人間社会では親しかった人から嫌なことをされて嫌いになることはよくある。そのような時、脳では何が起きているのか、脳は知り合いへの好き嫌いをどう「アップデート」しているのか。こうした問いに答える研究成果を脳研究で知られる東京大学の奥山輝大教授らの研究グループが発表した。マウスを使い、脳内で記憶を保存する「海馬」と感情を担う「扁桃(へんとう)体」とを結ぶ神経回路の接続が増強することで「嫌い」になる仕組みを明らかにした。人間に応用できれば、うつ病などの対人関係に関わる疾患の治療法研究につながる可能性があるという。
奥山教授はこれまで、脳は「他者をどう記憶するか」「他者にどう共感するか」などを解明してきた。今回、「記憶した相手の感情が経験によってどう更新されるか」を示したもので、人間関係を理解する脳科学研究を前進させる成果として注目される。論文は7月10日付の米科学誌「サイエンス」に掲載された。
「光遺伝学」の技術を駆使
研究グループは東京大学・定量生命科学研究所の奥山教授と王牧芸特任研究員(研究当時)、同大学大学院医学系研究科の須藤成俊大学院生らで構成。同グループはまず、被験マウスと他の2匹のマウスを一定時間一緒にして互いに〝知り合い〟にした。被験マウスには脳内の海馬の一部に「他者の記憶(社会性記憶)」が保存されたのだという。
研究グループは次に、1匹のマウスの神経活動を操作して攻撃性を持たせた。具体的には脳の視床下部の一部の神経細胞を人為的に操作する方法で、知り合いの2匹のうち1匹だけ「嫌なやつ」に仕立てて観察した。
すると、被験マウスは、この攻撃性を増したマウスに繰り返し「嫌がらせ」をされた結果、そのマウスを避けるようになった。嫌いになったことを示す行動変化で、研究グループは「特定個体に対する『情動値』の更新が起きた」と説明している。
奥山教授らは、この変化を確認した上で「光遺伝学」の手法を駆使。攻撃されたマウスの記憶をつかさどる海馬の一部の「腹側(ふくそく)CA1」と扁桃体とをつなぐ神経回路の接続を弱めたり、神経回路の活動を抑制したりする実験をした。光遺伝学は光によって活性化するタンパク質を神経細胞に発現させて、特定の波長の光を当てることで神経細胞の機能を制御する手法だ。
この実験の結果、腹側CA1と扁桃体との神経回路の接続が強まると攻撃性が高まった相手マウスを嫌いになる行動を示し、逆に弱めると相手マウスを避ける行動がなくなった。海馬の相手を記憶する細胞と扁桃体の怖いと感じる細胞とのつながりの強弱で嫌いという感情が生じたり消えたりしたことが分かったという。
うつ病の新規治療戦略も
奥山教授の説明では、脳内には行動や意欲をつかさどる「側坐核(そくざかく)」という領域があって、扁桃体とここをつなぐ神経回路もある。腹側CA1と扁桃体、さらに扁桃体と側坐核をつなぐ回路がつながって特定の相手に対する「好き」「嫌い」といった感情が更新・アップデートされる仕組みになっているという。
研究グループの別の実験で、光遺伝学で相手マウスの記憶を思い出させながら、被験マウスに電気ショックを与えて恐怖感を与えた。脳は二つの刺激が同時にくることで、その間の神経回路を強めるという性質を持っているため、腹側CA1の相手の記憶を担う神経細胞と、扁桃体の恐怖に反応する神経細胞とを繋ぐ神経回路の接続を強めることができる。
すると、攻撃などされずに本来は嫌っていなかった別のマウスを避けるようになった。このことは、神経回路の接続を強化することにより、面識と恐怖が結び付いて相手を嫌いと思う感情を人為的に更新できることを示している。
奥山教授によると、うつ病の研究用に既にマウスを人為的にうつ病にする方法がいくつかあって、個体に殴られるなどの攻撃を受け続けたり、金網越しに攻撃されたり、さらに以前攻撃を受けた相手に金網越しに対峙されたりするとうつになるという。人間ではぞっとする残酷な実験だが、実際にうつ病患者では扁桃体と側坐核の活動が高まっているとの研究報告もあるという。
奥山教授は、今回マウスの攻撃性を人為的に操作することで、かつて親しかった相手に突然攻撃されるという状況を作り出し、特定の他者に対する感情の変化を調べる新たな行動実験系を確立したと説明。「将来の展望として、海馬の腹側CA1―扁桃体―側坐核の神経回路を標的にした社交不安症(SAD)やうつ病の新たな治療戦略につながることを期待している」と話している。
「他者記憶の研究」を10年積み上げ
奥山教授は、今回の研究成果の記者会見で「私の研究は大学院生の時に始まった」と語った。東京大学の大学院生当時、メスのメダカは自分の周囲の見知ったオスを好んで配偶相手に選ぶ性質を見つけた。この「メダカの恋愛のメカニズムの解明」の論文は2014年に「サイエンス」に掲載された。
同教授はこの論文をまとめた後、掲載を待たずに2013年に渡米。米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授でノーベル生理学・医学賞を受賞し、11日に86歳で亡くなった利根川進博士の研究室に入った。そこでも他者に対する記憶のメカニズムの研究を続け、奥山教授は利根川博士と「他者の記憶が海馬の腹側CA1という領域に保存される」ことを解明。論文は16年9月にやはり「サイエンス」に掲載された。
その後、2017年に当時の東京大学分子細胞生物学研究所(現・定量生命科学研究所)に戻り、23年に自分と他者の情報を併せ持つ神経細胞をマウスの脳の「前頭前野」で発見し、共感する脳の働きを解き明かした。
2024年7月には自閉スペクトラム症(ASD)の症状が海馬の特定の領域の異常に起因することを突き止めて英科学誌「ネイチャー・コミュ二ケーションズ」に発表。また25年8月には他者の記憶は、相手(個体)そのもの関する情報、性別や系統といった属性に関する情報、それぞれに反応する異なる神経細胞が組み合わさって働くことを解明し、論文は「サイエンス」に掲載されている。
「人とのつながり」究明する脳科学
このように奥山教授は若い研究者仲間と10年以上、「他者記憶(社会性記憶)」をキーワードに研究成果を積み上げてきた。今回の研究成果は、脳内の別の領域でインプットされた他者の記憶と感情とが神経回路によって更新・アップデートされるという新たな視点を提示した。
一連の研究はマウスを使った動物実験による成果ではあるが、「相手を覚える脳」から「相手を好き、嫌いになる脳」へと研究対象が進展。初めて神経回路ネットワークの問題として示した。狙いは明らかに「人とのつながり」「人間関係」にある。
今後、友情・恋愛、家族関係といった基本的な人間関係からASD、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、社交不安症・うつ病など社会の複雑化に伴うさまざまな「心の課題」に対する対応策に貢献する脳科学の前進が期待される。
利根川博士の遺産も継いで
奥山教授の「恩師」であり、ノーベル賞授賞理由になった免疫学だけでなく、世界の脳神経研究も先導した利根川博士が亡くなったことが15日伝えられた。MITは「私たちは偉大な人物を失った。彼が残した科学的遺産は今後何年にもわたって神経科学を形作り続ける」とのコメントをホームページに掲載した。
奥山教授は恩師の訃報に「利根川先生からは科学者としての生き方を学ばせていただいた。今の自分があるのは先生のおかげだと心から感謝している。これからも先生のように生命現象への好奇心を忘れずに研究を続けていきたい」と述べた。
利根川博士が切り拓いた道は若い研究者に確実に継がれている。
関連リンク