環境活動家への反発から見えた「左派の病理」
ある日、気候活動家のロジャー・ハラムが、社会変革の戦略を討議するために集まった左派の活動家たちに向かって「この場にいる全員がろくでなしだ」と言い放った。
私は、ハラムの下品な言葉遣いをめぐる騒動が次第に沈静化し、社会変革のための最善の戦略についての議論に戻ることを願った。
しかし、討議は完全に脱線した。参加者は、自分がどれほど動揺したかを話すのをやめられず、ハラムがこの場に「暴力を持ち込んだ」と述べ、自分が傷つけられたと主張し続けたのだ。
妥協を許さぬ環境活動家から「ろくでなし」と呼ばれた程度の事に対処できなくて、どうして国家に対抗することが望めるだろうか。
左派には、アイデンティティの問題で身動きが取れなくなるという根強い悪習がある。人種や性別、性的指向、障害、性自認などにまつわる不公正を、団結した行動を取るための触媒とはせず、むしろ社会変革という大義の下で協力し合わない理由として頻繁に持ち出すのだ。
近年、「リブド・エクスペリエンス(生きられた体験)」という概念が注目を集めている。
これは世界に直接触れることによって得られた、個人的な知識のことを指す。それ自体は何ら悪いものではなく、貴重な情報の源泉である。しかし、危害から逃れようと闘う代わりに、「被害者であること」がもたらす社会的地位にしがみつくようになると問題が生じる。
私たちはもはや絶対的な真実を語ることはなく、「私の真実」を語るのみだ。
主観的な判断は、被害者という「玉座」から発せられたり、「リブド・エクスペリエンス」という称号を授けられたりした場合、神聖なる地位を与えられる。誰かのリブド・エクスペリエンスに疑義を差し挟むことは、その人のアイデンティティそのものを不当に傷つけることだと見なされるようになってしまった。
私たちは実体的な真実という発想を窓から放り捨て、感情的、社会的に最も都合の良いものに同意する道を選んできたのである。
CIAや巨大企業に都合よく消費される「多様性」
アイデンティティ政治の概念が反資本主義的だった起源からどれほど遠ざかったかを知りたいなら、「DEI(多様性、公平性、包摂性)」のお墨付きを得たい企業がどれだけ熱心にそれを採用してきたかを見るとよい。
たとえば、白人が有色人種に対する人種差別の影響を無視していると批判した著書『ホワイト・フラジリティ』が大ヒットした後、著者のロビン・ディアンジェロの顧客にはユニリーバやアマゾンなどの大企業が加わった。
彼女はコカ・コーラ社の社内イベントでワークショップを開き、参加者に「より白人的でなくあれ」と指示して論争を巻き起こした。コカ・コーラのような大企業が反人種差別のための研修を行うという事実自体が、そうしたワークショップが富や権力を持つ人々の利益を脅かす存在ではないことを物語っている。
さらに驚くべきことに、米中央情報局(CIA)までもが、多様性や包摂性をアピールする動画を公開し、「CIAで宣誓しているとき、当時のブレナン長官のネクタイピンがレインボー・カラーなのに気づいた私の胸を想像してみてください」などと語らせている。
もはやアイデンティティ政治は、権力を脅かすどころか、企業や国家機関に都合よく消費され、社会正義を骨抜きにする役割を果たしているのだ。
アイデンティティ政治は、言葉の使用にも厳しい監視の目を向ける。私たちは、合理的な相互尊重の範囲を踏み越え、他者の発言を取り締まることに執着するようになった。
SNS上では、毎度同じような筋書きに沿った社会的排斥のメカニズムが動き出す。
排斥する側は実際に起こったことの一面だけをシェアし、直ちに懲戒を求める。すると1日もたたずに排斥の声が至る所で上がり、非難と辱めのサイクルが回り出す。
この「怖いから同調しておこう」という空気が、社会的な排斥を恐れるあまり、ある概念が適切に適用されているかどうかを問えないような政治文化を進歩派が作り出してしまったのだ。
滑稽なほど低い「有害」のハードル
このような文化は、あるものが有害であると認定する基準を滑稽なほど低いレベルにまで下げてしまう。
たとえば、2022年のガーディアン紙の記事で、あるヨガの実践者は「白人だらけのスタジオ」でヨガをすることが、有色人種にとって「トラウマになる」と大まじめに語った。
白人だけの教室でヨガをすることが「トラウマになる」のなら、人種差別的な警察の嫌がらせや権力乱用などの体験を表現するのに適した言葉がなくなってしまうではないか。
起こった出来事に対する感情的な反応が、その出来事の実際的な深刻さと完全に乖離している。具体的な優先順位が明確でなければ、被害者感情と抑圧競争のカルトが蔓延するのだ。
SNSを介したデジタル空間では、「注目(アテンション)」が収益化できる商品であると同時に心理的な報酬となっている。私たちは情報過多の、「注目」が限定的な資源となる環境に住み、他者の「注目」を奪い合わなければならないと感じている。
その結果、自分自身を被害者として提示することが、有力な個人ブランドになる。被害者感情は、抑圧というものを他者と共有する連帯へとつなげるのではなく、自分が苦しんでいる状況に執着させ、他者によって認知され、確認された状況になることに執着させる。
そして、権威があるかのように振る舞い、他者の脆弱な立場を排除し、取り締まり、果ては暴力を振るうための口実として利用される場合もあるのだ。
孤立を超えて「連帯」を取り戻すために
左派が目指すものは何か? 単に耳を傾けてもらい、1人の個人として見られている、認められていると感じるためか? 見られていると感じたことで、世界が変革されたことはなかった。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で、「これまでの歴史的運動はすべて少数派の運動、または少数派のための運動だった。プロレタリア運動は、圧倒的多数派が圧倒的多数派のために行う、自覚的で独立した運動である」と記した。
被害者感情というカルトは連帯のプロジェクトを腐食させる。それは人間同士のきずなを損ない、私たちを相互に対立させる。
私たちは、互いに「注目」を奪い合い、抑圧を競い合う個人に分割されるのではなく、圧倒的多数派の階級としての力を取り戻さなければならない。
被害者感情にしがみつく歪んだ誘因に抗い、孤立を超えて真の連帯を取り戻すことこそが、私たちが直面している危機に立ち向かう唯一の道なのである。