お話│車窓よりも近い夜景
消灯の時間まであと2時間。
ヤスの固定残業費を時給換算すると、およそ300円だった。
ヤスは怒られるのが嫌だからという理由だけで、目標まで足らない売り上げに近付くために、顧客リストの3巡目を試みていた。
もちろん、その消極的な理由ではヤスに潜在している能力を半分も発揮することができない。
たった一回、それも大昔、資料請求をしただけなのに夜中に電話をかけてくるなと怒鳴られることもあれば、すでに電話番号はリサイクルされていて別人に繋がることもある。
嫌がらせのつもりで、小便の音を聞かされることもあった。
ただ、みずきが所属する新規営業部が行った3年に及ぶ研究の結果として、消灯時間までほとんど無給で働いたという記録は、月末にかかってくる部長からの電話にて、彼の憤怒を抑えるのに有効な手段となっていることが立証されている。
壁を見上げると、音を立てずに進む秒針がみえる。
ここから、時間が過ぎるのがはっきり遅くなる。
向かいのデスクに固まっている男たちも、同じ事を考えているだろう。
ヤスの眼には、この会社で働く人々が希望を大きくするためではなく、深く絶望しないためだけに働いているように映っている。
そして、ヤス自身もそうだった。
まだ4コール目だったが、プライベートスマホのバイブレーションで彼の集中は完全に途切れた。
期待したヤスのスマホに届いていたのは、かつて1度だけ寝たことのあるキャバ嬢からの営業連絡と、地元の友達たちがLINEグループで話している痕跡。
〈最近、みずきと連絡とってるひといる?〉
〈ぜんぜんだね〉
〈生きてんのかな〉
〈生きてるだろ公園とかで〉
〈ベンチに寝そべって缶ビールとか飲んでそうよな〉
〈鬼ころしだろ〉
〈それだwwww〉
その時みずきは、花柄のシャツにハーフパンツという格好で、胃にテキーラを溜めて、シンガポールのクラブにいた。
一眼レフカメラを構えて、裂けるぎりぎりまで広がった鼻に、ビール瓶の口部を突っ込んだ、目の充血した女にピントを合わせている。
彼は日本でこれらの写真をアートブックにして、街中で売り歩いていた。
色の施された小さな円形の光が、地面をそれぞれの速度で滑る。
スピーカーから放たれる重低音に、地面が光ごと規則的に揺れている。
「あんた最高だぜ、あ、ちょっと待って、おっぱいにお札をいっぱい挟んだらもっとええわ、ちょっとそのシャツ破っていい?」
「挟んだお札は、その後くれるの?」
「あたりまえやろ。いくらでもくれてやるで」
「じゃあできる限りたくさん挟んで」
「この大きさなら、1週間は暮らせるくらい挟めるわな」
みずきは用心棒として連れているレンスと一緒に、胸の谷間にお札を挟むのを楽しんだ。
「1週間?」その女は、鼻から血を流しながらビール瓶を支えていた両手をあげて叫んだ。「私は、これで1日よ!」
瓶が床の光に砕けて、まわりの男たちが殴り合いを始めた。
レンスはみずきの指示でマリファナの詰められたピーナッツ缶をジャケットの裏に隠して出口へと走りだした。この街で、命より高く売れるものだ。
みずきはレンスがまずひとりでそのミッションを成功させたことを半分だけ見届けると、続けて走り出した。
そのあいだに、いくつかのゲロと、いくつかの足を踏み、正当に突き飛ばされ、正当に殴られた。
「てめえ、どこみてんだ!」
みずきはそのいずれもに背を向け続け、裏口から路地へ飛び出すと、ねっとりとした熱気が容赦なく肌にまとわりついた。
熱を振り払うように、なおも夜を駆ける。
いつも通り、クーディタ通りでみずきはレンスと合流し、いつの間にか追ってきていた先ほどの鼻血女を連れて、ネオンの光が煤けたホーカーセンターへと流れ込んだ。
女の広がった鼻に詰めるには、ポケットに残ったティッシュでは足りなかった。
プラスチックの丸椅子に女を座らせ、みずきは雑にチキンライスとタイガービールを3人分注文する。
女は破けたシャツからシンプルな下着につつまれた乳房を微かに揺らし、まだ固まりきっていない鼻血を顎から滴らせながら、差し出された飯を獣のように貪った。
その様子を、みずきは小指の欠けた手でタバコを挟みながら、ぼんやりと眺めている。
「よく食うな、あんた」
「私の乳をもっとでかくしてよ」
「ええで、好きなもん頼みい」
奢ったところで、この女の明日がどうなるわけでもない。
この女にほんとうに必要なのは、金ではない。
それは自分自身にも言えることだと、みずきは理解していた。
明日もこの女は、股を広げ、金持ちに遊ばれ、そこそこの金を得て、それでブランド品を買い、すこしばかり命を伸ばすだけだろう。
そう思うと、急にこの不細工な女がたまらなく愛おしくなった。
みずきはレンスからピーナッツ缶を受け取ると、彼のポケットにありったけの紙幣を詰め込んだ。
「ありがとな、次は水曜日だ、あけといてくれ」
「わかりました」
安いホテルの部屋を借りて、みずきと女は泥のように眠りこけていた。みずきは、疲労を充足と勘違いすることに長けている。だからみずきは、寝ようと試みたその瞬間から、いつも朝まで心地よく眠り切ることができる。
エアコンの濁った稼働音を破ったのは、ドアが内側にへし折れる凄まじい衝撃音だった。
みずきが目を開けた瞬間には、部屋の蛍光灯が点けられ、視界を塞ぐほど大柄な男たちの影が迫っていた。
怒号と、金属棒が湛えた鈍い光。みずきは顔の真横にその光が振り下ろされる恐怖によってベッドから転がり落ちながら、鼻血女の叫び声を聞いた。
大男に脇を固定されながら、みずきはとっさに部屋を見渡したが、ピーナッツ缶はどこにもなかった。
カーテンの隙間には、まだ光が伸びていない。
東京の地下を走る終電の車内。
ヤスは乗客の汗とアルコールが混ざった酸っぱい空気の中で、吊り革にぶら下がっていた。
全員が死んだような目でスマートフォンの画面を見つめている。
最寄り駅で降り、冷え切ったアスファルトを歩いて12畳のアパートに戻る。
鍵を開け、狭い玄関で、片足ずつ踵のすり減った革靴を脱ぎ捨てた。
靴下がフローリングに触れたその瞬間、ズボンのポケットの中でプライベートスマホが再び短く震える。
みずきからの着信を認めると、それをヤスは放置した。
5分程、しつこくコールは鳴り続けた。
根負けして、ヤスは電話を受ける。
「元気やったかー」
「うん、ぼちぼちね」
「ええことやな、おれは今目隠しされとるで」
「風俗のプレイ中に僕を使うなよ」
「はは、そんなええもんじゃないよ」みずきの声が沈み始める。「おれなあ、たぶんこのまま死ぬわー」
「そんな予感がして、電話取る気にならなかったんだよな」
「つめた。そんな予感がしたら、電話とるやろ」
「そこが僕とお前の決定的な違いなんだよ」
「笑える。ほなまたな」
「笑えるっていうときは笑っとくもんだぜ、じゃ、元気でな」
「次からそうするわ」
電話が切れた。
たぶん、もう電話はかかってこないだろう。
それを寂しいとおもうために、ヤスは冷蔵庫からレモンサワーを取り出した。
明日起こることは、きっと今日と変わらないだろう。
ただ、みずきから電話がこないという一点を除いて。
缶のプルタブを開けると、かつて二人で見た夜の光景が蘇ってきた。
あれは2年前の夏、型落ちのセダンで、あてもなく首都高をドライブした真夜中のことだった。
フロントガラスの向こうを、東京の無機質な夜景が高速で流れていく。車内の狭い空間で、二人はとりとめもない話をしていた。
「カメラ、もうやらないの?」
「やらへん」みずきはレッドブルの缶を親指で押して、ベコベコと音をさせている。「もうこの世に存在しない写真はない気がしてんねん」
「わかる、なんか僕たちは全部二番煎じってかんじだよな」
「二番どころじゃないで、千億番煎じや」
言葉の端々に滲んでいたのは、未来への強烈な諦念だった。
「明日起こることなんて、もう全部知ってるようなもんでさ」
どちらからともなくそう言った。次にくる絶望も、どうせ大したことのない日常の延長線にある。レールの上を滑るような退屈さを、二人は眼で確かめ、脚で踏みしめる。
その静かな調和を壊したのは、みずきの突拍子のなさだった。
分岐が迫る中、みずきはカーナビの画面をめちゃくちゃにタッチし、ルートを滅茶苦茶にし始めた。
「おい、これどっちだよ」と、ヤスが苛立ちを募らせる。
みずきはヘラヘラ笑いながら、さらに奇妙なボタンを押し続ける。
「貸せって!」
限界に達したヤスが、みずきの手を強く払いのけようと身を乗り出した、その一瞬の空白。
オレンジ色の照明が続くトンネル内で、車のコントロールがわずかにブレた。
鼓膜を震わせる硬質な衝撃音。
火花が散り、左側のサイドミラーが根元からへし折れて、暗闇の彼方へと吹き飛んでいった。
あと一瞬、ハンドルを切るのが遅れていたら、コンクリートの壁がふたりの肉体を圧し潰していただろう。
死を目前にして頭に血が上ったヤスは、無言でアクセルを強く踏み込み、時速は160kmに達する。
それから、直後のパーキングエリアに車を急停車させると、激しい呼吸のまま助手席のドアを開け、みずきを外へ引きずり降ろした。
「2度と僕の前に現れるな!」
深夜のパーキングエリアにヤスの怒号が響き渡る。
みずきは壊れた玩具のような顔で立ち尽くしていた。
ヤスはそのままアクセルを踏み込み、バックミラーに映るみずきの姿を置き去りにした。
それが、最後にみたみずきの姿だった。
「おれは明日をぜんぶ変えてやる!もうぜんぶ、こりごりなんだよ!お前もわかってるくせに、あほ!」
ヤスは未読で放っておいたキャバ嬢に「明日仕事終わったらいこうかな」と返信する。
レモンサワーの結露は、ずいぶん机に染みていた。その染みは、車窓よりも近い夜景になる。
「きれいなもんやなぁ」
東京生まれ、東京育ちだったみずきのでたらめな関西弁を真似て、スチール缶の底に残った最後の一滴を舌に落とした。



すごく良かったです! 絵が浮かぶというか、映像にしてほしい。
ほんとですか!うれしいなぁ 実は昔映像作品をつくろうと試みたことがあるんです。余裕ができたらトライしてみたいなぁ でもこの作品の場合、ビール瓶を鼻につっこんでくれる女性が必要なので、困難ですね。笑
お酒がすすんだ時に書いたお話ですねw 大阪の女性と縁があるから、中側さんの作品に出てくる人に関西人がちょくちょくいるのですね~😌
酔っ払ったまま徹夜で書いてましたね。 誤変換を直すのが一番大変でした。笑 関西のひとがでてくるのは、僕が単純に関西弁が好きだからかもしれません🤤