広瀬旭荘と安政の大獄

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 万延二年(1861)の一月十七日、旭荘の漢文日記『日間瑣事備忘』の記事である。

 

 午前、梅屋は、予及び孝也を導きて南木街の東に尽くる処の播磨屋董助氏に至る。是に先んじて、董助は梅屋に因りて字を乞ふ。今日、吾 将に河茂(河内屋茂兵衛)を訪はんとするを聞き、途に相招く。その家は狭巷に在り。梅屋は先に入り、予は之に従ふ。孝也を顧みるに見えず。其の路に迷ふを知り、梅屋を呼びて出だせば、便ち之きて追ふ。孝也は至る。董助は、(まみ)ゆ。年は三十前後なるべし。引きて書室に入る。水面に臨む。東の壕を訪ひ、此こに至りて一曲す。岸は高く水は深し。・・・大昨日、吾の書する所の「侠客舍」の三字は、已に装潢して扁額と作れり矣。主人は骨董を業とし、頗る器玩に富む。之を観ること半ばにして、飯出づ。已にして画を作り、予は栗山・精理の書、各一幅を買ふ。孝也は茶山・杏坪の書画の合幅を買ふ。・・・

 

 未の下牌(午後三時頃)に河茂氏に至る。・・・河茂曰く、

「京師の文人巽太郎、方に来たりて書を買ふ。先生の臨むを聞きて、謁せんと欲す」と。

 予は素より太郎の名を聞く。乃ち相見みゆ。主人は酒を供す。盛饌有り。太郎曰く、

「某は梅田・頼の諸子と善し。その捕はるるに及び、頗る官の疑ふ所と為る。然れども明白を得たり」と。

 因りて其の罪案を話すこと頗る詳し。

 

 この日、旭荘は、大坂の南木幡の骨董屋の播磨屋董助を訪問し、孝之助や河内屋茂兵衛とともに、その器物等を観た。董助にたのまれていた書画を物した後、寛政の三博士の内の柴野栗山・古賀精理の書を一幅ずつ購入した。二十五歳になっている孝之助が菅茶山や頼(きょう)(へい)の書画を購入しているのは、彼もこの方面に興味と関心を抱いていたようである。

 それから旭荘父子は、河茂のもとに行くが、ここで京都の文人の

巽太郎に会い、三年前の安政五年(一八五八)九月七日に始まる大獄で逮捕された梅田雲浜や頼三樹三郎に関する情報を詳しく聞いたのである。

 旭荘は、『備忘』にはそれ以上は書いていないが、こうした筆禍事件は他人事とも思えないであろうから、何か深く感ずることがあったであろう。

 巽太郎に就いては、明日にでも書きましょう。

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