2-2 女子カテゴリーはなぜ生まれたのか ── 「保護」か「排除」か
フェンシングにはフルーレ、エペ、サーブルという、武器もルールも異なる三種目がある。私がフェンシングを始めた頃、既に日本国内でも男子にはこの三つの種目が存在した。しかし女子にはフルーレとエペしかなかった。サーブルは「女子にはない」のが当たり前で、当時の私はその理由を深く考えたこともなく、競技人口が少ないから仕方ない、くらいにしか思っていなかった。
ところが私が大学に入った頃、国内でも女子サーブルの試合が始まった。2004年アテネ大会でオリンピックの正式種目となるのに先立って、国内での競技が動き出したのだ。私はその第一世代として、サーブルを選びその後、代表選手になるのだが、今思えば、あの「なかった種目」が生まれた瞬間に立ち会っていたのだ。でも当時は、それがどれほど長い歴史の末にやっと実現したことなのか、まったく知らなかった。
女性がオリンピックに参加できるようになったのは、第2回パリ大会の1900年のことだ。第1回アテネ大会は古代オリンピックと同様、女性禁制だった。その第2回大会でも、参加できた女性は参加選手総勢997人のうち22人。種目はテニス、ゴルフ、セーリング、馬術、そしてクロッケー(当時の上流階級向けの庭園スポーツ)の5競技に限られ、女性が個人種目として競えたのはテニスとゴルフだけだった。
なぜテニスとゴルフだったのか。当時のIOCが「女性らしい」とみなした種目だからだ。陸上・ラグビー・サッカーなどといった激しく体を動かすことは、女性にはふさわしくない、女性の役割は家庭を守り子育てをすることだ——そういった考え方が、当時の「常識」だった。
近代オリンピックの創始者、フランスのクーベルタンはこう言い切っている。「女性がスポーツをしている姿は優雅でも面白くもなく、見るに堪えない。女性の主たる役割は、勝者に冠を授けることである」と。「オリンピックは万人のためのもの」と掲げながら、その「万人」の中に最初から女性は含まれていなかった。
この壁に最初に体当たりしたのは、フランスの女性スポーツの先駆者、アリス・ミリアだ。IOCへの参画と陸上競技への参加を訴えたが、認められなかった。業を煮やした彼女は1921年、モンテカルロで女性だけの国際大会を独自に開催し、同年、国際女子スポーツ連盟を立ち上げた。翌1922年にはパリで「第1回女子オリンピック」を開催、約2万人の観客を集めた。女性たちは、参加を「与えられた」のではなく、自ら「勝ち取った」のだ。
それでも変化は遅かった。女性の競技種目数が男性の半分に達したのは、1976年モントリオール大会のことだ。42.195キロを走る体力が女性にはないとされていた女子マラソンがようやくオリンピック種目になったのは、1984年のロサンゼルス大会。男女の競技種目数が完全に同数になったのは、2024年パリ大会が初めてだ。
変化を後押ししたのは、フェミニズム運動だった。1960年代にアメリカで広がったウーマン・リブを背景に、1972年、アメリカで「タイトルIX」と呼ばれる法律が制定された。連邦政府の補助金を受けるすべての学校で、男女差別を禁止するというものだ。部活動やスポーツプログラムにも適用され、大学の女子チームが一気に増加した。スポーツにおけるジェンダー平等が、初めて法律として明文化された瞬間だった。
こうした歴史を知ったとき、私の中で何かがひっかかった。
女子カテゴリーは、女性を守るために生まれたのではない——少なくとも、そう言い切れる根拠がある。女性をスポーツから完全に締め出せなくなったとき、代わりに「ここだけ」と囲い込むために作られたものだ。「参加を広げるための枠」ではなく、「参加を制限するための枠」として。もちろん、保護のために必要だったという見方もできる。だがどちらの解釈をとるにしても、それが女性たちの長年の闘いによって少しずつ変えられてきた——その事実は変わらない。
その複雑さは、私自身の経験とも重なっている。自分を男性と認識しながら、女子カテゴリーで競技し続ける違和感。ホルモン投与もカミングアウトもできなかった当時の私は、「仕方ない」と自分に言い聞かせていた。でも試合のたびに、何かが胸に引っかかった。
転機は2007年、私が27歳のとき、ケンブリッジへの語学留学だった。
本来ケンブリッジ大学の部活は学生しか参加できない。しかし門を叩き、日本代表だったと話すと運よく練習に混ぜてもらうことができた。むしろ女子選手への指導を求められ、定期的に顔を出すようになった。言語の壁もあってカミングアウトはしていなかったが、ある日、女子チームのキャプテン、メアリーがこっそり私のもとに来た。
「文野のことを検索したら、こんな記事がでてきたの」それはトランスジェンダーであることをカミングアウトした私の本が取り上げられた英語の記事だった。「もし出たいなら、男子カテゴリーで出られるようにみんなに提案するけど、どうかな」
その気遣いが、じわじわと嬉しかった。そしてチームメイト全員があっさり受け入れてくれた。特別扱いも余計な詮索もなく、ただ「一緒に戦うチームメイト」として。もっとも、イギリスは2004年に、性別適合手術を必須としない形での性別変更を法律で認めた国だ。当時としては世界的にも先進的な取り組みで、そういう土壌が、あの自然な受け入れを支えていたのかもしれない。ただ、今のイギリスはトランスジェンダーをめぐる社会的な反発が強まっており、当時の空気とはずいぶん様変わりしているようだ。
ケンブリッジ対オックスフォードの伝統の定期戦、2部ではあったが、私は男子団体の一員として剣を握った。結果的にはみんなの足を引っ張ってしまい悔しい思いをしたのだが、でも試合後、チームメイトとタキシードを着てフォーマルディナーのテーブルについたとき、これまでのどの表彰台よりも満たされた気持ちになった。初めてフェンシング界で「自分もここに居ていいのだ」と思えた瞬間だった。
あの経験が、この問いをより切実なものにした。女性たちが「カテゴリーの外」に置かれ続けてきた歴史と、自分が「どのカテゴリーに入れるのか」と悩み続けてきた経験は、形は違っても根は同じところにある。線引きは、誰かが決めるものだから。
女子カテゴリーが生まれた歴史を振り返ると、そこには常に「どこまでを許容するか」という誰かの判断があった。最初は女性全体が排除され、次に「女性らしい」種目だけに限定され、フェミニズム運動によって少しずつ枠が広げられてきた。
その線引きは、科学的に決まったものではない。時代の権力と社会通念によって引かれ、異議申し立てによって書き換えられてきた。
では、その線引きは具体的に誰が、どのように決めてきたのか。次の章でその仕組みをもう少し丁寧に見ていきたい。
次回予告:その線引きは誰の都合?
(この連載については「はじめに」をご覧ください)



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