行動と空虚
半生
昔から行動すること、評価されること、影響を及ぼすことを生存戦略としてきました。
小学時代はマリオメーカーでコース作りに励んで世界ランキング2桁に至りました。中学入学後はTwitterでのレスバトル、界隈(たとえばネットミームやマリオメーカーなど)での知名度・影響力獲得、そして中3からは受験勉強に打ち込みました。そして第一志望である地元ではそれなりに有名な自称進学校へ進学しました。しかし、高校に入学するやいなや馴染めず燃え尽きて休みがちになりました。16歳で公園で救急搬送されてからは、とあるミーム「24歳学生」を名乗ることを生きる目標と設定しました。そして高校留年・中退後は法政大学に進学したものの、学歴への執着から東京理科大学を複数学科受験しました。
理科大生となった現在はヒカマーとしてはヒカキンに対して事実追求としてTwitterでの批判や路上で抗議活動をして、あるいは左派としてはさまざまな示威活動や署名に参与しています。一方で月に一度衝動に駆られ自己破壊的な行動に出ることがあり、精神科医からは「いつ既遂してもおかしくない」と告げられています。
一見波瀾万丈ながら復元力に満ちた半生に見えるかもしれません。しかし小学生の頃から漠然とした劣等感、希死念慮、無価値感、罪業妄想、虚無感が常に内在していました。また、共通点として地位や名声、成果や象徴など「外在する何か」を自己価値と同一化して獲得したがる回路が見えてきます。しかしそれによって結果や成果が得られたとしても後に残るのは空虚であり、それは達成感よりもさらなる成果を求める焦燥として内面を蝕みます。
自己を試験管とするなら空虚とは沈澱のようなものです。振り返ればこれまでそれを攪拌することに終始してきました。しかし攪拌したとて沈澱は不溶であるからいずれはそこに残存します。たとえば分散したとて溶解はしないから、いつまでも不透明で懸濁し先が見えぬままです。あるいはそれを誤魔化そうと稀釈したとて永遠に解けぬままです。生命すら脅かすこの空虚の克服には、それを何らかによって溶解させるか、濾過させるか、つまり今の攪拌に頼る生き方から脱却せねばなりません。
行動により得る充足感とその限界
前述の通り私は活発で、行動力があるとよく言われます。勿論それ自体は強みになり得ますが、根底にあるのは内在する苦痛からの逃避です。行動とその成果による意味付けで鍍金(メッキ)して覆い隠そうとしてきました。よって行動すればするほど耐性がつき、さらなる成果を求めることになります。その成果とは前述の通り名声や影響力、あるいは合格や世界ランキング入りなどいずれも外在する記号です。そこに必然的に附随するのは観衆からの評価です。時には称讃され、時には矮小化され、時には非難されます。それは私を時に駆り立て、時に私を蝕みます。勿論、動機が使命感や情熱それ自体に基づいていれば持続性があり健全かもしれません。
しかしその行動のエンジンは空虚からの逃避であり、使命感や情熱は現状は副次的に芽生えた活性剤に過ぎません。そして何より観衆が向ける評価とはその多くは敬意でも温もりでもなく、好奇心など消費的な眼差しか一面的・表層的な称讃です。ゆえにたとえ評価されたとしても自己を本質的に認められた気にならず、また否定されれば自己を切り取られたような無力感を抱きます。このように逃避によって空虚が生まれ、その空虚を晴らすために逃避をする悪循環があります。
外側からの評価の本質
そもそも外側つまり他人からの評価とは実に流動的で一面的です。私を例に言うなら、超てんちゃんのTシャツを着て出歩けばオタクと、愛犬を連れて散歩をすれば犬好きと、左派の示威活動や集会に参与すれば若い左翼と、路上でヒカキンに抗議すればなんかヒカキンに文句言ってるやつと見られます。あるいはヒカマーと言えば厄介そうと、自閉症者と言えば大変そう(あるいは案外普通に見える)と、理科大生と言えば勉強で忙しそうと、漠然と思われます。
いずれにせよ個人としての関わりのない他人の評価はその場限りで表層的な印象に基づくものに過ぎません。たとえばバズってどれだけ多くの人に賞讃されようと非難されようと、彼らは一人の人間としての内面や人格までは評価し得ないということです。つまり外在する何か(ここでいう他人からの評価)と同一化した自己価値では、外在物の性質ゆえに自己価値それ自体が拡散・稀薄化されてしまいます。空虚が攪拌されるに過ぎないとはこのことです。これこそが私の空虚感の本質だと感じられます。
持続的であるために
恵まれているのに、やりたいことを実行できるのになぜどこまでも空虚から逃れられないのだろう、そう1年前、前の大学で仮面浪人を決意する前に思い悩んでいたことを覚えています。しかし今考えればこれは、前述の通り成果に付随する他人からの評価それ自体が流動的・一面的であることを見落としたままそれらに翻弄されていたからでした。反面、これは裏を返せば、他人からの評価など気にせず自由に生きれば良いという根拠とも言えます。ただ即時的な成果を求めるのではなく、したいこと、楽しみたいことに打ち込むことこそが持続的であり長期的な″成果″に結びつくかもしれません。あるいは真の精神的な充足のためには、他人=外側からの評価から独立した自己肯定の機構を確立する必要があることがわかります。具体的には、親密で深い関係の重みを再確認することです。
幸い私にはインターネットにも現実にも親しい友人がいます。発達同胞との繋がりもあります。彼らと通話しながらゲームをしたり会ってカラオケに行ったりして、まず身近な繋がりを再確認したいものです。それこそが空虚へ向き合うということであり、持続的な充足への第一歩です。そしてそれは自他の尊重、さらには「外側」との和解への道ではないかと思います。


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