八百万夜行 ― ヤオロズヤギョウ ―
三河筆刀齋(三河蕾花)
第一章 導きと下知
一
一
初夏の爽やかな風が、山を吹き下ろす。青々と茂る草木がそよいで、ざわめき、虫のすだきが山林を跳ね回った。
蝉が念仏を唱えるかのごとく鳴き、山鳥が美しい声を交わし、川がしぶきを上げてせせらぐ。
生命が息吹いている。
その、さんざめく無数の輝きの中を、一頭の雄鹿が蹄を鳴らして駆けていく。
速度は一定、律動的な弾みと歩幅。
その鹿へ向けて、矢が射込まれる。
だが雄鹿は神憑り的にその
矢を射った若者は――鬼の青年は驚きに目を見張った。
若者の名は
この界隈では有名な、弓の使い手である。
「弾いた……? なんてやつだ」
愁慈郎はすぐに弓を背中にひっかけた。
鹿が、逃げる。太い首を山の上り坂、てっぺんの方へ巡らせて、かかとを鳴らして駆け出した。
愁慈郎も、すぐに追いかけた。
分厚く編み込まれた草履が、下草を踏みつける。
実った果実、花に、きのこ、草葉。
命あるすべてが、そこにあるだけで、ただただ、狂おしいほどに煌めいている。
若者が、美しくも鮮烈な朝陽に焼かれている山の中を、全力で駆けていく。
草履が土を踏む。腐葉土を踏みつける。枝が砕ける音。
前方を駆けるのは、やはりさっきの雄鹿である。山の恵みを喰らい、まるく肥えた鹿だ。
大柄で、これは一筋縄では狩れそうもない。いや、弓を射かけんとして接近を悟られた時点で、狩りは、八割方失敗である。
――ならば、それでもかまわん。
足下、草履の底で、後ろ向きに蹴り出された土が宙を舞った。
山に生きる命。その剥き出しの力。若輩の鬼にすぎぬ己が、この巨大な山河に、それが産み落とした命の化身にどこまで食らいつけるか、ひたすらに気になった。
然り。
これは狩りに
鹿が、袋小路に入った。三方を崖に囲まれている。来た道には愁慈郎がいる。
崖上を睨むそいつが、脇に倒れている丸太に気づくまでに、それほど時間はかからない。
ほどよく崖の上まで渡されている丸太に気づくと、鹿は器用にそれに乗って駆け出す。
愁慈郎もそれに続いた。しかし鹿が渡り切ると同時に、丸太が砕ける。
「く――」
落ちる――高さは、せいぜい三尺(九十センチ)程度、だが。着地で下手を打てば、足をやられる!
咄嗟に、愁慈郎は左手に装備した仕掛け手甲を作動させた。
巻取り機に巻きつけられている縄を、手首をひねり返して射出。鉤縄だ。鉤が、崖上に生えている木の枝に絡んだ。
そうして手首を内側にひねると、こんどは縄が巻き取られる。その勢いで愁慈郎は木の方へ飛んだ。
縄の先に取り付けられているのは、指の動きと連動する仕掛け鉤。
それを巧みに動かして木の枝から外す。
指の関節部分には輪があって、それが鋼線で手甲とつながっていた。さらに鋼線は縄の内側に編み込まれていて、指先の動きが、鉤に通じるような具合となっていた。
このような精緻で緻密なカラクリは、
崖の上にはやはり、原生林が広がっている。
標高はすでに百丈(約三百メートル)。ずいぶんと登ってしまった。
前方には川が流れている。雄鹿はその強靭な四足で越えたが、愁慈郎は思わず、河原で止まった。
流れが急だ。また、巨岩の影響で、不規則に流水が曲がりくねっている。
足を取られれば、あちこちに体を叩きつけられて、死ぬこともありうる。鬼とて、無敵でも、不死身でもない。
愁慈郎は両のこめかみから生える金剛石の如き角の片方を、指で掻いた。
雄鹿が対岸で、「もう終わりか?」というふうに小首を傾げてくる。
その挑戦的な振る舞いに、愁慈郎の闘志に火がつけられた。
「まだまだ」
さっと周囲を睨む。
愁慈郎は川面に並んでいる石を捉えた。その上を蛙のように跳躍してみせ、次から次に、石の上を飛び回る。
きらきらと星屑のように光を照り返す川面。水が珠となって舞い上がり、陽光が虹色に散りばめられる。
魚が跳ねる。それを、どこからか無音で飛んできた梟が両足で掴んで、しぶきを散らしながら去っていく。
対岸にわたりきると、鹿はもう先へ進んでいる。
愁慈郎は諦めず、追いすがる。
山を駆け上がり、その先に見える、どことなく神妙な大杉の間を抜けた。
このとき気づいておけばよかったのかもしれない。
――愁慈郎は、大杉の間には本来注連縄が巻かれ、通せん坊になっていたことを、知らなかったのである。
その注連縄が「なにか」によって破られたことを、知り得なかったのである――。
大杉の先は御神域の森だった。あるいは、禁足地ともいう。
すなわち、神の御庭だ。許しのある者以外の侵入は決して許されない。まして、そこで狩りをすることなどあってはならぬこと。
万が一にでもその禁を破れば、打ち首獄門。胴体は試し斬りのすえに捨て置かれる。おおよそ、まっとうな葬られ方などされず、
愁慈郎も、禁足地の決まり事、それ自体は知っている。けれど、注連縄がちぎれていた事実に気づかぬのでは、ここがどこであるかなど理解のしようもない。
だが。
(なんだ?)
森がやけに静まり返っていることに気づいた。
それに対して、神聖というものを感じ取ったのかもしれない。己は、これでも毎朝、家の神棚に手を合わせるほどには信心深い。
あるいは、
愁慈郎は、立ち止まってこちらを見つめる雄鹿に対し、背負っていた弓を構えかけたが、手をおろした。
なんだか、あいつを射るのは良くない気がする。
愁慈郎は来た道を戻ることに決めた。
「悪かったよ、追い回したりして。すぐにここを出ていく」
言葉が通じるかどうかなどわからない。だが、やつがここの――神聖な地の主であれば、なにかを介すると思ったのだ。
それこそ、あの雄鹿は――神獣ではないだろうか?
愁慈郎は後ろに数歩下がり、そして、
『ぞわり』と、嫌なものが背筋を這うような――うなじの毛穴が開いて、冷たく脂じみた汗が吹き出すのを感じた。
ハッとして、愁慈郎は左へ飛んだ。
右奥の藪から、なにかがこちらへ突っ込んできた。それは、黒い瘴気をまとう異質な生物だった。
土砂を舞い上げて、異形がのたくる。蛇だ。しかし、尋常の、長寿と繁栄をもたらす瑞獣ではない。
体長は四半町(二十七メートル)ほど。直径は二尺(六十センチ)はあろうか。大蛇のたぐいだ。そこまでならば良い。これくらいの大蛇は、山のあちこちにいる。
けれど。
目玉は、左右不揃いに七つあり、口は喉の奥の向こう、腹のあたりまでばっくりと割れ裂けている。
愁慈郎は、「
穢れ――すなわち、不浄から生じるそれ。
血の気の赤不浄、骸の気の黒不浄。それらが祓われ浄められることなく放置されると、穢れた獣……すなわち
我が
(神聖の気配が濃いここで、
愁慈郎はここが御神域だと気づいていない。けれど、ただならぬ神気には気づいている。――気付かされている。
だからこそ、相反する穢れの存在には疑問と、
(まずい)
という、得体のしれぬ身の危険を感じていた。
そいつから距離をおいた。
大蛇が――ケガレオロチが「ギシャァアアッ」と鋭く鳴いて、飛びかかってきた。
愁慈郎はケガレオロチの側頭部を左の足甲で蹴り飛ばして、間合いを取る。
普通の蛇であれば、鬼の膂力に耐えきれず、死んでもおかしくない。ときに、熟達した鬼は鉄塊さえ握りつぶすほどの筋力を示す。
だが、相手は
愁慈郎は鹿を見た。いかなる奇術か、あちらは狙われる様子がない。
(何かの試練ってか? 高みの見物かよ……!)
愁慈郎は大蛇の頭突きを、今度は右に飛んで避けた。
矢を射るには相手は素早い。そもそも距離を取れる状況でもない。
身動きのじゃまになる弓を取っ払って、愁慈郎は転がりつつ、腰に差している大ぶりの刃物を抜いた。
ここがなにやら神気のある場だと察している。そして、おそらくは不浄沙汰はまずいであろうということも。
だが、
罰せられるのは御免だが、
「来い、首を落としてやる」
愁慈郎は低い声で喉を震わした。声音は、十七の若者とは思えぬほどにドスが利いている。
何度も死にかけた――山で、獣に追い回されて、転落しかけて、川に流されて。
(
ケガレオロチが突っ込んできた。愁慈郎は身を左に開きつつ、紙一重でかわす。
素早く、右腕を振り上げて、ぐわっと獣狩山刀を振り下ろした。
ずんぐりとした刀身だが、けれども、刃は恐ろしく鋭い。大獣を毛皮ごと叩き切るほどの威力がある。
しかし、大蛇の鱗はそれを受け流し、しのいだ。
流動し続ける蛇の鱗は、勢いが早い。いわば、質量を持った水を切るようなもの。
激しい金切り音と火花が連続して散り、愁慈郎の脇を、ケガレオロチが過ぎ去ってゆく。
「くそ」
山刀の刃が、今のやりとりで一気に毀れた。
大蛇が着地し、
使い物にならない山刀だが――。
再びの突進を、大蛇は行った。芸のないこと、しかし、単純故に威力は抜群であった。
まさに液体状の筋肉。自在に流動する質量が、愁慈郎を圧殺せんと迫る。
一か八かだ。愁慈郎は、相手の頭部めがけて、刃がずだずだに崩れた山刀を打ち下ろした。
ゴチャッ!
蛇の額に、潰れた刃先が叩きつけられた。衝撃で突進の狙いが逸らされて、
刃物としてはもう使い物にならない。それはわかりきっている。ならば、半貫(約一・九キロ)もある鈍器として扱うことにしたのだ。
倒れたケガレオロチへ、愁慈郎は、「おらっ!」と気合とともに鉄塊と化した山刀を連打する。
十はくだらぬほど殴打したか。
殺しきれてはいないが、むしろ、都合がいいと思った。
この遺体を放置するのはまずいが、愁慈郎には、
しかし。
(どうする、焼き払っちまうか?)
緊急時の方法として焼くという手段もある。
幸い、油は持ち歩いている。何かと使えるので、少量ばかり、革張りの筒に入れて持ち歩いていた。
(いや、だめだ。山火事なんか、それこそ重罪だろ)
どうしたものかと愁慈郎は考えあぐねた。
そのとき、光が遮られた。ただでさえ木々の茂る森の中である。一瞬、闇に包まれたのかと思った。
しかし、違った。
ふわりと何かが降り立った。木漏れ日を極彩色に照り返す大きな翼。黄金色の髪、翡翠のごとく美しい
女である。
梟の翼を持つ天狗だ。左手に八尺(二百四十センチ)ほどの杖を握っている。
女の身丈は愁慈郎よりずっと高い。ゆうに六尺五寸(百九十五センチ)はあるだろう。
「貴様、ここが御神域と知っての狼藉か」
「御神域――いや、そんなことは……」
女は、打ちのめされた
すると大蛇が雷に打たれたように痙攣し、内側から発雷、焼けて塵屑になって消える。
「詳しくは城で聞こう。ついて参れ」
「わ、わかったよ」
梟天狗の女は怜悧な目つきでこちらを一瞥し、そして、踵を返した。
愁慈郎は一体どのような事態になってしまうのか、なぜ御神域に入り込んでしまったのか――己の不明を呪いながら、女について行った。
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