1章 意外と馴染めそうではある。 ④
時間が過ぎて放課後を迎えた。クラスメイトたちは各々のやりたいことをやる為に離散し、教室はすぐに閑散となった。
兼重は静かになった教室の窓から外をなんとなく眺めた。校門があって、その先には何の変哲もない普通の街並みが広がっている。
普通の人であればなんとも思わないような景色だが、兼重にとっては、それは凄く特別に感じられるものだった。
学校から眺める景色、という部分に、お金を出しても買えない価値を感じるのだ。ずっと眺めていても飽きることがなかった。
まぁその、下校時間というものが学校にはあるのであって、いつまでも眺めるワケにもいかないのだが……。『サービス残業歓迎だから朝までいていいよ。なんならここに住んでもいいよ』と言い出す一部の会社とは違うのだ。
兼重は帰路に着くべく教室を出ようとして、振り返る――と、なぜか目の前に心昼がいた。
心昼は、警戒している猫のような瞳で、兼重をじっと見つめてきた。ガムも膨らませていた。
「おぢに話ある」
「俺に話?」
「そ」
「何か……怒らせるようなことをしてしまったか?」
兼重が戸惑っていると、心昼が一気に距離を詰めてきた。心昼が膨らませていたガムが膨張の限界を迎えて勢いよく弾けた。ほんのりと甘みの伴った葡萄の匂いが兼重の鼻先を掠める。心昼は葡萄系のガムが好きなようだ。
「おぢはなにが目的で高校入ったの?」
「?」
「昨日のカラオケ……一回トイレかどっかに連れてかれてたじゃん? その後に男子が急におぢに懐いたのよくわかんないし、今日制服が破けちゃった子のを直してあげて、それで女子を集めてたのもよくわかんない」
「偶然助けることになったというか……心昼が今出した話両方ともな」
「そうなの? 本当に?」
「何を疑っている?」
「うーん……その……男子を子分にしてそうなのは好きにしたらいいよって思ってて、女子を集めてた方がすごく気になってる」
「集めたわけではないが……」
「おぢは女子高生とえっちしたいとか思う人?」
なぜ心昼がそうした発想に至ったのか、兼重は理解に苦しんだが、それはそれとして答えは明瞭で『そんな気持ちは一切ない』である。
目的は主に青春と勉強だ。
「ふむ……急に警戒された理由はわかった。結論から言うのであれば、それは大いなる勘違いだ。俺は変な理由や目的を抱えている危ない人間ではない」
兼重は苦笑して、落ち着いた優しい声音も出して、そうして自らの無害さを自然な形で全面に押し出した。
「へ、へぇ……主張はわかったけど、でも、それが言い訳とか適当な嘘っていう可能性もあるし?」
心昼は目を泳がせていた。自分の勘違いであるとは気づいたが引っ込みがつかない、という状態なのが丸わかりな反応だった。
勘違いを認めるのは大人でも難しいものだし、思春期の心昼はなおさらである。振り上げた拳を心昼が早めに下せるような助け船が必要、と兼重は思った。
「俺は皆と早く仲良くなりたいんだ。制服を補修したのも俺にその意思があると皆に知って欲しかったからだ。で……ええと、俺が迷わずそういう行動を取るのは、そういう風にしようと思えたきっかけなんだが、それは心昼だぞ」
「は……?」
「初日に声をかけてくれた。俺が早めにクラスに馴染めるように、と。『頑張れ』と背中を押して貰えた気がした。だから、俺なりに頑張ろうと思ったんだ」
兼重は嘘を言わなかった。恐らくはだからこそ、これが本心だときちんと当人にも届いたようで、心昼は気恥ずかしそうに頬を掻いて横を向いた。
「ハイハイ……そーいうコトね……」
そんな心昼の反応が純粋で素直だったものだから、兼重もつい頬が緩んだ。笑ってしまった。そんな兼重の反応が面白くなかったのか、心昼はしおらしい態度を一転させて髪の毛を逆立てた。
「な、なに笑ってんの!」
「可愛いなと思ってな」
兼重の言葉の意味は、知人や同僚の子どもが少しマセた態度を取っているのを見た時に感じる純粋な愛らしさと同種のものだ。
だが、それを理解したり察して賛同してくれるのは兼重と同じ年齢かそれより年上の人だけであるのだ。
経験が薄いであろう心昼のような思春期の若者は、その単語に意味は一つしかないと考えるものだ。『異性として可愛いね』である。つまり、誤解されてしかりだった。
「は、はぁ~~⁉ あたしのこと口説いてんの?」
「そういうわけでは……」
「じゃあ他に狙ってる女子高生がいて、やっぱり、えっち狙い……」
一旦は降ろしそうになった拳を心昼がまた振り上げ始めた。兼重はつい笑ってしまった自分の愚かさを呪った。
嫌疑を晴らすのは諦めて、もう好きなように解釈して貰……うワケにも行かないのだから大変である。『女子高生と性的なコトをする目的で入学した』等という誤解を触れ回られでもしたら社会的に終わるのだ。
(もしかすると……自分が把握できていないことがある、というのが嫌なのか?)
それは、心昼が周囲に気を配るような子、というのを兼重も察していたからこそ思い浮かんだ答えであった。周りをよく見ているからこそ、初日に緊張していた自分を見つけて声をかけてくれたハズだから、と。
心昼のような気を使いたがる人間は、相手の性格や考え方を知ろうとする傾向がある。その情報があれば、適切な配慮をストレスなく選べるからである。
大人であれば、経験も増えていく中で迂遠に情報を得る方法も覚えるものだが、まだ高校生になったばかりの心昼にそれは恐らく難しくある。強めにぶつかって強引に相手自身に情報を開示させる手段しか知らなくて当然だ。
「仕方ないな」
「ん? 本性を出す気になった?」
「なぜ高校生になったのかを説明しよう。そもそもの入学の経緯を心昼に知って貰うことで、えっち目的というその発想になる根本の疑惑から除去すべきだな?」
「理由は性欲を満たす為……」
「違う違う。……理由は当然プライベートの話でもあるから、他の人には言わないでくれよ?」
経緯については誰に知られても構わないと兼重は思っているのだが、ただ、こういう言い方をした方が恐らく心昼は興味を持つだろうという判断だった。
秘め事のような空気感があった方が価値がある情報に感じられるのであって、『良い情報を得た』と満足しやすくなるだろう、という考えだ。
兼重のそうした予測は見事に当たった。
「……ふぅん? 教えて」
心昼は興味津々に顔をぐいと近づけてきた。その体の動きに合わせて、心昼のパーカーの猫耳もぴこぴこと動いていた。
それと――心昼がブラウスを若干着崩しているせいで胸の谷間も見えてしまっていたが、そこからは兼重も目を逸らした。
「猫は好きか?」
「え? まぁ好きだけど派閥としては犬派――いやいや、そんな急に話題を変えられても誤魔化されないから。早く教えて」
「俺がなぜ高校に当時に通えなかったかの話からになる。短くまとめるつもりだが、長いとか言うなよ?」
「言・わ・な・い……もったいぶるな!」
話に価値を持たせようと引っ張り過ぎても、これ以上は単に心昼を苛立たせるだけになりそうな気配が漂い始めたので、兼重は色々とあった経緯を順番に時系列に沿って話し始めた。
個別の出来事の詳細は省くとして、突き詰めて言えば、兼重自身が既に一部の同級生には零していた『家庭の事情』について、さらに深掘りした話をした。
高校生として過ごす日々というのは兼重にとって憧れだった。勉強もしたいし、普通の高校生活を送って青春に触れたいとも思うのだ。
同じ世代の人間ほぼ全員が当たり前のように持っている経験が自分にはない、その事実が強い劣等感を兼重に抱かせたのもある。一人だけ落ちこぼれてしまっているような、取り残されているような気持ち――それを払拭したくて。
だから、高校生になった。
本当にたったそれだけのこと。
全てを伝え終えたあとの兼重の背中は少しだけ小さくなっていた。大人になる前の『男の子』だった時代の面影が僅かに滲んでいた。
「というわけだ」
「……」
「どうした?」
「いや、その……」
心昼はもじもじと俯いて縮こまっていた。自分が『えっちが目的のハズ』と決めつけて攻撃的になっていたのが大いなる勘違いであったことを、ようやく本当の意味で理解できたのが窺える態度と言えた。
「ごめんね、おぢ。秘密を教えてくれてありがと。今の話はクラスメイトに言わないし、先生とかにも言わないようにする」
「先生たちは俺の事情を知ってるぞ」
「え? なんで? あっ――そっか、入学の時の提出する書類か何かで……?」
「確かにそれもあるし教師の人達は全員が俺の経緯を知っている。まぁその、一人だけそれ以前にそもそも昔の俺を知っているがな」
「どういうこと?」
「夕真」
「あたしらのクラスの担任の先生の名前……だよね? なんで呼び捨てにしてんの?」
「年齢」
「おぢと同じくらいだっけ? え?」
「中学の同級生だ」
夕真との関係を教えるか兼重も迷いはしたのだが、ただ、恐らくはいずれ周囲にバレることであるとも感じてはいたので、無理に隠す必要もないと判断した。
「はぁ⁉」
心昼が随分と驚いているが、兼重は気にせず話を続ける。
「夕真と中学が同級生だった、というのは、別に他のヤツに言ってもいいぞ。俺と心昼の二人の秘密なのは俺の過去だ。恥ずかしいからな」
「わ、わかった。おぢの過去は二人の秘密で……先生となんか昔からの知り合いらしいよ、って方は言っていいの?」
「昔『から』という言い方だと、ずっと友人知人を継続していた的なニュアンスになると思うんだが、そういうのとも少し違うんだがな……中学卒業以降は疎遠だった。ただ、同じ年齢で同じ学校出身というのが分かってしまえば、同級生だったと誰もが簡単に想像つくハズだ。だから、どうせ知れることだから言われても構わないと思ってる」
「そ、それはそーだろうけど……」
「なんなら夕真に直接確認を取ればいい。なんと答えるか、だな。恐らく『いいよ』って答えると思うがな」
「……」
「どうした?」
「いや、先生と同級生だったの方も他の子に言わないことにする」
「心昼が言わなくても、十代半ばともなると好奇心も旺盛だし、気づいたヤツが話題に上げて流布される気がするが」
「そうなっても、それが公然の事実にならない限りあたしは触れないから」
「優しいな」
「そうだよ。面倒見いいよねって中学時代に同性から評判だったし……その……疑って悪いと本当に思ってるし、男の面倒は普通は見ないんだけど、おぢは特別に面倒を見たげる」
心昼は髪の毛先を指でくしくしと擦りながら、そんなことを言い出した。疑ったことを申し訳ないと思っての提案であるようだ。
性格は悪くないのだろう、というのがわかる態度だった。本人の言う通りに同性からは好かれやすいのかも、と兼重は感じた。
良くも悪くも裏表が無くて正直な人間は、同性からは好かれやすいものである。そして、そういうタイプの子は、素のままで受け入れて貰える人生を送ってきた可能性が高く、周囲から愛されがち――つまり見た目が良い子も多かったりする。
よく見ると、心昼も容姿が非常に整っていた。
猫のような、大きくて柔らかく釣った卵のような瞳――小さくて細いのにどこか丸みを帯びた輪郭――控えめな額、そして、今時のハイライトの入った髪が、気持ちよく太陽が照った真昼にできる涼し気な木漏れ日の中のような、涼しさと温もりがある。
美少女だ。
「あたしの顔に何かついてる?」
「俺みたいなおじさんに優しくしてくれた子の顔は、きちんと覚えておこうと思ってな」
「いい心がけ! よきよき」
頷く心昼の顔色が良い感じに見えるのは、薄化粧もしているから血色が浮かびやすいからに違いなかった。薄いパープル系のチークの痕跡も見えたし、眉も描いているのが分かる。さすがに口紅は塗っていないようだが……ただ、唇が渇いていないのだから最低限保湿のリップバームくらいはしていそうでもあった。
兼重は色々な職場を転々とする中で、女性が多めの職場にもいたことがあることから、なんとなくはそういうのもわかる方である。メーカー等は詳しく知らないが、とにかく化粧の有無だけは気づける。
ただ、気づいたとしても、兼重はそうした部分を褒めて心昼の機嫌を取ろう等とは思わなかった。『女子高生狙い』という疑義を再燃させるからだ。
「さて、そろそろ帰らないとな」
「待って待って、その前に早く出してスマホ」
「スマホ?」
「面倒みたげるって言ったじゃん」
「面倒を見るのとスマホにどんな関係があるんだ?」
「連絡取れるようにしないと駄目だから。困ったことあったら、あたしに言うんだよ?」
「なるほど……?」
厚意を示された時にはなるべく受け取る方が良いものだ。『気持ちを無碍にされた』と相手が気分を悪くしてしまう時もあるからである。
兼重はスマホを出して、連絡先の交換を手短に済ませることにした。すると、心昼が兼重の襟を掴んで優しく引っ張って顔を近づけてきた。そして、耳元で囁いた。
「あたしから連絡することは……多分けどないから」
「顔が近い」
「女子高生に顔近づけられて嬉しいって気持ち、少しはあるでしょ?」
「その誤解は解けたハズだが」
「それとは別に一般論として男はそういうもんじゃない? あたしから連絡する時があるとすれば、もっともっとおぢに興味を持った時かな?」
心昼が食んでいるガムの匂いが、葡萄の香りが、兼重の鼻先を掠める。兼重は、ムズムズする自らの鼻孔の感覚に気を取られたのもあって、心昼の言う〝もっと興味を持った時〟の意味を考えずに右から左に流した。
それはそれとして、だ。
襟を掴まれている状況というのは、偶然に見た人からすれば、一般的には悪い意味で絡まれているように見えるものであって。
「――なにやってんの! 心昼ちゃん!」
現れたのは小夜だった。突然の来訪者に兼重はびっくりして目を丸くしたし、心昼も驚いた時の猫のように全身を震わせて兼重から離れた。
「小夜……? なんでまだ学校の中にいるの?」
「どんな教室あるんだろうとか、良い部活とかあるのかなーって見学してたらこんな時間になったの。それより、なんでおじさんを虐めてんの?」
小夜はすぐに兼重に興味を持ったように、気になることに目が向きやすい子であるのか、今の時間まで校内に残って色々と見て回っていたようだ。
とにもかくにもだ。
兼重が心昼に苛められている、と小夜は勘違いしていた。
「苛めたら駄目! おじさんはみんなのマスコット!」
「その言い方はおぢを人間扱いしてない酷い言い方な気もするけど……苛めてはないよ。ちょっと世間話してただけ」
「世間話で襟掴んで睨むなんて普通しないよ」
「かっこいい顔してんねって思ったから近くで見たかった。それだけ」
「……心昼ちゃん年上好きなの?」
「そこ気にするってことは……小夜が年上好きでおぢにツバつけたいから、あたしに獲るなって言いたいとか?」
「ふぅん……そういう返し……へぇ……とにかく、おじさんは他の学校の子が持ってないレアキャラだし、大事にしないと駄目なんだよ。ほら早く帰って!」
「はいはい」
せっつかれて、心昼は溜め息混じりにガムを膨らませて帰っていった。気が付くと兼重は小夜と二人きりになった。
心昼が去ってしまった以上、小夜の勘違いは解くのは兼重の役目となってしまった。兼重はやれやれと頭を掻きながら小夜に話しかけた。
「小夜ちゃん、俺が心昼に苛められていたりとか、そういう事実はないんだ。でも、ありがと――」
「なんで心昼ちゃんのこと呼び捨てにして、私にちゃんをつけるの?」
「ん?」
「おじさんは苛められるのが好きなんだ? マスコットの印象と離れちゃうから、やめて欲しいなーそういう感じは」
「あ、いや、だから苛められていたわけではないんだ。本当に」
「じゃあ心昼ちゃんは睨んでいたわけじゃなくて、本当におじさんの顔を近くで見たくて……ってコト?」
「なんか変な勘違いをしていないか?」
「だって、あの距離は……入学式の翌日なんだよ⁉ 会って一日二日でそんなの、汚いマスコットになっちゃう! 駄目! 心昼ちゃんに騙されちゃ駄目!」
「騙されているわけではなく、決して小夜ちゃんの思うような――」
「――‶ちゃん〟をつけないで。クラスメイトなんだもん」
「そ、そうか? じゃあ小夜……でいいのか?」
「うん」
「とにかく、小夜が思うようなことは何もない。本当なんだ。でも、ありがとう」
兼重は少しだけ屈んで目線を合わせて、小夜に微笑みかけて言った。何も心配要らないのだと態度でも雰囲気でも伝えた。
そこまですると、さすがに小夜も自分の解釈が間違っていると理解できたようだ。俯いて下唇を突き出して申し訳なさそうにしていた。
「おじさん優しいから、もしかしたら、心昼ちゃんに気を使ってるのかな~ってちょっと思うのあるし、何かされたら言ってね? 心昼ちゃんキツそうに見えるし、おじさんを困らせるかも知れないから……はい、スマホ出して」
「……」
「早く出すのー!」
「まぁ構わんが……ただ、心昼のことがまだわからないと感じているのなら、最初は疑うのではなくて、信じるところから始めるのが良い気もするぞ」
「心昼ちゃんのこと庇う必要ないのに……」
小夜がムッとしていたが、兼重は特に気にしなかった。十代も半ばとなれば説教には反発する時もあると思うからだ。
今日という日は、兼重にとって色々とあった一日となった。結果的に、心昼と小夜、二人の女の子の連絡先を手に入れることにもなった。
普通の男の子であれば、『やったぜ!』と小踊りの一つでもして、なにかと理由をこじつけては毎日連絡を取ろうとするものだが……もちろん、兼重はそんなことをする気はゼロである。必要がある時は仕方なく連絡を取るかもしれないが、そうでない限り自分から連絡しよう等とは思わなかった。
女子高生と連絡を密に取りあうアラサーの男を世間はどう見るか、ということだ。間違いなく白い目を向けられる。
さて、それから校門で小夜とも別れ、夕暮れ時の校舎を後にして家に帰って休む……つもりだったのだが、あと一回だけ一人だけ、兼重は相手をする必要が産まれた。
「兼く~ん! おいで!」
職員室の窓から夕真が身を乗り出して、兼重に声をかけてきた。呼ばれたからには無視するわけにもいかない、と兼重は夕真のところへと向かった。
特別な話があるわけでもないようで、始まったのはただの世間話だ。
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