壱岐島から送り出された私のこと
私が壱岐島を知ったのは、2018年でした。
三十歳で離婚し、人生をやり直そうとしていました。
神社参拝が、唯一心が落ち着く時間でした。
少しずつ遠くの神社へ足を運ぶようになり、
その頃、私は占い師になりたいと思うようになりました。
占いの神様を調べると、出てきたのが月読様
暗い世界(みえない世界)をみる、暦を読む神様
占いとも深いご縁があると知り、埼玉から一番近い山形の出羽三山、
月山へ向かいました。
登山ツアーまで申し込んでいたのに、当日は強風で中止。
「私は占い師になれないのかもしれない。」
そう思って、温泉で一人落ち込んでいました。
すると、一緒のツアーだった方が声をかけてくれました。
「月読様なら、壱岐島が総本山ですよ。」
その一言が、私と壱岐島の始まりでした。
せっかくだから行ってみよう。
そう思い、日帰りで長崎の壱岐島へ向かいました。
滞在時間はたった五時間
目的は月読神社だけでした。
ところが、何度ナビを設定してもたどり着けません。
「やっぱり私は占い師になれないんだ。」
諦めて、ふと目に入った近くの神社へ向かいました。
そこは壱岐国一宮
階段を登ろうとすると、真ん中に一本の枝が落ちていました。
よく見ると、七つに枝分かれしています。
壱岐島には七爪の龍がいる。
そんな話を思い出して、龍のいる神社へ向かいました。
そして港へ戻る途中
あれほど探しても見つからなかった月読神社が、目の前に現れたのです。
急いで参拝し、そのまま港へ走りました。
「この島は、なんだか不思議。」
それが壱岐島の第一印象でした。
そして、その「不思議」は、一度では終わりませんでした。
また行きたい。
次はゆっくり回りたい。
季節を変えて行ってみたい。
神社だけじゃない魅力も知りたい。
気づけば、島へ行く理由は何度でも見つかりました。
あの時はまだ知りませんでした。
何年か後、この島で暮らすことになるなんて。
「神様に呼ばれた。」
そんな話を聞いたことはありませんか?
私は以前、
「神様に呼ばれる人は、神様のために何か役目を果たす人なんだ」
と思っていました。
どこか特別で、神様に選ばれた人そんなイメージがありました。
でも、今は少し違う考えになりました。
神様が本当に人を呼ぶのかは、私にはわかりません。
でも、もしそんなことがあるのなら
神様は、人を働かせるためではなく、
助けるために呼ぶのではないかと思うのです。
人生が思うように進まなくなった時
一人では抱えきれなくなった時
「ちょっとこっちへおいで。」
「自分を見つめ直してごらん。」
私には、そんな優しい呼びかけのように感じています。
だから私は、壱岐島で過ごした日々を振り返ると、
「神様に呼ばれた」
というのは、こういうことだったのかもしれないと思っています。
これは、そんな一年半の記録です。
三十九歳、人生の大半を埼玉で生きてきました。
帰るような田舎もなく、不便もなく、
どこかに行く理由もありませんでした。
望んでいた占い師になる夢を叶え、幸せになれると思っていました。
でも、人生そんなに簡単にはならず、また行き詰まりを感じていました。
何か変化が欲しかったのかもしれません。
そんな頃、私は外国人の方と再婚しました。
しっかりしなくちゃと凝り固まった私は、彼の楽観的な考えに救われていました。
二度目の結婚では、二人で支え合って暮らす毎日を思い描いていました。
ところが、旦那は日本で働くことができず、生活は私が支えることになりました。
占い師だけでは足りず、夜勤のヘルパーもしました。
いつまでこの生活が続くんだろうって思っていた時、
数年ぶりに心惹かれる出来事が起こりました。
私は人生ドラマが好きで、人の人生に深く関わる仕事に惹かれていました。
ある日、YouTubeで見ていた引きこもり支援の会社が、壱岐島校をつくるという発表をしました。
壱岐島は、神社好きの私にとって島そのものが聖地でした。
これまで何度も訪れ、大好きになっていた場所です。
「好きな島で、人の人生に関わる仕事ができる。」
そう思った瞬間、何も考えずに求人はありますかとDMを送りました。
残念ながら求人の予定はありませんでした。
でも、壱岐島に住んでもいいのかもと思えたんです。
そう思ったというより、今の私のままではいたくない。
その気持ちが、一気に溢れてしまいまいた。
埼玉よりも広い世界で生きてみたい。
壱岐島で家と仕事を探し始めると、ご縁がつながりました。
私が関わりたかった引きこもり支援の仕事と、住む家まで用意していただけることになったのです。
私は、その話を受けることにしました。
人生は動き出した。
でも、思っていた形とは違う方向へ進んでいきました。
移住のため、三十九年間、捨てる必要のなかった荷物と向き合うことになりました。
部屋にあるのは、私の過去たち。
「いつか使うかもしれない。」
「まだ使える。」
捨てられなかったのは、物ではありませんでした。
最後まで使い切れなかった自分を許せなかったからです。
だから私は、その罪悪感ごと引き受けることにしました。
今も、未来も使う予定のないものは、思い切って手放しました。
小学校の図工作品
大学の教科書
好きなドラマを録画したビデオテープ
親が買ってくれたものは、特に捨てるのが苦しかった。
でも、物がなくなっても、もらった愛情までなくなるわけじゃない。
写真を撮って、思い出だけを持っていくことにしました。
三か月かけて手放した量は、1トンを超えました。
それでも引っ越し前日まで、部屋は荷物でいっぱいでした。
睡眠時間は毎日二時間だけ
ある日、風呂上がりに涼んでいたら、一気に血の気が引きました。
体中が冷たくなり、震えが止まらない。
立つこともできず、床を這ってベッドまでたどり着きました。
「このまま起き上がれないかもしれない。」
本気で、そう思いました。
そんな中でも旦那は自分の荷物が終われば、あとは手伝う気がなく、
朝から晩までサッカーを見ていました。
翌日も病院に行っていては引っ越しができないから、
そのまま引っ越し作業をしました。
引っ越し当日、本当は午後一に出発して、浜松まで。
引っ越し祝いにうなぎ食べ放題の夕飯と温泉のホテルを予約していました。
でもどんどん出発が遅れて、
家を出られたのは22時、ホテルに着いたのは1時。
もちろんごはんも、温泉も無理でした。
車は何にも考えず旦那が積み込んだから、旅行中に使いたかったものが出てこない。
3日間同じ服で過ごしました。
移動費用に使うはずのクレジットカードも出てこず、SNSで振り込みをお願いして助けてもらう事態に。
問題が起きても、すべて私一人で解決する夫婦旅
お金も、手配も、運転も、トラブル対応も
それでも這ってでも壱岐島へ行く。
あの島へたどり着けば、人生はきっと変わる。
その時の私は、本気でそう信じていました。
私は、とにかく壱岐島へ行きたかった。
家も仕事も詳しく聞きませんでした。
聞いてしまったら、
何か理由をつけて移住をやめてしまいそうだったからです。
想像以上に大きな家
これからの生活にワクワクしていました。
予定外だったのは仕事のこと
予定していた離島留学生の受け入れが1年後になることを知らされました。
移住初日から無職決定
試練がまだまだ続くのかと絶望でした。
移住の片付けがひと段落して、
ご縁あって神社のカフェで働くことになりました。
神社は大好きです。
神職でもない私が神社に関わる仕事ができるなんて、最高だと思いました。
でも、不安もありました。
飲食の仕事だけは、ずっと避けてきたからです。
高校生の頃の火傷きっかけで火が苦手になり、選ばないと決めていました。
しばらく休業していたカフェでした。
店内の片付けも、メニュー作りも、全部一から任されました。
料理を作ることは怖くありませんでした。
怖かったのは、私がおいしいと思ったものを、
人に食べてもらうことでした。
それは料理ではなく、自分自身を評価されるような気がしたからです。
それでも一歩踏み出してみると、
同じメニューを何度も頼んでくださる方や、
全メニュー制覇を目指してくれる方まで現れました。
そのたびに少しずつ自信がつき、季節の食材を使った新しい料理を考えることも楽しくなっていきました。
神社カフェでの毎日は、同じようでいて、
一日として同じ日はありませんでした。
朝はスーパーで食材を買うところから始まります。
カフェに着いたら、お湯を沸かし、お米を研ぎ、店内を掃除して
音楽を流す。
そこまでは毎日同じ
でも、その先は何が起こるかわかりません。
冬はまず囲炉裏に火を起こします。
寒い朝は手水舎の水が凍り、水道まで凍って営業できなかった日もありました。
風の強い翌日は、参道いっぱいに落ち葉が積もります。
竹ぼうきで掃いていると、小さな蛇が顔を出して慌てて草むらへ逃がしたこともありました。お礼のように大きな蛇の抜け殻1本を拾ったことも。
晴れた日は窓を開けると、山から気持ちのいい風が吹き抜けます。
坂道を自転車で登ってきた方には冷たいお水をお出ししたり、
ご祈祷を待つ方にコーヒーを淹れたり。
おススメの神社を聞かれれば、この神社の魅力をお話ししながら、
「時間があったら、あそこの神社もおすすめですよ。」と、
こっそり他の神社も紹介していました。
祭り前日は氏子さんたちと一緒にしめ縄を替え、
三十人分の料理を作ることもありました。
大晦日は年越し営業で、お汁粉を振る舞いました。
地元の柑橘と生姜で神社エールを仕込み
、新しいメニューは、まず神様にお供えしました。
カフェには本当にいろいろな人が来ました。
観光で訪れた方
地元の常連さん
自転車でクリームソーダを飲みに来る中学生たち
そして、自分のことを「妖精おじさん」と名乗る方までいました。
昼食だけのつもりが、おしゃべりをしているうちに夕方になり、
「帰るタイミングを失っちゃった。」と笑う人もいました。
一度来て気に入ってくださった方が、今度は友達を連れてきて、
自分のお店のように紹介してくださることもありました。
移住してきた方と出会い、そのまま友達になることもありました。
一日誰も来ない日もあります。
風の音と鳥の声しか聞こえない静けさ
世界には私しかいないんじゃないか
時間が止まってしまったような感覚でした。
「天国って、こんな場所なのかな。」
そんなことを、本気で思った日もありました。
毎日何が起こるかわからない。
だから毎朝、今日はどんな一日になるんだろうと少しだけ
ワクワクしながら、暖簾を出していました。
今思えばあの場所は、ただ食事をするカフェではありませんでした。
人が少し休んで、笑って、またそれぞれの人生へ戻っていく場所
私がお客さんを元気にする場所だと思っていました。
でも、本当は私自身が、あの場所に何度も救われていたのかもしれません。
島の家を整えて
夫婦で協力して暮らすこと
神社で働くこと
ようやく、私が望んでいた暮らしが始まった。
私は本気でそう思っていました。
移住して半年ほど経った頃、夫婦の時間は少しずつ変わっていきました。
最初は、一緒に島暮らしを楽しもうとしていました。
釣りをしたり、畑を始めたり。
でも、それは長くは続きませんでした。
離島留学生の受け入れは延期になり、島には知り合いも少ない。
少しずつ家で過ごす時間が増え、夕飯を囲んでいても、
彼はイヤホンをつけたままフランス語の動画を見るようになりました。
同じテーブルにいるのに、一人で食事をしているようでした。
気分転換になればと、数日だけ関東へ帰ることにしました。
久しぶりの帰省を、彼はとても楽しみにしていました。
その嬉しそうな姿を見て、
「私といるより、関東に帰る方が嬉しいんだな。」
と、少し寂しくなりました。
そして、そのまま帰ってきませんでした。
「大丈夫よ、帰るよ。」
その言葉を信じて何度も飛行機を予約しましたが、
そのたびにキャンセルになりました。
楽しみにしていた壱岐島の夏も、一人で迎えました。
何か月待っても連絡はありませんでした。
このまま待ち続けることはできない。
そう思い、私から離婚を切り出しました。
最初は、一緒に埼玉へ戻ってやり直すことも考えました。
でも、もう私を見ていない人と、
これからの人生を歩くことはできませんでした。
夫婦で島暮らしをする夢は終わってしまいました。
それでも、私は島に残ることを選びました。
神社のカフェで過ごす毎日が、大好きだったからです。
GWやお盆は朝から夕方までお客さんが途切れず、一人では回らないほど。
お客さんが配膳を手伝ってくださったり、お会計を待ってくださったり。
「また来ます。」
「島で一番おいしかった。」
そんな言葉が、本当に嬉しかったんです。
クーラーが壊れても、
雨漏りしても、
蛇が出ても、
虻や蟻と毎日戦っても、
不思議なくらい、大変だと思いませんでした。
それくらい、あの場所が好きでした。
だからこそ、辞める決断は苦しかった。
続けたかった。
でも、このまま続けることで、
私の大切なものが守れなくなることだけは分かっていました。
それまでの私は、頑張れば、いつか報われると思っていました。
でも、この時初めて知りました。
頑張ることと、自分を守ることは、同じじゃない。
時には、手放すことも、自分を大切にする選択なんだと。
私は神社カフェの仕事を辞めることにしました。
家族も仕事も失っても、まだ私は壱岐島で生きていたかった。
二世帯住宅は一人で暮らすには広すぎました。
離島留学生の受け入れもなくなり、家賃も当初の倍になっていました。
新しい家を探そう。
そう決めて、自分で空き家バンクを見て回りました。
そこで出会ったのが、海沿いにある小さな一軒家
大家さんが数年前にご自身で住むためにリフォームしたばかりでした。
床はピカピカで、水回りも新しく、家具や家電もそのまま
冷蔵庫も洗濯機も持っていなかった私にとって、
その家は、もう一度暮らしを始めるために必要なものが、
最初から全部そろっていました。
でも、一番嬉しかったのは家そのものではありません。
初めて賃貸に出す家だったそうです。
そんな大切な家を、「あなたに貸したい」と言っていただけたこと。
信頼してもらえたことが、本当に嬉しかったんです。
玄関には、いつか飾りたいと思っていた神社の置物や絵を並べました。
広いキッチンでは、料理をたくさん作りました。
大きなお風呂に毎日浸かり、夜は二階のベランダから星を眺めました。
玄関を開ければ海が見えて、港町の灯りが静かに揺れていました。
ようやく、帰りたいと思える家ができた
壱岐島を思い出す時、最初に浮かぶのは海でも夕陽でもありません。
あの家で過ごした、穏やかな毎日です。
この家で暮らし始めてから、ようやく毎日を楽しめるようになりました。
新鮮な地元の野菜を買う。
オクラやブロッコリーの甘さに驚き、冬には寒ブリを楽しみにする。
夕方になると海へ向かいました。
水平線に沈む夕陽は毎日違う顔を見せてくれました。
本当に美しい夕陽は月に一度あるかないか。
だからこそ、見られた日は特別でした。
仕事終わりに海へ行き、三十分だけぷかぷか浮かぶ。
千年の歴史ある温泉はいつでも元気にしてくれました。
それだけで満たされる暮らしがありました。
一人でも幸せ
でも時たま、
一緒に楽しんでくれる相手がいたらいいのになって思ったりすることも、
正直ありました。
島には昔ながらの助け合いが残っていました。
みんな優しかった。
でも、私はどこまでいっても移住者でした。
どれだけ仲良くなっても、
家族や親戚、幼なじみ、その輪の中には入れない。
移住してみて、そのことを痛いほど感じました。
島では船で人を見送ります。
船はすぐには見えなくなりません。
ゆっくり、ゆっくり、港を離れていきます。
だから、最後まで手を振れる。
「またね。」
そう言いながら、もう会えないかもしれないことも知っている。
島にずっといる人といつでも島を出られる人
そんな人との距離をしっかりわかっているからなのかもしれません。
島の人は、別れ方を知っていたんですね。
観光客だった私も、今は島の人
壱岐島に来る人を温かくお迎えしたいと思いました。
自分の家だと思って、商売していいよと許可もいただいて、
民泊と占いの対面鑑定ができるようにしました。
実は、民泊は一度諦めた私の夢でした。
高校時代にその存在を知り、家族のようにお客さんを迎え入れるスタイルに憧れました。
まさかここで叶えることになるとか思いませんでした。
お金がないと実現しないと思っていた夢だったのに、
思っていたよりもずっと自然に叶ってしまいました。
自分で県庁、保健所とやりとりをして、手続きを進めました。
自分の身の丈で、そのままでお迎えできる環境が整いました。
壱岐島には私に会いにたくさんの人が来てくれました。
占いのお客さん、SNSで繋がった個人事業主の仲間、友人に友人家族
民泊していたこともあって、昼間働いても、夕方からお客様をお迎えして、夜は島の美味しい料理をつまみに飲んで、喋って、占いをして。
夜の海の音を聞いて、星空と月を眺めました。
母も壱岐島に会いに来てくれました。
移住前は実家で、私と旦那の二人暮らしをしていました。
自立して欲しいという思いもあってか、将来のことどうするんだと、
心配だ、心配だとずっと言われていました。
会うたびにその話ばかりで、私だってどうしたらいいのか
わからないまま頑張ってるのに
って、いつもケンカになっていました。
移住後もそんな感じの連絡に疲れてしまい、親の連絡をブロックしました。
反抗期もなく生きてきたので、今更の反抗期だったのかもしれません。
ようやく埼玉を離れて新しい暮らしになって、親からも自立できた気でいました。
離婚した時、やっぱりそれくらいは伝えたほうがいいと思い、
連絡を再開しました。
母は心配性
一人では何もできない専業主婦。飛行機手配もしたことない。
そんな母が壱岐島に遊びに行きたいと言い出しました。
壱岐島から博多までお迎えに行き、そのまま一緒に博多観光しました。
私のオススメの明太子入りとんこつラーメンを食べて、
博多のお土産屋さんで九州の美味しいものを買って、
島にはない私の大好きなしまむらで洋服を大量に買ってもらいました。
二人でショッピングなんて4年ぶりでした。
たくさん買って、しゃべって、夕方の船で壱岐島へ
三泊四日
神社を巡り、御朱印を集めました。
エメラルドグリーンの海が見える遊覧船に乗ったり、
直売所で美味しい食材を買って食べました。
温泉にはいって、海を眺めて
楽しかったけど、この時の私はもうボロボロでした。
夕飯を作っている最中にめまいがして横になると、
そのまま朝まで寝てしまったり、
博物館のシアターで、真っ暗になると息苦しくて
その場にいることができませんでした。
母は私の暮らしを見て、静かに言いました。
「このままじゃ幸せになれないでしょ。」
「埼玉へ帰っておいで。」
私は驚きました。
怒られると思っていました。
「自分で決めたんだから最後までやりなさい。」
そう言われると思っていました。
でも母が見ていたのは、私が責任を果たしているかではありませんでした。
私が幸せかどうか。
それが、本当に衝撃でした。
その考え方は、私にはなかったからです。
ずっと責められているように感じていたけれど、
ただ娘の幸せを願ってくれているだけでした。
高校時代の友人も、旦那さんと子供を連れて、
壱岐岐島へ遊びに来てくれました。
連絡を取り合ったのは20年ぶり
私が離島で民泊しているというのを共通に友人から聞いて、
連絡をくれたのがきっかけでした。
離婚したことを話すと、とても驚いていました。
私は冗談まじりに言いました。
「島に移住してくれるいい人がいたら紹介して。」
すると後日、本当に紹介してくれたのが、今の主人でした。
埼玉と壱岐島
最初はLINEだけのやり取り
社員旅行くらいでしか飛行機に乗ったことがない人だったのに、
自分で飛行機と船を手配して、何度も壱岐島まで会いに来てくれました。
私の好きな島を知ろうとしてくれたことが、とても嬉しかったんです。
朝から晩まで他愛もない話をする毎日
二度目の結婚では、ほとんど会話のない生活でした。
だから誰かとこんなに話す毎日は、本当に久しぶりでした。
そして何より、私は初めて、
「頑張らなくても一緒にいていい」
と思える人に出会ったんだと思います。
壱岐島が、必要なご縁を結び直してくれたのかもしれません。
母が普通に「会いに行きたい」と言っても、
私は小言を言われそうで、断っていたかもしれません。
でも、「壱岐島に遊びに行くね。」だから受け入れられました。
高校時代の友人とも、二十年ぶりに再会しました。
もし民泊をしていなかったら。
もし壱岐島に住んでいなかったら。
友人は遊びに来なかった。
紹介もなかった。
今の主人とも出会わなかった。
壱岐島では、たくさんの別れがありましたが、
壱岐島だから結び直せたご縁も、たくさんありました。
カフェを辞めたあと、最後の給料が支払われず、
生活は一気に苦しくなりました。
そのとき遠距離恋愛だった今の主人の家にお邪魔して、
一時的に埼玉で働くことにしました。
「無理をしなくていいから、うちへおいで。」
そう言ってくれました。
最初は一か月だけ働き、お金を貯めて島へ戻るつもりでした。
島と埼玉を何度も行き来しながら、仕事を探し、民泊も続けました。
彼も壱岐島で一緒に暮らせるよう、
家を売ることや転職まで考えてくれていました。
それでも、思うようには進みませんでした。
そんな中、私が精神的に疲弊してしまい、
飛行機の中でパニックを起こし、島へ戻ることさえ難しくなりました。
仕事もできない。
SNSも更新できない。
外へ出ることさえ苦しくなっていました。
そこで初めて気づきました。
私は、もう頑張れない。
壱岐島で一人暮らしを続けることを、諦めるしかありませんでした。
一番申し訳なかったのは、大家さんでした。
初めて人に貸す大切な家を、私に託してくださいました。
カフェを辞める時も、大家さんは一番に理解して応援してくださいました。
だからこそ、出ていくと伝えるのは、本当につらかった。
今までの私なら、
「一度決めたことだから。」
そう言って、自分を壊してでも続けていたと思います。
でも、この時は違いました。
自分を守るために、諦めることを選びました。
引っ越し費用は、両親と彼が助けてくれました。
何も返せない自分が情けなくて、
約束を守れなかった自分が許せなくて、何度も泣きました。
気持ちがあっても、体力的にも精神的にも限界でした。
でも最後だけは、誰かや何かのせいではなく、
自分で決めた人生にしたかった。
だから私は、壱岐島を離れることを選びました。
今振り返ると、神様は私の願いを、そのまま叶えてくれませんでした。
離婚しないこと
神社のカフェで働き続けること
壱岐島でずっと暮らすこと
どれも、私が願っていた未来でした。
でも神様が私にくれたのは、もっと本質的なものでした。
荷物を手放し、
頑張らなきゃを手放し、
こうあるべきを手放し、
気づけば私は、
新しい自分になったのではなく、ただ自分に還っていました。
今でも、壱岐島へ行きたいと思うことがあります。
あの夕陽を見たい
あの海を見たい
あの家を、もう一度訪ねてみたい
でも不思議と、もう一度あの島で暮らしたいとは思わないんです。
壱岐島は、私がずっと暮らす場所ではありませんでした。
本来の私に還し、次の人生へ送り出してくれた故郷になりました。
壱岐島を出たあとも、人生は続きました。
すぐに元気になったわけではありません。
人に会うこともできず、電車にも乗れず、ずっと家にいました。
その間も今の主人はずっと私と一緒に人生の楽しみを、
日常のささいなことからたくさん見つけてくれました。
もう若くもない私達、結婚して一緒に暮らしています。
今は派遣の仕事をしながら、ときどき占いの仕事をしています。
相変わらず神社が好きで、休日は私の行きたい神社へ
帰りは彼の好きなラーメン屋へ行く。
それが、今の私たちの定番デートです。
ようやく壱岐島での暮らしを振り返れるくらいに、
自分の気持ちを整理することができました。
このエッセイを書くことで、あの頃の出来事に、
今の私だからこその意味を見つけることができました。
そして、願わくばこのエッセイが、
誰かの自分の人生を見つめ直すきっかけになれたら嬉しく思います。
私は人生を変えたかった
何かを叶えることに夢中になって、自分を見失っていたのかもしれません。
何者かになりたいと誰もが思うけれど、何になっても同じ
何になれなくても大切なのは、
人生で起こる出来事に自分は何を感じるのか
嬉しいも、悲しいも、寂しいも、悔しいも
自分から湧いてくる感情が、そのあとの人生の道しるべになっています。
人生は長い
何度でも、立ち止まる。
何度でも、迷う。
何度でも、生き直す。
人が離れても、
仕事を失っても、
住む場所が変わっても。
本来の私は、なくならない。
また自分に還ればいい。
自分さえあれば、
人生は何度でも歩き出せる。



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