魂が震えたエスペラント名訳「方丈記」
Rivero fluadas senĉese; sed la akvo fluanta ne estas la akvo iam fluinta.
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
野原休一氏による方丈記エスペラント訳の冒頭の一文を初めて読んだ時、その訳文の素晴らしさに魂が震えました。
エスペラントを学習した人なら、この一文にエスペラントの真髄が凝縮されていると感じるのではないでしょうか。
「fluadas」に込められた時間の永遠性
まずは、Rivero fluas(川が流れる)ではなく、接尾辞 -ad- を使い、 Rivero fluadas(川が流れ続けている)とした点です。
エスペラントの -ad- は「動作の継続・反復」を示します。これにより、「ゆく河の流れは絶えずして」の途切れることなく、滔々と流れ続ける川の永続性が表現されています。
分詞「-ant-」と「-int-」による時制の対比
fluanta(分詞:流れている)と fluinta(分詞:流れていった)の鮮やかな対比に思わず唸りました。
la akvo fluanta = (いま目の前を)流れている水
la akvo iam fluinta = かつて(そこに)流れていた水
エスペラントにおける「時制のニュアンスを持つ分詞」の構造を応用すれば、原文が持つ「もとの水にあらず」という、万物が時間の流れの中で絶えず変容する「無常」の概念が、わずか一文字(aとi)のアルファベットを置換するだけで見事に表現し尽くされています。
対比とリズム
Rivero fluadas senĉese; (川は絶え間なく流れゆく)
sed la akvo fluanta ne estas la akvo iam fluinta. (しかし、流れる水は、かつて流れた水ではない)
前半に「永遠の連続性(fluadas)」を置き、後半にはセミコロン(;)を隔てて「一瞬の非連続性(fluanta / fluinta)」を対置させる。この対称的な構成には、エスペラントが持つ極めて論理的な透明性と、格調高い文学的リズムが完璧に融合しています。
東洋哲学の「諸行無常」がエスペラント訳に見事に溶け込んでいます。これぞ、ザメンホフ博士が言語に託した「人類を結ぶ普遍的な架け橋」という願いが具現化された名文です。
訳者野原休一氏について
野原休一氏についてウィキペディアを参照すると、明治4年生まれの元物理・化学教師であり、キリスト教徒でありながら仏典や漢籍のエスペラント訳に尽力した人物であることが分かります。特に『日本書紀』のエスペラント翻訳を手がけ、1939年にはエスペラント界の権威である小坂賞を受賞しています。
HOODJOOKI KAMO NO TJOOMEI
eljapanigis NOHARA Kiuiĉi
発行:日本エスペラント図書刊行会
ISBN978-4-930785-76-3 C1087



コメント有難うございます。名訳であり、かつ分詞の用法の説明にもなりますね。字上符はAIが区別できませんでした。エスペランティストなら気づいてくれるだろうと思い、そのままにしておきました。
確かにこれ,実にうまい訳ですね。 野原休一さんて経典のサンスクリットや中国語からの翻訳もされていて,驚くばかりです。 セミコロンの用法だけはピンときませんでした。英語でもエスペラントでも,セミコロンのあとは単独で文(など)として成立するものが来ると思うんですが,接続詞で始まってい…