「知実のアオテアロア紀行」(『編集者・石川知実の静かな生活』)
あたしにとってニュージーランドは第二のふるさとと言って良い国だ。
大学の時、半年間の短期留学でニュージーランドのオークランドに滞在した。それ以来、定期的に通っている。そして今回、仕事で出張することとなったのだ。
実はあたしが携わっている雑誌『アートライフ』が、意外なことに海外でも読まれていて、台湾、上海、香港に続いてニュージーランドが上位に入っているのだ。
もともと『アートライフ』は紙媒体オンリーの発行であったが、コロナ禍の時に小早川編集長の判断で、電子版を発行すると共に、英語のウェブ版を公開するようになったのだ。英語のウェブ版はダイジェスト版だが無料で公開しているので、これで雑誌の存在を知った海外の読者が、電子版を購入してくれるようになったのだ。
最近だと電子版なら簡単に自動翻訳で読めるということもあり、日本語の分からない海外の読者にも読んでもらえるようになっているようだ。編集者としてはそれだけでもありがたいことだが、ニュージーランドではハードコピーで入手したいという読者も一定数いて、現在では現地のいくつかの書店に販売を委託している。
今回の出張は、そうしたニュージーランドの書店のあいさつ周りをするかたわら、現地での需要について聞き取り調査することが主目的だ。そしてそれに加え、ニュージーランドのアートに関する取材も用務に加えてもらったので、先住民の伝統文化の取材も行うことになった。これはきっと、あたしがニュージーランドに愛着を持っていることを知っている小早川編集長が、温情をかけてくれた結果だろう。
そういう訳で、ニュージーランドではウェリントン、チャタム諸島、オークランドの三か所を巡る旅程となった。このうちチャタム諸島はあたしのリクエストで、もちろんこれまで行ったことがなく、しかも滅多に行けない場所だ。
成田空港を夜に出発するニュージーランド航空の機内に乗り込んだ。以前は白色のボディに青色のラインが描かれた配色だったが、現在は白色のボディに、機体後部が黒く塗られた「オール・ブラックス」配色となっており、よりシックなデザインとなった。
ニュージーランド航空はキャビンのインテリアもおしゃれで、機内での滞在も快適だった。機内食とともに白ワインを三杯頂き、心地良くなったところで眠りについた。
朝になったところでオークランド空港に着いた。飛行機を降りると、空港のあちこちに「kia ora(こんにちは)」などの、先住民のマオリの言語の表記を見ることが出来た。マオリ語は英語とともにニュージーランドの公用語に位置付けられているが、この十年ほどでマオリ語の表記が増えているように感じる。
なおニュージーランドはマオリ語で「Aotearoa(アオテアロア)」と呼ばれるが、これは「長く白い雲(がたなびく土地)」という意味だという。最近ではニュージーランドの国名をアオテアロアと呼ぶ人たちも増えてきたということなので、あたしもそれにならってこの記事ではアオテアロアの呼称を用いることにしたい。
さて入国手続きを済ませ、荷物を引き取って税関と検疫を通過し、国際線の出口を後にした。それからすぐにスーツケースを開けてダウンジャケットを取り出した。日本を発った時、向こうは夏だったが、こちらは冬だ。そして歩いて十分ほどかけ、隣の国内線のターミナルに向かった。
ウェリントンはオークランドから国内線で一時間ほどの距離だ。アオテアロアの首都であるが、日本からの直行便はないので国内線に乗り換える必要がある。国内線は小型のジェット機で、あっという間にウェリントンに到着した。
現地は雨だった。オークランドより南にあるためか、より寒く感じる。あたしは空港からバスに乗り、予約したホテルの近くのバス停で降りた。荷物もあったので傘は差さずに歩き、ホテルにチェックインした。チェックイン時間よりも少し早めの到着だったが、部屋に入れてくれたのでありがたかった。
まだ午後の早い時間だったし、アポイントメントがあるのは明日なので、簡単に荷解きをした後、博物館に行ってみることとした。幸いなことに、その頃には雨は小降りになっていたので、ベレー帽とダウンジャケットだけで雨をしのぐことにした。大体、こちらの人たちは傘をあまり差さないので、それにならったというのもある。
留学していた時、みな傘を差さないので、なぜか聞いてみたことがあったが、返ってきた答えは、
「だって、溶けるわけじゃないでしょ?」
というものだった。そのあたりのおおらかさは外国ならではなのかもしれない。
さてウェリントンには国立の博物館がある。その名を「テ・パパ・トンガレワ(Te Papa Tongarewa)」という。ウォーターフロントに建つモダンなビルディングで、展示の主体はマオリの文化だ。それも歴史的なものだけでなく、モダンアートも合わせて展示されている。まさにマオリの文化が生きている文化であることを表現した展示である。
聞くところによると、二〇二〇年に北海道に新しく出来た「ウポポイ(民族共生象徴空間)」と「国立アイヌ民族博物館」も、この博物館を参考にしたという。アオテアロアと北海道、ともに先住民との共生が重要なテーマである土地だけに、共通点も多いのかもしれない。
テ・パパ・トンガレワはあたしにとって二度目の訪問であるが、今回注目したのはチャタム諸島のモリオリの文化に関する展示であった。これまでもモリオリの展示はあったのだと思うが、多分見落としていた。今回、チャタム諸島を訪問することにしたので、初めてその存在を意識したのかもしれない。
ここで簡単にチャタム諸島とモリオリについて触れておきたい。
チャタム諸島はアオテアロアの南島の東、約一〇〇〇キロメートル離れたところに位置する、まさに南太平洋の絶海の孤島である。そしてその先住民がモリオリと呼ばれる人々である。
モリオリの起源は、アオテアロアの先住民マオリと同じく、ポリネシア系の集団と考えられている。今から約七〇〇年前に、タヒチ周辺にいたポリネシア系の集団がカヌーで海を渡り、アオテアロアにたどり着いたのがマオリ、チャタム諸島にたどり着いたのがモリオリになったと考えられている。
その意味でマオリとモリオリは兄弟のような関係にあり、その言語や文化も似ているのだが、違っているところもある。例えば、マオリの集団は首長によって統率された階層的な社会であり、また集団間で頻繁に戦争を行う好戦的な社会でもあった。そのため後からやってきたヨーロッパ人たちもマオリを軍事的に完全に圧倒することは出来ず、一八四〇年にイギリスとマオリの間で「ワイタンギ条約」が結ばれ、アオテアロアはイギリスが支配するところとなった。この条約は現在でも有効であり、近年でもその条約の解釈をめぐって議論が続いているが、本題から外れるためここでは詳細は割愛する。
一方のモリオリは、首長といったリーダーが存在しない平等社会であり、また戦争をはじめ暴力の一切が禁止される平和社会であった。こうした社会制度は、伝説に登場するいにしえの首長の名を取った「ヌヌク・フェヌア法」と呼ばれる法によって守られていた。
モリオリがこのような社会を持つにいたったのは、チャタム諸島が資源の乏しい、きわめて厳しい自然環境にあるためと考えられている。チャタム諸島の気候は冷涼で、アオテアロアの主食であったサツマイモをはじめとする、ほとんどの農作物を栽培することが出来なかった。そのためモリオリの生業は、アホウドリや海獣、海産物を対象とした狩猟採集に依存していた。そうした厳しい環境の中で人々が生存するためには、仲間内で戦争をしている場合ではなく、みなで団結して自然に立ち向かっていく必要があったのだ。
しかしこうしたモリオリの平和平等主義が、結果的に彼らに悲劇をもたらした。一八三五年、ヨーロッパ人から入手した船とマスケット銃を携えたマオリの一団がチャタム諸島に上陸し、侵略を始めた。彼らは手始めに、モリオリの少女を捕らえて殺し、その死体を柱に吊るして見せしめにした。彼らはモリオリたちを虐殺し、陵辱し、拷問にかけ、さらに食人まで行った。生き残ったモリオリは彼らの奴隷とされ、その言葉も文化も奪われた。一八六〇年頃になるとこうしたモリオリへの虐待は止んだが、かつて二〇〇〇人ほどだった人口は一〇〇人ほどにまで激減していた。その後もモリオリの数は減り、一九三三年には最後の「純血」のモリオリとされるトミー・ソロモンが亡くなった。
博物館には、彼らモリオリの残した文化に関するものが展示されていた。それは石器や、骨で作った狩猟具、さらにアホウドリを表現した彫刻が彫られた木の柱などである。そうした展示物を見る限り、マオリのそれに比べるとはるかに素朴なものに見える。例えばマオリの彫刻では、渦巻き文様をモチーフとした複雑で細密な表現が施されているが、モリオリの彫刻ははるかにシンプルである。
しかしモリオリの文化において最も特徴的なものは、生きている樹木の表面に彫刻を施した「デンドログリフ」と呼ばれるものである。博物館にもいくつかの資料が展示されていたが、言うまでもなくそれはもはや「生きている樹木」ではない。チャタム諸島には、かつて森の中にこうした彫刻を施された樹木が無数にあったのだという。それはやはり、現地に行ってみないと実感することが出来ないものだろう。
テ・パパ・トンガレワを出る頃には夕方になっていた。こちらは冬なので日が暮れるのも早い。やや早い時間であったが、夕食をとることにした。
グーグルマップで調べると、近くにクラフトビールを出すバーがあるのが見つかったのでそこに向かうこととした。
店は地下にあり、やや薄暗い店内であるがアンティークな雰囲気がある。ここは店内でビールを作っている、いわゆるブルーバーではなかったが、各種のクラフトビールのケグ(樽)を取り揃えていた。あたしは一杯目として、地元ウェリントン産のヘイジーIPAをパイントで頼んだ。フードにはフィッシュ&チップスを選んだ。
最初はあたし一人だけだったが、やがて人が増えてきた。またここはライブも行っているようで、一時間ほどするとジャズバンドの生演奏が始まった。ビールと音楽を楽しみ、パイントを四杯頂いたところで店を出た。その日は長旅の疲れもあったのですぐに眠りについた。
翌日の午前はウェリントンの書店を訪れた。ここは『アートライフ』の委託販売をしてもらっている店である。
「ジャネットさん、ごぶさたしています」
「トモミ! お元気そうね。来てくれてうれしいわ」
ここの店主のジャネットさんは小柄な白人の女性で、年齢は七十代くらいだろうか。この店ではアート系の書籍を重点的に取り揃えていて、『アートライフ』も平置きで陳列してくれていた。
この店が『アートライフ』を取り扱ってくれるようになったのは、あたしがコロナ禍の直前の二〇二〇年二月に、たまたまここを訪れたのがきっかけだった。あたしは海外の街でも書店探しをするのが常であるが、この店に入った時に店主のジャネットさんと親しくなり、その時に『アートライフ』の一冊を置いていったのだ。あたしとしては名刺代わりに渡したものであったが、数日後にメールで「委託販売させて欲しい」と連絡が来た。そこで最新号とバックナンバーをいくつか送ったのであるが、すぐに追加発注の連絡が来た。それからは小部数ではあるが毎号、取り扱ってもらっている。
「あなたの雑誌、とても評判よ。それ目当てで通ってくれるお客さんもいるんだから」
ジャネットさんは紅茶とジンジャークッキーをふるまってくれた。あたしたちはソファーに座りながらくつろいでいて、店内はあたしたち二人だけだった。
「それはとてもうれしいです。やっぱり、お客さんは常連さんが多いのですか?」
「そうね。定期的に店に来て、ここでお茶を飲んで行くお客さんも多いわね」
「それはいいですね!」
「最近は欲しい本はネットで買う人が多いけど、ここに来るお客さんは、特に目当ての本がなくても、店の品揃えを見て気に入ったのがあったら買って行くという人が多いわね」
それは日本でも同じかもしれない。書店の数が少なくなっていく一方で、こうしたセレクトショップ的な書店に注目があたるようになってきたのが昨今の状況だ。
小一時間ほど歓談した後、アオテアロアの工芸の本を三冊買い、おいとますることにした。
「また気軽に来てね」
と送り出すジャネットさんの様子は、まるであたしが来月にでもまた来るかのような気軽さだった。キーウィ(ニュージーランド人)の、このウェットさのない距離感が、あたしには心地良い。
この日の午後は特に予定もなかったので、美術館を観たり、街歩きをしたりして過ごした。外の気温はそこそこ寒く、時々通り雨も降ったが、この日も傘は差さなかった。
日が暮れた頃に、あらかじめ当たりを付けていたクラフトビールのバーに行ってみたが、あいにくその日はプライベート・ファンクション(貸切)だったので入れず、第二候補のバーに行ってみた。そこは店内で醸造も行っているブルーバーで、カウンターに付いて、チーズたっぷりのピザをつまみにクラフトビールをパイントで四杯飲んだ。そしていい気分になったままホテルに戻り、眠りについた。
翌日は移動日だ。午前十時にチェックアウトし、ウェリントンの空港に向かう。ここからチャタム諸島行きの国内線に乗るのだ。
チャタム行きのフライトはオークランド、ウェリントン、クライストチャーチなどから出ているが、いずれも週一便しか運行がない。そのため通常だと一週間は行きっぱなしになるのだが、各都市の発着便は曜日が違い、今回の旅ではウェリントン-チャタム諸島-オークランドという旅程にしたので、チャタム諸島には三泊四日で行ってくることが出来る。
チャタム航空のカウンターでチェックインの手続きを済ませるが、なんと搭乗券には座席番号が書かれていない。まあ、離島のフライトだと客を体重計に乗せ、重量配分を考えて席につけることもあると聞いていたので、きっとそういうことなのだろうと思った。
チャタム諸島行きの飛行機は、思っていたほどの小ささではなかった。客は二十人ほどであろうか。体重計に乗る必要はなく、なんと自由席であった。なお客席の後ろ半分は仕切られていて、荷物が乗せられていた。おそらく乗客の荷物ではなく、島に運ぶための様々な郵便物や貨物なのだろう。まさにこの飛行機が、チャタム諸島の人々にとってのライフラインなのだ。
フライト時間はおよそ三時間で、意外と長かったが、やはりそれだけ離れているということなのだろう。驚いたのは本土との間に45分の時差があることだ。どうしてこんな中途半端な時差があるのか謎だが、着陸する頃には陽も落ちてすっかり暗くなっていた。
チャタム諸島の空港は本当に小さな空港で、預け荷物を引き取るところにもベルトコンベアなどはなく、係員が運んできた荷物をただ置いていくだけであった。あたしは自分の荷物を引き取り、外に出た。
もちろん空港から市内への公共交通機関などなく、タクシーすらいなかった。そのかわりに迎えの車がたくさん並んでいた。
「トモミ?」
三十代くらいの大柄な白人の女性が話しかけてきた。
「はい。ホテル・ワイタンギのジュリーさん?」
「はい、ジュリーです。ようこそチャタムへ!」
事前にホテルとはメールでやり取りしていたので、スムーズに出会うことが出来た。あたしは彼女の運転するランドクルーザーで、真っ暗な道を一路、ホテルに向かった。
道すがら、彼女とチャタム諸島での滞在について話した。明日からのガイドも彼女がつとめてくれるとのことである。明日は午前に博物館を見た後、午後にくだんの「デンドログリフ」がある森に案内してくれることになっている。そして明後日の午前はチャタム諸島在住のアーティストへのインタビューのアレンジをしてくれていて、午後はアポイントメントがないので島の観光でもしましょう、ということになった。そしてその次の早朝にはもうオークランド行きのフライトに乗らなければならない。三泊四日といっても実質二日なので、けっこう忙しくなりそうだ。
一時間ほどして、ホテルのあるワイタンギの町に着いた。ただ、すっかり暗くなってしまったので町の様子はよく分からなかった。そのまま車は海沿いのホテルに向かった。
ホテルに着いて、さっそく夕食を用意してもらった。ワイタンギにはレストランなどほとんどなく、しかもこの時期はオフシーズンとのことなので、実質的に開いているのはこのホテルのレストランだけのようである。
ところが驚いたのは、ホテルのバーにはちゃんとビールのタップが用意されていて、チャタム諸島で醸造されたビールを出していたのだ。あたしは迷わず一杯頼んだ。すっきりした味わいのエールだった。
食事のメニューの選択肢は限られていたが、スパイスカレーがあったのでそれを頼んだ。ラムの入ったインド風で、二杯目のビールとともに美味しくいただいた。
あたしの他に宿泊客の気配は感じられず、最初は一人だけだったが、そのうちバーの方に人が集まり始めた。どうやら地元の人たちらしく、ここは町の居酒屋や社交場を兼ねているようだった。彼らも、東洋人の女性が一人で泊っているのに気が付いて、おそらくこちらを意識しているように感じられたが、適度な距離感で放っておいてくれたのでありがたかった。
翌朝は七時に朝食だった。パンに、卵のサニーサイドアップとソーセージとポテトフライを用意してもらった。食卓にははちみつの瓶が置かれており、自由に取って付けて良いとのことだ。はちみつはチャタム諸島の特産品でもあるのだという。
九時に出発とのことで、ジュリーさんといっしょにランドクルーザーに乗った。最初の訪問地の博物館は町の中にあり、ものの一、二分で目的地に着いた。
博物館では五十代くらいの白人の女性が出迎えてくれた。細身で、髪はベリーショートにしている。
「ようこそチャタム諸島博物館へ。私は学芸員のサンドラ・モリスンです」
「サンドラさん、はじめまして。石川知実と申します。今日はいろいろと教えて頂ければうれしいです」
「ではまずは展示をご案内しますね」
展示室はそれほど大きくなかったが、展示はきれいで新しかった。数年前にリニューアルしたのだという。内容は半分がモリオリの文化、残り半分が白人が入植してからの歴史に関するものだった。
展示室の中心に置かれた筏を前にしてサンドラさんが説明してくれた。
「モリオリは、アオテアロアのマオリと同様、ポリネシア系の民族ですので、もともとはカヌーを作る文化があったはずです。しかしこの島にはカヌーを作れるだけの大きな木材がなかったので、このような小さな筏に変わってしまったと考えられます」
「このサイズの筏だと、海に出て行くのも難しいでしょうね」
「はい。この筏はもっぱら沿岸で漁をするのに用いられましたが、遠洋航海は出来なかったようです」
「じゃあ、モリオリは他の島に行くことはなかったのですね」
「はい。この島は一九世紀までほとんど外の世界との行き来のない、孤立した世界だったと考えられます。モリオリの独特な文化が育まれたのも、そのためだと考えられます」
そしてサンドラさんはモリオリの展示の最後のところで、こう語ってくれた。
「モリオリの悲劇は、同じ先住民であるマオリに滅ぼされたということです。アメリカ大陸でも、オーストラリアでも、白人によって先住民が滅ぼされた例は数多くありますが、ここで起こったことは世界を見渡しても、他に例がありません」
「そうですね……痛ましいです」
「しかしこのことは、私たちパーケハー(白人)に責任があるのです」
「どういうことですか?」
「マオリにマスケット銃を渡したのは私たちヨーロッパ人だったからです。私たちの祖先であるイギリス人たちは、マオリの首長たちと取り引きをして、アオテアロアで活動する見返りにマスケット銃を売ったのです。それによってマオリの部族間の軍拡競争と抗争が激化し、結果的に多くのマオリの生命が失われました」
「モリオリに対して使われたのは、そうしたマスケット銃だったのですね」
「そうです。パーケハーは、先住民たちを同士討ちさせたのです」
「そこにつけ込んで、アオテアロアを侵略したのですね……」
「そうです」
あたしはその話を聞きながら、北海道でも和人とアイヌの間で同じようなことが起こっていたことを思い出していた。
ひと通りサンドラさんに展示の解説をして頂いた後は、記事にするためのいくつかの質問項目について、博物館のオフィスでインタビューさせて頂いた。あたしの質問に対して、ひとつひとつ丁寧に答えてくれたので、とてもありがたく思った。合わせて二時間ほど滞在した後に、サンドラさんにお礼を言って、あたしたちは博物館を後にした。
「お昼前に、コーピンガ・マラエに寄って行きますね」
あたしたちの乗る車は、ワイタンギの町を出て南に向かった。コーピンガ・マラエとは、モリオリの子孫たちの文化復興の拠点として二〇〇五年に建てられた施設だという。
純血のモリオリの血統は、前述のとおり二〇世紀前半に途絶えてしまっている。しかしモリオリの血を引く子孫たちは、現在でもこのチャタム諸島やアオテアロア本土にもいるのだという。近年、彼らの権利回復の運動も活発になってきており、コーピンガ・マラエはそうした活動の拠点として用いられているのだという。
あいにく今回は、コーピンガ・マラエの担当者が不在とのことで、話を聞くことは出来なかったが、建物を外から見学するのは構わないとのことだった。
町を離れて十分ほど走ったところで、車は脇道に入った。そしてその奥に、白い建物が見えてきた。
「着きました。ちょっと周りを見てみましょう」
ジュリーさんが庭の方に歩いて行くので、あたしもそれについて行った。
コーピンガ・マラエの建物は、左右にウイングが延びた構造で、その裏側が芝生の庭となっていた。あたしが知っていたマラエとはだいぶ様子が違っていた。
マラエというのは、アオテアロアのマオリの集会所のことである。もともとは宗教的な行事を行うための、いわば神殿のようなものであったらしい。アオテアロアのマラエの多くは切妻屋根の木造の建物で、柱や壁にはおびただしく細かい彫刻が施されている。
ところがコーピンガ・マラエには、アオテアロアのマラエのような彫刻もなく、伝統的というよりモダンな印象を受けた。
「この建物を上から見ると、アルバトロス(アホウドリ)が翼を広げたようなデザインになっているそうです。アルバトロスは、モリオリにとって象徴的な生き物だからです」
「アオテアロアのマラエとはだいぶ雰囲気が違いますね」
「はい。モリオリのマラエがどのようなものだったのか、資料も少なくてよく分かっていないようです。このマラエは、モリオリの未来を象徴するものとして、新たに創造されたものだと聞いています」
文化の復興というと、あたしはなんとなく古いもの、伝統的なものを復活させるというイメージを持っていた。しかしモリオリの人々は、むしろ新しい文化を作ろうとしているのだ……と思った。
コーピンガ・マラエを後にしたあたしたちは、次の目的地である「デンドログリフ」の森に向かうこととした。先ほど来た道を戻り、ワイタンギの町を通り過ぎて、さらに北に向かって車を走らせた。
昨日、空港から町に向かう時にもこの道を通っているはずだが、その時は暗くてほとんど景色を見ることが出来なかった。今はひたすら一本道を走っているが、視界に入るのは広大な牧場と、湿地帯がひたすら広がる光景だった。
あたしはこの光景にどこか見覚えがあった。そう、北海道の風景に似ているのだ。それも標津とか根室とかの、道東の風景だ。あたしが生まれ育ったのは札幌だったが、親類が標津にいたので、道東にもなじみがあった。
チャタム諸島の緯度は南緯44度だ。知床半島の緯度が北緯44度なので、南半球と北半球の違いはあるが、ちょうど同じくらいの緯度にあることになる。
ちょうどお腹が空いてきた頃に、ジュリーさんは車を停めた。そこはちょっとしたビューポイントになっており、湿地帯を見下ろす場所に東屋があったので、そこでお弁当を頂くことになった。
お弁当はジュリーさんが用意してくれていたサンドイッチだった。シーチキンをはさんだものとスパムをはさんだものの二種類で、シンプルな味だったがこの雄大な景色を眺めながら食べるのだから、ぜいたくなごちそうだった。
湿地帯には木道が整備されていたので、サンドイッチを食べ終わったあたしたちは周囲を散策した。青空にたなびく雲と、万華鏡のようにきらめく湿地帯を写真におさめようとした時、何かが地面にあるのに気が付いた。
「あっ……!」
あたしは思わず後ずさりした。それはホルスタインの死体だった。鳥についばまれたのか、腹が破れて中身が外に出ていた。
「……近くの牧場から迷い出てきた子のようですね」
「……ああ、驚いた」
「時々、あるんです。牧場の牛にはタグが付いているので、調べれば持ち主も分かるはずです。いちおう私の方から、組合に連絡をしておきます」
そういうとジュリーさんは携帯電話を取り出し、死体の発見の状況を報告した。
あたしはその様子を見ながら、この土地で生きることは決してのんびりしたものではないと思った。そういう意味でも北海道と似ているのかな……と思った。
さらに車は島の北東部に向かって走り、ようやく目的地の「ハープープー国立歴史保護区」に着いた。車を停め、遊歩道をたどって歩くと林の中に入って行った。
「ここがデンドログリフを見ることが出来るコーピの林です。コーピはここに生えている木の名前で、その実はモリオリにとって貴重な食料でした。この林はモリオリによって人為的に植林されたものと考えられています」
「つまりモリオリはこの木を栽培していたのですね」
「そうです。ここチャタム諸島は寒冷で土地も痩せているので、アオテアロアの主食だったクマラ(サツマイモ)もうまく栽培出来なかったようです。モリオリにとって、このコーピの木が唯一の栽培作物ということになります」
やがてコーピの巨木に行き当たった。その表面にはかすかに彫刻が施されているのが分かった。それはヒトのような姿であったが、頭部はハート形をしていた。
「これが最も見やすいデンドログリフです」
「なんかコミカルな表現ですね」
「これが何を表しているのかは諸説あって、はっきりしないようです。他にも、もうほとんど見えなくなってきていますが、いくつか同じようなものがあります」
そう言うとジュリーさんは遊歩道を外れて、林の中に足を踏み入れていった。あたしもそれに付いていく。しばらくすると彼女が一本の木を指差すので、見ると、かすかに渦巻きのように彫刻されたものが分かったが、全体像はよく分からなかった。
「ここにはかつて一〇〇〇点を超えるデンドログリフがあったと言われていますが、今でも見ることが出来るのは数えるほどしかありません」
「ほとんどはもう失われてしまったのですか?」
「ええ。生きている木なので、いつかは寿命が来て枯れてしまいます。モリオリがデンドログリフを作っていたのは百年以上も前なので、もう十年、二十年ほどすると、ここにあるのはすべてなくなってしまうでしょう」
貴重なモリオリの遺産が、やがてなくなってしまうことは残念なことであるが、だからと言って今ある木をどこかに移して保存するのも違うように思う。デンドログリフにしてもコーピの林にしても、ここにあるからこそ意味があるのだ、と思った。
さらに遊歩道を進むと、海岸に出た。気が付くと空には雲が立ち込め、まだ昼間であるが暗くなってきていた。そして砂浜には大きな波が打ち寄せていて、寒々しい光景であった。
「ひと雨きそうですね。早めに車に戻りましょう」
「さっきまで晴天だったのに……天気が変わりやすいのですね」
あたしたちは早足で遊歩道を戻った。ちょうど車に乗り込んだところで、すさまじい雨音を立てて本降りとなった。
「しばらくやみそうにないので、ここは引き上げましょうか?」
「はい、私は大丈夫です」
もう少し見ていきたい気持ちもあったが、雨とともに気温もぐっと下がってきたようなので、無理しない方が良いだろう。今日のツアーはこのあたりで終わりにした方が良さそうだ。
ホテル・ワイタンギに戻ったのは四時前だったが、雨は降り続き、また日も傾いて薄暗くなり始めていた。あたしは部屋で雨音を聞きながら、ベランダの外の鉛色の海を眺めつつ、この日の取材内容をノートPCに打ち込んでいった。
七時になったので一階のレストランに降りてみると、今日も泊まり客はあたしひとりだけの様子だった。この日はメニューの中で一番高かった「あわびのパテ」を注文した。出てきたものは、あわびの身を細かく切って、それを玉ねぎなどと混ぜてバターソテーにして固めたものだった。うーん、これはメインディッシュというより酒のさかなだわ……磯の香りがするこの珍味に合わせて、チャタム諸島の地ビールを三杯飲んで、すっかり満足したところで部屋に戻って眠りについた。
次の日は午前にチャタム諸島在住の画家のインタビューがアレンジされていた。ジュリーさんの運転するランドクルーザーで町を出て北に三十分ほど走り、途中で脇道に入るとその奥に小さな建物が見えてきた。これがイローナさんのアトリエである。
「トモミさん、ようこそ。まずは私の作品を見ていってください」
イローナさんは三十代後半か四十代前半くらいの、丸顔の女性だった。そしてアトリエの中には、色とりどりの絵具が塗られたカンバスがところせましと飾られていた。
彼女の作品は、言ってみれば抽象画になるのだろう。多くは正方形の10号ほどの、それほど大きくない作品だが、原色の絵具が山盛りになるほど塗られていた。
「ガッシュという不透明水彩絵具を使っています。これはどんどん上に重ねていくことができるので、こんなふうに立体的なマチエールを作ることが出来ます」
たしかに盛り上がっている箇所をよく見ると、単色の絵具が厚塗りされているのではなく、違う色の絵具が何層も重ねられていることが分かった。
あたしは事前にジュリーさんに、チャタム諸島在住のアーティストについて問い合わせをした時、彼女は何人かの作家を紹介してくれたのだが、その中でもイローナさんのものが最も気に入ったのだった。正直、絵画はあたしの専門外だし、『アートライフ』も工芸が中心の雑誌なので、イローナさんのアートは範疇から外れるのだが、あたしはそこに工芸的なセンスを感じたのだった。
「素晴らしい作品ですね。写真で見るよりも、実物はさらにこちらに迫ってくるものがありますね」
「ありがとう! そう言って頂けるととてもうれしいわ」
「イローナさんはもともとチャタム諸島の方ではないって伺っていますけど……」
「ええ、生まれはオークランドです。母方の祖母がマオリなので、四分の一、マオリの血が入っています」
「チャタム諸島に来られたのはいつですか?」
「二十五の時なので、もう十年以上たちますね」
「チャタム諸島に住むようになったことで、イローナさんのアートにはどのような影響がありましたか?」
「私の作品を見ていただいてお分かりの通り、モリオリの文化を直接的に取り入れて、それを表現することはしていません」
「それはなぜですか?」
「それをしてしまうと、文化の剽窃(アプロプリエーション)になるからです」
「なるほど」
「私自身はパーケハーでありマオリでもあります。しかしどちらも、モリオリにとっては加害者側です。その私が、モリオリの文化から何かを借用することは、はばかられることなのです」
「ではイローナさんは、モリオリの文化からは意図的に距離を取ろうとされているのですか?」
「いえ、必ずしもそうではありません。私はモリオリの文化に敬意を払い、そして私がここに住んでいること自体、彼らの家に居候させて頂いているというような気持ちを持っています」
「そうなんですね」
「私はこの島に住み、モリオリの文化に触れ、そこで得た体験を一度、腑に落ちるまで自分の中で咀嚼してから、それを作品に表現するように心がけています。その意味で、抽象画というスタイルは私にとってとても好都合なのです」
確かにイローナさんの作品は、その表現自体からはチャタム諸島という在地性のようなものは感じられない。しかしその作品はまぎれもなく、このチャタム諸島の風土から生み出されたものであることも感じることが出来る。この両義的な感覚こそが、彼女の作品の個性なのだと感じた。
あたしはこの後、記事を書くために必要ないくつかの事柄についてインタビューさせて頂いた後、雑誌に掲載するための作品の写真を撮影させて頂いた。
イローナさんにはお茶まで用意してもらい、すっかりくつろいでしまったが、さすがに長居しすぎるのは申し訳ないのでお昼前においとますることにした。
午後は特にアポイントメントはなかったので、ジュリーさんの提案で島の中をドライブすることとなった。島の西側に向かって車を走らせると、やがて小さな集落に行き当たった。湾に面した港町のようだが、湾内にはいくつかの座礁した船が朽ちゆくままに残されていて、ひなびた雰囲気であった。
「ここはポート・ハットという、チャタム諸島の中でも最も古い港町のひとつです。あそこにあるのはかつて捕鯨船だった船です」
「へぇー」
「ここでお昼ごはんにしましょう」
あたしたちは海に近い広場のベンチに腰かけて、お弁当を開けた。中身は昨日と同じく、シーチキンとスパムをはさんだサンドイッチで、今日はリンゴが付いていた。
「そういえば、ジュリーさんやそのご家族のことはちゃんとお聞きしていなかったですね。お聞きしても良いですか?」
「大丈夫ですよ!」
「ジュリーさんはここチャタムの生まれなのですよね」
「はい。うちの家族は十九世紀後半にここにやってきました」
ジュリーさんの祖先はもともと捕鯨に関する商売のために、ここチャタム諸島に移り住んできたのだという。その後、ウシやヒツジを飼って牧畜業にも手を広げ、今でも広大な牧場を所有しているという。さらに第二次世界大戦後にはホテルを開業し、観光業にも携わるようになって、今ではチャタム諸島でも有数のファミリーなのだという。
ジュリーさん自身は、小学校まで島で生活し、中学・高校からオークランドに移り、大学はオーストラリアに渡った。卒業後はメルボルンで観光業の会社に就職して十年ほど働いた後、家業を継ぐのもあって島に戻ってきたのだという。
「捕鯨もまた、チャタム諸島の歴史にとって避けて通れないひとコマなのです」
「そうなのですね」
「モリオリの多くがマオリに殺された後、ここチャタム諸島には白人がやって来て、捕鯨の基地にしたのです。私の祖先もそうでした」
「そうでしたか」
「捕鯨は、今ではとてもセンシティブな問題です。またこのチャタム諸島に私たち白人が入植したという歴史も、必ずしも肯定的に語られる話ではないかもしれません。それでも私は、この島にやって来て、ここに定着した祖先を誇りに思っています」
そう、今ではニュージーランドは反捕鯨の急先鋒の国のひとつではあるが、かつては世界有数の捕鯨大国であった。そうした歴史を否定するのではなく、自身のファミリー・ヒストリーの一部として受け入れているジュリーさんから、彼女の誠実な人柄を感じた。彼女はそれ以上、捕鯨の話題について深掘りすることはしなかったが、これもまた、あたしが捕鯨国である日本の国民であることを慮ったことかもしれない。
ランチの後は、島の西側を車で廻った。荒涼とした大地が広がり、遠くにゆるやかな円錐形を描く火山の輪郭が見えるような、島の中心部とはまったく異なる風景も見ることが出来た。この島の景色には、どこか人を寄せ付けない超然としたものがあることを、あらためて思った。
三時過ぎにはホテルに戻り、取材したメモの内容をPCに打ち込んだり、たまっていたメールに返信をしたりしているうちに、あっという間に外は暗くなった。七時にレストランに降りて、フィッシュ&チップスと地ビールを頼んだ。この日も泊まり客はあたしだけで、ビールを三杯飲んだところで部屋に帰って眠りについた。
翌朝は早い出立だった。まだ陽が登らないうちにチェックアウトを済ませ、ジュリーさんに空港まで送ってもらった。
「ジュリーさん、このたびは何から何までお世話になりました。ありがとうございました」
「こちらこそ、いい記事書いてくださいね!」
車から荷物を下ろすのを手伝ってくれたジュリーさんは、あたしとお別れの挨拶を交わすと、ランドクルーザーに乗り込んであっという間に帰路についた。別れ際に名残り惜しい感じになるシチュエーションが苦手なあたしにとって、彼女のキーウィらしい、さっぱりした見送り方が心地良かった。
ちょうど夜明けの太陽が登り始めた頃に、飛行機は島を飛び立った。そして三時間ほどのフライトを経て、オークランドに到着した。
オークランドの国内線空港に着いたあたしは、シャトルバスに乗り込んで市内に向かった。以前はシャトルバスは市内のいくつかの停留所を巡ってくれたのだが、バス会社の経営が変わったのか、市内中心部のスカイシティーのターミナルだけが停留所となっていた。
バスは四十分ほどかけて市内に到着した。そこから今回の宿までは徒歩五分くらいだったのでちょうど良かった。
今回宿を取ったのは、「シェークスピア」というオークランド最古のクラフトビール醸造所兼パブ、いわゆるブルーパブである。レンガ造のイギリス風の建物で、その上の階の部屋を宿泊用に貸し出しているので、そこを予約しておいたのだ。
着いたのはまだお昼前であったが、チェックインさせてくれた。荷物を下ろし、ウォーターフロントのブリトーマートのフードコートに入り、インドカレーをお昼ごはんにした。
その後、オークランド・アート・ギャラリーの近くにある書店を訪ねた。ここも『アートライフ』を取り扱ってくれているのである。
ところが店内に入ると、以前と様子が違うので驚いた。本棚にはほとんど本が並んでおらず、店内の一角にはダンボール箱が積まれていた。奥のカウンターには見慣れた男性がいて、こちらに気付くと立ち上がって声をかけてきた。
「トモミ! ようこそ!」
「ジェイソンさん、ごぶさたしています! それにしても……これは一体どうしたんですか?」
ジェイソンさんはここの店主で、年齢は四十代くらい。身長は一八〇センチくらいあって大柄で、キーウィなまりの英語を話す。
「実は、この店をたたむことにしたんだ」
「えっ……本当ですか?」
「いや、たたむと言っても実店舗だけで、これからはネット書店にするつもりなんだ。おたくの雑誌も引き続き取り扱わせていただくので、よろしく頼むぜ!」
この書店はアート・ギャラリーに近いこともあって、美術書の取り扱いが豊富で、他にも文化人類学関係の文献や占い関係の書籍も充実していて、オークランドではその方面の随一の書店と思っていただけに、店じまいは痛恨の限りだ。
「そんな寂しそうな顔するなって……この時代の変化に合わせて、何とかやっていくからさ!」
この国でも書店の置かれた状況はかなり厳しいことをあらためて思い知らされた。ことオークランドでは、店舗型の書店はほとんど撤退を余儀なくされているのだ。
「クイーンズ・ストリートのウィットコールズもなくなってしまいましたし、オークランドの書店の状況はかなり厳しいのですね」
「そうなんだ。映画館のところにあった店もなくなっちまったし、今やここオークランドに大型書店はほとんどないな」
「そうなんですか……」
「本屋の充実度で言ったら、ダニーデンかクライストチャーチの方が上かもな……」
オークランドはアオテアロア最大の街なだけに、信じられないような状況であった。
ジェイソンさんに別れを告げて店を出て、アルバート公園の坂道を登っていくと高台に出た。その一帯はオークランド大学のキャンパスだ。
日本の大学と違って、オークランド大学には門や壁がないので、街の延長にキャンパスがあるような雰囲気だ。もっともイギリスの大学、例えばケンブリッジ大学などは、大学の中に街があるような作りになっているので、これもイギリスの伝統を受け継いでいるのかもしれない。
実はオークランド大学は、あたしが大学の時に半年間、留学した学校なのだ。
あたしの大学とオークランド大学の間には留学生の交換制度があり、半年間の留学の期間に得た単位も有効になるというものだった。あたしは二回生の後期に留学した。
留学中は、半分は語学の研修で、オークランド大学と提携する語学学校での授業だったが、あとの半分は大学の正規の科目の履修が可能だった。あたしは人類学の科目を取った。その時の恩師がロジャー先生である。
実はオークランド大学は、あたしの大学の指導教授だった根本先生がサバティカルで一年間、在外研究で滞在したところで、その時の受け入れ教員がロジャー先生だった。あたしは二回生だったので根本ゼミにはまだ入っていなかったが、根本先生の授業は取っていて、留学前に相談する機会があった。それで根本先生からロジャー先生を紹介してもらったのだ。
ロジャー先生は、もじゃもじゃの口髭をたたえたサンタクロースのような風貌の方で、根本先生よりも年上で、当時六〇歳を超えていたのではないかと思う。頼ってきたあたしを先生は孫娘のようにかわいがってくれて、家に呼ばれて夕食を振る舞ってもらったことも何度かあった。しかし学生の間では厳しい先生としてもみなされていたようである。
ロジャー先生の専門は文化人類学で、アオテアロアとオセアニアがフィールドであった。当時、先生は人類学部の学部長をつとめていて、人類学部のセミナー室にはいつも多くの学生や教員が集まっていた。その中には、当時すでに第一線の研究者として活躍している人や、その後、華々しく活躍することになる人も数多くいたとのことである。そして授業が終わり、夕方になると、どこからともなく箱入りのワインとプリッツェルがセミナー室に持ち込まれ、懇親会が始まることが何度かあった。あたしはそこで、自由な学問の現場というものを知ったのだ。
ロジャー先生は、残念なことに数年前にお亡くなりになった。そのため今となってはオークランド大学に訪ねて行くあてもないのだが、キャンパスに立つと、二十年ほど前のあの時の雰囲気がよみがえってくる。
夕方になったのでいったん宿である「シェークスピア」に戻った。そして一階のパブで、ビールとフードを頼んだ。
店内は、古き良きイギリスのパブといった雰囲気だ。客層も、どちらかというと年齢層が高く、落ち着いた雰囲気がある。
ここのビールは、最近流行りのIPAよりも、むしろ伝統的なイギリスのエールやラガーを志向しているようで、あたしはサーモンのソテーを肴に、ペールエールとブラウンエール、そしてポーターを頂いた。そのままここで飲み続けても良かったのだが、あたしにはもうひとつの計画があった。
それはストリップ劇場に行くことである。
日本では梅田サクラコ先生に初めてストリップに連れて行ってもらい、そこで踊り子の鈴木千沙子さんと出会い、以来、千沙子さんを追っかけて都内の劇場のみならず、芦原温泉の劇場まで遠征に行くようになった。しかし外国のストリップは未体験だった。そこで一念発起、ここオークランドで体験してみようと思ったのである。
オークランドには、ウォーターフロントに近いダウンタウンと、山側で高台となっているカランガハペ通り、通称Kロードの周辺に何軒かの劇場があるようだ。今回はダウンタウンの「ショータイム」という劇場を選んだ。
劇場はカスタム通り沿いにあり、ダウンタウンの中心部に近いものの、周辺はどことなくあやしい雰囲気がただよっていた。あたしは少し緊張しつつも、中に入った。
受付には体格の良い男性がいて、
「一人かい?」
と聞かれたのでイエスと答えると、
「入場料は二十ドルだ。あと劇場内で使えるクーポンがあるけど、ここで換えておくかい?」
と聞かれた。踊り子さんへのチップに使ったり、飲み物を買ったりするのに使えるとのことなので、ひとまず五十ドル分をクーポンに換えてもらった。
劇場の中に入ると、中央にステージがあり、それを取り囲むように客席があった。ステージにはポールがあり、ちょうど踊り子さんがそこでポールダンスをしているところだった。客席はラウンジのソファーやシートのような感じで、パイプ椅子とかが普通の日本の劇場とはだいぶ雰囲気が違う。客はちらほらいるが、満席からはほど遠い。一人で来ていると思しき男性客もいれば、カップルもいる。女子一人で来ているのはあたしだけのようだ。
とりあえずバーに行ってビールを一本頼み、クーポンで一五ドル支払った。そしてそれを持って、ステージ近くの客席に腰を落ち着けた。
ステージの踊りは、日本のストリップとだいぶ様子が違う。基本的には、流れているダンサブルな音楽に合わせて、踊り子さんがセクシーなダンスをしたり、ポールダンスをしたりして、客はその様子を眺めるという雰囲気のようだ。
しばらく観ていると、踊り子さんがステージを降りて、客席を回り始めた。客はそこで踊り子さんにチップを渡しているようなので、あたしもそれにならって十ドル分のクーポンを彼女に渡した。
続いて別の踊り子さんが登場した。腕と太ももに刺青を施した、スタイルの良い白人の女性だった。彼女もステージ上で、ポールダンスを交えたダンスを演じた。
しばらく踊った後、彼女もステージを降りて来て客席を回ったので、あたしもまた十ドル分のクーポンを、彼女のガーターベルトにはさんだ。やがて次の踊り子さんが出てくる頃に、彼女はふたたびあたしのところまで来て、隣の席に座った。
「ハーイ、あたしはジェシカ。楽しんでる?」
「ええ。あたしはトモミよ」
「トモミ、初めまして。あなた、日本人? ここは初めて?」
「ええ、ここは初めてだけど、日本では何度かストリップを観たことがあるわ」
すると彼女は興味深そうにあたしの顔をのぞき込み、こう聞いてきた。
「もし良かったら、ラップダンスを体験してみない?」
「ラップダンスって?」
「まあ、言ってみればプライベートダンスね。別室に行って、そこであたしが踊るの」
「それ、いくらするの?」
あたしは女遊びするおっさんのような気持ちになって尋ねた。
「三十分で二五〇ドルよ」
うーん、正直、けっこうな値段である。ニュージーランドドルが安かった時代ならともかく、円安の今だと二万五千円ほどになる。あたしが躊躇している様子を察したのか、彼女はこう付け加えた。
「一五分なら一五〇ドルよ」
それなら払えない額ではないし、ものは試しだ。あたしは一五分のコースでラップダンスをお願いすることにした。
手元にはクーポンが十五ドル分しか残っていなかったので、いったんバーに行って、一三五ドル分をクーポンに換えてもらい、それをジェシカに手渡した。彼女は劇場の奥にあたしを連れて行った。
そこはいくつかのブースに区切られていて、通路側には目隠しのすだれがかけられていた。そのうちのひとつに案内され、ソファーに腰を下ろした。
すると彼女は音楽に合わせて踊り始めた。あたしの膝の上にまたがり、密着度の高いダンスを見せてくれた。
なるほど、膝(ラップ)の上で踊るから、ラップダンスなのか……。
すると彼女はあたしの手を取り、それを自分の胸に押し当てた。柔らかい感触が手のひらに伝わる。
「優しくなら触ってもいいわよ。でもあそこはダメよ」
そのうち彼女は今度は後ろ向きになり、おしりを振ってくるので、あたしもそれに合わせて、おしりを包むように手で触れた。
その後も密着度の高いダンスは続き、あっという間に十五分が過ぎた。
「もし良かったら、延長しない?」
彼女にそう聞かれたが、さすがに延長はやめとこうと思い、丁重にお断りした。すると彼女は、
「今日は遊んでくれてありがとう。楽しんでくれた?」
と気にする風でもなく、笑顔を返してくれた。
日本のストリップでは体験出来ないような、ちょっと意外な展開にどきどきしてしまったが、楽しい体験だった。
その後は劇場を出て、徒歩で「シェークスピア」に戻った。一階のパブはまだ営業していたので、ピルスナーを一杯頼んだ。ちょうどテレビではオリンピックが流れていて、店内も盛り上がっているところだった。あたしは劇場で高ぶった気持ちをビールで冷やし、飲み干したところで上の階の部屋に戻った。
翌朝はまだ暗いうちにチェックアウトして、スカイシティーから空港行きのシャトルバスに乗った。空港に着いてチェックインし、出国ゲートを抜け、免税店でお土産のマヌカハニーなどを買った。ボーディングの時間となり、ニュージーランド航空の機内に乗り込んだ。
今回、一週間ほどの滞在であったが、充実したアオテアロアの旅であった。また近いうちにここに戻って来よう。そう思いながら、機内で離陸の時を待った。



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