legacy
『君がため惜しからざりし命さへ、ながくもがなと思ひけるかな』
『それどういう意味?』
放課後の教室で、目の前の少女は切なく笑った。それがどうしても頭から離れなかった。
『貴方の為なら捨ててもいいと思っていた命だけど、今は貴方に会うために出来るだけ長生きしたいって意味だよ』
古典の教科書をめくる指が、この世の者とは思えないくらいに美しかった。夕暮れは彼女の肌を染める。長い髪は風に揺られ、落ちていく。
美しい人だった。今まで出会って来た人の中で、一番と言っていいほどに、綺麗な少女だった。
大嫌いだったのは彼女ではなく、彼女に嫉妬するしか出来なかった自分だ。それを気付かせてくれた。彼女の隣にいると、自分という人間がいかに卑しいかを思い知らされる。
『へえ、自己犠牲の歌だね』
『そう?』
『だって誰かのために命を捨ててもいいなんて、里香だったら考えられないよ。それが例え、大好きな人であっても、里香だったら躊躇っちゃうな』
『普通ならそうよね』
可笑しそうに笑う少女。書きかけのノート。丸い文字だった。反対に彼女は美しい文字を書く人だった。
『私は分かるけれど』
『そう?里香はやっぱり分かんないなあ』
『昔の偉人たちが書いた恋文が現代まで残る。これって本人たちからすれば赤恥だけど、私達から見れば素敵な事だと思わない?』
『というと?』
少女は笑った。女神のような表情で。全てを理解したかのような声で。
『だって彼らの存在を誰も忘れないでしょう?』
「そんな事言ってたな」
今はもう一人、古典の教科書を眺めては笑うしかなかった。彼女のおかげで、自分のやりたい事を見つけられたのだ。
きっと、彼女はもう気付いていた。だからこそ、ああやって笑った。あの歌と自分を対比して、面影を重ねた。貴方達が死んでから気付くなんて、もっと早く気付いてあげれば良かったのかもしれない。ああ、でも。もし気付いていたら私は、お別れの準備を始めていた。
忘れ物に気づいてきた道を戻る。教室の扉を開けた時、見知った顔が眉間に皺を寄せて座っていた。
「うわ、あんた何してんの」
「何だ里香か」
「何だとは何よ」
「べっつにー」
彼らしくない、悩み込んだ顔だった。大方予想はついているのだけれど、私が口を出す事でもないと思った。机の中から教科書を取り出し鞄の中に入れ、再び彼を見る。大きな溜息が、あの頃の幼馴染と重なって、私は声をかけざるを得なかったのだ。
「矢田さ」
「何だよ」
「私はやっぱりサッカー続けるべきだと思うよ」
「何で」
「だって矢田サッカーやってる時が一番楽しそうだから」
去年、彼と過ごす時間が増えて分かった。この人は純粋に、サッカーというスポーツを楽しんでいる。彼がはまったスポーツが何であれ、きっと純粋に。誰よりも誠実に向き合うのだろうなとも思った。
「気付いてなかったの?蒼也への罪悪感でも執着でも何でもない。ただ、矢田という人間が好きな事をしている時が一番輝いてると思うよ」
「は…」
ねえ、蒼也、緋奈。
里香は前に進んだよ。
今でも悲しいし、一人になると泣いてしまうけれど。
それでも、二人を無かったことにはしたくないから。
「今の矢田は、進む事が怖くて蒼也達のせいにしてるだけだ」
「何だよそれ」
「私は先に進むよ。蒼也の事も緋奈の事も、本当は凄い悲しい。目を閉じれば思い出して泣いてしまうくらいに。けれど、ここで止まってたら、二人に顔向けできないもん」
どうしようもなく胸が苦しくなって、気が付けば頬に涙が伝っていた。
ああ、駄目だな。まだ、私はさよならに強くなれてはいない。
「先に進まなきゃ、蒼也と緋奈がいたって事を誰にも伝えられないままだ」
『だって彼らの存在を誰も忘れないでしょう?』
脳内で緋奈の声が反響した。
ああ、こういう事だ。
進めない事を、置いて行かれる事を、置いていく事を、二人のせいでも自分のせいにするのでもない。
彼女はただ、憶えていて欲しかっただけだ。
「だから止まりたかったらそこで止まってれば?蒼也と緋奈のせいにしてずっと止まっとけばいい。生きている人間の責務すら捨てて腐ってればいい。あれだけ格好つけて沢山助けてくれた矢田は、もうどこにもいなかった」
病気を隠して蒼也の隣で笑っていた、そんな愚かな少女の事を。周囲に隠し通して死の恐怖に耐えた、そんな愚かな少年の事を。
「矢田の馬鹿、そこで勝手に腐っとけ!」
沢山あったよ。
進むべき道も、取るべき態度も。沢山あったよ。
それでも、この道を選んだのは、私も二人を背負っていきたいと思ったから。
昔の偉人が遺したように、私が忘れないように、二人の存在を語ろうって。
進むべきことが、貴方達への手向けになると信じているから。
止まった彼に当たるだけ当たって教室から出ようとした。もうきっと、彼と笑い合う事はないだろうけど、それでも、今の自分にはこんな不器用な方法でしか二人の意思を伝える事が出来なかった。
不意に、手が引っ張られ身体が後ろに傾く。そして気が付けばいつの間にか、彼の身体に包まれていた。
そして肩に、熱い滴が零れた気がした。