真の知性は何によって測られるか
われわれは普段、何ら疑いを持つことなく「あの人は賢い」と言ったりするけれど、はたして賢いってどういうことだろう。どんな人が賢い人なんだろうか。
「東大卒で大手コンサル勤務、ついでにMENSA会員です」
おそらく世の中的には、十中八九こういう人は賢いとされるかと思う。申し分のない学歴、論理的な分析思考、全人口のうち上位2%の知能指数、なるほどいかにも賢そうだ。けれども、実はこれらは真の知性とは関係がない。関係がないどころか、むしろ真の知性を育む上で、邪魔になることすらある。
なぜなら真の知性とは「自己と共にあること」だから。
自己なき者の慰み
少し前の話になる。東大卒Youtuberコンビ「東京大学恋愛学部」が、インフルエンサーであるヒカルの恋愛模様を冷笑し、露骨に学歴マウントをとったことで、界隈を賑やかしていた。
同じく元ミス東大である神谷明采も一丁噛みマウントをとりにいったことで、さらに界隈はざわつくことになったわけだが、卑近ながらも本件は、真の知性とは教養とは何なのかを考える上で、格好の教材になったなと個人的には感じたので、彼彼女らに感情的なコミットは一切ないことを前置きした上で、ここであらためて取り上げてみたい。
結論を先に述べよう。彼彼女らは日本が誇る最高学府・東大をでているにもかかわらず、残念ながら知性も教養もないといえる。高い学歴はある。だがしかし、知性も教養もない。なぜそう言い切れるのかといえば「自己と共にあれていない」のが明白だからである。
真に知性のある人、つまり自己と共にあれる人は、そもそも他者批判をしない。ましてやそれが、よく知りもしないネット上で見かける程度の他者であればなおさらそう。そんな暇があるならば、一歩でも深く長く自己と共にありたいから。他者批判に勤しんでいるということは、それすなわち自己と共にあれていないことを示す傍証なのである。
彼彼女らを「知性も教養もない」と批判しているおまえも同じ穴の狢じゃないか、と思われる向きもあるかもしれない。が、再三言うように自分は彼彼女らに感情的なコミットは一切ない。
彼彼女らに関心があるわけではなく、数多ある現象の一つとしてしか見ていない。関心があるのはそうした現象の背後にどんな構造があるのか、どのような原理原則が導けるか、だ。「知性も教養もない」というのも、馬鹿にしてやろうマウントをとってやろうの意図は一切なく、自分としては「1+1=2である」と同じ感覚で言っている。
マウントをとるという所作もまた、自己と共にあれていないことを雄弁に物語っている。なぜ人はマウントをとりたがるのか。自己と共にあれていないからだ。自己に共にあれていないがゆえに、他者との"比較"によって自己を確立しようとするのである。
自己と共にあれているのならば、原理的に他者との比較が入る余地がない。なぜなら自己とはこの世界において、唯一無二の存在だからである。唯一無二の存在を比較とはこれいかに。つまるところ、他者への批判も他者との比較も、いずれも自己なき者の慰みなのだ。
必然的にその批判内容も、ある種の本能的規範、ひいてはその本能的規範と地続きにある社会的規範にまみれたものとなる。たとえば本件でいえば「恋愛経験を若いうちにたくさんしている人間は勝ち組」などがわかりやすくそう。自己と共にあれていないからこそ、社会が半ば無理矢理押しつけてくる規範に、たやすく絡め取られてしまう。
「ヒカルさんはEQは高いが教養がない」と、神谷がそう言い放っていたのが実に印象的だった。まさにこの一言が神谷の教養の無さを示しているからだ。
いったい何のために教養を身につけるのか。こうした規範から距離をとるために他ならない。本能を、社会を、自己を相対化し、自らが従うべき規範を自らが決めるために、教養を身につけるのである。その意味で、彼彼女らからは微塵も教養を感じられない。一人の例外もなく自己以外の何かに隷属している。自己以外に隷属すべきものなどあろうはずもないのに。
知性とは「自己と共にあること」であり、教養とは「規範から距離をとるための術」だとここでは定義した。本来、自己がちゃんと確立されているならば、あらゆる概念はそうなるはずなのだ。借り物の言葉ではなく、自分の言葉で話せるはずである。その観点から言っても、ご大層にEQなんて手垢まみれの概念をこれみよがしに持ち出している時点で、やはり神谷には知性も教養もないのが透けて見える。
真に知性ある人、真に教養ある人というのは、世間が思っているよりもずっと少ない。
理想と現実の乖離
「東京大学で人気のある職業というのは、10年か20年のうちに没落産業になる」と、ある経済学者が辛辣な発言をしていた。参議院の国民生活・経済に関する調査会でのことだ。実際の統計データを調べたわけではないので、たしかなことは言えないが、十二分にありえる話である。少なくとも体感的にはそうだろうなと思う。
なぜそんなことが起きるのかというと、とどのつまり自己が確立されていないからだ。こうして結論だけを述べると、どうしても飛躍しているように感じるだろうから、ここは丁寧にあいだを埋める必要があるかと思う。
まず、そもそも論として自己が確立されていなければ、課題を見出すことはできない。なぜなら課題とは理想と現実との乖離によって、打ち立てられるものだから。われわれが何かしら現状に対して課題を見出す時、そこには必ず「こうありたい」や「こうあるべき」といった理想が前提にある。
これは違和感にも同じことが言える。われわれが違和感を抱くその瞬間、それは理想と現実が乖離していることを意味している。理想に対して現実がそうなっていないがゆえに、われわれは半ば反射的に違和感を抱く。違和感を抱くということは、自覚しているかどうかはさておき、すでに理想としている何かがあるわけだ。だからこそ、違和感に忠実に従うことは、自己を確立させていくにあたって、非常に重要な習慣となる。
では、その理想はどこから生じるのか。自己である。自己が確立されているからこそ、「こうありたい」や「こうあるべき」といった理想が生じる。理想が生じなければ、当然ながら現実との乖離も生じようがないので、課題を見出すことはできない。
学生というのは、良くも悪くも青いもの。可能性のかたまりではあるが、一方でやはりまだまだ自己は確立されておらず、生まれ育った家庭環境や学校教育の弊害によって、自分らしさの発揮が阻害されてしまっている。東大生とてそれは例外ではなく、むしろ東大生のほうがよりその傾向は強いであろうことは想像に難くない。ごく一部のモノホンの天才を除いて、敷かれたレールへと過剰なまでに適応しなければ、東大に進学することはないのだから。
そんな自己なき学生たちに、こぞって支持される企業や産業が衰退していくのは、当たり前といえば当たり前の話である。絶えず変化し続ける環境の中で、積極的に課題を見出さずに安穏と過ごしていれば、衰退していくのは自明の理である。成長とはあるべき理想を現実へと引きずり下ろす過程でなされるもの。自己なくして理想なし、理想なくして成長なし、である。そして成長しなければ、たとえ現状維持していたとしても、周囲が成長すれば相対的に衰退していく。
これからますます加速していくであろうAI時代において、もはや課題解決に価値はないといっていい。課題解決そのものに価値がないのではなく、わざわざ人間がやる価値がない。人間は人間にしかできないことをやるべきである。その一つがこの「唯一無二の自己が見出す課題設定」にあると自分は考えている。原理的にこれはAIにはできないはずなのだ。データを与えてそれっぽい模倣はできても、どこまでいっても模倣は模倣にすぎない。模倣は自己たりえない。
孤独が知性を育む
魚鱗癬、という病気を知っている人は、はたしてどれぐらいいるのだろうか。遺伝子の異常によって、皮膚が魚のうろこのように乾燥し、ぼろぼろと剥がれ落ちる病気だ。
ずいぶん前に魚鱗癬と向き合うとある女性の日記を読んで、衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えている。
魚鱗癬はその症状からして、外見的な差別や偏見を助長しやすい。それが思春期であればなおさらそう。彼女が多感な学生時代に浴びせられたそれらの視線は、筆舌に尽くしがたいものだったことだろう。結果として、彼女は不登校になり最終学歴は中卒、同人作家として細々と生計を立てることになったわけだが、たまたまそんな彼女の日記を読んで衝撃を受けた。症状やキャリアにではない。彼女のその研ぎ澄まされた知性に、である。
彼女は魚鱗癬によって、半ば強制的に学校教育というレールからパージされてしまった。延々と家にひきこもり、ただひたすら自己との対話を繰り返すしかなかった。だがしかし、そうした孤独の日々こそが、彼女の知性を研ぎ澄ましたのだ。
東大卒のコンサルと中卒の同人作家、社会的には誰がどう見たって前者のほうが知性ある人間と判断される。それどころか土俵にすら立てていないかもしれない。けれども、そうやって社会に過剰なまでに適応した人間には、到底届きえない研ぎ澄まされた知性を自分は彼女に感じ取った。当時は今ほど明確に言語化できなかったが、今思い返すと真の知性をまとうとはどういうことなのかを、身をもって彼女は教えてくれたように思う。
真の知性を育む上で、孤独は欠かせないものだ。社会から距離をとり、ただひたすら自己を見つめる時間こそが、真の知性を育むのである。
英語の Loneliness(ロンリネス)と Solitude(ソリチュード)は、どちらも一人でいる状態に関係する単語だが、自己であれない孤独をロンリネス、自己であろうとする孤独をソリチュードだと、自分はそう定義している。いつも誰かや何かのせいにして、自己から目を背け続けて陥る孤独がロンリネス、すべての事象を真正面から自分事として受け入れ、自己を洗練させようとして陥る孤独がソリチュードである。
自分が不登校や無職を経験している人に惹かれがちなのは、こうした理由による。彼らは何らかの理由で社会からパージされたことによって、ロンリネスまたはソリチュードに陥らざるをえなかった。それゆえ無批判に無自覚に社会に適応している人々よりも、だいぶ人間臭い存在に仕上がっている。その人間臭さに自分はどうしようもなく惹かれるのである。
知性と自由
真の知性とは「自己と共にあること」であるからして、知性と自由は不可分である。不可分というか、もはや知性=自由と言い切ってしまってもなんら差し支えない。自己と共にない人間が自由であれるはずがないからだ。
どういうことか。わかりやすい例をあげよう。たとえば資産100億の人は、経済的自由といえるだろうか。おそらく一般的にはいえると答える人が、大半を占めるかと思う。
ではその資産100億の人がやっていることが、女体シャンパンタワーでインプ稼ぎだったらどうだろう。いや、誤解しないでほしい。別にここでは彼を咎めるつもりはない。これ以上ないほどにわかりやすいから、事例として用いたまでだ。象徴としての女体シャンパンタワーである。
経済的自由人はあんなこともできて、さすが自由だなと思うだろうか。少なくとも自分はそんなことは一切思わない。思わないどころか、ものすごく不自由だなと気の毒にすら思う。
考えてもみてほしい。あれほどの資産があってなお、やることは女体シャンタパンタワーでインプ稼ぎなのだ。後に彼はあくまで意図してやったものだと種明かししていたが、意図してやっているかどうかはあまり関係がない。意図してやっていようがいまいが、彼がインプレッションの奴隷であり、アルゴリズムの奴隷であることは、火を見るより明らかである。
真の経済的自由人というのは、必ず自己に従っている。何度も言うように知性とは「自己と共にあること」であり、知性=自由だから。自分らしくお金を稼ぎ、自分らしくお金を使い、自分らしくお金を残すことができる、それこそが本当の意味での経済的自由人である。多額の資産があってなお破滅する人が後を絶えないのは、自分らしさを尊重しないからに他ならない。自己以外の何かに従っているからこそ、徐々にではあるが着実に精神が澱んでいくのである。
多くの人が誤解しているが、資産の多寡は経済的自由に関係がない。資産が増加すればするほど経済的自由に近づくと、多くの人はそう思い込んでいるが、そうじゃない。むしろ、その発想は真の経済的自由を遠ざけるものだ。
真の経済的自由とは自分らしく稼ぎ、自分らしく使い、自分らしく残すことであるからして、今この瞬間からなろうと思えばなれる。今の自分にできる範囲で、最大限にこれらを徹底すればよい。それができるならば、誰が何と言おうがその人は経済的自由人である。



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