くそ忙しくて読めてなかったんだけど、ばるぼらさんのnoteにあった「Poptimismおさらい」っていう記事が面白かったよ。はっはっはっこいつは愉快だ。そういう意味じゃない。けど、まあそういう意味だ。

noteで真に読むに値するのとか、ばるぼらさんのやつくらいしかなくない?
まあそれはいいのだが(よくないが)、ばるぼらさんがさ、「長いけど引用したくなる箇所があります」と書いている、Wiredの記事ですがね?

これ、たしかに引用したくなる。わらい
ポップティミズムには、批評家はポップ音楽を真剣に扱うだけでなく称賛すべきだ、さもなくば……という含意があった。そしてこの流れは、メディア業界に求められるものの変化とも見事に一致していた──ブログ時代には逆張りの意見で注目を集められたが、SNSではフォロワーが公に同意できる発言をすることでリーダー的存在になれるからだ。
とかね〜。
しかし、そのあとにばるぼらさんが書いていること(日本の状況)のほうが、僕としては引用したいことだったけどね。わははは。
まあ、引用されないことを前提に書かれてるんだろうから、しないっすけどね。そこは君ら自身で、ばるぼらさんの記事を買って読みたまえよ。当然だろアーン?
狂信と好事家、ヒップとスクエア
それはともかく、ばるぼらさんの記事の中にさ、サイモン・レイノルズが2003年に「FANATICS VERSUS DILETTANTES」という対立として書いていたのが、ポプティミズムのおこりに関係があるだろうね、と書いてあるわけ。
でまあ、わたし、ここのところ植草甚一をざざっと読み返していたんです。戦略的読書として。それなりに読む必要というか、意味のあるやつが多いわけ。いろいろあるけど『カトマンズでLSDを一服』とかさ。
だが、ばるぼらさんの記事を読んでて思い出したのは、定番書な『ぼくは散歩と雑学がすき』1の冒頭にある、「ヒップとスクエア」という二項対立のことだった。1967年に書かれた文章。
ヒップは言うまでもなくヒッピーの語源である。のだが植草甚一の書いている内容では、ようするに文化的に主体的である、自己決定的である態度、やそうした人間、を指すと考えてよいみたい。スクエアとは、その逆に位置づけられる、四角四面で保守的な会社人間、みたいな蔑称。っすね。
しかし、植草甚一は結局、ヒップでいることもしんどいし、スクエアでいることも大変だ、みたいな書き方でこの項をまとめている。
じゃあどうしたらいいのか。植草甚一はこう書いている。
ところで肝心なことは、いったい自分はヒップなのかスクエアなのか、という問題だ。それは単純な自覚作用により自分はヒップだなと思ったことで解決してしまう。スクエアは、そんなことは考えないで無頓着でいられるわけだ。
するとスクエアの世界のなかでヒップでとおしているとき、いったい何をすればいいんだろう、することがないじゃないかと怒りだすにちがいない。そういうときはスイングするのがいい。つまり、ヒップ語を使うのを避け、ひとつの場所から、ほかの場所へと行ったり来たりすることだ。そういう人間をスインガー Swingerといい、これも最近の流行語になった。面白いことはスクエアの世界にスインガーが多くなってきた。つまるところがスクエアがヒップに転向しはじめたのである。
といっても世界がスクエアであり、会社も仕事もスクエアであり、だからスクエアでなければ食っていかれない。そういった状態なのに、どうしたらヒップになれるだろう。それにはいい知恵がある。昼間のあいだはスクエアですごし、夜になったらヒップに早変わりすることだ。こう書けばスインガーの意味がハッキリするだろう。
まあね。しかしね。流動的であることが好ましい、というのはわかるけどね。俺もそうですけどね。
と。いうのと、さっきのディレッタントの優位を踏まえつつどのように今日の状況があるかという話と、なんとなく重ねて考えてしまった。
流線型よ、浮かべて僕のことを。てあったよね
って思うのはなぜかというと、ともかく最近の僕の関心は「流動性って、保てないじゃん」という、なんか当たり前だしみんな知ってるだろみたいなことであるからなのだろう。かもね。それをどうしたらいいのかは、植草には書いてない。ま、そりゃそうですけどね。
それを考えて、いろいろ読んだりしているわけです。あと書いたり。こういう文章とか。
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関係ありそうで、なさそうで、やっぱりあるかもしれない話だが、この本は丸谷才一に捧げられている。 ↩