「起源」「はじまり」という呪い、のこと

 「起源」論的な発想を第一に考えるようになると、「初出」「最初」はいつ/どこ/どれか、ということにだけ執着してしまい、不毛なマウント合戦に収斂してゆくのがお約束になりがちではある。「起源」「初出」「最初」「はじまり」こそが「唯一の正解」である、という不自由とも併せ技で。ステロイドガンギマリなビーチフラッグの奪い合いみたいな、あるいは、それしか見えないモルモットのラットレースみたいな。

 加えて、そこに概ねリニアーな、直線的な、それなりにスッキリはしたように見える(そりゃまぁそうだが)一本の時間軸に何らか価値観のものさしが刻まれたところで見事に複合、で、そういうものさしには、ああ、これまた別のお約束のように、あのざっくり「進歩」「進化」系の考え方、時代が移り変わり時間が経過するにつれて、なぜかはともかくものごと一般とりあえず「良い」方向に変わってゆくものである、という了見が見事に「そういうもの」化して刷り込まれてもいたり。

 こういう複合って、いわゆる「陰謀論」的な発想と親和性高くなりがちでもあるみたいなのは、「結果」から「逆算」して、実は本来まるで関係ないかも知れない(あるいは、そうかもしれない)個々の事象を自在に好き放題つなぎ合わせて何らか「起源」的な「唯一の正解」にたどりつけるという信心みたいなものが根深く後押しするから、という面もあるような。

 ある種の「おはなし」(いまどきのもの言いだと「ナラティヴ」wてか? 一応は民俗学を看板として世渡りしてきた以上、このカタカナもの言い化は生理的にけったくそ悪いのだが)を生成することを介して現実認識しながら、いずれ何らか「わかる」へと向かいたがる、まあ、そういう言葉と意味に縛られたけったいなサルではあるわれら人間一般の習い性と関わってくる大風呂敷でとりとめないお題ではあるのだが。

 むろん、「起源」「はじまり」を探ること自体にもひとつの方法的な補助線として意味はあるし、重要な作業ではある。そりゃそうだ。そりゃそうだけれども、しかし、だからと言ってそれだけを「唯一の正解」へたどりつく道であるぞ、とまでガンギマる(当人がたは往々にしてそうは思っていないらしいのだが)と、そりゃもう違うウサギ穴にハマって地下迷宮の堂々巡りを延々と(昨今、之を「永遠と」とあっぱれ表記してみせるワヤもあるようだが)しまう可能性も高くなるわけで。

 そういう意味での「起源」論的発想にまつわる難儀を相対化しておけるために、「構造」(このもの言い、本邦語彙だと文脈によってあまりに多様wに散らかってしもとるので、これもまたいろいろと厄介なのだが)論的なカウンターを常に意識してあてておくくらいの用心は、ひとまず転ばぬ先の何とやらで割と大事だとおも。

 ただでも、「起源」「はじまり」って考え方は、世間一般その他おおぜい的にも「わかりやすい」と思える「わかり方」であることもまた確かではあるわけで。そして、それを「知る」「わかる」ことで何になる?というある意味ミもフタもない、でもだからこそ常に忘れてはいけないであろう世間一般その他おおぜいのとりとめない「そういうもの」と紐つけられた問いは、しかしその「わかりやすい」からはあまり派生してこなかったりするらしいことも含めて。

 「起源」ではなく、むしろ現在に至る過程、「変遷」を知ることが大事なのであって、その上で「じゃあどうしてそういう変遷をたどってきたのか」についての問いが導き出せるようなら、現在の〈いま・ここ〉へのいい意味での批判・批評から言葉本来の意味での自省にもつながり得るはずで。*1

 そして、その「どうしてそういう変遷を?」という問いに応えようとするためには、「構造」論的な発想をその変遷のそれぞれの段階や過程に補助線的にあててみることも必要になってくるわけで。 そういう「わかる」への道筋には、ガンギマった「唯一の正解」大正義な了見は、良くも悪くもなじみにくいものなわけで。

 そう、「唯一の正解」をガンギマりな方向でひたすら求めようとする性癖というのは、必ずとまでは言えないかもしれぬにせよ、でも必ずどこかで「他の誰でもないこの自分」という「唯一」的な自意識と癒着し始めがちで、終わりなき承認欲求とブレーキのぶっ壊れたマウント上等とが合併症的に発症して始末つけられなくなる事態の背景にもなってきがちなわけで。

 「おりる」という仕掛けは、そういう複合の蟻地獄から敢えて距離を置いてココロの平穏、自意識の風通しの良さや「わかる」の安定的な持続可能性を担保しておくこと、につながるはずなわけで。*2

 そういう「おりる」の仕掛けを実装した/できた人がたの仕事は、おそらく一見迂遠でグダグダで不透明で、「アタマ悪そう」に感じられてしまうものかもしれない、特にいまどき「意識高い」系蠱毒化エリジウムネイティヴ脳の人がたからすれば。

 「当時、輸入もの最新モードとして流通していたサイードの「オリエンタリズム」をポストモダン的手癖で波乗りしながら振り回してみせる本邦の名だたる制度内知性の考えなしな自動筆記的生産物の破綻について隙なく言及してゆく筆致の向こうに、単なる予定調和の下での内輪の馴れ合い、社交や利害ありきの通り一遍な批判などではない、野育ちの素の知性としての生身の毅然がありました。その凄みを察知できなかったとすれば、それ自体もう、言葉本来の意味での知性、信頼される「村はずれの狂人」としての本願をどこかに捨ててきた単なる俗物でしかないことの、何よりも雄弁な証明になっていました。」

*1:このへん、柳田國男原理主義者としては、そのような絶え間なき「変遷」こそが歴史であり社会であり、そしてまたわれらの生きる現実である、と託宣のひとつも垂れておきたいところではある。

*2: king-biscuit.hatenablog.com