Mimosa
メンヘラほいほいの類に付きまとってとうとう家凸したストーカー女vs部屋間違われてとばっちり食らった哀れな被害者隣人司くんから始まるお話。
【attention】
・誤字脱字
・捏造
・年齢操作
・司くんフェニランじゃなくて別のところでバイトしてます
・冬弥くん普通にクラシック弾くので解釈違いだという方はブラウザバック(描写はありません)
・音大生パロ
・作者の音大知識はのだめだけです
【作者より】
皆様お久しぶりです。ねむりでございます。
受験勉強、非常に辛いです…この投稿のあと、受験終了までおやすみします。この作品は類視点も書きたいと思っているのですが、書くにしても三月以降になりそうです。
Twitterはたまーに浮上しております。
ギャグ路線で行こうと思ったのに全然ギャグになりませんでした。陳謝。
音楽の描写へっったくそですみません。
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戦々恐々。かつてこんなにもこの言葉が相応しい状況に陥ったことがあっただろうか、いやない。
時刻は午前一時。閑静な住宅街にそびえ立つこのマンションを含め、辺りは寝静まっている。
夜更かしは美肌と美髪の天敵。夜に出かけることが多く人前に立つ仕事をしているオレはこの美容のゴールデンタイムを逃すまいと寝られる日には二十二時には眠りにつく。午前一時ともなればオレは心地よい眠りに身を任せている。
そのはずなのにどうして。
なぜオレは今フライパンを握りしめ毛布を頭から被って産まれたての小鹿よろしく震えているのだろうか。
「ねぇ類!!開けてよぉ!!」
耳を劈くような金切り声とともに鳴り響くインターホンとドアの殴打音。
ピンポーンという可愛らしい呼び鈴に似合わないガンガンという鈍い音。
どこのどなたか知りませんがそんなに強くドアを殴ったら手がボロボロになってしまうぞ。翌朝ドアが血まみれになっていたらどうしよう。
その前に類って誰だよ。オレの名前は天翔るペガサスと書いて天馬、世界を司ると書いて司。天馬司だ。類さんではない。
こんなに大きな音を立てて近所迷惑だろう。
そう考えていたが、オレの部屋は右隣とその隣、上下、さらに斜め上下左右が空き部屋という奇跡の部屋だったのだ。
最近まで左隣の角部屋も空いていたのだが、一週間ほど前に同い年の男が引っ越してきた。
お隣さん、明日文句言ってこないかな、などと二重の意味で募る恐怖。
恐怖に支配された脳みそがふととある記憶を呼び覚ました。隣人の名前、神代と言ったか。神代さんの下の名前は…
「類開けて!!いるんでしょ!!どうして出てきてくれないのよ類!!」
そうだ類だ。神代類だちくしょう。お前か。お前のせいだったのか。
そしたらなんだ、他人の家のドアを殴打するような凶暴な女がお前の彼女か?
早く引き取ってくれ、騒ぎに気づいてヤツを迎えに来てくれ。
外の女につられて涙を流しながら半狂乱で隣人へと壁ドンを繰り出した。近所迷惑など知ったことか。
しかし壁ドンの音が思いのほか大きかったのか外の女に聞こえてしまったようだ。
「やっぱりいるんじゃない!!早く出てきてくれないと私ここで死ぬからぁ!!」
「なにぃっ!?」
女に負けず劣らずの大きい声が出てしまった。
外も隣室もうるさいこの状況で何も音沙汰ないとは、隣人は今日に限って留守なのかもしれない。
だとしたらこの状況はまずい。
意を決して部屋間違えてますよ、言いに行くか。
その前に様子を確認しようとインターホンのカメラを起動する。
暗闇の中に女が一人。その手には鋭利な何かが…
脳がその「何か」を認識し処理する前にカメラをオフ。
この状況で俺に出来たことはただ一つ。
「うわああああああどうしたらいいんだあああああああ」
発狂だ。
・
現場はまさにカオス。
深夜にマンションの廊下でナイフをドアに突き立てながら発狂する女。真っ暗な部屋でフライパンをぶん回し発狂する成人男性。アメリカの某ピエロホラー映画よりも確実にホラーだった。
どれほどの間そうしていたのだろう。
唐突に外からの音がピタリと止まった。
ようやく諦めてくれたのか、とオレの目の前に一筋の光が差し込んだ。
「分かった」
そうかそうか、分かってくれたか。さあ、気をつけて帰ってくれ。
オレは瞳を輝かせてウキウキでフライパンをキッチンに戻した。
次の彼女の一言でそのウキウキは消し飛んでしまうのだが。
「どうしても出てきてくれないのね。気が変わったわ。あなたを殺してから死ぬことにする」
そうだ 警察、呼ぼう。
オレは京都に行くノリで110番した。
・
せっかく戻したフライパンを再び手に取る。
警察が到着するまでに玄関を突破された時のための保険だ。フライパンで頭をぶん殴ってしまったとしてもきっと正当防衛だ。
まかり間違ってもオレが人殺しになることがないように耐えてくれ玄関のドア。そしてポリスメン、早く来てくれ。
通報してからおそらく数分後、警察は到着したようだ。
外からは「触んな!!」「動くな!!」「離せ!!」「暴れるな!!」の声が飛び交っている。
警察も深夜だということを忘れているのではないかと思うほどの声量だった。疲れているのだろう。やはり人間は夜に行動するように体が作られていないのだ。
夜勤お疲れ様です、とオレは心の中で合掌してから、少し声が遠のいたのを見計らってドアからそっと顔を出した。
男性の警官二人に両腕を掴まれている女。セクハラだ訴えてやるなどと喚き散らしているが、残念でした。訴えられるのはあなたです。
二度と来るなよ、という気持ちを込めて女を見つめれば、ホラー映画よろしく女が勢いよくこちらを振り返った。首を痛めそうな勢いだ。
「はぁ!?誰よあんた!?」
こちらのセリフだ。
「類をどこへやったのよ!!あんたも殺してやる!!」
たった今彼女の罪状に脅迫罪が加わった。これ以上喋ると罪が重くなるぞ。その口をさっさと閉じた方が身のためだ。
夢に出そうだ。しばらく女が怖い。
警官二人と女が乗ったエレベーターの扉が閉まったのを見届けてからオレはようやく息を吐き出した。
どっと疲れた。
さあ寝るか、と部屋に戻ろうとしたその時。カチャリと音を立てて隣の部屋の扉が開いた。
中から出てきた男はその端正な顔に微笑みを浮かべて一言。
「お疲れ様♡」
オレはこの世に生まれ落ちて初めて明確な殺意を抱いた。
手に持ったフライパンで殴りかからなかったオレを誰か褒めてほしい。
・
深夜に激ヤバ女に家凸されようと世界はいつも通り時間が進む。
朝が来れば起きなければならないし大学にだって行かねばならない。
寝不足と疲労、そしてイマイチ決まらない髪でオレの気分は地の底に沈んでいる。
ズキズキと鈍く痛む頭をおさえながら玄関のドアを開ける。
天気は快晴。雲ひとつない青空と自分の今の心持ちのギャップが激しすぎて風邪をひきそうだ。
重い足取りでエレベーターへ向かおうとすると、後ろからドアの開閉音が聞こえた。
「あ、おはよう」
澄み渡った空に似合う爽やかな挨拶。小学校ではこれをお手本として採用するべきだと思うほどだ。
しかしオレにその爽やか好青年攻撃は通用しない。なぜなら昨夜に積もり積もった恨みは太平洋よりも広くエベレストよりも高くマリアナ海溝よりも深い。あんな災難をもたらしておいてよくもまあ何事もなかったかのように挨拶ができたものだ。
無視してやろうと思ったが挨拶は返しなさいという幼い頃からの母の言いつけはすっかりオレの体に染み付いている。ぶっきらぼうにおはようございますと半ばヤケクソで返事をした。
ヘラヘラと笑っている男に余計に腹が立ってさっさとその場を立ち去ろうとするが、なぜか男は着いてくる。それどころか馴れ馴れしく話しかけてくる始末。
「今から大学かい?」
「そうだが…てか馴れ馴れしくないか?ほとんど初対面も同然だろう」
「奇遇だねぇ!僕も今から学校に行くところなんだ」
やば、話が通じない。そもそも聞いていない。
お前の大学事情など知るか。着いてくるな。
「そうか。遅刻するといけないからオレに構ってないで早く行った方がいいぞ」
遠回しに離れろ着いてくるなと伝えたつもりだ。
「僕も君と同じ大学だよ。気づいてなかったかい、ピアノ科の天馬司くん」
「はぁ?」
オレの住むマンションは確かに音大生向きの物件だ。同じ大学の人間がチラホラと住んでいるが、まさかこいつもとは。
「同じ大学なのはわかったが……なんでオレの名前を知ってるんだ?」
「君は有名人だからね」
有名人というフレーズに耳がぴくりと動いた。
そうか。やはりオレは有名人だったのか。さすがは将来ピアノ界のスターになる男。
地に落ちていた機嫌が上昇したのを感じる。
「ピアノの腕前はプロ級なのに中身は変人極まりないってね」
オレは持っていたトートバッグを振りかざした。
・
激ヤバ女を連れてきただけでなくとんでもなく失礼な発言をしたあの男に振りかざしたトートバッグは片手で軽く受け流されてしまった。
なんなんだあいつは。これからずっとあいつが食べる飯全てに砂が入ってジャリジャリすればいい。
早朝から機嫌の変動が激しすぎて少し酔いそうだ。
富士山と同じくらいの高さまで積もった怒りは全てピアノにぶつけた。
『レクイエム 怒りの日』
聴けヴェルディよ。これがオレの怒りだ。
かつてこれほど怒りを表現することができたことがあっただろうか。
曲終盤にかけて目まぐるしく回る指。安眠を妨害したメンヘラ女と面倒事を隣人に押し付けた野郎へ呪いを込めた。飯に砂が入ってジャリジャリするように、行く先々でエレベーターが故障するように。
心の中で某お笑い芸人に代わって叫ぶ。なんて日だ、と。
最後の一音を弾き終え少しだけスッキリした気分で顔を上げれば、ちょうど近くにいた友人が顔を引き攣らせながら呟いた。
「そんなに怒らないで……」
・
「司先輩、怒ってるんですか?」
陽光が心地よい午後三時。
大学構内のカフェのテラス席で譜読みをしていたところに現れたのは大学の後輩であり幼なじみでもある冬弥だった。
コーヒーを片手にオレの向かいに座った。
冬弥は感情が表情に出にくいとよく言われているが、オレは些細な表情の変化も読み取ることができる。今冬弥の顔には心配の表情が浮かんでいた。
「色々あってな…そんなに顔に出てたか?」
「いや、司先輩が鬼の形相でレクイエムを弾いてたと聞いたので。オーケストラみたいだったって好評でしたよ」
ストレス発散に弾いた曲がそんなに話題になっていたとはさすがオレ。
「何かあったなら話聞きますよ」
「冬弥ぁ…!」
天使のような後輩を持ったことに感動した。感極まって涙が出そうだった。
オレは事の顛末を洗いざらい話した。不満と寝不足でテンションがおかしくなっていたが、冬弥は文句ひとつ言わずに話を聞いてくれた。
「その隣人ってもしかして神代先輩ですか?」
「知ってるのか!?」
「司先輩と同じくらい有名人ですよ。作曲科の天才だと。この間もコンクールで最優秀賞を取ったとか」
知らなかった。そんなに優秀なやつだったなんて。
オレは開いた口が塞がらなかった。冬弥は何を勘違いしたのか目の前に置いてあるパンケーキを一口サイズに切ってオレの口に運んだ。美味い。
違う、そうじゃないと思ったが、冬弥の顔が動物園で小動物に餌をやる子どもそのものだったので何も言えなかった。というか口いっぱいを占めているパンケーキのせいで物理的に何も言えなかった。
「だいぶ変わっているけど悪い人ではないと聞きました」
冬弥はパンケーキを切りながらそう続けた。
悪い人ではないだと。昨夜見たやつの顔は悪魔そのもの、真性サディストのそれだったと記憶している。
「俺、ずっと司先輩のピアノと神代先輩の曲は相性が良さそうだと思ってました。いつか聴けたらなと思っていたんですが、ちょっと残念です」
その願いは叶わなそうだぞ。
そう言いたかったのだが口の中にぎゅうぎゅうに詰められたパンケーキを咀嚼するのに必死で、プルプルと頭を振ることしかできなかった。
・
「やあ、朝ぶりだね」
「またお前か!!」
マンションのエントランスで偶然、この遭遇率を偶然といっていいのか分からないが、またも神代類に出会ってしまった。
「何の用だ」
「冷たいなぁ。昨日のお詫びをしようと思っただけさ」
「……悪いことをした自覚があったのか」
「君は僕をなんだと思ってるんだい?」
何って、メンヘラホイホイのサディストだが。
流石に口には出さなかった。
「詫びはいらん。さっさと部屋に戻れ」
詫びは求めていない。求めるのは睡眠のみ。
「残念だなぁ。焼肉でもどうかと思ったのに」
「えっ」
焼肉。なんて甘美な響き。
流石に毎日もやし生活というほど貧乏はしていないが、音大生は何かと出費が激しい。バカ高い学費にレッスン費、コンクールの出場費、衣装代、その他もろもろ。両親からの仕送りを貰っていてもバイトを詰めなければ生活は苦しい。焼肉など大学合格のお祝いに家族で行ったきりだ。
「もちろんお詫びだから僕の奢りだよ」
「仕方ないな行ってやろうじゃないか!!」
オレはちょろかった。
あちこちから聞こえるシュージューと肉の焼ける音と食欲をそそる香り。
久しぶりの感覚だ。実に二年半ぶり。
肉のいい香りに酔いしれている間に、注文した肉が運ばれてきた。
カルビにタン塩、ハラミ。オレの目には宝石のように映った。
大皿に乗った肉を類はテキパキと網に並べる。
非常に手際が良い。良いのだが。
「おい、炒め始めるのやめろ」
「こっちの方が早いじゃないか」
「そういうことじゃないだろう。趣がないと言ってるんだ」
「趣とか気にするタイプなんだね。枕草子は好きかい?」
「春は曙しか知らん」
昨日、というか日付を跨いでいたので今日なのだが、ほとんど初対面のはずだった男とはリズム良く会話が進んだ。
中身のない会話をしているうちに肉が焼き上がり、類が取り分けてくれた。
「はい、昨夜はごめんね」
「まったくだ。大体、女性と交際するならもっと上手くやれ。刃物を持ち出させるなんて、」
文句を言い始めたオレを黙らせるように類はオレの口に焼肉を突っ込んだ。危なすぎる。
「あっっっつ!!あっづい!!!………うまぁ」
美味すぎる。流石は叙々苑。言おうと思っていた文句の続きなど頭から吹っ飛んでしまった。
あまりの美味さに顔が緩んでいくのが分かる。
こんな美味いもの早く食べなければもったいないと思い、お前も早く食べてみろ、と目の前の男に顔を向けた。
「……どうした?」
「え?いや、別に」
類は箸を持ったままぼーっとこちらを見つめていた。なんだと問いかければ明らかに挙動不審に目を逸らした。
変なやつ。やはり冬弥から聞いた話は本当だったらしい。
「それで?」
「え?」
「なんで彼女にナイフ持参で家凸なんてされてるんだ」
実際されたのはオレなのだが。
とばっちりを食らった被害者なのだから原因くらい聞いたってバチは当たらないだろう。
肉、野菜、米を満遍なく口に運びながら問うた。
「別に彼女じゃないさ。バーで話しかけて来た子の話を聞いてあげてたら粘着されるようになっただけで」
「……本当に話聞いてただけか?それであそこまで」
「昔からちょっと重い子に好かれやすいんだ。なんでかは分からないけどね」
女心を弄ぶ遊び人だと思っていたのはどうやら誤解らしい。こいつもなかなか可哀想な人間だったようだ。まあ最も可哀想なのはオレだが。
「悪かった」
「何が?」
「お前を遊び人のドSクズ野郎だと思っていたことだ」
「君は随分正直だね、黙ってればバレないのに。そういうところ嫌いじゃないよ」
類はふふ、と笑った。邪気を感じさせない幼い笑顔だった。
焼肉を承諾したときも思ったが、やはりオレはちょろいらしい。先程までこの男に呪ってやりたいほどの怒りを覚えていたというのに、美味いものを食べながら少し話をしただけで簡単に許してしまうのだから。
「おい、さっきから野菜が全然減らないんだが。ちゃんと食べなきゃダメだろう」
「僕は今まで野菜を退け続けた人生を送ってきたんだ」
「子供か!」
「子供のままでいたいねぇ。小さい頃はネバーランドに憧れたものさ」
くだらない話が弾んだ。
課題とバイトに明け暮れる日々。久々に楽しいと感じた。
・
焼肉に行ってからしばらく経った頃、オレたちはお互いを下の名前で呼び合うようになったし、類はうちに入り浸ることが多くなるほど距離が縮んだ。根詰めて課題をするときと眠るとき以外は基本的にうちにいる。最初は図々しいと思っていたが、居座られて困ることもないしむしろ最近は類が居ないと心做しか寂しさに似た何かを感じるようになった。
実家を出て一人には慣れたはずだったのに、自分以外の存在が近くにいる温かさを思い出させられた気分だった。
今日大学は休み。オレは休日のルーティンである午前中のピアノ練習と、バイトに備えて午後は仮眠を取った。
その間類はなにやら外国語の本を読んだり五線紙を広げて忙しなくペンを走らせていたり。
家主が寝ているのだから自室に帰ればいいものを、一人が寂しいなどとかわいこぶってうちにいる。
紙が擦れる音、筆記音、パソコンのタイピングの音。耳ざわりが良くて最近は寝つきがいい。無料アンド天然のASMRである。
ついでに時間が来れば起こしてくれる。天然の目覚まし時計の役割まで兼ねている。
なかなかにありがたくて一家に一人欲しいくらいだ。
「司くん、そろそろ時間だよ」
いつものように耳馴染みのいい穏やかなテノールが響く。
もう少しだけ眠っていたくて体をねじる。あと五分、などと間抜けなセリフも一緒に。
「起きないとキスするよ」
告げられた言葉にオレは訝しげに視線をやる。最近の類はこの手の冗談がブームらしい。
こちらを見つめる瞳に射抜かれた気分になって、オレはいつも心臓をドキリと跳ねさせる羽目になる。
「はぁ、仕方ない…」
オレはのそのそと体を起こした。
「あ、起きちゃうの?残念」
類はヘラりと笑った。オレをからかうのが好きなのだろう、最近実に楽しそうだ。このからかい上手の神代さんめ。
オレは出かける準備をする前に軽く食事をとる。
一人で食べられると毎度言うのだが、類はオレの食事中何度か自分の手で食べさせたがった。介護をされるようになるまでまだ何十年も早い。ちょっとばかり不満はあるが、オレにスプーンを差し出す類は楽しそうで強く拒否することもできなかった。そしてなによりも顔がいい。
以前一度だけなぜ食べさせたがるのかと聞いたことがある。後輩くんに対抗してる、などと供述していた。ちょっと何言ってるか分からない。
食事を終え身支度を整える。
ヘアセットは仕事場で整えるとして、顔に薄い化粧を施す。
オレは仕事柄日によってメイクを変えている。誰に言われた訳でもないのだが、昔から身だしなみに気を遣うタイプだったため自主的に行なっていることだ。同僚にも好評だった。
化粧水と日焼け止め、そして下地を塗る。ファンデーションは肌が荒れるので極力付けない。
今日は若干つり目がちな目元がタレ目に見えるようにまつ毛の延長線上に少し角度を下げてアイラインを引く。
涙袋の上に薄くラメを施せば華やかな印象になる。
もともと血色がいい方なのでリップは乾燥防止の薬用のものだ。
簡単で時間がかからないが、何もしないのとは印象がまるで違う。
「どうだ類!かっこいいか?」
「すっごく可愛いね!」
毎回かっこいいかと聞くのだが、かっこいいと言われた試しがない。告げられる感想のほとんどが可愛いばかりだ。今のところ可愛いが二十連勝中である。
オレは「かっこいい」を目指しているのだが、今日は目元を柔らかい雰囲気にしたので「可愛い」でもよしとしよう。
暦の上では早くも十二月。東京の冬は気温はそれほど低くないとしてもビル風によって体感温度はとても低い。
コートを羽織り、手が冷えないように手袋をはめる。
「そろそろ出るぞ」
「うん」
オレがバイトで家を空けるとき類は自室へ戻るため声をかける。
テーブルに広げられた五線紙をまとめて立ち上がった。
「あれ、司くんマフラーは?」
「ああ、毛糸がほつれてしまったんだ。長年使っていたからそろそろ寿命だろうな。買い換えるまでは我慢する」
首元は寒いがタートルネックのセーターでなんとか凌げる。給料日までは我慢するつもりだった。
「じゃあ僕のを貸すよ。寒いだろう?」
「え、いや大丈夫だ。お前の方が寒がりじゃないか」
「別に出かける予定はないから。遠慮しないで」
類はそう言うと自室からマフラーを持ってきてオレの首に巻いてくれた。
ありがとう、と言えばどういたしましてと頭を撫でられた。類はオレを子供扱いする節がある。
「いつもは逆の立場なんだがな…」
「何が?」
おっと、声に出てしまっていたようだ。
「マフラーを巻いてやったり頭を撫でたりするのはオレの仕事だったという話だ」
「……誰に?」
「妹だ」
そう告げれば一瞬険しくなった類の表情が緩んだ。
「いいお兄ちゃんだね」
「当然だ」
体が弱かった妹に防寒対策を施すのはいつもオレだった。あまりのモコモコ具合に周りから少し引かれたこともあったなと昔を思い出して懐かしくなる。
「そういえば昔は冬弥にもよくマフラーを巻いたな。冬でも薄着でいることが多くて寒そうにしていたから俺のを貸すことが多かった。今もときどき……」
思い出に浸っていると、いつの間にか類の顔から感情が削ぎ落とされていた。よく美人の真顔は怖いと聞くが、どうやら本当だったらしい。
「そのマフラーあげる」
「えぇ?」
「カシミヤ百パーセントだから他の人に貸さないでね」
「カシミヤひゃく…!?」
首に巻かれたものがずっしりと重みを増したように感じた。
そんなに高価なものは貰えない。今のようにシャー芯あげる〜みたいなテンションで差し出してはいけないものだ。
「ちょっ、返す」
慌ててマフラーを解こうとしたときには類の玄関の扉は閉じていた。
ちらりと視界に入ったタグの「CLOMBO」の文字は見なかったことにしたい。
・
オレのバイト先はピアノバーだ。知り合いがオーナーをやっている店で、演奏者として雇ってもらっている。
夜の仕事であるため他のバイトに比べて時給がいいし待遇もいい。人前で演奏する練習にもなるし、なにより大好きなピアノを仕事に出来ることが楽しかった。
「おはようございます」
「おはよう司くん、いいマフラーだねぇ。買ったのかい?」
「いや…もらいました…?」
「なんで疑問形?」
やはり突っ込まれてしまった。苦学生とまでは言わないが、金に余裕があるわけではない一端の音大生が身につける代物ではないのだ。
「カシミヤ百パーセントのマフラーに見合うお返しってなんですかね…」
類がなんのつもりでこのマフラーを贈ったのかは分からないが、早めのクリスマスプレゼントのつもりなのかもしれない。オレも奮発しなくては。
「心がこもっていればなんだって喜んでもらえるさ」
オーナーは快活に笑った。
演奏する曲は様々だ。クラシックはもちろん、ジャズやピアノアレンジしたポップスまで。
大体はその日の気分によって好きな曲を演奏するのだが、常連客からはリクエストをもらったりもする。
初めてこのピアノの前に座ったときは自分を励ます意味も込めて『上を向いて歩こう』を演奏した。
最初は緊張したものだが、コンクールのように堅苦しくなく自由に弾いてくれればいいとオーナーが言ってくれたので、初めてにしてはのびのびと演奏できたと思う。
あの日、演奏後に一人の男性がいい演奏だったと感想を伝えに来てくれた。元気が出た、と。帽子を被っていて顔がよく見えなかったが、ちらりと見えた金色の目が美しかったことは覚えている。
大学での勉強やレッスンが厳しく、コンクールでも思うような結果が残せなかった時期。それでもがむしゃらに頑張っていたときだった。その客に会って、誰かの心に響くような演奏をすることが幼い時からの夢だったことを思い出した。
それ以来、悪かった調子はいつも通りを取り戻し、今まで以上の実力を身につけてきたように思う。
今日の曲は『上を向いて歩こう』だ。
眠りに落ちる前のぼんやりとした意識の中で、類がやたら上手い鼻歌を歌っていたのが聞こえた。それが『上を向いて歩こう』だったため、懐かしくなってこの曲を選んだ。
坂本九によって歌われたこの名曲は、英語圏でも『SUKIYAKI』という曲名で親しまれている。
オレがこれから弾くのは、その親しみやすいメロディにジャズアレンジを加えたものだ。
舞台は星空の下。
頭の中のイメージを、旋律を通して現実へ。
ピアノに触れれば音のつぶが飛び出す。そのつぶは星へと姿を変え、上昇する。
俺の目の前には満天の星が広がった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。
演奏を終えると、目の前に広がっていた景色がバーのそれへと戻る。
今日はなかなかいい演奏ができたのではないかと、オレは無意識に顔を綻ばせた。
「やあ、素晴らしい演奏だったよ。『スキヤキ』だね」
話しかけてくれたのは高齢の外国人男性だった。以前に何度か見かけたことがある。流暢な日本語を話す人だ。
「ありがとうございます」
オレは純粋に嬉しくて、笑顔で礼を言った。
「私の若い頃から大好きな曲だよ。君の演奏をまた聴けて嬉しい」
「また…?」
「一年ほど前も弾いていただろう。あのときも素晴らしかったが、今日はまた印象が違ったね。以前よりも楽しそうだ。何かいいことでもあったんだろう」
いいこと。あっただろうか。
一年前と変わったことは、ピアノを弾くときの心の余裕を取り戻したこと。ピアノを弾くのが楽しいこと。気心の知れた友人ができたこと。全部含めて、いいことなのだろう。
「そうかもしれません」
そう答えれば、男性はそうかい、と朗らかに笑った。
「また聴きに来るよ」
チップと共にその言葉を残して去っていってしまった。
やはりこの曲を弾くといいことが起きる。
一年前に話しかけてくれた人と、今日の人。誰かの心に響く演奏ができたのだと、気分が高揚したのを感じた。
その後も時間まで様々な曲を弾いた。今日は明るい曲調のものに限定した。
ピアノの前に立てばオレは演者。音による表現に溶け込むように、自分自身をも変身させる。そのためのメイクだ。
演奏がいいと客も増える。客が増えれば、さらに演奏がよくなる。
今日は本当に調子が良かった。
「司くん、今日本当に良かったよ。特にいちばん最初。何か思い入れのある曲だったのかな」
オーナーにもそう聞こえたのか。
思い入れがあると言えばある。あの日からこの曲は特別なのだ。
カシミヤマフラー事件でハラハラしていたが、指ならしで落ち着けてよかった。
バーの開店は十八時。バーテンダーの中には長時間働く人もいるが、ここの勤務体制は早番、遅番に別れていることが多く、学生バイトのオレは開店から終電に間に合うまでの勤務時間となっている。
最寄り駅で電車を降りれば見慣れた住宅街。数メートルおきに街灯があるだけで薄暗いこの道は女性の一人歩きは危険だろうが、都心と違って星が見えるためオレは好きだった。
今日空には雲ひとつなく、宝石のような星が真っ黒なキャンバスに散らばっていた。
「あの人の目に似てるな」
煌々と輝く星を見て、ふとそんなことを思った。
あの人の瞳を思い出したのは今日が久しぶりだった。
「そういえば…」
一年前、心の励みになればいいと購入したなんとなく彼の瞳に似ていたシトリンのピアスがあった。結局ピアスホールを開けるのが怖くて机の引き出しに眠ったままだ。後から冷静になって「ストーカーっぽいのでは…?」と自己嫌悪に陥ったことも理由の一つなのだが。
今考えれば、それは類の目にも似ている。
なかなか値段が張ったと記憶している。うちで眠らせておくのも可哀想だ。マフラーのお返しに類に贈ってしまおう。渡すのはクリスマスでいいか。
そう考えて、お返しが決まったことに安堵して軽い足取りで自宅へと向かった。
・
来る十二月二十四日。本当はこの日もバイトを入れてよかったのだが、二十四日も暇です、とオーナーに伝えたところ向けられた心做しか憐れむような視線が痛くて結局休みをもらった。
二十五日は家族と過ごす予定が入っているが、バイトを入れるはずだったイブに急に空きが出てしまった。
「これが俗に言うクリぼっちか…」
ボソッと呟けばローテーブルで作曲に勤しんでいた類が吹き出した。
「なんだ類。彼女がいないことをバカにしてるのか。お前もオーナーと同じような哀れみの目を向けるのか」
類の方に視線を向けることなく死んだ目でブツブツと文句を垂れた。
オレが軽く弾いていたのはジングルベル。楽しい曲のはずなのになぜか物悲しく聞こえる。
「いやいや、僕も大抵一人で過ごしているよ。そもそもキリスト教を信仰していない人がほとんどの日本でクリスマスを盛り上げるのはお菓子メーカーやトイメーカーの策略であって…」
「あー分かった分かっためんどくさい」
なにやらひねくれたことを言い始めた類の言葉を遮る。
ミーハーとして名高いジャパニーズがクリスマスだのハロウィンだの異文化に浮かれまくって何が悪い。楽しければそれでいいのだ。
「別に一人が特別いやなわけじゃない。ただ街ゆく人のほとんどが二人以上で歩いてる中だと寂しく感じるじゃないか。イルミネーションの道路とか最悪だぞ」
「ふーん…じゃあケーキでも買ってここで酒盛りするかい?」
「イブに男二人で酒盛り…一人より虚しくないか?」
「そうかい?楽しいと思うけどね。司くんのクリスマスリサイタルも聴きたいな」
「観客が一人か…」
クリスマスイブに男二人。むさ苦しいにもほどがあるが、一風変わったそれもまた楽しそうかもしれない。
「はぁ…ケーキ買いに行くかぁ…」
「やったー」
街を歩いていれば、クリスマスケーキの販売ノルマを達成しようと目をかっぴらいて話しかけてくるサンタクロースのコスプレイヤーがゴロゴロいる。
ちょうど探してました、と言えば目を輝かせて店へ連れていかれた。
量産されたクリスマスケーキのひとつを購入し、スーパーでチキンとピザ、酒を数種類買い込んだ。
家に戻れば暖房をつけっぱなしにしていたおかげで暖かい空気が充満していた。
「はぁー、寒かったな。雪でも降るんじゃないか?」
「ホワイトクリスマスだね」
「酒もうあけるか?」
「そうだねぇ」
まだ十六時を少し過ぎた時間帯だったが、クリスマスということもあって無意識に浮かれていたのだろう。日が沈んでいない時間なのに、オレたちはワインをあけ早くも酒盛りを始めた。
オレも類も酒が強い方で、ワイン一本をあけても酔いは回っていない。
ワインを少しずつ飲み、チョコレートをつまみつつピアノを弾く。
演奏する曲はシューマンの『トロイメライ』。有名なクリスマスの曲だ。
朝目覚めたときに目に入るクリスマスプレゼントを楽しみに眠りについた子供が見る夢。そんな曲だ。
昔クリスマスイブに妹の咲希にせがまれて弾いていた曲でもある。
明日、実家に帰ったらまた聴かせてやろう。
一曲弾き終えた達成感と酒が入って少し火照った体で気分が高揚する。
「類」
「なんだい?」
「なにかリクエストはないか。聞いてやるぞ。特別なお客様だからな」
得意げな顔でそう言えば、類はふわりと微笑みをこぼした。
「じゃあ、『上を向いて歩こう』かな」
「ほう、好きなのか?」
「うん」
類は頷いたあと、じっとこちらを見つめた。
「好き」
心臓がドキリと跳ねた。好きだと言った類の表情はどこか真剣だった。
真っ直ぐ見つめてくる金色の瞳から逃れたくて、オレは視線を鍵盤に戻した。
顔に熱が集まってくる。酒のせいだろうか。
どこか浮ついた気分のまま音色を奏で始めた。
まるで初めてバーのステージに立った時のような緊張感とともに、指を鍵盤の上で踊らせる。
前回と同じように、イメージは満天の星。
それから…
「いい演奏だね」
「え…」
「元気が出たよ。ありがとう」
微笑みを浮かべて礼を言う青年。自分を見つめる金色の宝石。
「あのときの客…お前か…?」
「そう。君のファン第一号さ」
考えてみれば、こんなに特徴的な瞳はほかにない。なぜ今まで気が付かなかったのか不思議で仕方がない。
「あ、そうだ」
その瞳に引き込まれそうで、慌てたように立ち上がった。
「クリスマスプレゼントだ。マフラーの礼も兼ねて」
引き出しから取り出したシトリンのピアスを差し出す。
一年以上前に買ったものだが、一度も着用していないし外にも出していない。傷や汚れはないことを確認している。
「シトリンか。綺麗だね」
「そうだろう!一目惚れだったんだ」
「うん、司くんに似てる」
「はぇ?」
なんとも間抜けな声が出てしまった。
オレに似てる? まったく気にしたことがなかった。
「いや、どちらかというとお前の目に…」
そこまで言って気がついた。先程自分がなんと言ったのか。「一目惚れ」と言った気がする。
つまり類の目に似ていると言ってしまうとそれは類に一目惚れしたと言ったことと同義なのでは…
「あっ、あーっ!なんでもない!とにかくもらってくれ!!」
顔を見られたくなくて思い切り壁の方を向きながら大雑把に誤魔化した。
くすくすと笑う声が聞こえた。
余計に恥ずかしくなっておそらく耳まで真っ赤だろう。
「じゃあお返しにこれあげる」
「は?マフラーのお返しだって言っただろう」
「いいから」
類が差し出したのは手書きの楽譜だった。
「『Mimosa』…?」
「うん、最近書いてたのはそれ」
「弾いてみてもいいか?」
「もちろん」
軽く目を通しただけでかなりの良曲だということが分かる。頭の中でメロディがぐるぐると回る。早く音にしたくて足早にピアノへと向かった。
「実はそれ、最終楽章がないんだ」
「そうなのか?」
「うん、だから君が書いて」
書いて、と言われても。高校生のころは趣味でよく曲を書いていたけれど、大学に入ってからは色々と忙しくて距離を置いていた。感覚を取り戻すには時間がかかりそうだ。
「書けたら聴かせてよ」
まるで慈しむような、優しい表情。
最近、類はよくこういう顔をする。最近、いや、仲良くなりたての頃からかもしれない。
なんだか今日は心臓が忙しい。
類に見つめられるとどこか落ち着かない。オレはこの感覚がなんなのか知らなかった。
類がくれた曲は最終楽章を含めて五つの章で構成されていた。第一楽章から順番に「優雅」「感謝」「友情」「思いやり」。
明るい曲調に、優しい音色。感情に訴えかけるような曲に、演奏している側としても心が踊る。
以前冬弥が類の曲とオレのピアノは相性がいいと言っていたことを思い出した。
その通りだと思う。
初めて見る楽譜、初めて弾く曲なのに妙に手に馴染んだ。
これまでの人生で最も楽しい時間だった。終わってほしくない。この曲にずっと終わりがなければいいのに。
演奏は軽快なチャイムによって中断を余儀なくされた。
類は明らかに機嫌を急降下させたし、オレも邪魔されたような気がして、いや、実際邪魔されたのだが、気分は最悪だった。
ちくしょう誰だ、そう思ってインターホンを覗いた。
そこにいたのは…
「ひっ…」
インターホン越しの顔を見た瞬間、背中に冷たい何かが這った。
びくりと手が震え、通話ボタンを押してしまった。
「あっ!司くん!お家にいるのね!よかったぁ」
以前ナイフを手にうちに家凸してきた激ヤバ女だった。
なぜまた自分の家に。なぜオレの名前を知っているのか。
笑い話になったと思っていたが、しっかりとトラウマになっていたらしい。
様子がおかしいことに気がついたのか、類が慌ててこちらへ駆け寄り通話を切った。通話は切れても女はまたも大きな声で扉の外から喚き続ける。
「司くんここ開けてくれるよね!今日イブだもんね!私のこと待っててくれたんだよね!」
なにを言っているんだこの馬鹿は。どう思考回路が迷走したらそんな考えに至るんだ。そもそもお前が好きなのは類じゃなかったか。
「この前別れたとき私のこと見つめてたでしょ?離れたくなかったんだよね私のこと好きだよね」
やばっ!こいつヤバすぎる。病気なんじゃないのか。
女の声は明らかに正気を失っている。
ガンガンと鳴り響くドアを叩く音に体が震える。心臓がうるさく鼓動を繰り返す。
背中を丸めて縮こまっていると、体に類の腕が回った。
「警察に連絡したから。大丈夫」
類に抱きしめられた驚きで体の震えが止まる。それどころか先程とは違う意味で脈が早くなった。
「るっ…るい…近い…」
「僕のせいだね。ごめん」
頭を首元に埋められているせいで表情が伺えない。
しかしその声は蚊の鳴くように小さく、至近距離でなければ聞こえなかっただろう。
「だ…大丈夫だ、お前のせいじゃない。あの女がヤバすぎるというだけで」
「違う、ごめん。俺のせいだ」
オレを抱きしめたまま小さな声で謝罪を繰り返す。
それが親に叱られた子供のように見えて、オレは類の背中に手を回して優しく撫でた。
外は相変わらずうるさいはずなのに、この空間だけ外界から遮断されたようだった。
・
あの後警察が到着し、女は捕まってオレたちは事情聴取のため警察署まで出向いた。
被害者はこちらなのにかなり長時間拘束され、聴取が終わったのは早朝五時だった。クリスマスなのに。
あの女、二度目の犯行なので実刑判決が下るだろう。
今度こそもう二度と会うことがありませんように。
早朝と言えどもまだ日は登っておらず、空には未だに暗闇が広がっている。
「眠いな…寒いし…寒いのと眠いのが両方来ると死を近くに感じると思わないか」
「ああ、雪山的な…」
夜通し起きていたが故の深夜テンションでしょうもない話に類は付き合ってくれているように思えるが、何処か上の空だった。
寒さに震えながらマンションのエントランスをくぐる。
エレベーターのボタンを押して到着を待つ。
しかしいくら待ってもエレベーターがやってこない。
「…………故障か?」
「そうみたいだね」
「信じられん……」
ふざけるな。こちとら徹夜だぞ。
このときばかりは自分の部屋が七階に位置していることを恨んだ。
仕方がないので階段を使っていると、四階に着いたあたりでオレの靴紐がプツリと切れた。
不吉すぎる。不運すぎる。
およそ半年ぶりに「なんて日だ」と叫びながら某お笑い芸人が脳内を走り抜けた。
最悪の気分でなんとか自宅前へ辿り着く。
実家に帰るのは夕方を予定していたため眠る時間はある。早くベッドにもぐりたかった。
「じゃあな類。しっかり寝るんだぞ」
「司くん」
ドアノブに手をかけたとき、静かな声で呼び止められた。
「なんだ?」
「司くんに話しておかなきゃいけないことがあって」
「え…後じゃダメなのか?」
「今聞いてほしい」
類の顔は真剣そのもので、声は些か強ばっていた。
なぜだか嫌な予感がする。はっきりとは分からないが、なにか自分にとってよくないことが話される。根拠のない確信を得る。
「じゃあとりあえず中に…」
「ここでいい。寒いけど、ごめんね」
そう言うと類は目を伏せてぽつりぽつりと話し始めた。
「まず、今日のことと半年前のこと、本当にごめん」
「だからそれはもういいって…」
「あの子が部屋を間違えたとき」
オレの言葉を遮るようにして類は声を被せた。
「すぐに気がついた。司くんに迷惑がかかるとも思ったし、扉を開けて止めに行くつもりだった」
類の表情は罪悪感に満ち溢れているように思えた。
苦しそうで、つらそうで。
その顔に手を伸ばしたいのに、オレの体は凍ったように動かない。
「でもチャンスだとも思った」
「は…」
「君に話しかけるきっかけになると思って、利用した。僕の身勝手な判断のせいでたくさん君に迷惑をかけたし、怖い思いもさせた」
類はさらに顔を伏せて言葉を続ける。
「それだけじゃない。僕がここへ引っ越してきたのだって偶然じゃない」
「どういうことだ…?」
「一年のとき、初めて君のピアノを聴いたときからずっと追いかけてた。遠くから見てるだけだったけど、ストーカーみたいに。バーで会ったときは勝手に運命だと思った。君があんまり綺麗に笑うから、もっと近づきたくなって、君の家を突き止めた」
心臓が大きな音をたてながら忙しなく伸縮を繰り返す。
「僕はあの子と変わらないよ。気持ち悪いだろう?僕の近くにいると危ないんだ……だからもう君には近づかない」
「なんで…そんなこと…」
視界が歪む。
近づかない、そう言われた瞬間指先から体の芯まで冷えていく感覚に陥った。
オレは今なんて言おうとしたのだろう。
自分でもよく分からないまま、類へ手を伸ばす。
そのとき、伸ばした手を掴まれ、ぐっと引き寄せられた。
急に引っ張られたことに驚く間もなく、唇に柔らかな感覚を覚えた。
その温度が離れたとき、視界いっぱいに広がったのはシトリンの瞳。そこにはいつものような温かな輝きはなかった。
「好きになってごめん」
その言葉を最後に、類の足音が小さくなっていくのをぼんやりと聞いていた。
首を温めていたカシミヤのマフラーが温度をなくす。
一桁台の気温の中、オレは寒さも忘れて佇んでいた。
夜はまだ明けない。
・
そのあとどう過ごしたのかは覚えていない。
おそらく気絶したように眠り、そのあと時間通りに実家へ向かったのだろう。
顔色がよっぽど悪かったのか、出迎えてくれた咲希の顔は笑顔から心配へと変わった。
久しぶりに会えたのに、クリスマスなのに、心配をかけて申し訳なかった。
咲希はオレを引っ張るようにして部屋に連れていった。
「お兄ちゃん…なにか辛いことでもあったの?」
咲希が泣きそうな顔でそう言うものだから、オレは全てではないにしても自らの身に起きたことを話した。
友人だと思っていた人に告白されたこと、それなのにもう会わないと言われたこと、自分の気持ちが分からないこと。
咲希はなにも言わずに話を聞いてくれた。
「お兄ちゃんはその人のことが好きなんだね」
「え…」
「もう会わないって言われたことが辛いんでしょ?お兄ちゃんはその人にずっと傍にいてほしいんだよ」
「なんでそう思うんだ?」
「だってお兄ちゃん、その人のことが好きでたまらないって顔してるもん」
好きでたまらない顔。どんな顔だ?
「昔からすぐ顔に出てたよ。お兄ちゃんってば分かりやすいんだもん」
咲希はオレの手を握り、下から覗くようにしてオレの顔を見上げた。
「気持ち、ちゃんと伝えなきゃね。アタシ応援してるから」
咲希の励ましのおかげで少し元気を取り戻した。
家族と豪華な食事を楽しんで、久しぶりに実家のベッドで眠りにつく。
自分が類を好き。
まだその感情に戸惑っているが、腑に落ちた気もする。欠けていたパズルのピースがはまった気分だ。
類が一年のころから自分を知ってくれていたこと、ずっと追いかけてくれていたこと、近づいてくれたこと、自分を好きでいてくれたこと。
気持ち悪さなんて微塵も感じなかった。
それどころか嬉しさすら感じる。
明日、類に連絡してみよう。「もう会わない」なんて言うなと。
そんなことを考えているうちに、オレはいつの間にか眠りに落ちていた。
・
まずい。
類と全然連絡が取れない。電話しても出ないし、LINEを送っても未読のまま。部屋の呼び鈴を鳴らしても中から人の気配は感じない
まさか本当にもう会わないつもりなのか。
連絡が取れなくなって最初の三日ほどはかなり落ち込んだ。隣にいることに慣れた人影が感じられずに寂しかったし、悲しかった。
しかし今その感情は怒りに変わった。
あんなこと言っておいて、キスしておいてオレの話は聞かないつもりなのか。これが俗に言うヤリ捨てというやつなのか。
許せない。このオレをヤリ捨てるなど。
オレは考えることがあまり得意ではない脳みそをフル回転させて、なんとか類と話す方法を考えた。
会うことができても話を聞かずに逃げられてしまっては元も子もない。
オレは夜神月もびっくりの完璧な計画を立てた。
決戦は一ヶ月後。待ってろ神代類。オレをヤリ捨てた罪は重い。
・
学生がコンクールの練習をするときに使う練習用の小ホール。
ステージにはピアノが準備されている。
もうすぐだ。もうすぐだあいつがここへ来る。
客席後方の扉が開く。現れた男はオレの姿を見るなり方向転換をして、扉に手をかけた。
しかしもう逃げられない。このホールに足を踏み入れた瞬間お前の負けは確定しているのだ。
外側からは冬弥が扉が開かないように固定してくれる手筈だ。悪事の片棒を担がせたようで申し訳ないが、オレの必死の頼みを冬弥は断れなかったらしい。
すまん。あとで好きなもの奢ってやる。
オレは狼狽えている類に向かって大声で叫んだ。
「最終楽章まで聴いていかなかったら刺す」
書いたら聞かせてくれと類が頼んだ最終楽章。
オレはこの一ヶ月後で仕上げた。
「優雅」「感謝」「友情」「思いやり」。第四楽章までのこれらは全てミモザの花言葉だ。
そしてもうひとつの花言葉をオレは最終楽章に名付けた。
『秘密の恋』
類が今まで隠してきた恋心、そしてオレが気づいていなかった恋心。
怒りも、悲しみも、楽しさも喜びも。類と出会って経験した全ての感情を音に乗せた。
オレの音楽はオレの心だ。
お前に伝えたい気持ち全てを奏でる。
「好き」も「愛してる」も、オレの全部を届けたい。
だからもう逃げないで。迷惑をかけたっていい。ずっと傍にいてほしい。
届け。
その一心で、オレは最後の一音まで弾ききった。
いつの間にか涙が溢れて頬を濡らしていた。
客席を見れば類が身動ぎひとつせずに立っている。
オレはステージから飛び降り、全速力で走り抜け、類の胸に飛び込んだ。
涙に濡れた目で見上げれば、類が惚けた顔でこちらを見た。
「シトリンのピアス」
「え…」
「お前の目に似てると思って衝動買いしたものだ。バーで初めて会ったとき、ろくに知りもしないお前に一目惚れした。オレを見てほしくて、お前の目に似たピアスを買ったんだ。ピアスホールも空いてないのに」
恥ずかしい。何故こんなことを暴露せねばならんのだ。
でも、直接言わないとこいつは逃げてしまう。
類が隣にいない冬は寒かった。もう離れてほしくない。
「どうだ!気持ち悪いだろう!」
自信満々に宣言すれば、類は目を丸くして間抜けな顔をしていた。
「オレのピアノ、しっかり伝えられたか?」
「なに…を…」
とぼけようとする類に腹が立つ。
オレはヤケクソで叫んでやった。
「オレは!!お前が好きだ!!」
背伸びをして、類の頭を引き寄せて。その唇にキスをした。
どうだ見たか、オレだってやられっぱなしじゃない。
得意げに見上げれば、類の目からぽろぽろと涙が溢れているのが見えた。
オレがぎょっとして類の涙を拭おうと手を伸ばした途端、思い切り引き寄せられて力いっぱい抱きしめられた。
「司くん大好き…」
「……オレも」
「そばにいていいの?」
「二度も離れていったら許さん」
「僕束縛とか激しいよ」
「お前からならなんだって嬉しい」
オレを抱きしめる力が強くなる。
もう放さないと言われているようで心がくすぐったくなった。
寒かった心が温まっていくのを感じた。
「僕、今すっごく幸せだ」
「ああ…」
「司くんキスしていい?」
返事をしない代わりに、オレは瞼をそっと閉じた。
唇に落ちる温もりは、一足も二足も早い春の訪れのようだった。
Mimosa
大好きです、、、愛してる(突然の告白)