軽井沢の田舎 茂沢1 大日堂と東光寺
八風山から下りてきたのは軽井沢町茂沢・・・
この谷の一番奥から歩いてきました。
茂沢は軽井沢の南西の小さな集落です。
隣の御代田町に隣接する谷間の邑です。
軽井沢駅や旧軽井沢などの軽井沢の中心からはもっとも離れた交通の便の悪く行くのに時間がかかる場所です。
そのためか軽井沢のバタ臭さは皆無の素朴な静かな村です。田舎とタイトルをつけましたが、いい意味での田舎です。
しいて言えば、この谷奥にゴルフ場があるくらいでしょうか・・・
ここは江戸時代には中山道の岩村田宿から今は碓氷バイパスの入山峠を越える入山道または日影道と呼ばれた道の街道筋でした。
江戸幕府の公道は中山道でしたが、中山道の碓氷峠は標高が1200mと高く、困難な道でした。古くから東山道として使われた入山峠越えの道は宿場の便は悪いのですが、標高は中山道より200メートルも低く道も緩やかで通行が容易です。当時では荷は宿場から宿場へと荷物を繋ぐ「宿継ぎ」という制度かあり、宿場ごとに馬を替え、かつ馬方の駄賃や問屋場口銭が必要でした。この道を行くと、中山道の小田井、沓掛、軽井沢、坂本などの宿継がなくなり経費削減ができました。
浅間山と茅葺屋根の家・・・
軽井沢の中にあって、昔の雰囲気を残しているようです。
江戸時代初めから農民たちが自分の僧産物を城下に直接運ぶ手馬(てうま)と呼ばれる制度がありました。寛文年間(1661-1673)には駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)として荷物や人を 乗せて運ぶようになり、この詩語をする人を馬借(ばしゃく)とか馬子(まご)といいました。元禄年間初頭(1690年代)にはこれが専業化して、信濃や甲斐では客の依頼により客先から相手先の宿場まで荷物を運ぶ中馬(ちゅうま)と呼ばれる商売が生まれます。ここはそうした中馬の道でした。
集落に入ってすぐ、左手の高台にお堂がありました。
入口には「南無大日如来」という割と新しい石碑がありましたので、大日如来を祀る大日堂のようです。
石仏が入口を守っているようでした。
無事通して頂きました。
一番左は薬師如来のような気もします。右の2体は大日如来です。
このの写真も多分、大日如来・・・
いい加減な解説ですみません。
大日如来の大日は「大いなる日輪」という太陽よりも偉大な光のことだそうことです。太陽を司る仏としては毘盧舎那仏が進化した仏だそうです。日本では密教において最高仏で、宇宙そのものと考えられていて、釈迦如来を含めるすべての仏は大日如来の化身とされています。また、すべての命あるものは大日如来から生まれたとされる生命の根源の仏とされています。
凄い仏ですね。
道を歩いていくと左の「東光寺」という石柱がありました。
入り口が良く判らず迷いましたが、ここが参道でした。
寒念仏供養碑が二つ、少し離れて馬頭観音の文字碑・・・
寒念仏は当初は僧侶が寒の30日間の明け方に山野に出て念仏を大きな声で唱えた厳しい寒行でした。後の時代には、一般の信者も寒夜に鉦(かね)を打ちならし念仏唱えながら報謝を請いながら集落をまわるようになりました。
右の寒念仏供養碑は文化九年(1812)とありました。
少なくとも、その時代から、寺があったことは間違いないようです。
昔はほかに建物があったのかもしれませんが、本堂がポツンと・・・
ちょっと寂しげです。
無住の寺ですね。
素朴で質素ですね。東光寺について調べてみましたが、真言宗智山派の寺という以外は良く判りませんでした。
中はきちんとしていました。土地の人たちが守っているのでしょうか・・・
本尊は大日如来でした。
その後ろには不動明王もいらっしゃいます。
不動明王は密教の根本尊である大日如来の化身と言われています。
境内からの浅間山が素敵でした。
もう少し、入山道について・・・
入山道は、荷物を運ぶのは江戸幕府により、碓氷の関所の関係もあり上州の甘楽郡の入山村・恩賀村にのみ通行を認めました。当初は物資輸送の公な道ではなかったのですがしか、江戸幕府による信州米買上げなどにより、信州藩の米の輸送には使われるようになっていったようです。入山道はとも呼ばれたようです。確かにの尾根の北側で日影道の名は中山道を「日向」としてもそれに対する日影と八風山から平尾山の北側を通る「日影」の道という両方の意味があったのではないでしょうか。
浅間をアップ・・・
しかし、茂沢を通るこの道は享保7年(1722)に岩村田宿から八風山の南の香坂越(現 矢川峠)を越える日影新道が商品流通の道として認められ、その後、現・佐久市中込から内山峠を経て下仁田への内山道の開通により、日影道には岩村田から関東への荷物が消えていきました。
<<軽井沢の田舎 茂沢2 白鬚(しらひげ)神社と薬師堂 | ホーム | 八風山3 山頂と、ちょっと藪道を里へ・・・>>
コメント
コメントの投稿
| ホーム |