同級生Aの手記
私の手記を投稿した後、とある同級生の方からDMが送られてきました。
自分も同志社国際高校の3年生であるというメッセージと共に送られてきたのがこの手記です。
誰かは知りませんが、同志社国際生徒でないと知り得ないようなことも知っていましたので信頼し、手記の内容から載せるべきだと思ったのでここに投稿します。
***
事故の2日前、3月14日。
私たちは伊丹空港に集合し、沖縄に向かった。ほとんどの生徒は集合30分前に集まっており、談笑したり、またホワイトデーだったのでお返しをしたりとみんな修学旅行という空気を楽しみつつあった。
飛行機の中では1人で寝ている者もいれば、友達と一緒にトランプをしたりと、さまざまな過ごし方をしていた。
那覇空港に着いたのち、クラスごとにバスに乗った。
公園を回ったり、米軍基地の前にいき、ガイドの話を聞いたりして1日目は終わった。
2日目はひめゆりの塔やアブチリガマ、平和祈念館、平和公園を巡った。アブチリガマでは沖縄戦当時の状況を肌で体感した。沖縄平和公園で昼食を食べたあと、博物館に行き、沖縄戦というものを目で体験した。
事件当日、研修旅行3日目。
この日はまず六個のコースに分かれて、それぞれ別のアクティビティをするというものだった。
私は民泊コースを選択した。
アクティビティの後、読谷村役場に向かい、その日に泊まる民泊の方達と会う予定であった。しかしこの時から異変があった。
担当していた教頭先生がずっと私たちが話を聞いている後ろで電話をしだしたのだ。
私たちはその時点から何かが起こったなと察していたが、そこまで重大ではないだろうと思っていた。
そんな教頭を後ろに私たちは民泊先の人と合流し、民泊先に向かった。
民泊でのルールを確認し、一緒に昼食を作り、いただいているときに私は事故を知った。
同じグループの子の親から電話がかかってきて、学校の船が転覆したとの連絡を受けた。
一瞬で背筋凍った。
同級生が乗っている船が転覆したのだ。
だが同時に、たかが転覆だと安心している自分もいた。私も昔、船という船ではないが、バナナボートというバルーンボートに乗っていたとき、それが空中で転覆したことがあった。その時は友達が水に打ち付けられ、打撲したがそれ以外はなんともなかった。そのような経験から、今回の転覆も負傷者が少し出て終わるんだろうなと考えていた。
しかし母親から連絡がきて、女子生徒が意識不明である事が告げられた。正直、内心はパニックであった。
なんで船の転覆ごときで意識不明なの? ライフガードつけてるでしょ、溺れることなんてなくない?
そんな矢先、Yahooニュースの速報に意識不明であった女子生徒の死亡が確認されたとの記事が流れた。
誤報だと思った。信じたくなかった。信じられなかった。
不確定なものを確定してきたのが同志社国際の連絡アプリであるインフォボードからの一通のメールであった。
先程発生した事故により〇組の◯番が心肺停止の状態で病院に運ばれたが、死亡が確認された、と。
修学旅行先で同級生の女子生徒を1人亡くした。1人いなくなったのだ。
以前からそこまで関わりがあった子ではなかったが、よく知っていた子であった。食事中であったが一気に食欲が失せた。さっきまで美味しそうに頬張っていた沖縄料理は一瞬にして、ただの物体へと変わってしまった。
時間が経過するたび、熱いものが込み上げてくる。しかしその感情を露わにしていいのか、そのような不安に襲われ、感情を面にできなかった。
1人グループの中に私とも亡くなった女子生徒とも深い関わりのあった子がいた。目が合った途端、私はその子の手を取って民泊から走り出していた。少し歩いた後に公園を見つけ、2人でベンチに座った。
話すと、その子は私が思っていたよりも冷静で今の状況について理解ができていた。しかし冷静さの裏には深い悲しみが隠れていたと思う。
一旦、その場では感情を落ち着かせ、民泊へと戻った。とっさの飛び出しだったので民泊の方と他のメンバーが私たちのことを探していて、少し迷惑をかけてしまった。
謝罪した後、まずスマホの電源を切るというルールを作り、頭を強制的に事故のことから逸らそうとした。
事故が起きた後でも、民泊の方が色々体験させてくださるとのことだったので、元々のプラン通り、サトウキビの収穫に向かった。サトウキビ畑には他のグループも来ていた。もちろん他のグループにも友達がいたが、私たちは一切関わることなく、お互い沈黙を貫いていた。
その後、気分転換にと民泊の方が海へ連れて行ってくれた。そこへ向かっている途中、一緒に民泊を抜け出した友達が急にスマホを見せてきた。
画面に表示されていたのは、亡くなった女子生徒とのラインのトーク画面だった。
友達が送ったメッセージが未読のまま、ずらりと並んでいた。
言葉が出なかった。
顔を上げると、さっきまで冷静になっていた友達の目から大粒の涙が流れ出ていた。先ほどまで冷静だった友達もやはり状況の収拾がついていないことをその時に悟った。
海に着くと、民泊の人は私たちにある話をし始めた。
人生についてだ。
その人が言うには人間好きな事をして過ごすべきだと。
後悔のないように今したいことをするべきと。
そうやって間接的ではあるが私たちを励ましてくれていた。
戻るなり、民泊の人にサーターアンダギーの作り方を教えてもらった。
私たちはそんな優しさのおかげで心を少し救われた。
そんな時間も束の間、学校から昨日泊まったホテルまで戻るようにと連絡が来た。私たちは最後の交流を終え、ホテルに戻った。戻るなり、顔に涙を浮かべている人、目が赤く膨れ上がってる人、顔に生気が宿っていない人などを見て、現実に戻されてしまった。
私たちは大きい宴会場に集められた。やがて教頭がマイクを持ち、喋り始めた。最初は淡々といつも通り落ち着いた口調で状況を話す教頭であったが、女子生徒の名前を読み上げ、死亡が確認されたと報告した際、声が震え始め、一言一言の言葉を発するのに時間をかけ始めた。
その際、女子生徒が亡くなった改めて再確認をした。胸が痛かった、もう目の奥にまで涙が込み上げてきていた。泣きたかった、悔しかった。嗚咽するほどの悲しさが込み上げてきた、しかし泣けなかった。
遺族が1番辛いことを知っていた。
もっと女子生徒との親睦が深かった子の方が辛いに決まっている。
私なんかが泣くに値しない。そんな感情と戦っている最中、同行していたカウンセラーから淡々と人が亡くなった時の心と体の反応について語り始めた。
しかしそんなことを聞いてる余裕はなく、ずっと心の中で自分の感情と戦っていた。そのあと夕食が始まったが、もちろん食欲がなく、手がつかなかった。ほとんどの人が飯にありつけてなかった。その後、各自部屋に戻り、朝まで過ごした。
次の日の朝、元々の予定を全て変更し、1日目に泊まったホテルの宴会場に集まり、他のコースの人との合流を待った。その時間もたった30分ではあったが今まで過ごした中で1番長かったようにも感じ取られる。
その後、すべてのコースの生徒たちが宴会場に集合した。そこでは事故があったコースの子もいて、再会した時は心から安心したのを覚えている。
その後、伊丹空港に戻り、解散した。
帰りの長い電車の中、私は自問自答を繰り返していた。頭で状況を整理するのにまだ時間がかかっていた。涙はもう出なかった。
しかし家に帰り、母親の顔を見た途端、安堵で泣き崩れそうになった。
次の日はバイトがあったのだが、あまりにも心の傷が深く、途中で忙しい中、1人で現場をあとにし、泣いていた。
そういう状況が続いたため、お通夜、告別式の誘いが来た時は少し葛藤があったが行くことにした。
自分の気持ちに整理ができると思ったから。
事情を話してバイトを休み、春休み中の塾も振り返ることにして、お通夜へ向かった。
生前、ほとんど関わりのない人ではあったが、ずっと心の中ではこのような形で亡くなってしまった女子生徒を哀れみたいと思い、お線香をあげに行った。棺に手紙を入れた時、お線香を上げられた時、最後のお別れを見れた時、涙を流しながら、私の心の中はだんだんと落ち着いていった。
そこからは気持ちを切り替えようと勉学に励んだり、バイトを頑張ったりと春休みを過ごしていった。
4/10学校が始まった。クラス表を見た時、名簿の中に空白があるのを見て、心にまた何か感じるものがあった。
事故があってからもうすぐ3ヶ月になる。
私は月命日になると線香をあげに行く生活を続けている。
***
補足
事故後、民泊コースを選択した人は2日目と3日目の間に泊まったホテルに戻らされ、他のコースを選択した人は1日目と2日目の間に泊まったホテルに戻らされました。
***
投稿はこれで以上にしようと思います。
元々、一言述べて終わろうかなと思っていたのですが、DMでこの手記をいただいたので、ついでに載せました。誰かわからないけど、ありがとう。
この事故の一番の被害者は、亡くなられた女子生徒とそのご遺族の方です。
それは変わりませんが、高校に対するあまりにも過激な非難や行動を見て、同志社国際に通っている生徒もいるんだよ、まだ心を痛めている生徒も多いんだよと声を上げたかったのがこの手記をネットにあげた主な理由になります。
(この手記を見ているほとんどの人は読んでいるとは思いますが、ご遺族の方が書いたnoteを見ていない人はどうか読んでください)
そんな思いから書いた手記に対して思った以上にたくさんの反響をいただきました。
ありがとうございます。
非難の声が多いかなと思っていたのですが、そんなことはなく、手記に対して真剣に考えてくれたり、アドバイスや応援のメッセージをくれたり、Xの方でさまざまな方からDMをいただいたり、心優しい方が多くて安心しました。
DMでよく届くのでお答えすると、私が手記で述べたことを意識してくれるならば、手記の内容は好きに発信したり、使っていただいても構いません。
とはいえ、手記は一生徒の見たこと感じたこと考えたことを書いたに過ぎません。私が同志社国際高校3年生の生徒を代表して述べているわけではないことを改めて、ここで言わせてください。
最初にXで手記を広めていただいた『きーこ』さん、ありがとうございます。
あなたの拡散がなければこの手記は埋もれていたと思います。
他に拡散していただいたり、メッセージや反応をくれたみなさん、ありがとうございます。
感謝しかありません。
ここまで読んでくださったみなさんもありがとうございます。
誰かの心に何かしら届いてくれたら嬉しいです。
同志社国際高等学校3年◯組◯番、誰か。
辺野古沖転覆事故〜当事者の日記〜 誰か。 @tubakirou
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