2章 若者と大人のモノサシの違いは、もしかすると目盛りの数かもしれないね。多分。③
話しかけるタイミングを探し、兼重は朝里の様子を窺い続けた。そして機会は突然にやってきた。
体育の授業。
今はまだ四月で入学式から日も経っていない、ということもあって、体育の内容がクラス内の親交を深める目的のあるレクリーション的なドッジボールになった。本格的な授業ではなく、体育教師も「仲良くやるように」とだけ言って職員室へと引っ込んだ。終わり頃に戻ってくるそうだ。
朝里は運動が苦手なのか、それとも体調が悪いのか、アウトになった人と見学をする人用の場所に最初からちょこんと座っていた。
「ふむ……」
兼重はまず競技にきちんと参加して、それから上手いこと自分がアウトになって朝里の隣に向かうことにした。なるべく自然な理由で近くに寄る方が警戒されずに済むからだ。
兼重がコートに入ると、周囲がざわついた。女子は少し顔を赤くした。男子は何か神々しいものを見た時に出すような吐息を漏らした。
――すご……何あの肉体美。貧相な俺らと違う……完成された肉体。
――やばっ抱かれてみたくなる体。
――あの体が欲しい。
――寿命を超越しようとする悪役みたいな感想を出すな。まぁ気持ちは分かる。
兼重は色々な職場を転々としてきた。ただ、職種によって期間の違いはある。中卒で働き始めたということで肉体労働の職場が多く、働くこと自体が筋トレになってしまっていたような、そういう日々を送っていた時期が一番長かった。
全員が兼重の大人の体に圧倒されている中、しかしながら、一人だけ面白くなさそうな顔をしている女の子が現れた。心昼だ。
心昼は兼重がどっちのコートに入ったのかを見てから、その反対側、つまり敵側のコートに入ってきた。そして、ボールを床に何度も叩きつけながら、何度も兼重のことをチラチラと見てきた。
「おぢ……」
「ど、どうした?」
「そんな大人の男の体をみんなに見せつけて……」
「別に体を見せつけたりはしていないが……」
「とにかく、あたしは、そうやって悦に浸れるおぢと違って傷ついてるんだ」
「……」
「あんな酷いこと言われるとか思ってなかったからさ」
心昼が言っているのは間違いなく朝里のことだ。心昼と朝里の会話の詳細を兼重は知らないのだが、それでも暴言を吐かれているのは察しているのだ。
心昼が苛立ちを露わにするのは当然のことだ。兼重が頼んだから心昼は傷ついてしまったのだから……。
心昼の怒りは受け止める必要がある、と兼重は覚悟した。そもそも朝里に近づく為にアウトになる必要もある。そのついでに、少しでも溜飲を下げて貰えるのなら御の字なのだ。
「いいぞ」
「あたしは、男の裸なんて、無料で読める漫画アプリの中でしか見たことねーーーーーんだよ!!」
心昼が謎の暴露と共に全力で投げてきたボールを、兼重はあえて顔面で受け止めた。自分よりも華奢な女の子の投げるボールは痛くないというのもあるが、一番の理由はそれくらいやらないと根に持たれる気がしたからだ。
「好きなだけぶつけろ。俺はそれで逆恨みをしたりもしないし、心昼が落ちつくまで俺に怒りをぶつけて甘えていいんだ。俺は大人だからな」
兼重がそう告げると、心昼は俯いて「ふっ」と鼻で笑った。表情が上手く見えないこともあり、心昼が現在どのような感情なのか兼重にはわからなかったが、ただ、怒りはある程度治まったようだ。
――心昼ちゃん、なんで全力でぶつけたの?
――おぢは受け止めてくれる気がした。
――やり過ぎだよ。そもそも、兼重さん他の男子よりずっと大人で良い人じゃん。
――……。
――というか、心昼ちゃんって、その、漫画アプリとかの創作上でしか男の裸を知
らない感じ?
――皆もそんなもんじゃないの?
――本物を知ってる子もいるんじゃないかな……そういうのに興味あって積極的な子なら、体を押し付けたり、あざとく接触して感触を知ろうとしたりとかすると思うし。
――……ふぅん。そうなんだ?
そうした女の子の会話に聞き耳を立てようとする男子も中にはいたが、女子は絶妙に周囲に聞かれない音量で声を出していたりするものだから、結局分からず終いであったようだ。
「くっそ、どんな話をしてるのかわからん」
「どうせ俺たち男子の悪口だ。違うなら俺たちも会話に参加させるだろ」
「だな」
悪口云々は被害妄想ではないかと兼重は思ったが、ただ、女性が集まる時……実際に男の悪口や品定めであるケースが存在はしていることも知ってはいた。完全否定もしきれなかった。
「まぁなんだ、女の子には好きに会話させてやるべきだ。中途半端に首を突っ込んだり気にすると、それ自体をネタにされて結果的に悪口を促進させてしまう時もある。前の職場でそういう流れになってしまった男がいたのを見たことがある」
「見たことがある、というワードは強すぎる」
「うーん……一旦は兼さんの言う通りにしといた方がよさそうか?」
「判断は自分自身でな。とにかく俺はアウトになったからコートから出る。さて……上手くやれるかどうか」
兼重がそう告げると、男子たちは『上手くやれるかどうか』の言葉の意味を察したようでちらちらと朝里を見始めた。
兼重は近づき過ぎない距離で一度立ち止まって、慎重に朝里に声をかけた。
「隣いいか?」
「ダメ」
「そう言わないでくれ」
「おっさんが女子高生に話しかけるって事案になるんじゃない? 警察署に行きたい?」
「同級生じゃないか」
「どうせ女子高生の体が目当てなんでしょ? スケベしたいんでしょ?」
先日に、似たようなことを心昼からも言われたなと兼重は思いつつ、ただ、明らかに朝里の方が直接的で攻撃的である。
あくまで相手を知りたくて探る意図があったであろう心昼と異なり、朝里は攻撃する為、拒絶する為、傷つける為でしかない言葉選びだ。
心昼や小夜が、無防備な状態でこの刃を突き立てられたのだと思うと、兼重は既に感じている申し訳なさが倍増してならなかった。
あとで補填も必要だろう、と兼重は思った。
さて、兼重がどう動くかだが……社会人経験豊富なアラサーなだけあって、朝里ほど極端な子は初めてかつ決して得意ではないが、何にでも噛みつく似たようなタイプの人間の相手をしたこともあったりするのだ。
こういう子は、元からの性格というよりも、何か過去に傷つくことがあって心を閉ざしてしまっている可能性が非常に高いというのが兼重の見立てとなる。
反論すればより心を閉ざすし、同調しても、それが本音ではないと一瞬でも思われてしまえば『なにも分かってない人の相手はしない』と殻に籠られたりもする。
大事なのは、否定も同調もせずに会話を続けて、少しずつ本音を引き出すことだ。
「朝里には俺がそういう風に見えるのか?」
「呼び捨てにすんなよ」
「同級生なんだから、それくらい良いじゃないか」
「折れないね……おっさん」
「俺は仲良しになりたいだけなんだ」
「なかよし……えっちしたいってこと? スケベじゃん。警察に電話するから」
「ん? 仲良しにはそういう意味があるのか?」
「は?」
「俺はそういう使い方はしないな。そういう意味で使う、ということは朝里はそういう経験があるのか?」
兼重は言って、小指を自分の右耳に突っ込んだ。次にくる言葉の中身はわからないが、ただ、方向性の予想はつくので上手く回避する為の事前準備だ。
「すっとぼけてんじゃねーよ! おっさんの頭の中なんてスケベなことだけ――」
「――ん? なんか言ったか? すまんな、聞こえなかった」
「は、はぁ!?」
「それで、朝里はそういう経験があるのか?」
兼重はあくまで聞こえていない前提で振る舞った。まったく動じることのない兼重の姿に、朝里もまずは自分が質問に答えなければならないと理解したらしく、
「な、ないよ、そんな経験……」
「そうなのか?」
「そうだよ。ただ、今はそういう意味で使う人が単純に多いっていうか……SNSとかでも、そういう風な意味で使ってる人多いじゃん」
強い攻撃的な言葉を朝里は控え始めた。良い兆候である。
「俺はSNSを見ないんだ」
「嘘でしょ?」
「本当だ。ニュース見てるとSNSは事件も多いみたいだし、巻き込まれて酷い目に遭うのはごめんだ。自分が悪くて自分の責任で面倒くさいことになるのは仕方ないと諦めもつくが、他者のあれこれの巻き添えは疲れる。若いとそういうのが刺激的で良いと思うのかもしれないが、俺はおっさんだから面倒は億劫に感じる」
「若くたって嫌だよ……勝手に当事者にされて巻き込まれるの。大事なものも壊されるし」
朝里が一瞬見せた心の内を、兼重は見逃さなかった。
勝手に当事者にされる、大事なものを壊される……詳細は分からないが、とにかく、そういう感じの出来事に遭遇して朝里は心を閉ざしたのである。
そういう言い方なのだ。
だが、それに気づいても兼重は無理に聞き出そうとはしなかった。本人が自分の意思で喋るまでは待とうと思うからだ。
「世の中は色々な事があるし、色々な人間がいるからな。俺みたいにアラサーになって高校生になる人間もいる」
「笑える」
「笑わないでくれ」
「そう……じゃあ笑わない」
「ありがとう。こういう会話も青春の一幕だろうか。青春は良いものだな」
「青春……それが目的で高校生になったの?」
「青春と勉強だ。俺は一回も高校生になったことがない。中退したとかじゃなくて、本当に中学を卒業してすぐに働いたんだ」
「なんか家の事情とかあった?」
「そんなトコだな。社会人枠で入ったから受験は面接だけだったけどな」
「それズルくない?」
「朝里の同世代にも、例えば、学力試験なしで推薦で入学するヤツがいると思うが?」
「そう言われると……」
会話を続けていくうちに、朝里は、本当は楽しく高校生活を送りたいと思っていそうな、そういう雰囲気を滲ませ始めた。年相応の普通の女の子である、というのが段々と兼重にもわかってきた。
「まぁなんだ、入学してからそんなに日も経ってないし、同級生もどんな本性か分からなくて俺は不安だ」
「うん。わかる。でも……」
「ん?」
「そんなに悪い連中じゃなくない? ウチに話しかけてくれるし、おっさんにだって普通に接してるし……ウチの中学ん時の同級生と全然違う」
少しずつ、僅かずつ、朝里の本音が漏れてきた。これは決して早い陥落ではなく、仮にそう感じるのであれば、本質を理解できていないのだ。
中学時代に何かを抱えることなった、ということは、それはどんなに直近であっても中学時代の同級生と関わらずに済む春休みが始まる前の出来事になる。
つまり、最低でも一か月以上が経過しているのだ。
朝里の中では、それだけの時間をかけて、ようやくキッカケさえあれば素直になれるかも知れない状態になれているのである。
「中学時代の同級生と比べて良さそうに見えると言われても、俺にはよくわからんが、まぁ良い連中だと思うのなら仲良くしたらいいんじゃないか? 少なくともクラスメイト達は朝里と仲良くしたがっているだろう」
「もう無理だよ」
「どうして?」
「そんなの聞かなくてもわかるでしょ。だって、凄いキツいこと言ったし……」
「謝ればいいだけだ」
「許してくんないよ。ウチがなにを言ったと思う?」
「誰に何を言ったんだ?」
「例えば、ほら、さっきおっさんの顔面にボールぶつけてたあの子……心昼だっけ? あの子には、いっつもガムとかアメとか口の中に入れてるから、それってキスの練習でもしてんの、とかそういうこと言った」
小夜とのやり取りは兼重にも聞こえていたが、心昼とのそれは聞こえていなかった。誰が聞いても言いすぎな内容である。兼重も返す言葉を思わず一瞬失った。苦笑するしかなかった。
「あと、あのふわふわした子とかにも……ウチもあっちも叫んでたから、それは聞こえてたと思うけどメスブタとか言った」
謝ってもすぐの解決は無理そうな気が兼重にもしてきた。理由があるにしても、それを同級生たちは知らないのだから、ただ単に『嫌な子』としか朝里を認識できないのであって、一度そう思ってしまえば、謝られたり事情を知っても感情で納得できない者も多くて当然ではあるからだ。
ただ、一生解決しないかと言えば、そういうわけでもないのだ。
「本当に言いたい放題言ったものだ。謝るにしても、すぐは無理だな」
「だから絶対に無理って言ったじゃん」
「話を最後まで聞いてくれ。俺は『すぐは無理だな』と言ったんだ。つまりだな……ええと、まずその、答えを言う前に……俺が大人としての意見を言ってもいいのであればというか……答えを言われるのが嫌でなければなんだが……」
「嫌じゃないから言ってみて」
「恐らく時間が解決する」
「そんなんで解決するわけなくない?」
「意外とするものだ。例えばだが、世間を騒がせる不祥事を起こした芸能人が、しれっとした顔で復帰して『あの時は本当に色々な人に迷惑かけて』とか笑いながら言って許されているのを見たことないか?」
「あるかも……」
「要するにタイミング、ということだ。悪いと思っていると態度で示して、つまり輪に入って隅で大人しくして、それからある程度の時間が経った時に『あの時は』と言えば許される確率が上がるんだ」
「そのやり方……なんか汚くない? 誠実じゃないよね?」
「大人になったら、どうせ、やる方やられる方のどちらかは経験することになる」
兼重の瞳は淀んでいた。経験したのはやられた方だった。相手はその時が訪れるタイミングまでずっと大人しく、しおらしくしており、それもあって兼重は怒りを忘れてしまって許したことがある。
しゅんとした態度を一定期間見せられると、許さないと自分の心が狭いように思えてくるのだ。もちろん全員が兼重のようになるわけではない。それでも、時間が解決する可能性は高いのだ。
「嫌な事を思い出させちゃった……感じ?」
「ああ、嫌な思い出だった。だが怒りは確かに薄れる。俺は薄れた。効果的だ」
兼重の言葉には体験談ゆえの重みがあった。朝里もそれを理解したのか、何度も頷いて納得していた。
「わかった。で、でも、どうやって輪に入ればいいかわかんないし、その、こんなこと言うのもアレだけど……おっさん窓口になってよ」
「了解した」
気を揉む瞬間も大いにあったが、しかしながら、なんだかんだ朝里をクラスメイトの輪に引き込む兼重の誘導は上手く行った。
ちなみに……朝里は会話に一生懸命だったせいか分からなかったようだが、周囲が二人の様子を固唾を呑んで見守りにきていた。兼重は気づいていた。結果も雰囲気で伝わっていたようで、女子はざわついていたし、男子は狂喜乱舞していた。
――おじさんが結果を出したことに驚く必要はない。俺はおじさんのこと信じてたから分かる。絶対になんとかしてくれるんだって。
――おっさんは野良猫とか野良犬とか懐かせる方法を知ってそうだな。
――なにあの子……意味わかんな。
――おぢ自分でなんとかできんじゃん……。
――みんな気づいてるか? まだ入学式から一週間も経ってないんだぜ? このクラス濃ゆすぎる。
見られていることに朝里が気づくと、また反射で何かしてしまう可能性もある、と思った兼重は口パクで『離れろ、この子を刺激するな』と伝えた。クラスメイトたちは察しが良いらしく、兼重のその仕草を見て、「さー続き続き」とコートに戻っていった。
今日の体育は親睦をさらに深める為……だったハズだが、体育とは関係のない流れで自然と打ち解けているクラスとなっていた。
「そろそろ授業も終わりの時間……先生もこうして戻ってきた……ぞ?」
授業が終わり頃になって戻ってきた体育教師が、首を傾げていた。瞬く間に数か月も経過したかのような雰囲気になっているこのクラスのことを、悪い意味ではなく、本当に純粋に不思議に感じたそうで。
「良い生徒だけ自分のクラスに集めたのだな田場先生も。おっぱいが大きい子もいる。最近の子はけしからん。ただ、唯一気になるのは、田場先生……夕真さんと同級生らしいあのアラサーだな。俺の恋敵か?」
兼重はよくわからない敵視を体育教師から持たれていたが、それに気づくこともなく、その後は特に何か起きるでもなく今日という日は終わりを迎えた。
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