西洋文化が流入した明治時代は、音楽の世界にも変化がありました。雅楽を伝えてきた人々がいち早く西洋音楽を学び、伝統の音楽との融合をはかって新しい楽曲を生み出しました。なかには、今も歌われている有名な楽曲もあります。
明治になって宮内省に設置された「雅楽局」の伶人(れいじん:雅楽局の楽師の正式名称)の一部は、当時まだ一般に馴染みのなかった西洋音楽を学び、日本の文化に移入する橋渡し役となりました。その成果といえるのが「唱歌」です。「唱歌」はもともと「しょうが」と読む雅楽の言葉で、楽器の旋律を擬音語で歌うことを指したものです。
明治の新しい学制のもとでは、学校教育のための音楽の制作が求められていました。雅楽局の伶人たちは、伝統的な雅楽の要素と西洋音楽の要素を融合させ、数々の唱歌を作り出しました。「君が代」もそんな中で生まれた楽曲です。
「君が代」は、儀礼の際に演奏される音楽として、『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の短歌に、イギリス人のジョン・ウィリアム・フェントンが曲をつけたものが初まりでした。しかしフェントンの曲はあまり評判がよくなかったため、楽家出身の奥好義(おくよしいさ)が新たに作曲し、その上司にあたる林廣守(はやしひろもり)の名で、唱歌のひとつとして世に広まりました。これにドイツ人の海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風の和声をつけたものが、日本の国歌として現在も歌われている「君が代」なのです。