CxO人材バンク

トップページ CxOインタビュー
芦名さんのこれまでの人生が赤裸々に!?プルデンシャル生命で最年少営業所長に就任した経歴を持つ芦名勇舗さん登場!

芦名さんのこれまでの人生が赤裸々に!?プルデンシャル生命で最年少営業所長に就任した経歴を持つ芦名勇舗さん登場!

アメフト日本一、慶應義塾大学主将、日本代表キャプテン。電通を経て、プルデンシャル生命では20代で年収6000万超――。
誰もが羨む「ピカピカの経歴」を持ちながら、なぜ彼はすべてを捨ててハリウッドで俳優になり、そして今、サウナやウェルネス事業を牽引しているのか?

大人気サウナ「SAUNA X(サウナエックス)」を運営するBVEATS株式会社 代表取締役 芦名 勇舗さんのビジネスモデルの裏側を深掘りします。

CxOの履歴書チャンネル動画
プロフィール
企業名
BVEATS株式会社
出演者
CEO

代表取締役

芦名 勇舗

BVEATS株式会社
https://www.bveats.tokyo/
経歴

1989年(0歳):4月1日神奈川県川崎市川崎区生まれ
2004年(15歳):慶應高校入学 2005年(16歳):アメフト全国優勝
2006年(17歳):慶應高校アメフト部(主将)
2007年(18歳):アメフトU19日本代表(主将)
2010年(21歳):慶應大学アメフト部(主将)
2011年(22歳):電通(クリエーティブ局コピーライター)
2014年(25歳):プルデンシャル生命営業所長就任(最年少就任)
2016年(27歳):米国ハリウッドにて俳優デビュー 2017年(28歳):芦名表参道(デザイン/コンサルティング)設立
2018年(29歳):BVEATS(パーソナルジム)創業
2021年(32歳):GYM&SAUNA(フィットネスクラブ)創業
2022年(33歳):SAUNA XX(ファストサウナ)創業
2024年(35歳):Serotonix(脳心体を変える)創業

インタビュー記事



金との出会い

今日のゲストは、ウェルネス事業を展開する、
BVEATS株式会社代表の芦名勇舗さんです。

よろしくお願いします!

ついに芦名さんをインタビューする日がくるとは!

よろしくお願いします!
ありがとうございます!

今日収録に来ていただくきっかけになったのも、つい先日、株式会社ENGの牧野さんのホームパーティーで
「芦名さん、出てくださいよ」とお話しして決まりましたよね。

でも、出会いをもっと遡ると7年前の2018年、同じく牧野さんの家でホームパーティーをやった時でした。

僕がアメリカから帰ってきた時に、「経営者の集いがある」と聞いたんです。
僕、あまりそういう場に行かないというか、苦手で怖いと思っていたのですが、行ってみたら経営者の方が10人ぐらいいらっしゃって。

四谷で焼肉を食べる会だったのですが、そこに牧野さんがいらっしゃって「今度ホームパーティーするからおいでよ」と誘っていただいたのがきっかけです。

その瞬間から仲が良かったわけじゃないんですね。

そうなんです。
僕からすると、皆さん経営者の方々なので、「こんな世界なんだな」と思っていました。

当時はまだ20代でしたし。
皆さん大人の方ばかりで、少し圧倒されていましたね。

うちも夫婦で家族会をよく開いていたので、そこで改めて「初めまして」とご挨拶させていただいて。
そこから、年に一度くらいのペースでお付き合いが続いていますよね。

それから、牧野さんの40歳の誕生日の時もご一緒しましたよね!

実は、あの時の写真があるんですよ。
今、痩せました?(笑)

あの時は、完全に仕事太りしていました(笑)
僕、ストレスが溜まると全部食に走るタイプなんです。
止めようと思わなければ、いくらでも食べられるという特技があって。

当時は120kgくらいありましたね。
もう、ほぼ冷蔵庫みたいなサイズでした(笑)

ここからは、芦名さんの起業前のお話と、起業後に現在どのような事業を展開されているのかを伺っていきます。

今展開されているウェルネス事業の一つに、サウナの「SAUNA XX」がありますよね。
実は僕、かなりのヘビーユーザーなんです。

ありがとうございます!
金さんに「めちゃめちゃ行ってますよ」と、サウナの利用履歴を見せていただいて、とても嬉しかったです(笑)

お世辞抜きに、とても良い施設ですし、ビジネスモデルとしても素晴らしいですよね!
そのあたりは、また後ほど詳しくお話を伺えればと思います。

通われている中で、ビジネスモデルにまで着目されているというのは、さすがです(笑)

これまでの経歴

最初に、芦名さんが起業されるまでのご経歴を事前に拝見したのですが、本当に素晴らしい経歴ですよね!

まず、1989年4月1日、神奈川県川崎市生まれ。
15歳で慶應義塾高校に入学され、この時にアメフトで全国優勝。
さらにアメフト部で主将を務められ、18歳の時にはU-19日本代表でも主将。

その後、慶應義塾大学に進学され、引き続きアメフト部で主将。
そして電通、プルデンシャル生命とキャリアを重ね、さらに米国ハリウッドで俳優デビュー…。

もう、一体どうなっているんですか?(笑)

本当に、さまざまなハードルをなぎ倒してきた20代ですよね。
まずは独立前のお話から伺いたいのですが、芦名さんは4月1日生まれで、学年の最終日になりますよね。

経歴については、自分でも少し怖いなと思っています(笑)

そうなんです。4月1日が学年の最終日で、4月2日から次の学年になるので、学年では一番下になるんですよね。

本来であれば大きなハンデを背負っているはずなんですが、身体的にはまったくハンデを感じたことがなくて。
1年の差も特に意識せずにここまで来られたなと思います。

そこは本当に、親に感謝ですね。

昔から体格が良かったんですね。
学生時代はずっとアメフトをされていたとのことですが、アメフトとの出会いは何だったのでしょうか?

僕は小学校の6年間は野球をやっていて、中学校の3年間は帰宅部だったんです。
慶應義塾に入ると決めて、3年間は部活には入らず、ひたすら勉強していました。

そして高校に入って、もう一度野球をやりたいと思ったのですが、全国からスポーツ推薦の選手が本当に多くて。
9人でやるスポーツなのに、推薦枠が15人もあったんですよ。

それはすごいですね…!

そこで一瞬で挫折してしまって。
とぼとぼ歩いていたら、大柄な人たちに囲まれて、「アメフトやらないか」とスカウトされたんです(笑)

いざ入ってみたら、高校の3年間は、ずっと“アメリカの相撲”みたいなことをやっていました。

本当に、ただぶつかるだけなんですよ。
ラグビーでいうと、ずっとスクラムを組み続けているようなポジションで。

フットボールだと思って入ったのに、ボールを蹴ることも、触ることもなくて。
ひたすら押し合いを続ける毎日で、結果的にアメフトが大嫌いになる、という高校生活でした。

学生時代のアメフト人生

高校時代のお話ですが、16歳の時にアメフトで全国優勝されていますよね。
さらに慶應義塾高校でもアメフト部に入り、キャプテンも務められていると。

もともとアメフトはあまり好きではなかったというお話もありましたが、そこからどのように日本一まで上り詰めたのですか?

チームにすごく恵まれていた、というのが大きいですね。
僕が2年生の時に日本一になったのですが、コーチの方々も本当に優秀でした。

優勝した時には、「スカウティングレポート」と呼ばれる作戦表があるのですが、決勝までにそれが144ページもあって。
「これを全部覚えてこい」と言われたんです。

でも、チームメンバーはみんな慶應で頭がいいので、「はい、覚えます」と言って本当に覚えてしまうんですよね。
結果として、サインもすべてバチバチに決まって、相手がプレーする前に止める、みたいなことができていました。

The・戦略ですね!

めちゃめちゃ戦略でしたね。
アメフトが好きとか嫌いとかじゃなくて、もう「やるしかない」という感じでした。

慶應義塾高校に行かれ、
そこでもキャプテンになられたんですね。

そこで開花されたんですか?

そうですね、高校2年生くらいから一気に開花しました。
当時が一番強かったと思います。ヒットの強さがかなりあったので。

そのタイミングで、「スピードトレーニングをしよう」と考えました。
大学レベルになると、強さだけでは通用しないと思ったので、今の強みに加えてスピードを伸ばそうと。

そこから、スピードとサイズを両立できるようになって、うまく対応できるようになっていった、という感覚ですね。

当時の身長や体重、足の速さはどれくらいだったんですか?

今は185cm、105kgです。
足の速さでいうと、40ヤード走で4秒72ですね。

アメフト選手の中でも、かなり速い方だと思います(笑)

そして何より、アメフトU-19日本代表にも選ばれて、そこでもキャプテンを務められているんですよね。
相当すごいですよね?

なんか、選ばれやすいんですよね。
自分でも「選ばれる力」はあるなと感じています。

ただ、それ自体に対して特別な努力をしてきた感覚はあまりなくて。

最近あらためて人生を振り返った時に、「自分の強みって何だろう」と考えたんです。
もちろん、僕より稼いでいる人はたくさんいますし、アメフトも当時、僕より上手い人は何人もいました。

それでも、なぜか自分がキャプテンになるんですよね。

その後、プルデンシャル生命に行ってからも、「芦名が有名」という状態になっていって。
実際には、僕より成果を出している人はいるんですが、それでも選ばれる。

だからやっぱり、「選ばれる力」というのは自分の中にあるんだろうなと思っています。

すごく興味深いですね。
もしご自身で理由を挙げるとしたら、どんな点にあると思われますか?

「声」ですね。

正しいことを、大きな声で言っていただけなんです。
「よっしゃ、行くぞ!」っていう(笑)

小さい声だと、やっぱり印象が全然変わりますもんね(笑)

そうなんですよ。
グラウンドでも、誰かがいいプレーをしたら「ナイスプレー!」って声をかけるだけなんです(笑)

本当にそれを続けていただけで、特別なことは何もしていないんですよね。
自分としては、努力していた感覚もあまりなくて。

なるほど!

その頃からやっていることが、仕事になってからも続いているというか、基本のスタンスはあまり変わっていない、という感じなんですかね。

めちゃめちゃありますね。
それがキャプテンをやっていたからなのか、もともとの資質なのかは分からないのですが。

ビジネスでもスポーツでも、まず全体を見るんですよね。
グラウンドを見て、チームのメンバーを見て。

そうすると、何が課題なのかがすぐに分かるんです。

おお、それはある意味、特殊な能力かもしれないですね。

大学もそのまま慶應義塾大学に進まれて、アメフト部に入り、主将を務められているんですよね。

「僕以外いないだろう」とは思っていましたけどね(笑)

学生時代はどっぷりアメフトに打ち込み、トップレベルの世界でプレーされてきたと思うのですが、
その経験から、どんなことを学ばれましたか?

本当に、ずっとアメフトしかしてこなかったですね。

一番大きな気づきは、アメリカンフットボールも受験もそうなんですが、「8割以上の人が徹底してやり切っていない」ということでした。

例えば受験でも、なんとなく受けている人が多くて、受かる前提で本気で取り組んでいる人は少ないですし、1日10時間以上勉強している人もほとんどいないんです。

アメリカンフットボールでも同じで、家に帰って試合のビデオを見ている選手は意外と少ないんですよね。

なので、「特別なことをする」というよりも、「やるべきことを当たり前にやる」というだけで、実は大きく差がつくんです。
いわゆる強豪チームであっても、徹底できていない部分は多くて、競合にならないケースもあるなと感じていました。

自分たちがやっている時は気づかないのですが、他のチームの練習を見ると、「このレベルでもこれをやっていないんだ」と気づくことが多くて。

そうした気づきを日本代表などで得て、チームに持ち帰って、「お前ら、ちゃんとやれてるぞ」と鼓舞するようなこともしていました。

電通に就職

大学でアメフトを経験されて、その後の1社目が電通ですよね。
これは、もともと電通に行きたいという思いがあったんですか?

正直、仕事はあまりしたくなかったんですよ(笑)

アメフトしかしてこなかったので、「なんで大学3年生の終わり頃から就職活動をしなきゃいけないんだろう」というフラストレーションがあって。
正直、どこにも行きたくないなと思っていました。

できることなら、このままずっとアメフトを続けていたかったんですが、さすがにそうもいかないので。
ニートになるわけにもいかないですし、どこかには就職しないといけないな、という感覚でした。

そうですよね(笑)

当時は、「電通に行ったらすごいらしい」とか、「フジテレビに行ったらすごいらしい」、「ゴールドマン・サックスに行ったらすごいらしい」といった話をよく聞いていたんです。

なので、特別な軸があったというよりは、みんなが「すごい」と言うところに行ってみよう、くらいの感覚でした。

一般的な大学生の思考ですよね。
それで、「よし、電通に行こう」と思って、割とすんなり決まったんですか?

「よし、じゃあゴールドマン・サックスとフジテレビと電通を受けよう」と思ったんですが、ゴールドマン・サックスとフジテレビは、もうエントリーが終わっていたんですよ。

なので、「じゃあ電通に行こう」となって。
ちゃんと正規のルートで入っています(笑)

学生時代のご実績を見ると、企業側からしたら「ぜひ採用したい」と思う人材ですよね。
実際、かなり評価も高かったんじゃないかなと思うのですが、そのあたりはいかがだったんですか?

当時は、全然そんなことはなかったですね。
今振り返ると、「自分だったら採用したい」と思うんですが。

ただ、当時の自分は、チームをどう運営してきたのかとか、何を大事にしていたのかといったことを、うまく言語化できていなかったんですよね。
おそらく、多くのキャプテンも同じだと思います。

実際には、ただ上手いだけの選手がキャプテンになっていたり、監督の指示通りにチームをまとめているだけ、というケースも多いので。

いわゆる、伝書鳩的な役割ですよね。

そうなんです。

「キャプテンをやっているから採用される」ということは全くなくて、
僕の下の代のメンバーも就職にはかなり苦労していましたし、慶應でもいわゆる就職浪人のような状況になる人もいました。

当時は、思っていた以上に厳しかったですね。

晴れて電通に入社されて、「やっぱりすごいらしいぞ!」という環境ですよね。

ただ、その電通も1年半で退職されていますが、実際に働かれていた1年半はいかがでしたか?

面白かったですね。
特に一番面白かったのは、新入社員研修でした。

入社して最初の2ヶ月間は研修なのですが、大企業が本気でリソースを投下してくるんですよね。
人事、営業、クリエイティブ、それぞれのトップクラスの人たちが講師として出てきて。

まさに“スター”が話してくれるような環境で、あの期間が一番学びが多かったなと思います。

1年半というと、比較的短い期間ですよね。
一般的な価値観で言うと、「電通です」と言えば評価も高いですし、いわゆるモテる環境でもあると思うのですが(笑)、なぜ1年半で退職されたのですか?

常に「どんな男になりたいのか」という軸が自分の中にあって、
その中で「このままでは、そういう男にはなりたくないな」という気持ちの方が強くなっていったんです。

実際にやっていた仕事でいうと、直行直帰の働き方が中心で。

1年目から直行直帰だったんですか?
朝はそのままアポイント先に行っている、という形だったんですか?

1年目からですね。
デスクの方に電話をして、「ホワイトボードにクライアントの○○と書いておいてください」とお願いしていました。

夕方くらいに会社に行って、残業時間に合わせて働いて。
メディア業界は残業代がかなり出るので、そこで稼いで、六本木で朝まで飲んで。

翌朝は遅く起きて、「すみません、明日直行でお願いします」といった形で予定を組んでもらって……。

そういう生活をしている自分を、どうしても尊敬できなかったんです。

それが常習化しちゃっていたんですね。

その後のプルデンシャル生命もそうですし、アメフトでもそうなんですが、やっぱり最初に「ルールを理解したい」という感覚があるんですよね。

じゃあ、この「電通」という環境の中で、どうすれば一番自分の給料が上がるのかと考えた時に、
それは仕事の能力ではなくて、「残業代」だと気づいてしまったんです。

そのルールを理解してしまうと、あとはその“得点”を取りにいく行動を繰り返すじゃないですか。

でも、その結果として出来上がった自分を見た時に、
この“ゲーム”をやっている自分のことを、全く尊敬できなかったんです。

なるほど…

あと1年、2年このまま続けていたら、「俺、電通だから」と言って合コンに行って調子に乗るような、
自分が尊敬できない人間になってしまうな、というのがすごく鮮明にイメージできてしまって。

それだったら、もっと人として正しい仕事をしたいですし、
自分の成果や実力が、きちんと結果に反映される環境に身を置くべきだなと思ったんです。

そんなタイミングで、たまたまプルデンシャル生命から声をかけていただいて。
成果主義の環境ですし、「これは自分にとって正しい選択だな」と感じて、決めました。

その「尊敬できなくなってしまう自分」のような状態を、すでに先んじて体現している先輩方が、周りにいらっしゃったということなんですか?

そういう業界の風習がありましたね。

そういう人たちが悪いというよりも、構造的にそうなってしまう、ということですよね。

あとは、僕はクリエイティブ局にいたので、プロダクションや制作会社の社長の方々が、新入社員の自分に挨拶に来てくださるんですよ。

というのも、10年後には何千万、何億と発注する立場になるので、いわゆる“青田買い”のような形で、1年目から関係を作りに来られるんですよね。
50歳くらいの方々が、頭を下げに来るような環境でした。

一方で、当時30歳前後の、いわゆる脂が乗っている先輩たちが、かなり偉そうに振る舞っているのを見て、
これはちょっと違うな、と強く感じていました。

その先輩の名前、覚えていますか?(笑)

覚えてます(笑)
でもそういう業界の風習みたいなものってありますよね。
それを見破るのに1年半かからなかったですね。

本当にすぐルールを理解したいタイプなんですね!

そうですね(笑)

プルデンシャル生命に転職

プルデンシャル生命って、いわゆるフルコミッションに近い形で、最低限のベースはありつつも、基本的には歩合の世界じゃないですか。

スカウトで人を採用しているケースも多いと聞きますが、芦名さんもどこかからお声がけがあった形だったんですか?

「芦名さん、非常に優秀だと聞きました」と声をかけていただいて。

ただ、自分としては1年半しか働いていないので、「何をもって優秀だと思っているんだろう」と感じていました。
一方で、「そう評価する人の意図もなんとなく分かるな」と思って、そのままのこのこついて行ったんです(笑)

そうして入ったプルデンシャルの港第一支社が、ものすごく良くて。

電通のクリエイティブ局だと、朝「おはようございます」と言っても、どこか「うるさいな」みたいな空気感があったのですが——

なんで?!

「おはようございます」と言っても、「うるせえよ」みたいな空気感で、どこか人間的じゃないなと感じていて。

一方で、プルデンシャルの港第一支社では、「おはようございます!」と言うと、「おはようございます!」としっかり返ってくるんですよね。
その挨拶一つでも、空気感がまったく違っていました。

そこで久しぶりに闘争心が湧いたというか、
「この人たちと勝負したいな」という感覚が、学生時代以来に戻ってきたんです。

熱いものが込み上げてきたんですね。

全員、色黒でツーブロックで、バリバリのスーツを着ていて(笑)
一見偉そうなんですけど、どこかすごく丁寧で。

そのギャップもあって、正直めちゃめちゃ腹が立ったんですよね。

それで、「この人たちを全員ボコボコにしてやろう」と思って、
その支社に入ることを決めました。

要するに、仕事ができる人たちだった、ということですよね。

そうなんです。
「男として格好いいな」と思ったんですよね。
だからこそ、負けたくないと思いました。

その結果、2014年、25歳の時に営業所長に就任されて、しかも当時の最年少ですよね。
これって、どういうプロセスでそこまで辿り着かれたんですか?

営業所長になるための資格のようなものはあるのですが、そこまでハードルが高いわけではないんです。

それよりも、保険に対する情熱というより、「目の前の人をどうにかしたい」という気持ちの方が強くて。

電通に入った時に感じたのは、本当に頭のいい人は桁違いに頭がいいということでした。
東大や京大出身で、自分よりもはるかに勉強してきて、能力も高い人たちがたくさんいる。

それなのに、十分に稼げていなかったり、能力を発揮しきれずに苦しんでいる人もいて、
それがすごくもったいないなと感じたんです。

自分は気合いや根性である程度やれてしまっているのに、
本来もっと力を発揮できる人たちが、そうなっていないのはおかしいなと。

そう思ってからは、保険営業だけでなく、採用にも力を入れるようになりました。

スカウトしたんですね。

その時点では、自分の成績にはほとんど繋がらなかったのですが、
それでも「あ、こっちを仕事にした方がいいな」と思ったんです。

そこから、採用や育成といった領域に本格的に関わり始めたのが、25歳くらいの頃でした。

つまり、ご自身で保険を売り続けるプレイヤーの道か、マネジメントに進むか、という選択だったということですよね。

その中でマネジメントに進まれたと。
ただ、年齢的にはまだプレイヤーとしてやり続けたいと思う方も多いと思うのですが、そのタイミングでそちらを選ばれたのはなぜだったんですか?

そうですね。
保険のプロになるというよりも、人の可能性を広げられるプロや、マネジメントのプロになる方が、自分としてはすごくワクワクしたんです。

プルデンシャルにいらっしゃったのが、23歳から26歳までの3年間ですよね。
この3年間を振り返ってみて、いかがでしたか?

面白かったですね。
普段なかなかできないような経験をたくさんさせてもらいましたし、自分では行けないようなお店にも連れて行っていただいたりして。

やっぱり営業会社なので、成績を出すと「ご褒美の食事や旅行」があって、しっかり評価される仕組みがあるんですよね。
実際に何度も表彰していただいて、海外にもかなり行かせてもらいました。

そういう意味でも、経験としてはすごく良い3年間だったなと思います。

アメリカで俳優になった訳とは

順風満帆で、やりがいもあって、充実したプルデンシャルでの生活だったと思うのですが——
そこから、まさかのアメリカ・ハリウッドで俳優デビュー。

これ、何ですか?(笑)

当時は、自分の中に強いロマンがあって、「お金持ちは全員人格者だ」と思っていたんです。
人格者になれば、お金は自然とついてくるものだと。

だから、自分が成果を出してお金を稼げるようになった時に、「人格者に近づけたからだ」と思えて、それがすごく嬉しかったんですよね。

でも、実際にいわゆるお金持ちの世界に少し足を踏み入れてみると、必ずしも全員が人格者というわけではなくて。
中には、店員さんに対して横柄な態度を取る方もいたりして。

中にはいますよね。

すごく偉そうな人だったり、いきなり「お前の売上いくらなんだ」と言ってくる人もいました。

もちろん、マウントを取られてしまう自分もまだまだ未熟だったとは思います。
ただ、そのときに「これは自分がやりたいスポーツじゃないな」と感じたんです。

もともと僕は、人格とお金は比例していくものだと思っていました。
でも、必ずしもそうではないと気づいたときに、「ここに進む意味は何なんだろう」と疑問が湧いてきて。

ちょうどその頃、これからどうするべきか悩んでいました。

サラリーマンとして働いていた中で、一番年収が高かったのはいつですか?

プルデンシャル生命の営業の時ですね。

プルデンシャルは個人事業主みたいなものですよね!
一番マックスでどのぐらい行きましたか?

マックスは6000万ですね。23歳ぐらいの時です。

半分は税金ですよね(笑)

お金持ちになると、やっぱりお金持ちと会い始めるじゃないですか。
お金持ちは「必ずしも人格者である」ではなかったと信じていたけれど、「ここのゲームじゃないかも」と思ったと。

そうなんですよ。
じゃあ自分ができることは何かなと振り返った時に、「選ばれる力」しか残せなかったんです。

売上なんかはもちろん、そこら辺の社長さんの方が全然すごいし、マウントを取ってくるだけあって数十億、数百億という人もいます。

でも、多分その人たちは選ばれなくて、僕だけは絶対に選ばれると。
ただ、この「選ばれる力」で仕事をするってないじゃないですか。

そう言っていた時に、たまたま僕のお友達で、今八村塁選手がいるレイカーズのチアガールに挑戦している女の子がいて。

その子とご飯を食べている時に「芦名もアメリカ来ちゃいなよ」と言われて、「いやいや、アメリカありだな」と思ったんですよ(笑)

アメリカは考えていなかったなと思って。
日本だけで考えていたけど、アメリカで選ばれる力だけで仕事をしたら何かできるんじゃないかなと。

そこでパッと出てきたのがハリウッドだったので
「よし、これハリウッド行けるぞ」と思って、結構確信めいて行きましたね。

これって手がかりが何もないように思えるのですが、最後に実際に俳優デビューしているじゃないですか。
どういうプロセスでそこまでたどり着いたのですか?

僕は保険営業の時はずっと紹介してもらっていたので、人脈とか全くなかったのですが、
とにかく「紹介してもらう」という能力に長けていたんですよ。これは多分アメリカでもすぐできるんじゃないかと思って。

とにかくまず、日本にいる間に渡米が決まってから、「アメリカに誰かお友達いらっしゃる方いませんか」と手当たり次第に聞きました。

最初の1週間ぐらいで、ロサンゼルスにいる日本人にほぼ全て会ったんですよ。ばーっと会いまくって。

「じゃあそういう気持ちで来るんだったら、こういう人も紹介しますよ」と、もう紹介してもらう人も着座しているみたいな状態で。

数珠繋ぎですね(笑)

数珠つなぎで最初の1週間ぐらいでほぼ全ての方とお会いして。
そこでオーディションがあるという話を聞いて、そのオーディションを受けに行ったんですね。

何の映画の、どういうものでデビューしたのですか?

舞台映画だったんですよ。

「BLOOD」という舞台で、日本とアメリカの薬害エイズ問題についてでした。
実話なのですが、エイズ患者の血液を日本政府が輸入してしまって、それで日本でHIVというウイルスが広まってしまったというすごい事件があって。

それをコメディとミュージカルにしたという舞台なんですよ。めちゃめちゃシリアスな内容なのですが、それをちゃんとエンタメにしていて。

政治家役をやったりとか(笑)
あとは歌舞伎役者の役をやったりとか、そういうのになっていました。

これってそのまま続けたのですか?

もうその舞台で、「あ、これ俳優じゃないな」と思いました(笑)

判断が結構早いですね…!

はい。それもルールの理解が先に来たんですけど。

どういうルールだったかと言うと、俳優というのはアメリカからしたらビジネスとして使われるんですよね。

「いや、お前をキャスティングしちゃってもいいけど、お前何人客連れてこれるんだ」という話なんですよ。
レオナルド・ディカプリオだったら何人連れてこれるからギャラが高いよねと。じゃあお前は何人連れてこれるのって。

連れてこれないんだったら一生脇役ね、演技力があっても脇役だよ、という話なんです。

だからその時に思ったのは、結局演技力よりも集客力をつけなくちゃいけないなと。
集客力をつける方法をどうにかしようというタイミングだったんですよね。

で、当時ドナルド・トランプの第1次政権で、もう1回アメリカに行こうと思ったらアメリカに入れなかったんですよ。

なぜですか!?

ビザに落ちたんですよ。

うわ、どうしようとなって。
英語とフィジカルは鍛えておかないとなと、「英語ペラペラ、体バキバキ」というテーマでフィリピンに3ヶ月留学しに行きました。

英語をペラペラ喋れるじゃないですか。いつから喋れるようになったのですか?

フィリピンに行ったときです!

ハリウッドに行った時は、僕は英語を喋れると思っていたんですよ。
なぜかと言うと、慶應に受かっているんで。受験科目に英語があるんで(笑)
英語を喋れると思っていったんですけど、全く受験勉強で学んだ英語は喋ってないんですよ。全然違う言葉を喋っていて。

要はリスニングが全くできなくて。俳優って英語の発音ができないとやばいので、そこから独学して。

でも独学だけでもダメだなと思ってフィリピンに留学したんです。そこで英語がめちゃめちゃ伸びましたね。

環境が缶詰状態で、英語を学んだ期間だったんですね。

はい、そうです。

2016年に「株式会社 芦名表参道」を設立されていますね。
この時に英語の勉強されていたんですか?

そうです!

ちなみになんでフィリピンだったかと言うと、お金がちょうどなくなったんです。
プルデンシャルの時に稼いだやつがもう全部なくなっていて(笑)

そんなにすぐなくなるものですか?

もちろん節約すれば残るんですけど、節約することによって加速度が減るというのが嫌だったんですよ。

もう節約しなくていいからドーーンって行って、うわ、やばいなと思った時に、フィリピンは物価が安いので、ここでふっと息絶えたという感じです(笑)

その3ヶ月間、「英語ペラペラ、体バキバキ」のテーマで日本に帰ってきたら完全にお金がなくなるので、
ここで起業のアイデアを考えなくちゃいけないと。

それをやりながら起業の準備をしたのがフィリピンでした。

会社設立

そして2018年、29歳の時に「BVEATS(ビーツ)」というパーソナルジムを創業されます。

いよいよここから、ご自身の商売が始まるわけですよね。
パーソナルジムからスタートし、その後ファストサウナ、そして今は「セロトニクス」というウェルネス領域に土着しているわけですね。

そうですね。

元々BVEATSを始めた理由は2つあって、1つは当時RIZAPがすごかったんですよ。
あのCMで一世を風靡して、広告もたくさん打っていたというのもあって。

そこで僕らがやったのは、「月額3万円で通い放題」というパーソナルジムを作って、
「1年間で6店舗出すぞ」と言って、本当に1年間で6店舗出したんですよ。

仕組みとしては、広告ではなくて営業を使ってジムの会員を獲得するというものでした。

営業マンを使って獲得するんですね。

はい。営業マンを使って、「月額3万円のジムをオープンします」と言ったその初月に、75人も入会してくれる人がいて。

1店舗目をオープンした瞬間に、もう2店舗目を契約していました。

それならキャッシュフローもすぐ回りますね。

そうなんですよ。調子がいい時は月に240人とか、新規の会員が入ってくるという状態でした。
それで店舗を広げすぎちゃって。

どちらかと言うと、「1年間で6店舗」というところまでしか計画を入れていなかったんです。

これ以上は、僕が出したいというよりもメンバーが「次は何ですか?」「次どこですか?」みたいになってしまって。

なんか止まれない状況ですよね。

そうなんですよ。

これが僕の経営者人生の中で一番大きな失敗というか、学びだったのですが、「自分でフラッグを立てていなかった」んですよね。
僕のフラッグは「年間6店舗」で終わっていたはずなのに。

自分のフラッグじゃなくて、みんなの期待に合わせて、みんなが喜ぶようなフラッグを立てすぎて失敗しましたね。

マックスでどのぐらいの店舗数まで行ったのですか?

11店舗出しましたね。ジム&サウナというのも入れて12店舗です。

今は新宿、渋谷、恵比寿、目黒の店舗にして、代官山は売却しました。

元々計画してご自身が立てたフラッグ内に収めたんですね。

そうそう、そうです。
経営者の皆さん、注意してください。これからは特に自分でフラッグを立ててくださいね(笑)

BVEATSは、今のモデルで今後の計画などもあるのですか?

現状維持で、良ければ広げていこうかなという感じです。
まずはちゃんと、その土地に根付いた集客ができればいいかなと思っています。

サウナ事業を始めた理由

2022年、33歳の時ですね。今から3年前ですか。
ファストサウナ「SAUNA XX」を出されます。

僕、SAUNA XXが大好きで、ヘビーユーザーなんですよ(笑)
しょっちゅう四谷に行っています。店舗は四谷と目黒の2つありますよね。

僕もサウナー歴はまだ2年ぐらいなのですが、ビジネスモデルとしてすごいなと思ったんです。
なぜサウナだったのかということと、あのモデルにたどり着いた裏側をちょっと聞いてみたいです。

パーソナルジムをやっていて、結局は採用して育成して、管理していくところをずっと回し続けるモデルじゃないですか。
要は「人」ですよね。

やっぱり「人」というのはどうしてもコミュニケーションのコストがかかってきますし、もちろん人件費もかかります。
そこで、人がサービスをするということよりも、空間やデザインにサービスをさせる店舗を作りたいなと思ったんですよ。

当時、代官山の駅前に200坪の「ジム&サウナ」を作りました。

ジムはフリーなので「どうぞ自由に使ってください。サウナもありますよ、水風呂もありますよ」という施設だったのですが、
みんなジムエリアをスルーしてサウナに直行するんですよ(笑)

代官山駅前に200坪って、結構えぐいんですよ。
でも「みんなスルーするんだったら、もうサウナ施設だけでいいじゃないか」と思ったわけです。

なので、ここの事業だけをスピンオフして作っていきました。

なるほど!

ビジネスモデルとしては、コスト構造がかなり秀逸で、理由は2つあります。

まず1つ目は「省人」だということです。受付だったり、変な飲食スペースだったり、変な売店とかを全く置かない。

2つ目は、めちゃめちゃ小さな面積で、建築を自社でやっているということです。

建築を自社でやるとは、どういうことですか?

僕がお店を全部作るんですよ。
だからお金がかからないんですよね。材料代だけなので。

有名なサウナプロデュース会社などに依頼しちゃうと、もうそれだけで数百万、数千万とかいってしまうので、そこの初期コストはかなり安く抑えられています。

サウナ施設としたらめちゃめちゃ面積が小さいんですよ。
だから、有名なサウナプロデュース会社などに持っていくと「この面積では絶対にできない」「失敗するよ」とボロカスに言われました。

「絶対失敗する」と言われたのですが、僕が設計したらできるかなと思って作ったということですね。

じゃあ大元は「ジム&サウナ」での実体験というか、そこでもう形にしていたわけですね。
みんなよっぽどサウナが好きなんだというのも見えたし。

そうです。

あとは、パーソナルジムをやっているのもすごく面白かったのですが、パーソナルジムって「下り坂のエスカレーターを登る」ようなビジネスモデルなんですよ。

ユーザーが絶対に頑張らなくちゃいけないんですよ。だから大変なんです。
大変なサービスというのは、絶対にちゃんと年間契約やサブスク契約にして、「よし、一番ここを登るぞ」と決めた時にちゃんとマネタイズするべきなんです。

でも、サウナって「下り坂のエスカレーターを下るだけ」のサービスなんですよ。
つまり、行ったら勝手に汗をかいて、「ああ、気持ちいい」で出るんです。

これはサブスクとかにするよりも、都度課金した方が最終的な利益がでかいんです。

「下り坂のエスカレーターを登らせるか、下らせるか」で、色々なウェルネス事業をやってきましたけど、ここが一番のネックだったかもしれません。

心理的な部分から、まさに課金の方法などをどうするのかという時に、SAUNA XXはすごく滑らかだなと思ったんですよ。

全部LINE上で完結して、今何人入っているのかがQRの入退店だからタイムリーに分かりますよね。

最初にLINEで謎の「ストーン」という通貨を買わされて(笑)
3000ストーンは実は3300円で、半分ずつ使っていくモデルですよね。
2回行けるけど、先に2回分払っているんだなという。だからキャッシュフローもいいなとすぐ分かりました。

恐れ多いですね。着眼点が(笑)

あと、バスタオルを置かないですよね。

あの辺りのコスト構造は、かなり計算して出しましたね。

世の中に「男性限定」というものがたくさんある中で、「紳士限定」って言っちゃうのかと。
そこは大事なポイントですよね。

大事です。紳士限定です。
女性はもちろん入れないですが、普通の男性も入れないです。もう「紳士」だけなので(笑)

「自分を紳士と思う人」が行くから、結果的に民度とマナーが高くなるんですよね。

これ儲かっているんだろうなと思いながらリピートしています。
バカ儲かりはしないだろうけど、着実に。

僕、大体朝7時とかに行くのですが、平日朝から普通に3、4人いますからね。

この前「フランチャイズはあるんですか?」と聞いたら、「あります」というお話でしたね。

そうですね。
フランチャイズはあるのですが、一番求めているのは場所の提供をしてくれる方です。テナントをご紹介していただけるのが一番ありがたいです。

今、四谷と目黒の2店舗ですよね。
今後出していく計画はあるのですか?

今後は勝どきだったり、門前仲町だったり、武蔵小杉のエリアに是非出したいので、
皆さんその辺の不動産情報はあれば是非よろしくお願いします!(笑)

新事業スタート

一番最新の事業は、この「セロトニクス」ですよね。
脳・身体を変えるセロトニクスとは、どういうことをやっているのですか?

生活習慣を改善するというすごいシンプルなもので、結局一番大事なことって生活習慣じゃないですか。

ジムに通えない人たちにもオンラインで全部やっていただけるので、地方の方など東京のジムに来られない方にも提供できるサービスです。

歩数や睡眠時間、飲む水分量などを全部計算して、毎日「秘書」という方がついて管理してくれるというものです。

これ、月額の料金はいくらですか?

月額1万9800円です。

常に伴走してくれるのですね。
世の中にあまりないかもしれないですね。

そうなんです。伴走サービスのヘルスケアバージョンみたいな感じです
アプリだけで管理できるアプリってめちゃめちゃあるんですけど、結局やらないんですよね。

インストールだけしてやらないというのは、結局「人と約束しないから」だと僕は思っていて。
やっぱり、人との約束の力ってめちゃめちゃ強いと思うんですよ。

その「約束の力」でネックを解消して、秘書と一緒に生活を変えていくと。

確かに。
その呼び名も「秘書」なんですね。

秘書です(笑)

これからの目標

最後に、この先「こういうことをしていきたい」とか「こうなるぞ」みたいな目標は何かありますか?

大きくは多分2つの方法があるかなと思っています。
結局振り返ってみると、ウェルネス事業を展開しているのですが、多分この先もそうなっていくと思っていて。

今一番興味があるのは「脳波」ですね。

脳波ですか!

もちろん、体を変えるだったり、心を変えるというのもあるのですが、脳波を変えることができるという研究を今めちゃめちゃやっています。

脳波に特定の周波数を流したり、近赤外線を当てたりすると、認知症さえ治ってしまうという症例が今めちゃめちゃあるんですよ。
この方向性の事業で、多分年明けに会社を1つ作ります。それが多分すごいことになるんじゃないかなと思います。

例えば、大谷翔平選手の集中力とかってめちゃめちゃ気になりません?

気になります!

打席に立っている時、1人だけ顔が違いますよね(笑)

他のアメリカ人選手はめちゃめちゃ興奮しているけど、彼ってめちゃめちゃ落ち着いているじゃないですか。

脳波を使うことによってそっち側にデザインしていったり、興奮しすぎている人を落ち着かせたり、脳が機能しない人の脳を機能させたり。
そっちの方向性にかなり強く進むかと思います。

定点的というか、年に1回とか2回しかお会いしていなかったので、僕の中ではもう「サウナ屋のオーナー」だったんですよ。

でも、今日お話を伺って理解できました。やっぱり「ウェルネス領域」ですね。

そうですね。

最初からそれを狙っていたわけじゃないのですが、結果的に振り返ってみたら「ウェルネスだけやっているな」みたいな形になってきました。

水に合うんでしょうね。

あとはそれに付随して、
再生医療などは医療機関やクリニックと提携してやっていくことになるかなと思います。

なるほど。それも大きなところではウェルネス領域ですね。

またおそらく次回は、牧野さんの邸宅になるかと思いますけど、奥様も含めてこれからもよろしくお願いします(笑)

今日はウェルネス事業を展開する、BVEATS代表の芦名さんにお越しいただきました。
芦名さん、今日ありがとうございました!

ありがとうございました!

TwitterLineFacebook
インタビュー記事一覧へ