閑話:大人の男の匂いが……好き……。①

五~六月は降雨が多い季節だ。梅雨に入るし五月雨という言葉もある。そういう時期であるからして、朝の天気予報で雨が降る確率が高いと出た時には、準備をして登校するなり出社するなりした方がよいのだ。


 今日は昼を過ぎたあたりから雨が降り始めた。

 朝の天気予報の通りだった。



 兼重はきちんと傘を持ってきていたので濡れる心配はなかったが、他の多くの生徒たちは傘を持ってきていなかったようで、雨でずぶ濡れの下校を余儀なくされる子が続出していた。



 ――ぎゃああああ! 雨ぇええええ!


 ――……昼休みの時は太陽出てたのにな。


 ――おっさん用意万端で草。



 兼重は傘をさして欠伸をしながら校門を抜けた。その直後くらいからだろうか。急に傘の中がなぜか狭くなった。



「……突然の雨は困るね」


「天気予報では雨となっていた。事前の準備が大切ということだ」


「それはそうけど……だいぶ濡れちゃった。まぁでもおぢがいて助かった」


「俺がいてよかったな……ん?」



 兼重は、自分が誰かに話しかけられて反射で答えていることに気づいた。おそるおそるに隣を見た。

 心昼がいた。



「……」


「どしたの?」


「俺は一人で下校していたハズなんだが」


「最初はそうだろうね。おぢが校門出てきたの見つけて、それで合流した感じ」



 心昼は随分と濡れているようで、制服のブラウスがぴたっと素肌に貼りついていた。紫の下着も透けて見えた。


 よく見ると心昼の胸は重さを感じる立体感があって、朝里ほどではなくとも、間違いなく巨乳と言われる質量を誇っているのがわかった。



 普通の男であれば鼻の下を伸ばして食い入るように見るのだろうが、兼重は決してそうはならなかった。以前に一度心昼に異性を感じたことを反省しているのもあって、鉄の自制心をすぐ発揮したのだ。



 そうした状態になった兼重が抱いた感想というのは、下着にも使うくらい紫が本当に好きな色なんだな、というものである。


 動揺は一切しなかったのだ。


 だが、兼重のその態度を面白くないと思ったのか、あるいは単に気に入らないのか、心昼はちょくちょく無理にでも『異性』を意識させようとする会話を振ってきた。



「本当にずぶ濡れ。……下着透けちゃってる」


「そうか」


「ぴたーってなってる」


「なるほど」


「これだけ水気含んじゃうと生地も重くなるし、下着ずれちゃうかもって感じ」


「へぇ」


 兼重は完全に暖簾に腕押しな状態を自らを律して作っている。昼が兼重をからかって遊ぼうとしても無駄――ではなく、不測の一言に兼重は負けちゃうことになる。



「おぢの家までついてくから」


 心昼が吐息のように口から押し出したその提案に、兼重は一瞬固まって


「は……?」と素っ頓狂で裏返った声を出した。心昼は兼重のその隙を見逃さなかったようで、悪戯をする子どもの目になっていた。



「あたしの家はここからだと少し遠いし風邪引いちゃうかも。前にネイル返してって言った時にあたしの家にくるの嫌がったじゃん? あたしの家の場所を知りたくない、ってことは、そこまで送ってくれるとか当然ないだろうし……つまり、このどしゃ降りの中どこかであたしを放り投げるんでしょ?」



「そんなことは……」


「あたしの家にこれないんだから、そんなコトあるでしょ? だから、あたしがおぢの家まで行って一回シャワーを浴びて体もキレイキレイにして、服も乾かしてから傘を借りて帰ればいいワケ。それなら、おぢもあたしの家にこなくて済むじゃん?」



 心昼が自然に言いきるものだから、なんだかそれが最善手であるように兼重も感じてきてしまった。一瞬でも意識がその方向を向いたが最後、自分自身の判断の正統性を維持する為の防衛本能が人間は無意識に働くのであって、途中で傘を買って心昼に渡すといった通常の普通の正解を兼重は考えられなくなっていた。



「……」


「あたしなりに一番良い方法を提案したつもりだけど?」


「そう、か」


「嫌がらないってことは……それでOKってコトでいい?」


「そう……かもな」



 今の状況を端的に言うのであれば、つまり、兼重は負けちゃったのだ。



兼重の住むマンションはわりと広めだ。ある程度お金の余裕があるし、高校生になるにあたって新たな気持ちで再出発で心機一転、と景気づけで2LDKの部屋に移り住んでいたからだ。



 ただ、今までの人生経験ゆえの貧乏性から脱することはできず、奮発にも限度を設けた我慢すべきところは我慢して、なるべく安いところを選んではいた。


 具体的にどこを我慢したか、というと一番は立地条件の悪さである。ラブホテルが並ぶ通りの裏にあるマンションを選んだのだ。



 雰囲気が住宅向けではなく、かつ時々に痴話のいざこざで目の前の通りで事件も起きる場所、ということで評価が低く安かったのだ。


 自分一人だけが住むし、友だちもいないのだから呼んだりするような状況も訪れないと思っていた兼重は、移り住んだ当初は「良い引っ越しができた」と喜んでいた。


 しかし、今まさにその気持ちは反転して後悔となっていた。現役の女子高生、心昼を連れてくることになったからだ。



 ただでさえ普通の女性を呼ぶのにも抵抗がある地域であるのに、さらに女子高生ともなると問題が非常に大きくなる……気がしてならないのだ。



 高校生になった後に異性と仲良くなる未来など考えていなかったが為に、このような状況になっている。



 とにもかくにもだ。

 一度了承した以上は今さら拒否もできないのだから、それはそれとして。

 こういう地域に住んでいる、ということで兼重は軽蔑の視線を心昼から今まさに向けられていた。



「おぢはもしかして頻繁にえっちなお店に通う人なの?」


「単純に家賃が安かったんだ。本当だ」


「男はすぐえっちな気分になったりもするんじゃないの? えっちを提供する女もそこら中にいる地域でしょ?」


「俺はそういう気分にすぐなる男ではない。そもそも俺の好みでもないし、強めの香水とかをつけている人もいるわけだが、その匂いもそんなに好きではないんだ」


「なんで匂いを知ってるの?」


「ちょっとコンビニに行こうと思って外に出た時とか、たまにすれ違ったりするんだ。住んでいる場所が場所だから嫌でもそういう機会がある。俺がそういうサービスにお金を使っていると思ったのか? そう見えるのか? 心外だ」


「いや、その、別に……ちょっと気になったというか。おぢがそういう男だったらなんか嫌だなーって、駄目だなーって」


「俺は『女なら誰でもいい』となる男ではないんだ。好きでもない女を傍に寄せる真似は絶対にしない」


「それってつまり、逆説的に、好きな女、気になる女が傍に寄るのは許可する……ってコトだとすると……ほ、ほぉん?」


「とにかく、まぁその、匂いの好みで言えば……心昼のヘア……ミストだったか? の香りは本当に丁度く感じたな。柔らかくて少しだけふわっと香る感じ」


「そ、そうなんだ。よかった。……嗅覚っていうか鼻の感覚っていうか、それがおぢと似てるのかも?」


「だから少しは仲良くできるのかもな。社会人時代の話にはなるが、職場で匂いの感覚が違う人と長時間一緒にいるの辛い時があってな。……俺もおじさんの臭いがするとか思われないようにしないとな」


「自分の匂いを気にしてんの? 確かめてあげる」


 心昼は言って、返事を待たずに爪先立ちで兼重の首筋に鼻先を当てて匂いを嗅いできた。少し頬を緩める心昼の顔は言葉に先んじて、『そこまで嫌いな匂いじゃないよ』と語っていた。



 ただ、突然の行動であるのであって、兼重は驚いてのけ反った。



「い、いきなり何を」


「大人の男の匂い……」


「人の首筋に鼻を近づけるんじゃない」


「匂いの話をしてたんだから、流れとしては自然だけど……?」



 確かに心昼の指摘は一理あるかもしれないが、しかし、女子高生がおじさんの首筋に猫みたいに鼻を近づけるのは世間一般的にはよろしくない画だ。


 兼重は注意するかどうか迷ったが、もう外ではなく屋内――つまり他人から見られる心配ないことに気づいたのでスルーすることにした。



 いちいちそんな小さなことを気にするよりも、風邪を引かないように早めに心昼にはシャワーを済ませて欲しい気持ちが強かったのもある。だから、兼重は心昼に体を接近されたことに対して嫌がる素振りを一切見せなかった。



「あっちが浴室だ。服は……一旦は俺のを着てくれ」


「ぅん」


「シャンプーとかトリートメントとか、ボディ用のとか無駄に種類を持っている。好きなの使っていいぞ」



 兼重はクローゼットの下に置いている段ボールを持ってきて、どすんと心昼の目の前に置いた。色々なメーカーのものが混在している中身だったが、趣味で集めたりしたものではなく基本的には貰いものだ。



 会社を転々としてきた中で、事情も理由も様々ではあるが、とかくこの手のものを配ったりする上司や同僚に恵まれる職場もあったのだ。



「すごっ……」


「転職も多かったからな。こういうのを貰う機会に恵まれたりした。古いのは見つけ次第に捨てているからここにあるのは全部使える」


「お店みたい。あたしが気になるのあるかなぁ……」



 心昼は楽しそうに段ボールの中をごそごそと漁り始めた。そして気になるのを一つ見つけたようだ。


「あ、ムラシャン。三つもある」


「それがいいのか?」


「うん。これにする。これも貰いもの?」


「その通りだ。それを貰ったのは……前の前の職場だったかな。お洒落が好きそうな年下の男の子がいて、買い過ぎたらしくてな」


「通販で個数間違えたとか?」


「返品連絡をするのが怖かったそうで、それで返品せず周りに配る方を選んだ、と本人は言っていたな」



 返品の連絡が怖い、と当時にその男の子から言われた時、兼重は心境が理解できずに困惑したものだった。


 自分だったら即日返品連絡するのに、と。



 もちろん、世の中にはネガティブ方面の連絡を極端に怖がる人がいるのは兼重も知っているので、おかしいと思ったりはしなかった。



 少し話は逸れるが――兼重はわりと図太い性格がゆえに、本人にも自覚が無いままに時たまに女性に好かれる時があった。


 その原因は、端的に言うのであれば、兼重の普段の言動だ。意図的にやっているわけではなく、あくまで自然とそうしてしまうというだけなのだが、勘違いをさせてしまう言葉を選んで、間の置き方も妙に性差を意識させてしまうのである。



 女性は友達フォルダと恋人候補フォルダに男性を初対面から振り分ける、という話があるが、兼重は自分が恋人候補に入る言動のみをしている。


 ただ、兼重はそんな自分の特徴に気づくこともなく、自分は女性との縁が無い男であると間違った解釈のまま今まで生きてきた。

 

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