人生遍歴・16歳の初夏まで
私は親がどちらも働いていない家に生まれた。私が3歳になるまで親は働いていなかった。それでも生まれる前の年のリーマンショックで値段がガタ落ちした狭い渋谷区のマンションに住んでいた。私の本籍は実は恵比寿だったりする。
当時の記憶はまぁほとんどない。強いて言うなら母親の太腿で顔を押さえつけられ無理矢理歯磨きをされたのが嫌だったぐらい。あと、父の膝の上でニコニコ動画を見て、初音ミクに出会った。記憶がない理由は3歳の頃に目黒区に引っ越して、そこから幼稚園に通っていたから。幼稚園の記憶は、男子とよく遊んでいた。女子のおままごとには馴染めず、「まおちゃんは犬ね!」と言われワンしか喋らして貰えなかったこともある。さっぱりとした人間関係で、暴力で物事が解決する男子と関わるのが好きだった。典型的な空気が読めない、女子社会に馴染めないヤツだった。
小学校に上がってもそれは変わらず、相変わらず男子と遊んでいた。だけど小学1年生の頃は、男子に嫌がらせをしすぎて疎まれていた。今思えば私が全部悪いのだが、友達は1人もおらず、何となく学校が苦しいと思っていた。小学2年生、2017年。転機が訪れる。Switchの発売だ。うちは母親がゲームやインターネットにうるさく、例によってSwitchも買ってもらえなかった。そこからは酷くハブられるようになり、担任も厳しい女教師で、学校自体嫌になっていった。それでも勉強はかなりできた方だったので、なんとか通った。通学時は独りだった。そして小3の頃、徹底的に女子から嫌がらせを受ける。1人だけ仲間外れにされたり、無視されたり。極めつけは児童館で女子達が人生ゲームをしていたので、「次入れて」と言ったら、「いいよ」と返ってきたので待っていたら、そのゲームが終わった瞬間「じゃあ私はこれで終わりにするから」と全員が言い、私独りで人生ゲームをすることになってしまったときである。独りで遊べるもんじゃないので、私は遊んでもない人生ゲームをただ片付けた。主格犯だった女は、中学受験で青学の付属校に進学し、彼氏を作ったらしい。結局人を虐めることで上に立てるアルファの奴の方が人生上手くいくのだと思い知らされた。小3の頃、仲がいいと思っていた女友達からは実は全員から嫌われていたと知ったのはあとの話。
そして12月、また転機が訪れる。転校だ。名古屋に引っ越すことになった。名古屋の学校ははっきり言って治安が悪く、男子は暴力、女子は虐めと言った学校だった。それでも転校生だったので、同じゆっくり実況者を見ていたさりちゃんと仲良くなった。嬉しかった。小3の3学期と小5しか同じクラスではなかったが、塾が一緒だったのでよく一緒に登下校をしていた。東方やボカロの話をしたり、家に招かれてピアノを弾いてもらったり。凄く楽しかった。それと同時に、塾にも通うことになったが……。
小4に進級し、塾も割と週2ぐらいで通うようになった。当時の偏差値はかなり良く、最高で68取ったほどだ。親は夢を見て女子御三家の女子学院に入れようとした。小4の頃は専ら学校で男子と校庭で遊ぶか、塾で男子と消しピン(消しゴムで戦う遊び)をするかだった。
小学5年生。段々と中学受験も本格化する頃、担任の当時63歳の女教師が中学受験反対派で、とてつもなくいびられた。「いつになったらその曲がった性格が治るのかしらねぇ」と面と向かって言われて泣きそうになったこともある。今となっては、11歳の子供に人格否定できる高齢者スレスレの方が性格が曲がっているとしか言えない。そんなストレスもあってか、偏差値が段々と落ちてきた。そもそも元から中学受験に興味がなくて勉強もハードになってきたのもあると思う。算数についていけなくなったのだ。特に空間図形が苦手だった。そして小5の夏、母に泣きながらテキストを投げられ殴られ、「あんたなんか女子学院に受かるわけない!」と怒鳴られ、第一志望を母が望んだフェリス女学院にされた。そこからは本当に受験に興味がなくなって、偏差値がガタ落ちした。
小6、中学受験が最も本格化する年。6月からインターネット、ゲーム機に触れるのは一切禁止となり、娯楽は全て奪われた。そのストレスから、私は学校で男子と殴り合いをするようになり、自傷行為としてオーバードーズやハサミで自分の皮膚を切ったり、髪の毛を大量に抜くなどした。母はそれを辞めるように叱ったが、自分でも無意識下でやっていたのでどうしようもない。もしくはバレるのが嫌で、髪の毛を毛玉にしてゴミ箱のこっそり捨てていた。(しかしバレていた。)朝起きたら布団の周りに大量の毛が落ちていたこともある。精神は荒みまくって、学校に行くことが母親から逃げる唯一の術となっていた。受験は苦痛だった。何度も自殺を考えたが、母親の「塾代、6年生だけで年間120万かかってるんだからね」という声が忘れられず、どうしても勿体ないからと実行する勇気はなかった。金を出しているのは父親なのになんでお前が言うんだよと今となっては思う。偏差値はどんどん下がっていき、最終的には49を記録した。自分が初めて平均より馬鹿なのだと思い知らされた。母親の冷徹とした目が忘れられない。そのまま受験をし、もちろん偏差値63のフェリス女学院には不合格だった。なんとかギリギリ偏差値56の恵泉女学園に受かったので、そこに進学した。それが間違いだった。
思えば受けた学校全てがキリスト教・女子校という母の思想が盛りに盛られたものだった。私はどちらにも馴染めず、中学ではかなり疎まれた。中1の頃はなんとかやれていて、同級生に友達もできた。しかしその友達に障害者と言いふらされていたと知ったのはあとの話。キリスト教の慈愛の精神にも、賛美歌を歌い聖書を読む規律にも馴染めず、おまけに女子社会からもあぶれ、完全に孤立した。
中学2年の夏、私はメジコン160錠を飲んで自殺を試み、近くにあった大きな小児科に入院した。まだ13歳だったから、精神科には入院できなかったのだ。周りは0歳児ばかりで、ひとりが夜泣きをするとつられて周りも泣き出す。13歳児の私はどうすればいいかわからず、1週間夜泣きがうるさい病棟で点滴を打たれながら蠢いた。蟲だった。家族に見守られて、普通を昼には装いながら、夜は孤独に、夜泣きにつられて泣いていた。看護師さんを呼ぶのも気が引ける。呼んでも30分来ないとかはざらだった……。
その後は殆ど不登校だった。唯一の友達も「こいつ1ヶ月ぶりに来たw」と笑われたりもした。笑ってくれるだけありがたいのだろうだが、それが怖かった。1ヶ月学校に行かない恐怖って、こんなにも軽くあしらわれるのだと。休む恐怖とは、と問われるととんだ甘ったれですが……。
15歳、中2と中3の狭間で私立校を退学する。父が、小学生時代も男子とよく遊んでいたし、男子が多いほうがいいのでは?と気を使ってくれたお陰だ。その影響もあってか、中3の一学期は殆ど休みなしで通えた。でもやっぱり中3までの周りの仲良しぶりは凄まじく、修学旅行では私1人だけハブられておしゃべり会、私1人だけを除いてお揃いのキーホルダーを買っていたりもした。それは流石に修学旅行のバスガイドさんも慰めてくれたが、その慰めにもなんだか満足いかなかった。転校も、中学受験もしてないおっさんごときに私の15年間の人生わかってたまるか。と。今思えば凄く青くて浅ましい考えだが。そして夏休み、学校に呼ばれる。最初は何が何だかさっぱり理解していなかったが、嫌な予感だけはしていた。「先生は何も気にしなくていいって言ってるよ」という父の声が嫌に怖かった。そしてその予感は的中した。当時使っていたTwitterアカウントが、教師陣の前にプリントアウトされ、薬物依存、異性との不純性行為、精神疾患など、父と、教師にバレてしまった。教師は、体育会系の学年主任と、国語科のおばさんと、担任のおばさんがいて、私には父が後ろにいた。逃げ場がなかった。応接間には私の泣きじゃくる声ばかりが響き渡り、過呼吸で吐きそうになりながら嗚咽した。なんとか説明を終えて、最後に担任から、「まおの呟き、辛かったこと、本当だったこと、知ってるからね。」と言われた。怖かった。怖かった。怖かった。大人に自分の内省を知られてしまった思春期の恐怖を貴方はわかるでしょうか……。
そこからは元からあった統合失調症も悪化し、完全に家族と話さなくなった。家族に最も見られたくないものを知られてしまった。声を聞くだけで吐き気が催す。いつしか食事はカップ麺だけとなり、体重計の数値がどんどん大きくなっていった。当然学校にも行ってなかった。そんな中でもメジコンODは辞めず、ずっと飲んで気を紛らわしていた。メジコンでセロトニンによって曖昧になっている間だけは世界が綺麗に見える。曲はガチャガチャとした何かに聞こえる。現実が微睡んできてくれてくれる。そして、BADも襲ってくる。BADのとき、どうしても母親と話さなければならないという強迫観念に囚われ、2ヶ月ぶりに会話をして、学校に行く。学校に行っても冷や汗は凄まじく、先生と一対一で会話した訳だが何が何だか覚えていない。ただただ誰も知らない世界に行きたかった…。そして、最終的に底辺工業高校へ進学することへとなる……。
底辺工業高校では、なんと理解のある彼くんに出会えた。最初は私が一方的に好んで近づいただけだった。顔がまともそうだったけど、どこか物哀しさがある。こいつなら何となくだけど分かってくれるだろうと思った。会話も段々家庭や精神の話に傾いてきた。似てないけどなんだか同じ面もある、不幸な境遇を一緒に話して楽しめた。そして一緒にクリスマスにディズニーにも行った。凄く凄く楽しくって、自分がこんなに幸せになっていいのか不安になった。相手にとっちゃディズニーなんて日常そのもののディズニー常連だったが、私は校外学習以外だったら初めてのディズニーで、しかも異性とで、ふたりっきりで……。こんな幸せ感じちゃいけないと思った。その幸せは学校でも続いていって、学校も無理して彼のために行っていた。ここまでが高校1年生のお話。
高校2年生からは、極端に精神が悪くなる。不調をきたして、その彼とも不安な旨しか話せなくなる。そして、そんな中でも行った、行ってしまったニコニコ超会議の終わり、いつものヤク中らフレンズに唆されて自殺を決行してしまった。家の10階から飛び降りるというものだった。だが、ビビリにビビって、9階に引っかかって、左足を5つ靭帯断裂、5つ脱臼、5カ所骨折してしまった。1ヶ月入院した。入院生活は、基本的に父親が付き添う形で、ポロリポロリと家庭(特に母親)の愚痴を言う程度だった。学校に行かない楽さと、仲のいい彼に会えないもどかしさがあったが、やっぱり学校に行かないでいいというのが精神的に楽であった。それでも日々の希死念慮が襲って苦しい昼夜もあったが。手術2回も激痛ではあったが無事に終わり、ギプスを嵌めた状態で学校に行く。凄く凄く笑われた。「お前何したらそうなんの?」「今のパパ?笑」「お前エグー」何が何だかわからない。煩い。ピーチクピーチク煩い。やっぱり精神的には治っていなかった。彼にも自殺をしたい旨を伝えても一緒には死んでくれないし、虚しさが、学校に行けない苦しさが、自分を蝕んでいく。そしてまた不登校になってしまった……。S玉やLグミなどのイホヤクにも手を出して、現実を曖昧にしていった……。
ここまでが私の今までの人生。こうまとめてみると短いですね。16年だけだし。
では、進展があれば。次は精神科入院を目指して生きています。足が悪いと入院できないらしいので。


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