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2017年3月29日 (水)

まぼろしの創造古代尺 ― 「奈良尺」も無かった ―

まぼろしの創造古代尺
「奈良尺」も無かった
【誤り訂正のお知らせ(2021/08/19)】
 六九四年に築造されたとされる藤原宮で「一尺29.5cm」のモノサシが出土していましたので、訂正告知記事 自説訂正:「奈良尺」は存在した―藤原京と「(本)薬師寺」のコンセプト― 2021年8月19日(木) によって誤りを訂正いたします。
 なお、下記の要訂正ブログ記事は、訂正のお知らせを入れて、そのまま掲載しておきます。
検討すべき尺度―“古韓尺”・“奈良尺”・“高麗尺”に現物はない― 2018年9月30日 (日)
まぼろしの創造古代尺 ― 「奈良尺」も無かった ― 2017年3月29日 (水)
【誤り訂正のお知らせ(2021/08/19)終わり】

“高麗尺(こまじゃく)”はなかったとされている。

“高麗尺”は人によって長さが違う。

明治の建築史家東京帝国大学の関野貞は356.4㎜、法隆寺の解体修理工事報告書を担当した竹島卓一は359.7㎜という(川端俊一郎著『法隆寺のものさし』ミネルヴァ書房、2004年2月25日、P.93 表2-5に依拠した)。

しかし、計量史家の間ではとうに高麗尺は否定されている。小泉袈裟勝の『ものさし』(昭和五二年)は、高麗尺の実物はこれまでひとつも発見されていないこと、またそれが建築に用いられたという「痕跡もない」(七四頁)ことを指摘した。同じく「高麗尺はなかった」としながらも、その代わりに「古韓尺」なるものを想定したのは、新井宏の『まぼろしの古代尺』(平成四年)であるが、その一尺二六九㎜とは、実は一材のことであり、古韓尺が実存するわけではない。(前掲書『法隆寺のものさし』P.93

“高麗尺”は小泉氏の『ものさし』の指摘通りである。名指しは控えていたが「あやしいのは“高麗尺”だけではない」と言っていたのは新井氏の“古韓尺”のことであった。

私のあやしいといった根拠は、川端氏の「一材」だというものではなく、“古韓尺”は隋の「開皇官尺」・唐尺(296.3㎜)の九割であるというものであった。

私は「尺度相関マトリックス」というものを使って、これらを見出している。

表計算ソフトを使って、あらゆる尺度(実在するもの、しないものを含む)を縦と横に並べ、それぞれの尺度で割った表である。

今回、James Macさんから「宋氏尺」(245.68㎜)のご教示をうけたので、さっそく「尺度相関マトリックス」に入れてみたところ、「奈良尺」(294.85㎜、曲尺10/33m0.973倍)は、この「宋氏尺」の1.2倍であった。つまり、「奈良尺」とは「宋氏尺」の1.2倍を基本単位にして使用したものを誤認したのである。前期難波宮内裏前殿の尺度を292㎜前後の“唐大尺”としたことも同じ過ちである。これは「魏尺(正始弩尺)」(243.0㎜)の1.2倍、291.6㎜の誤認なのである。

薬師寺金堂を解体修理した大岡實建築研究所のホームページに次のような記載があった。少し長いが抜粋引用する。
………………………………………………………………………………………………………………

「最初に建築小委員会で話し合ったとき、まず気のついたことは、上層(一階を慣例にしたがって初層とよび、二階を上層とよぶ)の主要の柱が初層から通っていると考える必要は全然ないということであった。普通の二階造りの構造のように土居盤(柱受けの材)を置いて柱を建てれば二重目の平面の大きさは自由になるということである。更に考えて見れば、永祚元年八月十三日夜の暴風に縁起は「為大風被吹落也」とあり、今昔物語には上層が吹き上げられて講堂の前に落とされ、しかも「片瓦一木不損」と言って薬師三尊の徳をたたえている。これは明らかに一重と二重が別構造であったことを示しているのである。既に昭和初年の論文で「上層だけが吹き上げられたということは、二重二閣であった金堂の構造を暗示しているように思われる」と書いておきながら、二九年の時はそれを忘れて一重目の柱を通したために苦労したのである。特に初層の柱を上に通すと上層の奥行が非常に狭くなって困ったのであるが、上層の平面の大きさが自由になれば形がややとり易くなったが、それでも二重目の奥行は比較的狭く、形をとるのに苦心があった。

さて二重目の柱間寸法が自由になったと言っても、それをきめるのには何等かの基準がほしい。今回実際に復元設計をするに当たって種々検討の結果、柱間寸法の決定には或基準の単位寸法のあることが判った。昭和初年の復原研究のときに初層の裳階柱の本柱からの出は、礎石間の実測からどうしても奈良時代の尺度で六尺二寸五分になる(奈良時代の尺度は最近まで用いられていた曲尺より稍縮んでいて薬師寺金堂の場合礎石間を実測して得た寸法から出した平均値は九寸七分三厘位が一尺であった)ところが奈良時代建物の柱間寸法の決定には完数の用いられるのが原則で、端数があっても五寸どまりであるのが一般である。それで裳階の柱間に六尺二寸五分という端数のあるのに不審をいだいたが、昭和初年のときは「やや端数に過ぎる感じがないでもないが、中の間十二・五尺の二分の一と考えると、そう不都合ではない」と書いているが今回の検討で金堂の東西方向(堂は南面する)の中央の三つの柱間が前記のように十二・五尺で、その十分の一の一尺二寸五分という寸法が、単位の基準寸法であることに気がついた。中央の三柱間の両脇各々二柱間は奈良尺の一〇尺で、これは一・二五尺の八倍。(南北方向の四柱間も一〇尺)裳階の出六・二五尺は単位寸法の五倍である。

これによって金堂の平面寸法決定の基本を把握することが出来た。それで二重目の柱間寸法も、この基本によるべきであることは当然である。内陣柱を通したのでは上層が小さくて困ることが既にわかっているのであるから、上層の外側の母屋柱筋は内陣柱筋より外に出さなければならないのは当然で、その出す寸法は基準の一・二五尺の倍数とすべきことも当然である。それで基準寸法の一倍、二倍、三倍という風に、出す寸法を変えた図面を数種類書いて、小委員会で相談した結果一倍の一・二五尺を前後、左右に出した案が最も適当であるとの結論に達した。上層平面の全体の大きさはこれで決定したが、その柱間の数を何間にするかについても何枚か図面を書いて検討し、結局東西方向五間南北方向二間に決定した。」          
………………………………………………………………………………………………………………

このように奈良尺の1.25倍を基本寸法としてつくられているとされている。

つまり、薬師寺金堂は「宋氏尺」(245.68㎜)の1.5倍が基本寸法なのである。

以上のように、わが国で“創造”された古代尺、“高麗尺”、“古韓尺”、さらには不動にみえた「奈良尺」までもがまぼろしとなったのである。

これらの古代尺を“創造”された方々は、私が言っている次の言葉をかみしめてもらいたいものである。

「どんな尺度が使われたのか」という問題は、「どれだけの長さのものが使われたか」という問題ではなく、「存在する尺度のうちのどれが使われたか」という問題なのである。うまく説明できる新しい尺度を“創造”しても「問題に答えたことにならない」のである。

【付記】
大岡實建築研究所の方々は、解体修理を考えているだけであり、「どんな尺度が使われたのか」という問題に関わっているわけではありませんから、私が苦言を呈している対象ではありません。誤解がないように一言申し添えます。また、引用させていただいた貴重な情報を開示してくださっていることに感謝申し上げます。

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