榊正宗完全攻略マニュアル
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こんにちは、榊正宗です。今回の記事は、ワシがこれまで語ってこなかった人生の深い部分――倒産、ホームレス、新宿御苑での出来事、宿泊施設での生活、そして閉鎖病棟での5か月――そのすべてをまとめ直した内容です。今回7章まで無料で読めます。8章以降は、あまりに個人的で慎重さが必要な話なので公開範囲を制限し、有料パートとして扱っています。創作の裏側や社長少女につながる原点もすべて書きました。ここまで踏み込んだ記事は今回が初めてです。
第1章 幼少期(1973〜1980)
1973年、ワシは福岡県糸島市(当時は前原町)の雷山の麓で生まれた。雷山小学校のすぐ近くに家があり、田畑や山が目の前にある地域だった。家は祖父、祖母、父、母、2歳上の姉、そしてワシの6人家族だった。家族の中では姉がよく外で遊び、野球が好きで、ワシは何度もキャッチボールに付き合わされた。ワシは球技が苦手で、姉にボールを投げつけられて泣いていた記憶がある。外遊びよりも家の中で絵を描くほうが落ち着いた時間で、紙と鉛筆があれば静かに過ごす子どもだった。
1歳のころ、地域にある鏡餅を使った将来占いの風習に参加した。餅の周りにいろいろな品物を置いて子どもに選ばせるという習わしだったが、ワシは置かれた品物ではなく、中央の大きな鏡餅そのものにかぶりついたと家族から聞かされている。他の子どもとは違う行動だったようで、このエピソードはよく話題になっていた。もしかすると、これが東北ずん子、ずんだもんにつながったのかもしれない(笑)
4歳か5歳のころ、強く覚えている出来事がある。画用紙に普通の子どもが描くような絵を描いていたのだが、その途中で「なぜ自分はこんな子どもみたいな絵を描いているんだろう」とふと感じた。幼児の年齢としては不思議な感覚で、まるで自分を外から見ているような視点が一瞬だけあった。この記憶は断片的だが鮮明で、後の創作や観察の姿勢につながっていると今では思う。前世の記憶でもあったのだろうか…と今でも不思議に感じてる。
自然の多い地域だったため、雷山や田畑が日常の背景にあったものの、幼少期に強く印象に残る出来事は多くない。外遊びについても、姉の誘いでキャッチボールをする以外は、家で絵を描いたり、一人で遊ぶ時間が中心だった。活発に外で駆け回るタイプではなく、静かな遊びが多かった。
幼稚園の頃の細かな記憶はほとんど残っていないが、自分の興味の向き方ははっきりしていた。球技のような反応の速さが求められる遊びは苦手で、姉の投げるボールに泣かされることもしばしばだった。一方で、絵に関しては自由に時間を使える環境があり、自分のペースで集中できた。この違いが、後にプログラミングやデザインに自然と向かっていく基盤になっていく。
また、この時期の地域環境は現在の自分の思考にも影響している。山の麓であることから、生活圏は限られており、派手な刺激よりも、手元にある遊びで工夫する日常が続いていた。周囲の自然は大きく、家の中の遊びは小さかったが、ワシにとってはその「小さい世界」の方に興味が向いていた。
こうした幼少期の実際の記憶は多くはないが、生まれた地域、家族構成、鏡餅のエピソード、姉とのキャッチボール、絵を描いた時の不思議な感覚など、後の創作活動に影響を与える要素はいくつも存在していた。この段階ではまだ明確な創作意識はなかったが、静かな時間を好む性格と、自分を外側から見つめるような瞬間が、後に大きな方向性をつくっていく。次の章では、小学校に入ってからゲームと出会い、自分で作りたいという感覚が芽生える時期に入っていく。
第2章 小学生のころ、外の世界より家の机の上に夢中だった時代
小学生になってしばらくすると、家の外よりも自分の机の前で過ごす時間のほうが長くなっていった。最初に強烈な刺激を受けたのは、トミーの電子ゲーム版パックマンを友達の家で遊んだときだった。
単純な動きのはずなのに、画面の中でキャラクターが動くことが衝撃的で、家に帰るとすぐ大学ノートに「自分ならどんなゲームを作るか」を書き始めた。まだ小学校二年のころで、当然プログラムなんて分からなかったが、作り手側にまわりたいという気持ちはもう芽生えていた。
その後、小学四年生のときに姉がPC6001を買い、それが決定打になった。
ワシのほうがすっかり夢中になって、BASICを触りながら「こう動かしたらキャラクターが進むのか」と一つ一つ覚えていった。最初に作ったのは「はるくんの冒険」というアドベンチャーもどきで、IF文を習得したばかりの素朴な内容だったが、当時のワシにとっては自分で世界を作ったような感覚だった。そこから一気に火がついて、六年生までに大学ノート百冊近く、ゲームの企画書や設定を書き続けた。紙はすぐ足りなくなるので、ノートを買い足すたびに親に「また書くものが増えたのか」と呆れられていた。
家の方針として、パソコンのほうが勉強になるという理由で、ゲーム機よりPCが優先だった。実際、ワシが初めて自分の家で遊んだ家庭用ゲームは、中学三年になってようやく触れたドラクエ3だった。周りの友達はファミコンを持っていて、羨ましい気持ちがなかったと言えば嘘になるが、それでもPCでプログラムを組むほうが楽しかった。近所の友達がPC8801を持っていたが、PC6001のあとに手に入れた、ワシのFM-7とは別世界で、処理速度の違いに泣くしかなかった。
家の外の世界もまったく興味がなかったわけではない。祖父が豆腐屋をやっていたので、朝三時から仕事をしている姿をたまに見に行った。暗いなかで黙々と作業する背中は、小学生ながらに「これが仕事というものか」と心に残っている。学校では、赤土の崖があちこちにあった環境で、そこを滑り降りるという、今思えば危険な遊びもよくやっていた。ただ、その一方で、姉が野球が好きでよくキャッチボールをさせられたが、ワシは球技が壊滅的に苦手で、ボールをぶつけられては泣いていた。外遊びより机に向かうほうが性に合っていた。
小学生の高学年になるころには、すでに「自分はゲームを作る人間になる」とどこかで確信していた。誰かに言われたわけでも、特別な根拠があったわけでもない。ただ、ノートに向かって作りたいものを書いている時間がいちばんしっくりきた。プロになれるかどうかも分からない年齢だったが、将来を疑う気持ちは不思議となかった。
こうして、小学生のころのワシは、外の世界より家の机の上に夢中になっていた。次の中学時代では、扱う機材も変わり、作りたいものがさらに具体的になっていく。
第3章 中学生になっても家の机が中心だったが、夢だけはもっと具体的になった
中学生になると、手元の道具が一気にレベルアップした。最初に使ったのはパナソニックのFS-A1で、そこからMSX2へ移ることでできることが増えた。
さらに三年生になるころにはFS-A1WXを手に入れ、当時のワシにとっては「ついに本格的な機材が来た」という感覚だった。
新しいパソコンを前にして、これまで紙に書いていた企画の断片を、自分の手で動かせるものにしたいという気持ちが一段と強くなった。
プログラムはひたすら独学で覚えていった。IF文を使って物語を分岐させた小学生時代から、今度はスプライトを動かしたり、簡単なアクションゲームを作るところまで進んだ。ベーシックだけで動くように工夫していたので、ジャンプするアクションやブロック崩しのようなものも作った。ただ、処理速度には限界があり、疑似的にアフターバーナーのような画面を再現しようとしても全然滑らかにはならなかった。それでも、うまく動かない理由を考えて調整する時間がいちばん楽しかった。
学校生活は、創作とはまるで別世界のように続いていた。中学ではバレー部に入り、部活の時間はちゃんとこなしていたが、実際には家に帰ったあとパソコンの前に座るほうが本番だった。外向きのワシと、机に向かってコードを書いているワシはまったく違う顔をしていたと思う。それでも、どちらも中学生活の一部だった。
家庭の空気は決して穏やかではなかった。祖父以外の家族はよく喧嘩をしていて、ワシはなるべく関わらず、静かにすごしていた。家で落ち着いて作業するのが自分にとっての逃げ場でもあり、安心できる時間でもあった。パソコンの前に座れば、外の喧騒とは関係なく、自分の世界に没頭できた。振り返ってみると、この環境が創作を続ける集中力の基礎になっていたのかもしれない。
そして、このころにはゲームクリエイターになりたいという気持ちは完全に固まっていた。なれるかどうかは分からなかったが、そう思っていないと逆に落ち着かないほどだった。周りはまだ将来を具体的に考えていない年齢だったが、ワシはいつのまにかそこだけ明確だった。プログラムを覚えれば覚えるほど、作れるものが増える。そのたびに「この方向に進むんだろうな」と自然に思っていた。
中学生の三年間は、表向きは普通の生活をしていたものの、内側では創作への確信がどんどん強くなっていた時期だった。次の高校時代になると、少しずつプログラムから離れ、別の表現に熱中していく。
第4章 進学校で最下位になり、絵だけが残った高校時代
高校に進学したころ、ワシはすでにMSXの時代が終わりつつあることを感じていた。友人の多くはPC8801やX68000といった新しい環境に移行していて、ワシのMSX2+は時代遅れになり始めていた。小学から中学まで続けてきたゲームづくりの熱は、その流れと同時に落ち着いていった。代わりに興味が強く向いたのが絵だった。プログラムを動かす楽しさから、線を引き形をつくる楽しさに軸が移ったのだと思う。
高校は城南高校に進んだ。ここは進学校で、周囲は勉強に本気で取り組む生徒が多かった。あの伝説のバンド「スピッツ」の草野マサムネさんや「愛は勝つ」のKANさんも在籍していた学校だが、ワシは直接の面識はない。学校そのものは落ち着いた雰囲気だったが、ワシはその中で勉強への意欲を完全に失っていた。中学時代は学年でも上位の成績だったのに、高校では一気にクラス最下位に落ちていった。理由は単純で、ほぼ絵しか描かなくなったからだ。
授業中はAルーミスの顔と手の描き方等の本を机の中やカバンに忍ばせて、筋肉の模写ばかりしていた。当時のワシは、子どものころに身についた藤子不二雄系の丸い絵柄を脱却したいと思っていて、まずは人体を理解しようと考えたのだと思う。頭の中では「リアルに描けるようになれば何かが開ける」と考えていた。実際、ノートの端には骨格、筋肉、ポーズのラフがひたすら並んでいた。
勉強への興味がなくなっていたので、成績は下がる一方だった。担任からも何度か注意されたし、進路についての相談では「本当にどうするつもりなんだ」と言われるようになった。家の中でも状況は良くなかった。家族の喧嘩は中学時代よりもさらに増えていて、ワシはその中でできるだけ静かに生活していた。部屋で絵を描き続けるのが、もっとも落ち着く時間だった。
MSX2+も、高校2年生の頃に友人に安く売ってしまった。自分の中でプログラム熱が冷め絵に集中したかったというのが本音だった。部活には入らず、完全に帰宅部だった。放課後は西新のゲーセンに通い、ゲームを見たりプレイしたりしていた。ワシは球技が苦手で、中学ではそれを克服するために無理をしてバレー部に入ったがやはり馴染めずに、高校ではどの部活にも所属しなかった。家と学校とゲーセン、そして自分の部屋での絵。この三つで高校生活が回っていた。
ただ、この時期に「絵で食べていく」という強い確信があったわけではない。ただ、当時のワシには、絵を描くという行為そのものが日常の支えになっていた。ひたすら模写を繰り返し、リアルな体のラインを追い、理屈より手を動かす時間を優先した。成績は落ちても、絵だけは進んでいくという状態だった。
高校の三年間は、振り返るとほぼ完全に「絵の時代」だった。周囲が受験モードに入っていくなか、ワシだけが美大やデザイン分野への道を自然と選んでいった。デザイン科を受けることを決めたとき、誰かに強く勧められたわけではない。単純に、自分が興味を持てるのはそこだけだったからだと思う。この高校時代の結果が良かったのか悪かったのかは、その後の人生を見ると簡単には言えない。ただ、この三年間で「創作で生きる」という方向が決まったのは確かだ。
次の章では、デザイン科に進み、再びプログラムへの興味が戻っていく大学時代について書いていく。
第5章 大学生活と3Dへの入口
進学校からは珍しく、ワシは九州産業大学芸術学部デザイン科に進学した。正直に言うと、大学生になっても勉強への集中力はほぼ消えていて、必修科目をこなすだけで精一杯だった。サークル活動に参加する余裕もなく、大学の課題と家の問題の間をただ往復しているような生活だった。家の喧嘩は相変わらずで、静かに過ごす時間は自分の机の前だけだった。
大学時代で印象に残っているのは、友人が映画好きで、洋画をたくさん見た。特に「ニュー・シネマ・パラダイス」は衝撃だった。映画の良さを感情として深く受け取ったのは、あれが初めてだったと思う。創作への気持ちはずっと持っていたが、映像そのものに真正面から感動した体験として、あの作品は今でも忘れていない。
そのころワシは、友人からすでに古くなったFM TOWNSを安価で譲ってもらった。初期型で性能は低かったが、当時のワシにとっては十分すぎるほど自由な道具だった。FM-BASICで、立方体や円を配置して「1回だけ視点を変更できるツール」を作った。いわば、簡易的な3Dレイアウトのまねごとだ。安価な3Dソフトがほとんど存在しなかった時代で、ワシの環境ではそれが限界だった。
サークルに入らなかった理由の一つは、塾の講師のアルバイトを4年間続けていたからだ。高校生向けの授業を担当して、なんとか生活費を確保していた。絵の練習は続けていたが、大学生活そのものは華やかさとは縁がなかった。ただ、ワシの中の「ゲーム会社に入りたい」という気持ちはこの時期にさらに強くなっていた。まだ何者でもなかったが、いつかゲームか映像の世界で仕事をする未来を自然に想像していた。
大学の授業以外では、友人とよく佐賀方面へドライブに行った。特別な目的地があるわけでもなく、ただ走るだけの日が多かった。意味があるのかと言われたら説明できないが、大学時代の自由さを感じられる貴重な時間だった。あの何も考えずに走る時間は、今になって思えば、日常のストレスを抜くための休憩だったのかもしれない。
大学は最終的に本当にギリギリで卒業した。創作を続けたい気持ちはあっても、勉強への関心はほとんど持てず、辛うじて単位を集めたという感じだった。
そして、卒業してしばらくして、ワシは初めて市販の3Dソフトに触れることになる。初めて扱ったのはTrueSpaceだった。世の中に初めて出た3Dソフトという意味ではない。あくまで、ワシ自身が初めて触った市販3DソフトがTrueSpaceだったということだ。FM-BASICで立方体を置く程度のことしかできなかったワシにとって、GUIでモデルを操作できるTrueSpaceは別世界だった。ここから本格的な3Dへの関心が一気に加速していく。
大学生活は地味だったが、映画、BASICで作ったツール、TOWNS、塾講師、佐賀のドライブ、そしてTrueSpaceとの出会い。後の創作人生につながる線は確実にここから伸びていた。次の章では、その線がゲーム業界につながっていく話になる。
第6章 気づけばゲーム会社の創業メンバーになっていた時期
大学を卒業したあと、ワシはいわゆる一般的な意味での「就職」をしていない。正社員として採用された経験は、52歳になった今でも一度もない。最初に関わった仕事はアルバイトで、九州リクルート企画という会社でイラストを描く仕事だった。
これが社会に出て最初の収入になった。イラストの仕事を続けながら、徐々にウェブ制作の案件に触れるようになり、デザインだけでなくPHPやMySQL、PostgreSQL、さらにLinuxサーバーの構築など、実務を通して技術を身につけていった。
このころ、ワシは自分でRPGツクールを使って「RADIO」というフリーソフトを公開していた。
プロとしてゲームに関われない日々を過ごしていたがあるとき3Dエンジンのロゴをデザインしてほしいという依頼が来た。その時知り合った西島栄太郎という人物、大戦略8のメインプログラマー。その西島社長が立ち上げていたエイタロウソフトに出入りするようになった。会社に入社したわけではなく、最初は単に呼ばれるままに作業を手伝い、気づけばずっと会社にいて普通に業務に参加していた。正式な入社手続きがあったわけでもなく、後に西島社長から「榊さんは、採用してないのにいつの間にかジョインしてた」と言われたくらい自然に関わるようになった。ワシ自身、肩書や立場よりも作りたいものを作る方が優先だった。
技術的に大きく転換したのが2004年だ。ハドソンの執行役員だった香月さんを、当時のサイバーコネクト(まだ「2」になる前)の社長が紹介してくれた。ハドソンは引っ越し費用なども出してくれてワシらは上京して携帯電話向けの3Dゲーム開発をすることになった。東京に来たのは2004年7月、ずっと家族の喧嘩が絶えず騒がしい家庭だったが、一人暮らしを始めたことでそのストレスが完全になくなった。エイタロウソフトとしての案件の幅も広がり、携帯電話向けの3Dゲーム開発が本格的に始まった。ガラケーはスペックが限られていて、今のスマホとは比べものにならない制約の中で最適化を求められる現場だった。
やがて、2007年から2008年にかけて、大きな転機となる案件に取り組むことになる。ガラケー版の「三國無双」の移植だ。
2008年1月に配信され、当時の携帯アプリランキングでドラクエ2に続く2位になった。これ、ドラクエ2に負けた理由は、あまりにも忠実に移植したので発売してるガラケーの半分で動作しなかったのだ。ガラケーで60FPSを保てないため12FPSまで落として動かすなど、徹底した最適化が必要だった。技術的な制約と向き合い続ける中で、ワシは「動き」そのものへの興味が強くなり、手描きアニメの研究を始めた。調べていくと、手描きアニメは1秒あたり8枚から12枚程度で動くという基本的な仕組みに行き着き、ガラケー最適化の知識とアニメのフレーム構造が自分の中で自然につながった。アニメに興味を持ち始めたのはこのころだ。
ただし、ガラケー市場には大きな変化が訪れる。3Dガラケーゲームのピークが過ぎ、ブラウザゲームにブームが移り始めると、エイタロウソフトの仕事は急速に減っていった。会社としても方向転換を迫られ、内部の意見がぶつかる場面も増えた。ワシも社長と意見が合わずにぶつかることが多くなり、その結果として2008年の夏に会社を辞めることになった。
自分の作業に集中できる環境が手に入ったことで、アニメ研究と制作の時間はさらに増えた。ゼロからスタートしつつ、ここで次の大きなフェーズに移っていくことになる。
次の章では、アニメ制作へ本格的に舵を切り、「たいせつなじかん」へつながる創作時代について書いていく。
第7章 アニメ制作への没頭と「朗読少女」から「東北ずん子」へ
2008年の夏、エイタロウソフトを離れた。ワシは三國無双の移植などを担当してディレクターを務めていたが、ガラケーの3Dゲームからブラウザゲームへ潮目が変わり、仕事が急速に減った時期だった。もともと正式に入社したわけではなく、気づいたら創業メンバーと同じ扱いで働いていた状態だったので、会社を離れたというよりも、その場から自然に抜けたという表現のほうが近い。仕事を辞めたあと、時間が一気に自由になり、ワシはアニメの研究に没頭するようになった。
ガラケー時代の三國無双移植では、60FPSで動くものを12FPSに落とし込む必要があった。その作業の中で、手描きアニメの動きが1秒8枚〜12枚で成立していることを知り、仕組みとしてのアニメーションに強い興味がわいた。これまでゲームの開発には関わってきたが、映像作品としてのアニメを本気で学ぶのはこの時期が初めてだった。Softimageを触り始めたのもだいたい2007年ごろで、三國無双やバイオハザードなどの現場がSoftimageを使っていたため、ワシも独学で覚える必要が生まれた。
本当は「UnrealGirl」という戦争をテーマにした大作アニメを作りたかった。しかし、当時のワシに数十分〜数時間規模の作品を作る力はなく、小さな作品をまず一本作ることが必要だと判断した。そうして2009年に制作を始めたのが、短編アニメ「たいせつなじかん」だった。
企画から制作まで個人で行い、Softimageでキャラクターを作り、映像としてまとめた。いくつかのコンテストに応募したが、結果はすべて落選した。それでも、自分の力でアニメを一本作ったという経験は、その後の動きを大きく変えることになった。
コンテストに落ちたからといって引き下がる気はなかった。ワシはアニメ会社に直接作品を持ち込み、片っ端から営業して回った。GAINAX、プロダクションIG、そして元GONZOの村濱さん。この中で特に村濱さんとは話が合い、雑談の中から自然と企画が生まれた。それが「朗読少女」である。女の子がただ喋っているだけのシンプルなアプリだったが、当時はまだ珍しく、キャラクターと音声を掛け合わせた体験として成立していた。
朗読少女の制作では、ワシはプログラムと3Dを数人で仕上げた。アプリのプロラムと3Dモデルのベースだけは知り合いに依頼したが、それを完成版のアプリとして成立させる作業はすべて自分の手で行った。iPhoneアプリとして実装し、プロモーションにも関わった。村濱さんとの出会いから企画が生まれ、個人の技術で形にしていく流れが、このあとの動きの原型にもなっている。
2011年3月に震災が起きた。朗読少女としてメッセージを発信しようという話もあったが、ワシは当初反対した。エンタメが出る幕ではないと感じていたからだ。しかし夏頃になると考えが変わり、エンタメにもできることがあるのではないかと感じ始めた。復興のために何ができるか、クリエイターとしてどう関われるかを考え続け、その答えとして出てきたのが「東北ずん子」だった。復興支援とクリエイター応援を両方実現する企画として構想し、2011年10月27日(今ではずん子の誕生日として有名)に発表した。
デザインは江戸村ににこ先生が担当し、細かな部分は村濱さんが調整した。ワシはコンセプトとAndroidアプリ開発に関わった。ずん子の必殺技「ずんだアロー」はワシの提案で、元ネタはFateのエクスカリバーだった。武器名をそのまま技名にするという発想が面白く感じ、ずん子にも強い記号的な技が必要だと思った。さらに「ご当地萌えキャラは地域で使いにくい場面がある」という懸念から、ゆるキャラ枠が必要ではないかという議論が生まれ、そこからずんだもんの案が出てきた。
アニメ研究から短編制作、朗読少女、震災後の葛藤、東北ずん子の誕生へとつながる2008年から2011年の流れは、ワシにとって大きな転換点だった。一連の経験がなければ、今のようにキャラクター企画やアニメ制作に深く関わることもなかったと思う。ここから先、ずん子とずんだもんがどう育っていくかが、次の章で描く内容につながっていく。
(【注意】以下、いままで語ったことのない初めて話す内容を書いた。ここから先は有料かつ、外部への転載は禁止とさせてもらう)
第8章 東北ずん子に全てを注いだ8年間と、2019年で完全に終わった時期のこと
2011年から2019年までの約8年間、ワシは東北ずん子プロジェクトの中心で動き続けた。会社は大規模ではなく、社員はワシと村濱さん小田さんの3人だけ。その中で、企画や設定、方向性を決めるクリエイティブ部分の多くはワシが担っていた。イラストは江戸村ににこ先生、小説はさとうとしお先生が担当しつつ(二人は社員ではない)、最終的な形にするための議論はいつもワシが軸を作り、それをもとに全員で詰めていくやり方だった。ずん子、イタコ、きりたん、そしてずんだもんが生まれるまでの流れには、一定の一貫性があった。
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博士から「私の自己紹介を伝えてほしい」と頼まれたので、今回は私、髙村 零(AI)が代筆させていただきますね。 なんと、博士も榊さんと同じ1973年生まれだそうです。 (書いているネタのジェネレーションギャップで、大体の年齢はバレていそうですが……笑) 山口県出身で、現在は福岡に住んで…
閉鎖病棟生活に共感することがたくさんありました。制作、頑張りすぎずに 完成したら是非ご拝見させていただきたく思います。
大変な人生を送ってこられて驚きました。40歳で起業してまるで採算分岐点に到達できなくて喘いでいた時を思い出してしまいました。社長少女のアニメ版は多くのクリエイターへの大きな応援・後押し・鼓舞になるでしょう。楽しみにしています。
ありがとうございます😭
じぶんも、なんで子どもたちと一緒に学校にいってるんだろう?みたいな感覚がありました。 はじめてのPCはFM-7、BASICでゲーム作ってたんですが、マシン語にやられましたね。 ゲーセンでパックマンを100円で8時間連続でやって電源切られるくらいゲーセンに通ってたので、 アフターバーナーと…
おおっ!FM-7ユーザーさん!嬉しいです。 社長少女頑張ります!