、2021年が917件、2022年が849件、2023年が640件、そして2024年が372件となっています。
つまり、この5年間で検挙件数はほぼ半減しています。全体の推移をグラフで見ても、決して増加傾向にはなく、むしろ大幅に減少しているのが現状です。
続いて、サイバー犯罪としての175条違反についてです。
先ほど説明した令和6年の検挙件数372件のうち、サイバー犯罪として摘発されたものは326件です。つまり、現在では9割近くがインターネット上でのわいせつ物頒布として検挙されていることになります。
山田:
せっかくですので、この機会に歴史的な経緯も押さえておきたいと思います。
そもそも175条の源流はどこにあるのかというと、明治2年の出版条例にまで遡ります。当時は国家が道徳的価値観に介入することが当然視されていた時代でした。
さらに明治13年には旧刑法が制定され、性に関する犯罪規定の基礎が作られます。この段階で、後の175条につながる考え方が登場してきます。
民法や刑法には、明治時代に作られた制度が形を変えながら現在まで残っているものが少なくありません。そのため、現代の感覚から見ると違和感のある規定が残っている場合もあります。
そして明治26年(1893年)には出版法が制定され、「安寧秩序」や「風俗害」を理由とした検閲体制が確立されていきます。つまり、明治時代は表現に対する検閲や規制が当然のように行われていた時代だったということです。
さらに明治40年(1907年)には現行刑法の基礎となる刑法が制定され、ここで175条そのものが導入されました。現在の刑法175条は、この時代の流れを受け継いでいるわけです。
その後、日本国憲法が制定されることで、社会の考え方は大きく変わります。憲法21条では検閲が明確に禁止され、表現の自由が保障されました。
実際、新憲法の施行後には旧来の憲法秩序と整合しない法律が数多く廃止されています。しかし、その中で175条は残りました。では、なぜ戦後も175条は存続したのでしょうか。
これについてはさまざまな説がありますが、GHQ占領下においても、この規制の枠組みは大幅には変更されませんでした。一般的には、性表現規制そのものが占領政策の優先課題ではなかったと考えられています。
さらに戦後に大きな影響を与えたのが、後ほど詳しく触れる「チャタレー事件判決」です。この事件では175条の合憲性が争われましたが、最高裁は175条を合憲と判断しました。この判断が、その後長年にわたり維持されることになります。
その結果、立法府による見直しの機運も失われてしまいました。最高裁が「合憲」と判断した以上、制度を見直そうという政治的な動きが起こりにくくなったのです。
さらに、1936年の国際条約との関係を理由に、175条の改廃論が封じられがちであるという側面もあります。国内では最高裁判決、国外では国際条約という二重の要因が存在し、その結果として175条は現在まで維持され続けているわけです。
さて、ここからは判例について見ていきます。実は175条や「わいせつ」の概念をめぐっては、これまで何度も裁判が行われてきました。有罪判決もあれば無罪判決もあります。
すべてを紹介していると時間が足りませんので、今日は特に重要なものを中心に取り上げたいと思います。
小山:
有罪事例の中で、リーディングケース(判例理論の基礎となる代表的事件)の代表格と言えるのが「サンデー娯楽事件」です。これは新聞や大衆娯楽雑誌に関する事件で、1951年の最高裁判決です。ただし、これは最高裁の小法廷判決でした。
それに対して、正面から175条の合憲性を判断したのが「チャタレー事件」です。
こちらは文芸小説に関する事件ですが、最高裁大法廷で審理されました。大法廷とは15人の最高裁判事全員で構成されるもので、その意味で非常に大きなインパクトを持つ判決でした。
山田:
正直なところ、司法制度の細かい部分は私もそこまで詳しくないんだけど、小法廷の判決も大法廷の判決も同じ最高裁判決だよね。それでも違いがあるの?
小山:
あります。判例を変更する場合や、法律の憲法適合性を判断する場合は大法廷で審理されます。
今回のケースでは、まさに憲法21条との関係で175条が合憲かどうかを判断したわけですから、その意味でチャタレー事件の意義は非常に大きいんです。
もっとも、チャタレー事件で示された基準そのものは、実はサンデー娯楽事件の小法廷判決で示された考え方を引き継いでいます。
その後も、「悪徳の栄え事件」「四畳半襖の下張事件」「ビニ本事件」、さらに皆さんの関心も高い「松文館事件」などが続き、「ビデ倫モザイク事件」、そして近年で最も有名なのは「ろくでなし子事件」、この事件では3Dデータが問題となりました。
ろくでなし子事件は、有罪部分と無罪部分の両方があります。3Dデータの送信については有罪となりました。
一方、無罪となった事例もあります。
例えば1969年の「黒い雪事件」です。これは最終的に東京高裁で無罪が確定しています。また、「日活ロマンポルノ事件」も映画に関する事件ですが、こちらも東京高裁で無罪となっています。
さらに有名な「愛のコリーダ事件」では、映画そのものではなく、その映画を書籍化した出版物が摘発されましたが、最終的には無罪となりました。
ろくでなし子事件についても、立体造形物の部分については無罪となっています。
興味深いのは、有罪事例の多くが最高裁まで争われているのに対し、無罪事例は最高裁まで行かないケースが多いことです。おそらく検察側も、負ける可能性が高い案件については、あえて最高裁まで持ち込まないという判断をしているのでしょう。
チャタレー事件から松文館事件へ
「わいせつ」の基準は誰が決めるのか
山田:
では最大のポイントとなるチャタレー事件について整理していきたいと思います。この事件では、最高裁が示した有名な「わいせつ性の三要件」があります。
第一に、「徒に性欲を興奮または刺激せしめること」。
しかし、人間は動物ですから性欲があるのは当然です。性欲を刺激すること自体を問題視する考え方には、そもそも疑問もあります。
第二に、「普通人の正常な性的羞恥心を害すること」。
これについても、「普通人とは誰なのか」「正常な性的羞恥心とは何なのか」という疑問が生じます。
そして第三に、「善良な性的道義観念に反すること」。
しかし、「善良な性的道義観念」とは何を指すのか。これも非常に曖昧です。
表現の自由という観点から見ると、この基準には大きな問題があります。結局のところ、「普通」「常識」「善良」といった極めて主観的な概念によって判断が行われているからです。
さらに大きな問題は、芸術性や思想性があったとしても、なお違法となり得ると最高裁が判断したことです。つまり、「芸術作品だから大丈夫」という理屈は、チャタレー事件の段階では必ずしも通用しないということになります。
また、最高裁は「公共の福祉」を理由として表現の自由を制約できるという考え方も示しました。
もちろん、表現の自由が無制限ではないという議論はあります。しかし、公共の福祉という非常に広い概念によって表現規制を正当化できることになれば、そこには常に危険性が伴います。
そしてもう一つ重要なのは、その後およそ70年間にわたり、最高裁が175条の合憲性を実質的に再検討していないという点です。
これには構造的な理由があります。
警察や検察も、負ける可能性の高い案件については最高裁まで争わない傾向があります。もし最高裁で違憲判断や大幅な解釈変更が行われれば、制度全体に影響が及ぶからです。
さらに、「健全な性風俗」の中身は本来、時代とともに変化するはずです。それにもかかわらず、その判断基準自体が長年ほとんど見直されていないという問題があります。
これは極めて大きな論点だと思います。
小山:
チャタレー事件で特に問題視されるのは、芸術性や思想性があっても違法と判断した点です。
判決では、「芸術性とわいせつ性とは別個の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。高度の芸術性があるとしても、それによって作品のわいせつ性が解消されるとは限らない」と述べられています。
この考え方は、後に「絶対的わいせつ概念」と呼ばれるものですが、この考え方は後の判例で徐々に修正・緩和されていきます。
例えば「悪徳の栄え事件」です。
これは悪徳の栄えに関する事件ですが、ここでは作品全体との関連でわいせつ性を判断するという考え方が示されました。
もっとも、この事件でも芸術性や思想性があることによって、直ちにわいせつ性が否定されるわけではないという点では、チャタレー事件の流れを引き継いでいます。
ただし、この事件では最高裁判事の中から反対意見も出されました。全員一致ではなく、慎重な少数意見が存在したという点は特徴的です。
そして、その後の判例の中で極めて重要なのが「四畳半襖の下張事件」です。
この事件では「相対的わいせつ概念」が採用されました。
つまり、作品に芸術性や思想性が存在する場合、それによって性的刺激がどの程度緩和されるのかを考慮するという考え方です。
場合によっては、その緩和の程度によってわいせつ性が否定される可能性もあるという判断枠組みが示されました。
結果として、この事件ではわいせつ性は否定されませんでしたが、その後の判例理論に大きな影響を与えた重要な判断だとされています。
そして、表現規制を語る上で欠かせないのが松文館事件です。
松文館事件は、漫画として初めて刑法175条違反で摘発された事件でした。
2002年3月、出版社である松文館の社長らと漫画家が逮捕され、大きな衝撃を与えました。コミックスが刑事事件として摘発された初のケースだったのです。
この事件は一審、二審、最高裁まで争われましたが、最終的に150万円の罰金刑が確定しました。対象となった作品には成人向け表示があり、ゾーニングも実施されていました。
それにもかかわらず、わいせつ性が認定されたわけです。また、この事件では後のモザイク規制にもつながる重要な判断が示されています。
山田:
結局のところ、警察が「わいせつだ」と判断すれば刑事事件になるという構造があります。その意味で、この事件の影響は非常に大きかった。
さらに問題だったのは、この事件をきっかけに出版社側の自主規制が大幅に強化されたことです。いわゆる萎縮効果が極めて大きかった。表現業界全体に与えた影響という意味でも、この事件は非常に重要な転機になりました。
小山:
この事件で裁判所が示した判断枠組みは、かなり細かく作られています。単に「なんとなくわいせつだから有罪」という話ではありません。東京地裁は、まず作品の構成や内容を詳細に検討しています。
ページ数はどれくらいか、カラーとモノクロの比率はどうか、性描写の内容や程度、表現手法はどうかといった点を分析しました。
その上で、性器そのものや性器の結合・接触状態が特に強調されていること、作品内容の大半が性器や性交場面の描写で占められていることなどを認定しています。
さらに重要なのは、修正処理が施されていること自体も認定しているという点です。その上で、「修正による性的刺激の緩和はほとんど認められない」と判断しました。
山田:
でも、それってそもそも性的刺激を目的とした作品なんじゃないの?
小山:
その通りなんですが、チャタレー事件でも、最高裁はモザイクの有無を基準にしたわけではありません。
問題は、「いたずらに性欲を興奮または刺激するか」「普通人の正常な性的羞恥心を害するか」という基準に照らしてどう判断するかです。
その結果として、裁判所は「今回の修正では性的刺激は緩和されていない」と判断したわけです。つまり、「モザイクがないからわいせつ」という単純な話ではありません。
ただし、摘発実務においてモザイクの有無が極めて重要な判断要素になっていることは間違いありません。その点については後ほど改めて説明します。
裁判所は作品全体についても検討しています。
漫画の構成や展開、芸術性や思想性によって性的刺激が緩和されているかどうかを評価した上で、「政治的言論や芸術的・思想的価値を有する意思表明の要素はほとんど存在しない」と判断しました。
要するに、「単なるエロ漫画である」という評価です。しかし、そこで当然疑問が出てきます。
「エロ漫画であることの何が問題なのか」ということです。
性的な営みそのものは、人間という生物にとって本来的なものです。それにもかかわらず、判決は「本件漫画本は、もっぱら読者の好色的興味に訴えるものと認められる」と結論付けています。
そう言われてしまうと、作品の性質上、それを否定することは難しい部分もあります。
さらに裁判所は社会通念についても言及しています。
判決では、「価値観が多様化した現代においても、本件漫画本のような露骨で過激な性表現物を許容する健全な社会通念が形成されていると解する余地はない」と述べています。
しかし、この点については大いに議論の余地があります。「これくらいの漫画なら問題ないのではないか」と考える人も少なくありません。それでも裁判所は、それを社会通念とは認めなかったわけです。
修正処理についても非常に細かく検討されています。
作品には、性器部分を網掛けや白抜きで隠す、いわゆる「消し」の修正が施されていました。巻頭カラー部分では白抜き修正、白黒ページでは出版業界でいう40%の網掛け修正が行われていました。
しかし裁判所は、白抜きでは修正が不十分であり、網掛けも実質的には見えている状態であるとして、これらの修正による性的刺激の緩和効果はほとんど認められないと判断しました。
つまり、モザイク処理自体は存在していたにもかかわらず、それでは足りないとされたのです。
山田:
この判断が現在まで続くモザイク規制の議論につながっていくんですよね。
ろくでなし子事件と無罪判例が示した
「芸術性」と「わいせつ性」の境界
小山:
その後に大きな事件となったのが、2008年3月のビデ倫(日本ビデオ倫理協会)幹部の逮捕です。
これは、モザイク処理が不十分なアダルトDVDの流通を許容したとして、わいせつ図画販売幇助などの疑いで逮捕されたものです。ただし、ビデ倫自身がわいせつな作品を販売したわけではありません。審査機関として、その作品の流通を認めたことが問題視されたわけです。
もともとビデ倫は、他のアダルトビデオ業界団体と比べても比較的厳格で保守的な基準を採用していたと言われています。しかし、業界全体がより緩やかな基準へ移行する中で、加盟事業者が離れていく状況もあり、基準を多少緩和せざるを得なかったという話も耳にします。
そうした流れの中で摘発の対象になったという側面もあったのかもしれません。
続いて、ろくでなし子事件です。これは皆さんもよくご存じの、令和を代表する最高裁判例の一つです。
漫画家・芸術家である被告人が、自身の女性器をスキャンした3Dデータをクラウドファンディングの支援者にインターネットで送信し、あるいはCD-Rで配送したこと、さらに女性器を模した造形物をアダルトショップに展示したこと、この二つの行為について起訴されました。
結論としては、3Dデータの頒布については有罪、造形物の展示については無罪となりました。この判決の意義は非常に大きいと思います。
同じ女性器を題材としていても、芸術的加工が施されている場合には無罪となり得ることを示した点、そして175条の硬直的な運用に対して裁判所が一定の柔軟性を示したとも評価できる点です。
また、現代アートや芸術表現の自由をめぐる議論を広く喚起した事件でもありました。もっとも、問題が完全に解決されたわけではありません。
結局のところ、「どれだけ精密なのか」「女性器であることが明確に分かるのか」といった基準が依然として問われています。
山田:
そうなんですよね。例えば日本には古来から、性器を模した石像や信仰対象が数多く存在しています。そうしたものまで全部わいせつ物なのかという話になるわけです。
結局、「精密かどうか」「現実の性器をどの程度再現しているか」という話になっていく。そして何より問題なのは、芸術か芸術でないかを裁判所が判断する構造です。
もっと言えば、その前段階として、警察がまず捜査対象とするかどうかを決めるわけです。そこがスタート地点になっている。また、ろくでなし子事件では175条そのものの合憲性は正面から争われませんでした。
さらに、芸術家本人による身体表現にまで刑事罰が及んだという点も、大きな課題として残っています。では、無罪となった造形物について見ていきましょう。
小山:
東京高裁は一審の無罪判決を維持しています。その際、裁判所は非常に細かく造形物を分析しています。
まず造形物1については、「表面が濃い水色で着色されており、実際の女性器や周辺部の皮膚の色とは全く異なる」と評価しました。また、「女性器周辺に非現実的な凹凸がある」とも述べています。
さらに、「大半が明らかに人毛ではない毛皮用の素材で覆われているため、一見して女性器を型取ったものとの印象を抱くことまではできない」としています。
つまり、「一見して女性器と分かるかどうか」が重要な判断要素になっているわけです。
造形物2についても同様の分析が行われました。
そして造形物3については、「人間の皮膚にも存在する濃い茶色で着色されており、女性器の陰影も比較的明瞭であるため、女性器やその周辺部分の形状は比較的容易に把握できる」と認定しています。
しかし一方で、「クリーム状の装飾物が散りばめられており、その装飾と着色が相まって全体として洋菓子のような印象を与えている」とも述べています。
山田:
笑ってはいけないんだけど、この裁判、本当に真面目にこういうことをやっているんだよね。
小山:
裁判所は極めて真剣です。性器を模した造形物について、「全体として洋菓子のような印象がある」と判断しているわけです。
山田:
洋菓子という表現もなかなかすごいよね。
小山:
洋菓子といっても幅が広いんですが、裁判所としては、そのために「女性器を型取ったものであるという印象がそこまで強いとは言えない」と評価したわけです。
さらに、「石膏製であるため感触が冷たく硬い」といった点にも言及しています。正直なところ、それがどこまで重要なのかとも思いますが、裁判所はそこまで丁寧に検討しています。
そして、「仮に女性器を型取ったものであったとしても、一見して人体の一部という印象を与えるものではなく、直ちに実際の女性器を連想させるものとは言えない」と述べています。
その結果、「性的刺激の程度は限定的であり、それだけでわいせつ性を肯定できるほど強いものではない」と判断しました。
さらに重要なのが、芸術性に関する評価です。裁判所は、「本件各造形物はポップアートの一種として捉えることが可能である」と述べています。
また、「女性器というモチーフを用いて見る者を楽しませたり、女性器に対する否定的イメージを茶化したりする制作意図を読み取ることができる」と評価しました。かなり踏み込んだ判断です。
さらに、「本件各造形物には、このような意味での芸術性や思想性、さらには反ポルノグラフィックな効果が認められ、表現された思想と表象との関連性も見出すことができる」としています。
その上で、「一定の芸術性・思想性を有しており、それによって性的刺激が緩和されている」と結論付けました。
山田:
結局、問題にされているのは性的刺激なんだよね。
小山:
そうです。芸術性や思想性によって、その性的刺激がどれだけ緩和されるかが問題になるわけです。
山田:
でも芸術だって人を刺激するものじゃないの?
小山:
芸術による刺激と性的刺激は別の種類の刺激だ、という考え方なんでしょうね。
山田:
そこは議論し始めると終わらないけれど、こういう理屈になっているわけです。本当に裁判所は何年もかけてこうした議論をしている。
そして次に、無罪となった他の事件も見ていきたいと思います。まずは黒い雪事件です。
小山:
これは映倫(映画倫理機構)の審査を通過した映画が摘発された最初の事例です。
映倫の指示に従って修正も行い、審査も通過していたにもかかわらず、わいせつ性があるとして起訴されました。当然ながら、関係者は「映倫を通っているのになぜ」ということになります。最終的に裁判所は、被告人に犯意がなかったと判断しました。
つまり、違法なものを上映しているという認識がなかったということです。犯罪には故意が必要ですから、その観点から無罪となりました。ただし、映倫を通過していても摘発され得るという前例を作った点では非常に大きな事件でした。
続いて日活ロマンポルノ事件です。
こちらも映倫を通過した作品が起訴された事件です。やはり「なぜ映倫を通った作品が問題になるのか」という構図でしたが、最終的に東京高裁は無罪判決を維持しています。
例えば『女高生芸者』については、一種の喜劇として描かれており、そのわざとらしさが描写の現実感や迫真性を弱め、結果として性的刺激を減少させていると評価されました。
また『恋の狩人』についても、映倫の勧告に従って短縮やぼかし処理を施した結果、視覚的な迫力や直接的訴求力が失われ、「かろうじてわいせつ性を免れた」と評価されています。そのため、わいせつ性は認められず無罪となりました。
そして有名な愛のコリーダ事件です。
これは映画そのものではなく、映画を単行本化した出版物が摘発された事件でした。
裁判所は、掲載された写真について「性交や性器そのものよりも、映画の場面設定に合わせて構成された作品であるとの印象を与える側面がある」と評価しています。
また、男女の性器そのものを露骨に見せる部分はほとんどなく、性器の結合を強調する撮影手法も採られていないと判断しました。そのため、「過度に性欲を興奮・刺激させる扇情的な手法による表現とは言えない」と結論付けています。
山田:
でも、あの作品はそのシーンがなかったら成立しないよね。
小山:
脚本部分についても裁判所は検討しています。詳細な情景描写や心理描写が少なく、むしろ簡素な記述にとどまっているため、読者の情緒や官能に訴える効果が減少していると評価しました。
山田:
いや、十分に扇情的だと思うけどね。
小山:
裁判所としては、少なくとも出版物として見た場合にはそう判断したわけです。
最終的には、「主として好色的興味に訴え、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するとまでは言えない」として、わいせつ性そのものを否定しました。
山田:
普通人じゃない気もするけどね、あの作品は。
小山:
ただ、芸術というのは、ある程度人の心を揺さぶるものでなければならないという考え方もあります。
山田:
そういうものなんじゃないの、ということで結局は無罪になったわけですね。
わいせつ概念の曖昧さと春画が問いかける表現規制の矛盾
山田:
ここまで判例を見てきましたが、改めて現代的な問題点を整理していきたいと思いますが、やはり最大の問題は、「わいせつ」の定義が極めて不明確だということです。
何が罪になるのかが事前にはっきり分からない。判例上の定義は存在していますが、先ほどから何度も言っているように、「普通人」とは誰なのか、「正常」とは何なのか、「善良」とは何なのか、「性的道義観念」とは何なのか。そうした根本的な部分が曖昧なままになっています。
さらに大きな問題として、警察による恣意的な運用があります。事実上、「警察が立法者になっている」とも言われる状況です。
警察が「これはわいせつだ」と判断するかどうかによって、その後の運命が大きく左右される。摘発や書類送検が行われれば、それだけで社会的な影響は極めて大きいものになります。
さらに、起訴・不起訴の判断に至るまでにも、関係者には大きなプレッシャーがかかります。そしてもう一つ重要なのが萎縮効果です。
モザイク規制の問題もそうですし、後で触れる春画展の問題もそうですが、同人即売会などでも長年にわたり自主規制が続いてきました。
さらに近年ではプラットフォームによる一律規制や、クレジットカード会社の問題などもあります。
こうした状況を見ると、刑法175条は単に刑事罰の問題ではなく、自主規制の暴走や表現活動全体への萎縮効果を生み出しているという側面があるのです。
その典型例の一つが、まんだらけの事件です。
小山:
まんだらけがビニ本を販売していた際、書類送検された事件ですね。
山田:
今ではビニ本と言っても分からない人も多いかもしれないね。
小山:
ビニ本とは、主に1980年代に流通したポルノ写真本の形態です。
店頭で中身が見えないようにビニール包装されていたことから、その名前が付けられました。性器が透けて見えるような写真が掲載されるなど、当時としてはかなり際どい内容だったためブームとなりました。
一方で、写真表現としての芸術性も評価されており、美術・アートの文脈でも取り上げられることがあります。そのビニ本について、まんだらけは2022年に書類送検されました。
「違法なアダルト本約400冊を販売目的で所持していた」として、わいせつ図画有償頒布目的所持などの疑いがかけられたのです。
ただし、まんだらけの社長は「芸術としてのエロスと捉えて販売している」と説明していました。つまり、自分たちが違法行為をしているという認識はなかったわけです。そして最終的には不起訴になりました。
つまり、警察は検挙・送検したものの、起訴権限を持つ検察官は起訴しなかったということです。ところが、それで終わりではありませんでした。
東京都公安委員会は、まんだらけの2店舗に対して、風営法に基づきアダルト商品の販売を180日間停止する行政処分を決定しました。不起訴という検察の判断が出たにもかかわらず、行政処分という別の手段が用いられたわけです。
ビニ本は昭和の風俗文化であり、ある意味では文化的遺産でもあるという見方もあります。まんだらけ側はこの行政処分に対して法的に争うことはしませんでしたが、東京都の対応に対しては社長がコメントを発表しています。
山田:
そこで改めて考えたいのが、「わいせつとは何か」という問題です。その出発点となったのが、チャタレー事件以前のサンデー娯楽事件でした。実は、この判決が非常に大きい。そこで示された基準が、その後ずっと引き継がれているんです。
小山:
サンデー娯楽事件では、「好色話の泉」という記事などが問題になりました。
そして裁判所は、それらの記事が「徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」と認定しました。
この基準が、その後のチャタレー事件でも使われていますし、現在に至るまで維持されています。
チャタレー事件では、性器の露出や性行為の公然性が重要だという考え方が示されました。
さらに四畳半襖の下張事件では、相対的わいせつ概念が採用されるなど、少しずつ表現の自由に配慮した方向へ変化しているとは言えます。
しかし、基本的な枠組みそのものは維持されたままです。実際、法務省も現在の公式見解として、「刑法175条にいうわいせつとは、最高裁判例によれば――」と説明しています。
そして、その判例は現在も変更されていないとしています。
山田:
実は2022年6月に、法務省に対して改めて「わいせつの定義とは何なのか」と質問しました。時代も変わっているわけですから、見直しがあってもおかしくない。
ところが返ってきた答えは、「現在も判例の定義に変更はない」というものでした。
警察庁に対しても同じ日に質問しましたが、やはり返ってきたのは昭和32年の最高裁大法廷判決の基準でした。
やはり大法廷判決の影響力は非常に大きいですね。
小山:
行政機関にとっても、大法廷判決というのは非常に重い存在です。常に意識せざるを得ません。
山田:
そんな中で、春画の問題があります。
小山:
警察庁など国の機関は、わいせつの定義について最高裁判例をそのまま引用していますが、一方で、2015年に開催された春画展について、警視庁は取材に対して興味深い見解を示しています。
警視庁保安課は、「春画展について全くわいせつ性がないとは言えないが、芸術的・文化的価値が高く、国際的評価も高い。著名な絵師による春画そのものを取り締まる考えはない」と明言したとされています。
ところがその一方で、春画展の記事や展示作品を掲載した週刊誌4誌に対しては口頭指導を行ったとも報じられています。その理由は、ヌード写真などと併せて掲載したことによって、春画のわいせつ性を強調するような編集になっていたというものでした。
山田:
でも、それは週刊誌なんだから仕方ないよね。春画の記事を書いている横にヌード写真が載っていることだってあるでしょう。別に春画と並べていたわけではないと思うんだけどね。
改めて言うまでもなく、春画は日本の伝統文化です。例えば、大英博物館でも公開展示されています。そして大きな転機となったのが、『春画と日本人』という作品の公開です。
この作品では、ぼかしやトリミングを行わず、そのまま春画が映し出されました。
小山:
さらに2023年には、『春画と日本人』が参議院議員会館でも上映されています。つまり、性器が描かれた春画が、修正なしで国会施設内で上映されたとも言えるわけです。
もちろん、そのことで摘発されるようなことはありませんでした。
春画については性器が全面的に描かれた作品が公然と上映されても、現在では問題視されない方向に少しずつ変わってきていると言えるのではないでしょうか。これは大きな変化だと思います。
山田:
国会議員が議員会館で、修正なしの春画を上映したわけですから。それで摘発された事実もなければ、警察から指導を受けたという話もありません。
こうした事実が積み重なっていくこと自体に意味があります。
小山:
その上映会に関わった方々もいましたが、その翌月の2023年10月には映画『春画先生』が公開されました。
これは邦画史上初とされる無修正春画描写を含む作品で、映倫審査を通過し、R15+指定で公開されています。
さらに2023年11月にはドキュメンタリー映画『春の画 SHUNGA』も公開されました。
こちらも全国公開作品として映倫を通過し、R18+指定で上映されています。このように、2023年には春画を扱う劇場作品が相次いで公開されることになりました。
山田:
だから私は、これは非常に大きな意味を持つと思っています。すべての性器表現に対して一律にモザイクをかけなければ犯罪になるとか、そういう単純な話ではないということです。
春画をめぐる一連の事例は、そのことを示していると思います。これは本当に大きな変化だったのではないでしょうか。
春画・関税・国際比較から見る刑法175条の限界と矛盾
小山:
先ほど山田さんが175条の歴史を説明していましたが、やはり原点は明治時代にあります。実際、明治に入って間もなく春画の取り締まりが行われるようになりました。
例えば明治38年(1905年)には大規模な春画摘発が実施されています。明治39年の第1回大規模検挙では10数名、第2回では37名が検挙され、押収された証拠物件は約8,000点にも上りました。
つまり、当時は春画を所持している、あるいは販売しようとしているだけで検挙されていたわけです。そう考えると、現在では春画が劇場で上映されるようになっているという事実は、非常に大きな変化だと言えるのではないでしょうか。
山田:
そしてもう一つ重要なのが関税の問題です。つまり、日本国内へ持ち込む際にどう扱われるのかという問題ですね。
小山:
ここが非常に興味深いところです。「わいせつ概念が曖昧だ」とよく言われますが、実は行政の中で最も具体的な基準を示しているのが関税法基本通達なんです。
現在お見せしているのは令和8年5月15日に改正された最新の通達ですが、基本的な内容は長年ほとんど変わっていません。
関税法基本通達69条の11の1の3「わいせつ物品の取扱い」では、従来の判例を踏まえて具体的な判断基準が示されています。
まず、書籍や動画などに男女の露出した性器が描写されている場合、原則としてわいせつ性を有する物品として扱うとされています。
しかし、その一方で例外規定も設けられています。
性器が描写されていたとしても、その描写の程度や手法、作品全体に占める比重、構成などを総合的に考慮し、「主として見る者の好色的興味に訴えるものと客観的に認められない」場合には、わいせつ物として扱わないとされています。
さらに具体的な基準として、いくつかの類型が列挙されています。その中で特に重要なのが、「性器の描写が不明瞭または不鮮明であるもの」です。
裏を返せば、性器の描写が明瞭かつ鮮明である場合に限って、原則としてわいせつ物と判断するということになります。これは行政が示している比較的明確な基準です。
警察も行政組織の一部である以上、政府全体の整合性という観点から考えれば、本来はこうした考え方に沿って運用されるべきだとも言えます。もちろん、その後にも細かな基準が続いていますが、いずれも実務上は非常に参考になる内容です。
仮に摘発された場合でも、この通達の基準のどれかに該当すると主張できれば、争う余地は十分にあります。
また、「風俗を害すべき物品」の規定では、人工工芸品や模造性器具についても触れられています。性器を模したものは原則として規制対象になり得ますが、「人間の肌の色以外の色彩が施されているもの」などについては例外が設けられています。
このあたりは、先ほどのろくでなし子事件とも関係してくる部分です。
山田:
なるほどね。そして、過去から現在にかけて、基準そのものも少しずつ変化してきているんだよね。
小山:
そうです。関税法基本通達は平成18年(2006年)の改正で大きく整理されました。その後、平成20年(2008年)の改正で現在に近い形になっています。それ以降は基本的な枠組みは大きく変わっていません。
つまり、現在の通達に示されている「わいせつに該当するもの」「該当しないもの」の基準は、実務上かなり重要な参考資料になっています。特に重要なのは、「鮮明かつ明瞭な性器描写」という部分ですね。
山田:
ここは非常に大事だと思っています。行政府が初めて、わいせつ概念についてかなり具体的な定義を示したわけです。しかも、その定義は一定の限定を伴っています。
だから私は、この基準を出発点にして、警察や検察が規制を拡大する方向ではなく、逆にこの基準を見直しながら緩和していく方向へ持っていくべきだと思っています。
少なくとも税関を通過できるのだから、という議論ができるわけです。何の基準もなければ、その時々の警察官や検察官の判断によって、恣意的に摘発される危険があります。
だからこそ、こうした行政文書の中から具体的な定義を見つけ出し、それを足掛かりにしながら少しずつ基準を見直していくことが重要なのではないかと思っています。
さて、時間も限られてきましたので、国際比較の話にも触れたいと思います。諸外国の状況を見ると、日本とはかなり異なっています。
例えばアメリカでは、明確に「わいせつ」と認定されたものだけが規制対象になります。
刑事処罰の範囲は非常に限定的であり、同意のある成人同士によるポルノそのものは広く合法とされています。これは皆さんもよくご存じの通りです。
ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国も、基本的には似た傾向があります。子どもに対する保護については極めて厳格ですが、成人同士の表現についてはかなり寛容です。
成人間の合意によるポルノは原則として合法であり、性器描写そのものについてもモザイク処理は不要とされています。
フランスも同様です。フランス映画にはかなり刺激的な作品もありますが、成人向け表現に対する刑事規制は限定的です。むしろ芸術表現は手厚く保護されています。
イギリスにはわいせつ出版物法がありますが、それでも成人が自ら選択して閲覧することについては比較的緩やかな考え方が取られています。
それに対して日本は包括的な規制構造になっています。しかも判例による解釈が非常に広範です。その結果、「これは危ないのではないか」「あれも危ないのではないか」という形で自主規制がどんどん広がってしまう。
だからこそ、先ほどの関税法基本通達のような具体的基準が重要になってくるわけです。
とはいえ、国際的に見れば、日本は最も厳しい部類に入る国だと言わざるを得ません。そして、国際比較をすると、日本独特の矛盾も見えてきます。
例えば、日本人が制作した無修正写真は問題視されます。しかし、外国人が制作した同種の写真については、制作地や流通地が海外であれば、日本の刑法が及ばないケースが少なくありません。
また、海外旅行で購入した写真集については、税関で輸入禁制品として没収されることがあります。ところが、同じ写真集を海外のホテルで閲覧すること自体は何の問題もありません。持ち帰ろうとした瞬間だけ問題になるという、不思議な構造になっています。
さらに現代はインターネットの時代です。国内サーバーで配信された動画は175条の対象になります。しかし、海外サーバー上に置かれたコンテンツを日本人が閲覧する場合には、事実上処罰できないケースが多い。
つまり、規制そのものが実効性を失っている面もあります。こうした国際的なズレが、日本特有の矛盾を生み出している。それが現在の刑法175条の実態なのではないかと私は考えています。
表現の自由を守るために
刑法175条と匿名表現をめぐる今後の課題
山田:
最後になりますが、刑法175条に対する反対論の根拠と、それに対する考え方について整理しながら、今後どう向き合っていくべきかをお話ししたいと思います。
まず大前提として、刑法175条は憲法21条の趣旨に反するのではないかという問題があります。さらに、いわゆる「被害者なき犯罪」であるという点も大きな論点です。
そもそも被害者とは誰なのか。また、これまで見てきたように、警察による恣意的な運用が制度として組み込まれてしまっているという問題もあります。
こうした状況に対しては、先ほど触れた関税法上の基準であったり、春画をめぐる事例であったりと、実際に積み上がってきた事実をもとに議論していくことが重要だと思っています。
そもそも歴史的な経緯をたどれば、この制度は明治時代の家父長的な価値観や思想を色濃く反映したものです。そう考えれば、「本当に今なお必要な制度なのか」という議論は当然行われるべきでしょう。
さらに、国際的に見ても極めて厳格な規制であることは明らかです。諸外国と比較した際の矛盾や不整合も含めて、今後も問題提起を続けていく必要があります。
一方で、175条の存続を支持する立場からは、「廃止すると性犯罪が増えるのではないか」という意見が出されることがあります。しかし、この点については、北欧諸国などで規制緩和後に性犯罪が減少したという研究もあります。
少なくとも、175条が性犯罪抑止に大きな効果を持っているという根拠は極めて乏しいと言わざるを得ません。
また、子どもの保護については別途重要な議論がありますが、そのためにゾーニング(年齢や閲覧環境による区分)が行われているわけです。特にヨーロッパでは、成人同士の表現については実質的に規制がほとんど存在しない国も少なくありません。
さらに、「公共空間に性的表現が氾濫するのではないか」という懸念もあります。もちろん、この点は議論が分かれるところです。
しかし、公然わいせつの規制との関係を考えたとき、本当にそこまで問題になるのか。適切なゾーニングが行われているのであれば、どこまで規制する必要があるのか。その点については今後も議論が必要だと思います。
そして、今後の道筋についてですが、まず重要なのは、現行制度の運用を透明化することです。そのために私自身も春画の問題などに取り組んできました。
また、冒頭で紹介したように、検挙件数自体は大きく減少しています。そうした状況の中で、起訴・不起訴の基準は本当に明確なのか、一つひとつの事案について丁寧に問い続けていきたいと思っています。
国会議員として、そうした監視の役割を果たしていくことが重要だと考えています。
また、構成要件そのものの明確化も必要です。もっとも、現実には最高裁判例の影響が非常に大きく、簡単な話ではありません。
それでも、罪刑法定主義の観点からすれば、何が犯罪で何が犯罪でないのかを明確にする努力は不可欠です。立法府としても、その状況を注視していかなければなりません。
最終的には、完全廃止あるいは抜本的な改正を目指したいという思いはあります。しかし、そのためにはきっかけが必要です。そして現実問題として、現在の政治状況は決して追い風ではありません。
特に「子どもを守るため」という議論が強まる中で、この分野の規制はむしろ強化される方向へ向かう可能性があります。そうした政治的な空気も考慮しなければなりません。
だからこそ、関税法上の定義であったり、春画をめぐる実績であったり、あるいは個別の摘発事例であったり、そうした具体的な事実を積み重ねていくしかないと思っています。
仮に検挙が行われれば、その都度、警察や検察に対して問いかけを行う。非常に地道な作業ですが、その積み重ねなしに状況は変わりません。最高裁が既に判断を示している制度を、立法府が一気に変えることは現実的には難しいのです。
ただ、刑法175条というのは、現在も残る数少ない表現規制の法律上の遺物と言ってもよいのではないかと私は考えています。
小山:
なぜ175条を維持したいと考える人がいるのか。本当にそれが社会に蔓延すると社会そのものが駄目になると考えている人がどれほどいるのか、私は少し不思議に感じています。
もちろん、「不快だから嫌だ」という感覚はあるのでしょう。しかし、不快であることを理由に禁止するという話になれば、それは表現の自由と真正面から衝突します。
不快だと思うのであれば、それに反論するのは自由です。しかし、国家権力を用いて禁止するとなれば話は別です。本来であれば、そこには憲法上の重大な問題が生じるはずです。それにもかかわらず、175条は現在まで存続しています。
結局のところ、これは「自由」をどう考えるかという根本問題なのだと思います。他者の権利を侵害するのであれば自由に制約が加えられるのは当然です。
しかし、他者に危害を与えないのであれば、自由は最大限保障されるべきだという考え方があります。ジョン・スチュアート・ミルの「他者危害原則」もその一つです。
山田さんは長年、表現の自由の重要性を訴えてきました。だからこそ、その原則をできる限り守ろうとしているわけです。しかし近年は、「不快だから規制しろ」「国が介入しろ」という声が非常に強くなっています。
実は、その構図は国旗損壊罪の議論とも重なっています。国旗損壊罪でも、「人に著しく不快感を与える」という議論が根底にあります。
山田:
国旗を大切に思う人々の感情を保護するのだ、という理屈も、言ってしまえば、それも一種の国民感情の保護です。つまり、わいせつ表現の問題も、単にわいせつ物の定義だけの問題ではありません。
「国民感情に反するのではないか」「社会的に好ましくないのではないか」という、曖昧な空気や感情をどう扱うかという問題でもあります。そして、そうした空気と戦いながら表現の自由を守らなければならない。実は同じ構造の問題なのです。
だからこそ、現在の状況には強い危機感を持っています。本来であれば、個人の尊厳や権利といった個人法益について議論することは分かりやすい。
しかし、社会法益を理由に規制を行う場合には、誰かの利益が誰かの不利益になることもあります。社会秩序を守るという名目のもとで、国家権力が介入する余地が広がるからです。
ところが現在は、政権与党の中でも、国会全体でも、そうした議論がかなりラフに行われている印象があります。場合によっては規制強化に向かう可能性すらある。そうした意味で、今はかなり緊張感のある状況だと感じています。
ただ、少しずつではありますが、前に進んでいるとも思っています。一気に変えることは難しくても、積み重ねるしかありません。そして、そのためには仲間を増やしていく必要があります。
実際にこの分野に取り組んでみると、想像以上に仲間が少ないということも分かりました。しかし、諦めてしまえばそこで終わりです。だからこそ、これからも取り組み続けていきたいと思っています。
今日は国旗損壊罪と刑法175条の問題を並べて取り上げました。その理由は、今、国会周辺でどのような議論が行われているのか、その空気感を皆さんに知っていただきたかったからです。
さらにSNS規制や匿名表現の自由の問題もあります。匿名表現の自由については、通信の秘密との関係でも極めて重要な問題です。しかし現実には、野党を含めて規制強化を求める声が非常に大きくなっています。
「秩序が乱れているのではないか」という仮説のもとで、秩序強化がかなり軽い感覚で議論されている。それが今の状況だと思っています。それでも、できる限り頑張って取り組んでいきたいと思っています。
小山:
匿名表現の自由について一言だけ付け加えると、私はかなり危機感を持っています。マイナンバー制度やスパイ防止法の議論では「監視社会になるのではないか」という声がよく上がります。
しかし、匿名表現の自由をなくすということは、インターネット上の監視そのものにつながりかねません。それにもかかわらず、「匿名表現の自由は重要だ」と主張する人が、野党も含めて驚くほど少ないのが現状です。
匿名表現の自由は、ネット上のプライバシーだけでなく、表現の自由そのものと直結しています。だからこそ、その重要性について声を上げていかなければならない時期が、思っている以上に近づいているのではないかと思います。
山田:
そこはまた改めてしっかり取り上げたいと思います。実際、私は党内でも「選挙だって匿名表現ですよね」と話しています。投票用紙に自分の名前を書いて投票するわけではありませんからね。
極端な話をすれば、街中で全員が名札を付けて歩けという議論にもなりかねない。ところが、ネット空間についてはそれに近い議論が平然と行われているのです。
多くの人は、「そんなことにはならないだろう」と楽観的に考えています。しかし政治の世界は、一度流れができると一気に傾くことがあります。今はまさに、そうした空気が強まっているように感じています。
ということで、今日は予定時間を少し超えてしまいましたが、この辺りで終わりにしたいと思います。
また国旗損壊罪やその他の表現規制に関する動きがあれば、その都度お伝えしていきたいと思います。厳しい状況の中ではありますが、引き続き取り組んでいきたいと思います。本日はありがとうございました。


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