『孫権が愛した美人皇后』潘氏は、なぜ宮女たちに絞め殺されたのか【三国志】
罪人の娘だった潘氏は、なぜ皇后になれたのか
三国時代、呉を建国した孫権の後宮には、多くの妃たちが仕えていた。
その中で最後に皇后となったのが、潘氏(潘淑 : はんしゅく)、後の潘皇后である。
しかし、その出自は決して華やかなものではなかった。
潘氏は会稽郡句章県(現在の浙江省寧波市)の役人の娘として生まれたが、父が法を犯して処刑されたため、姉とともに連座して宮中の織室(しょくしつ)へ送られた。
織室とは、宮廷で用いる衣服や織物を作る部署であると同時に、罪人やその家族が労役に従事する場所であり、潘氏は官奴婢(かんぬひ)として宮中で働くことになったのである。
ところが、その境遇は思いがけない形で変わる。
宮中で潘氏を見かけた孫権は、彼女に目を留め、後宮へ召し入れたという。
後世の伝承では、潘氏は世に並ぶもののないほどの美女で「江東の絶色」と称えられ、織室では「神女」と呼ばれ、その評判を聞いた孫権が絵師に肖像を描かせたとも伝えられている。
こうして罪人の娘として織室へ送られた一人の女性は、後宮の一員となり、やがて孫権の人生だけでなく、呉の皇位継承にも関わる存在となっていくのである。
唯一の生前冊立皇后となった潘氏
後宮へ入った潘氏は孫権の寵愛を受け、赤烏7年(244年)、内殿で皇子・孫亮(そんりょう)を出産した。
建康の歴史を著した『建康実録』には「内殿で生まれた」と記されており、孫権の子の中でも、生年と誕生場所が明確に伝わる数少ない例である。
また、正史である陳寿の『三国志』には、潘氏が懐妊中、龍の頭を授かる夢を見たという逸話も記されている。
龍は皇帝や天子と結びつけられる存在であり、この夢も後に孫亮が呉の2代皇帝となることを暗示するものとして語られたのだろう。
孫権は晩年になると、後継者選びという難題に直面する。
皇太子だった孫和(そんか)と魯王・孫覇(そんは)の対立は宮廷を二分する政争へと発展し、多くの重臣まで巻き込んだ末に、両者とも後継の座から退くことになった。
その結果、赤烏13年(250年)、新たに皇太子となったのが幼い孫亮だった。
すでに60代後半となっていた孫権が、多くの年長の皇子を差し置いて幼い孫亮を後継者に選んだことは宮廷内でも大きな衝撃だった。
反対する臣下も少なくなく、晋の献公が寵姫の子を太子に立てて国を乱した故事を引いて諫める者まで現れたが、孫権はこれを退け、孫亮を皇太子に据えた。
こうして翌251年、潘氏は皇后に冊立される。
孫権はそれまで生前の妃を皇后に立てることへ消極的で、徐夫人や歩夫人、さらに前皇太子・孫和の生母である王夫人についても皇后冊立を見送ってきた経緯がある。
その孫権が晩年になって初めて正式に皇后へ立てたのが、潘氏だった。
父の罪によって織室へ送られた一人の女性は、孫権の寵姫となり、皇太子の生母となり、ついには呉の皇后へと上り詰めたのである。
突然の死
しかし皇后となった翌年、潘氏は突然その生涯を閉じることになる。
神鳳元年(252年)、孫権は重い病に倒れ、70歳を超えた皇帝の病状は深刻であった。
潘皇后は病床の孫権を献身的に看病したが、その疲労から自らも病に伏せてしまう。
ところが、その最中に思いもよらぬ事件が起きたのである。
「侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏臥,共縊殺之,託言中惡。」
意訳 : 孫権の看病で疲れ果て、自らも衰弱して病に伏した。すると宮女たちは潘皇后が昏睡して横になるのを見計らい、共謀して縊殺した。そして「中悪」だったと言った。
正史『三国志』呉書「妃嬪伝」より
「中悪」とは、急な病や邪気にあたったような急死を意味する。つまり宮女たちは潘皇后をしめ殺した後、急病で亡くなったかのように取り繕ったのだ。
やがて真相が明るみに出ると、この件に関わった6〜7人が処刑されたという。
その二か月後、孫権も崩御し、潘皇后は孫権とともに蔣陵へ合葬された。
潘皇后は、なぜ殺されたのか?
では、なぜ宮女たちは潘皇后を殺したのだろうか。
潘氏はもともと低い身分から後宮へ入った女性だったが、この時点では呉の皇后であり、孫権もまだ存命だった。
いくら病に伏していたとはいえ、皇帝の妻を宮女たちが殺すのは、あまりにも危険な行為である。
正史『三国志』では、潘皇后が宮女たちに縊殺されたことまでは記しているものの、犯行の動機については何も説明していない。そのため後世になると、さまざまな史書や歴史家が、それぞれ異なる解釈を示すようになった。
一つの手がかりとされるのが、孫権の病中に潘皇后が取った行動である。
正史によれば、潘皇后は中書令・孫弘に、前漢の呂后(りょこう)が皇帝の死後に政治を主導した故事を尋ねていたという。
呂后は、高祖・劉邦の死後に若い皇帝を擁して実権を握り、政敵たちを容赦なく粛清したことで知られる人物である。
当時の潘皇后もまた皇太子・孫亮の生母であり、孫権が崩御すれば皇太后となり、幼帝を後見する立場になる。
つまり呂后の前例を尋ねたことは、彼女が孫権の死後、自ら政権に関わる可能性を意識していたことをうかがわせる。
そのため、潘皇后の政治介入を恐れた有力者たちが宮女たちの背後にいたのではないか、というのが一説である。
また、正史は潘皇后について「性險妒容媚」、つまり性格は険しく嫉妬深い一方で美貌に恵まれていたと評し、さらに袁夫人ら多くの妃を讒言によって陥れたとも記しているため、宮中で少なからぬ恨みを買っていたようである。
一方、後世の史書では事件の原因についてさまざまな解釈が見られる。
『建康実録』は、病に伏した潘皇后の看病を続けていた宮女たちが、その苦労に耐えかね、昏睡した皇后を殺害したとしており、『資治通鑑』は、潘皇后の虐待に耐えかねた宮女たちが犯行に及んだと記している。
南宋の歴史家・胡三省は、もし潘皇后が皇太后となれば、側近である宮女たちはむしろその権勢の恩恵を受ける立場にあったはずであり、自ら皇后を殺害する理由としては不自然で、宮女たちは実行役にすぎなかったと見ている。
いずれにせよ正史が伝える潘皇后像を見る限り、後宮内では恨みや嫉妬を買っており、政権中枢の人々からも警戒されていたことは確かであろう。
罪人の娘として織室へ送られ、皇后にまで上り詰めた彼女の周囲には、殺意が生まれるだけの火種がすでにいくつも積み重なっていたのである。
参考 : 『三国志』呉書「妃嬪伝」『建康実録』『資治通鑑』『拾遺記』他
文 / 草の実堂編集部