なぜ自分は自分なのか 子供の頃からずっと考えてきたけど答えがわからない疑問。 それは、 「なぜ自分は自分なのか」 です。 大学では哲学も学びましたが、形而上学・認識学・倫理学のどれを学んでも答えを見つけられませんでした。 答えは生物学にあるのでしょうか。 パソコンも、「自分」を認識するのでしょうか。 「ターミネーター」とか見ると、ちょっと疑問に思うのです。 ターミネーター目線で、赤い画面で人や物を見るシーンがあります。 でも、その赤い色や、人や物を認識してその赤い画面に映し出されるデータは、誰に見せているのでしょう。 もしターミネーターが、目からの情報を「赤い画面」にせず、「そのまま」処理しているとしたら、あの赤い画面はなんなのか? ロボっぽく見せるただの演出? 「マルコビッチの穴」という映画でも、ある人物の「目をとおして」、つまりその人物に「見えるものとして」人や物を、その人物の中に入った人が見るというシーンがあります。 しかし、ふつう、人は、目を境に、「外」「中」の概念はなく、自分の目に入ったものが即座に全て自分のものであり、目に入ったものを、「目からの情報」としてとらえ、次に、さらにそれを見て理解するということはしません。 目はカメラではないと思うのです。 ですが、「意識」というものがあります。 「自分を感じること」です。この、主観を、なぜ今、今のわたしの目や指、体を「使って」持っているのかということが疑問でならないのです。 この、わたしの外に広がる世界を知覚する、それを「外」と認識するわたしは何なのか。 この質問をしているのが、なぜあなたではなくわたしなのか。 あなたの意識はわたしになり得なかったのだろうか。 意識とはどこかから来る、なんてものじゃなくて、生物学的に、単に、自分と自分じゃないものを認識した「結果」なのか。 自己とは偶発なのか。 それが不思議なのです。 それとも、これを不思議に思うことに、どこか矛盾があるのでしょうか。 ご意見お聞かせください。

補足

補足ですが、 まず、colorinc01さんの回答には、驚きました。自分の中のいくつかの点と点が繋がりました。自意識の形成に、なるほど!と納得。意識や自分を自分とわかるということは、そもそも本来脳機能の一部で、元々あって、内側から来るものだと思っていましたが、子供が自分を自分の名で呼ぶことが多いことなども、この方の意見で啓蒙された気分です。 ただ、自意識というものは、ほかのだれもが持っているはず。colorinc01さんの考えだと、名前を認識できる脳機能を持つ高等生物も自意識を持ち、yantakitaさんのいうように、鏡を見て、それが自分だとわかるくらいの頭のいい動物なら自意識を持ち得る。 そこでさらに疑問が大きくなるのです。わたしは猿や犬の目で世界を見ていたかもと。でもなぜこの「わたし」という固体から世界を見ているのか?これが疑問なのです。honnyarakeさんの回答のような。 もしかしたら、宇宙と同じで、ただの必然、理由なんてないのかも。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさんご回答、どれも考えさせられるものばかりでした。ただ、まだ疑問が残るところです。知覚の集約機能をもつ意識、自分と他を区別する自意識、それらの形成が質問者であるわたしをつくったとき、なぜそれはわたしでなくてはいけなかったのか。わたしという自意識や概念は原初の肉体には無いのに、発育とともに自分が形成され、いつの間にやらわたしという体から世界を知覚している・・・?

お礼日時:2012/9/29 10:57

その他の回答(8件)

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少し違いますが、私自身傾向の似たような質問をちょうどしていまして、 同じような事を考えている人はいるのだろうかと思い、 探していたらご質問を拝見しました。 既に回答している皆さんの回答には、はるかに及びませんし、 ご質問に直接答える事になるかどうか解りませんが、 私自身は、意識というものは、ちょうど物体を映す水面のように、 心理状態を映す鏡のようなものかもしれないな、と最近考え始めました。 また、私の質問に対する回答も、何らかのご参考になれば幸いです。

colorinc01さんの、変化しない同一性的な概念誕生(生産)後の自意識としての自分ではない、身体もその他も区別しない概念自意識ではない、実在たる自己が無常なる変化し続けるものという提示は、一点を除きその通りに私も存じております。 除いた一転とはそれが、“実在たる自己が無常なる変化し続けるもの”ということであります。 それはむしろ“現象的継続性以前の、全て”とでもいうべきであるのでしょうか。 一切の“実在たる”自己の中に流れている、宇宙的海洋のforcesたる力、創造の意識を発現させている唯一実在の意志が発している海洋たるforcesなのでしょう。 そしてそれが分別意識たる個体の一つに入り個別の自己となっている。それも、そして海洋の自己も変化しながら、しかも不変普遍でしょう。 海洋的自己は一切の個別自己の意識と知覚経験、行為をもっていて、個別自己はその海洋自己の中の認識知覚経験であり行為である。 いうなれば個別自己の本体はその海洋自己である。 五感の器官たる視聴味嗅覚手足などの触感器官が経験しているか。そうではなく脳みその中の一立方センチの灰色の物体の中の機能が五感でしょう。 各個体の自己は各個体が経験したり、知覚認識していない。行為していない。それは海洋自己の中の一機能でしょう。 各五感器官たる、行為器官たる個別自己は自分がそれをしていると錯覚している。 手足や耳が知覚、経験していると。 そうではなく、海洋自己も一機能の中の部分でしかない。 そして各個別自己はその海洋自己の一機能である全自己の経験や知覚を、持てるか?無論それは不可能である。 しかし、そういう個別自己を出るに従い、海洋自己との自己隔てが抜け落ちていく。そして一体となっていく。 私達、ラージャ・ヨーガの精進のものはそういう経験を進んでいます。 私達はSelf-Realization Fellowshipという団体のラージャ・ヨーガの勉強と精進の経験を歩いています。 パラマハンサ・ヨガナンダ大師が示しているのですが、多くの宗教を私達は私達と同じことをいっていると存じております。 私自身は60年安保の時から革新の政党のささやかな活動者ですが、創価学会の方も立正佼成会の方も、民主党も自民党も同じだと存じ、ご近所さんのどなた様とも閑談して楽しんでいます。 今の精進はまだ40年ですから、漸く経験して来ている所です。

肉体、つまり生物としてのあなたの個体は、「自己」の感覚の登場に先行するんです。 タイムラグがあるんです。 身体を不思議に感じるのはこのタイムラグのせいだと思います。 誕生と同時に自分の意識があったらそんなこと感じません。 意識の側からのみ観察するからそうなるんです。 といっても、反対からは観察できませんが。 意識はそれが誕生する以前の、あなたの生物学的個体から分泌されているんだと思います。 意識が主なんではなく、それ以前の生命活動をしている物が主体なんだと思います。 後者が意識を道具として、使っているんではないでしょうか。 進化のなかでその機能を生み出したんではないでしょうか。 >猿や犬の目で世界を見ていたかも 今だってそのように見ることは可能です。 自我の強い光をちょっと弱めてやればそのように見えます。 無意識領域にちょっとだけ軸足を移動してやれば無名性の「わたし」が出現してきます。 社会的認知としての自己はその上に乗っかっているんです。 私たちはアナログ的な地続きで犬や猫、猿につながっているんですから当然です。 表面に分泌された日常の意識でしか考えないので普段は気がつかないだけです。 ************: colorink 01さん 脱帽です。

「私」とは、億兆に二人と居ない かつ偶発的にも存在する存在です。 不思議といえば不思議な奇跡です。 しかし、貴方がじぶんの存在をどんなに訝しがっても、 肉体の自然はその疑問を超えてしまうのもまた事実でないのか。 腹が減れば飯を喰わざるえない。 この自然を受け入れて居るときは、 たぶん不思議を思うメタフィジックから解放されてるのでは?

自分は自分じゃないといけないの? べつに自分が誰でもいいじゃない。固いこといわないの(*^^*)