【鳴らない時間④】破られる
鳴っている。
ステージの上で、ぜんぶの楽器が鳴っている。低い音はホールの床を渡り、高い音は天井で折り返す。どの音も、すこしだけ張りつめている。練習では、何百回でも鳴らせた。今日は、一回きりしか鳴らせない音だ。
けれど、この曲には、音のない一小節がある。
スコアのどこかに書かれている。すべての段に、休符だけが並ぶ小節。どの楽器も鳴らない、と決められている時間。そして、その終わりだけは、どこにも書かれていない。終わりを知っているのは、指揮台の上の腕だけだ。
音楽は、いま、そこへ向かって進んでいる。
まだ、誰も止まらない。
最後の和音が、切られる。
いっせいに、ではない。息が先に止まる。管の中の空気が、あとから止まる。いちばん低い管の鳴りが、最後に切れる。
楽器は、もう鳴っていない。それでも、いま手放されたばかりの音が、まだ空中に残っている。
音の尾が、昇りかける。
昇りきらない。このホールの天井は、音を長くは抱かない。尾は客席の上のあたりで薄れて、落ちる。どこまでが音だったのか、確かめる間を、このホールはくれない。
音がゆっくり死んでいく時間は、ここには、ない。
切られて、落ちて、それきり。
生まれる支度も、ないまま。
そこから先は、もう、私だ。
何もない数秒だと、思われている。
けれど、私の中は、音でいっぱいだ。
天井の高いところで、空調が低く唸っている。客席の遠くで、誰かの咳が、押し殺されて半分だけ漏れる。プログラムの紙が、かすかに鳴る。
まんなかの列では、ペン先が紙を走っている。この沈黙も、書き取られている。
私の身体は、私を破らない程度の、小さな音でできている。
誰かが、プログラムをめくりかけて、やめる。紙の音が、途中で止まる。曲が終わったと、思われたのかもしれない。事故で止まったと、思われたのかもしれない。
ちがう。私は、書かれている。スコアの、あの一小節。いま演奏されているのは、私だ。
ステージの上は、動かない。あれだけの人数が、ひとつも音を立てずに、指揮台の合図だけを待っている。拍は、もう流れていない。数える必要は、どこにもない。
それでも、数えずにいられない誰かが、きっといる。癖のように、頭の中で。意味がないまま。
誰かが、私を数えている。
数えられながら、私は、自分の長さを知らない。数えているその誰かも、この数がどこで終わるのかを、知らない。
衣擦れが、ひとつ。
楽器が持ち上げられていく、金具のかすかな音。椅子が、わずかに軋む。口が、マウスピースへ寄っていく気配。どれも小さな音だ。まだ、私の身体のうちだ。
けれど、さっきまでの小さな音と、これはちがう。構えの音だ。終わりの支度が、私の内側で始まっている。
私の終わりを決めるものは、音を立てない。指揮台の上で、腕がいつ動くのか、私には届かない。みんなには、見えているのだろう。私にだけ、聞こえない。
息が、来る。
ひとつの息ではない。ステージの上の肺という肺が、いっせいに開いて、空気が何十本もの管の入り口へ吸い込まれていく。ひとつの、大きな生きものの呼吸のように。
私を破るための、息だ。
腕が、動いたのだろう。
私には、聞こえなかった。ただ、すべての息が、ひとつの音に変わった。
破られる。
最初の和音が、私を突き抜けて、ホールへ出ていく。張りつめていた管が、ためていた空気を、残らず声にする。さっき切られた和音より、ひとまわり大きい。ここまでのどの音よりも、大きい。
私を破った音は、私が保たれていたぶんだけ、遠くへ届く。
沈黙の長さが、次の音の深さになる。そのために、私は書かれていた。
この演奏が、あとで金と呼ばれるのか、銀と呼ばれるのか、私は知らない。知る前に、終わる。
私のいた場所を、音楽が満たしていく。
最初の和音の、いちばん底に、まだ私がいる。
鳴っている。
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