future
「置いてかないで」
それはどちらの言葉だったのだろう。
「矢田、お前進路調査票どうした」
「どっか行っちゃった」
「どっか行ったってお前な…」
放課後の教室。向き合うのが億劫だった。
担任は頭を抱えている。それもそうだ。自分は鞄の中に書類を隠したままで笑いながら嘘をついている。
真っ白な。いや、何度も書いては消したその欄が。
「あー、もう一枚あるから今から書け。書き終わるまで部活に出させないからな」
「ええー、阿部ちゃんそれは酷いぜ」
「酷いのはどっちだ。三年の最後、スタメン入りも果たしたお前が練習に参加できないのが周りに迷惑かけまくってるだろうが」
「まあそれもそうだ」
「引く手数多の推薦も来てる。もう一回よく考えなおせよ。はい、ということで俺は部活行くからお前は書き終わるまで参加禁止」
「え、本当に言ってんの。あ、ちょ、ちょっと待ってー!」
無残にも閉められた扉。机の上に置かれた真新しい紙を見つめる。それを書く気にはなれなかった。
「俺何のために生きるんだろう」
唯一無二の親友も、この世にはいない。目を奪われた彼女も、もう、ここにはいない。
いるのはちっぽけな自分だけだ。理由すらも見つけられない、ちっぽけな自分だけ。
生きる理由なんていくらでもあったはずだ。サッカーを続ける理由だってあるはずだ。けれど今の自分には見つけられない。もう、好きだけでは続けられない所まで来てしまった。
「うわ、あんた何してんの」
突然開いた扉に驚いて顔を上げる。そこにはよく見知った顔が眉を寄せて立っていた。
「何だ里香か」
「何だとは何よ」
「べっつにー」
目を逸らして溜息を吐いた。よりによって一番会いたくない人間の顔を見てしまった。自分とは違い、前に進んだ彼女の顔を。
「矢田さ」
「何だよ」
「私はやっぱりサッカー続けるべきだと思うよ」
唐突に。背中にかけられた声は優しくて振り向いてしまう。彼女は真剣な表情で自分を見ていた。
「何で」
「だって矢田サッカーやってる時が一番楽しそうだから」
気付いてなかったの?と続く言葉。
「蒼也への罪悪感でも執着でも何でもない。ただ、矢田という人間が好きな事をしている時が一番輝いてると思うよ」
「は…」
「今の矢田は、進む事が怖くて蒼也達のせいにしてるだけだ」
風が吹く。一年前より長くなった彼女の髪が舞う。長くなった睫毛が伏せられる。それでもその瞳が変わる事はなかった。
「何だよそれ」
違う。そんなわけない。彼女に言われた言葉を脳内で否定し続ける。けれど、どこか認めてしまいそうな自分もいた。
違う。認めたくなかっただけなんだ。蒼也がいなくなったからじゃない。進んでいく里香に嫌気が差した訳でも、時折廊下で彼女の影を見た気がするのも、違う。僕は僕自身から逃げていただけだった。
「私は先に進むよ。蒼也の事も緋奈の事も、本当は凄い悲しい。目を閉じれば思い出して泣いてしまうくらいに。けれど、ここで止まってたら、二人に顔向けできないもん」
里香の目から透明な雫が流れ出す。とめどなく流れて、その頬を濡らしていく。
「先に進まなきゃ、蒼也と緋奈がいたって事を誰にも伝えられないままだ」
僕は彼女の言葉を思い出していた。
『貴方にはもっといい人がこの先沢山見つかるはずだわ』
「だから止まりたかったらそこで止まってれば?蒼也と緋奈のせいにしてずっと止まっとけばいい。生きている人間の責務すら捨てて腐ってればいい。あれだけ格好つけて沢山助けてくれた矢田は、もうどこにもいなかった」
ああ、立波。
「矢田の馬鹿、そこで勝手に腐っとけ!」
沢山なんかいなかったよ。
すぐ近くにいて、すぐ近くにいたから気が付かなかった。
あり得ないなんて嫌悪して、君はもうとっくに進んでいた。
進む事が二人への手向けになると分かっていたんだ。
止まる事でずっと一緒にいられると思った僕とは違って。
君は、二人を背負って未来を歩いていた。
教室から出ようとした君の手を掴んでその身体を抱きとめる。
僕の左目から、熱い滴が流れた気がした。