第24話 一泊だけならセーフかもしれない

 傘というのは、古代エジプトの時代に開発され、そこから基本的な構造は変わらず、四千年以上この形を保っているらしい。

 水が当たる音を奏でるビニールを下から見上げつつ、そんなことを考える。


 日はすっかり沈み、空には真っ暗な闇と、そこから降りしきる雨。


 図書館の帰りに食材を買っておくべきだったと後悔しているが、もちろん後悔は先に立たない。


 我が家では残念ながら家事スキル持ちがおらず、また、俺が引っ越してからいまだにまともな買い出しを行っていないため、調味料や油というアイテムがない。


 だからといって、いまから調味料や油を買ってきて料理するのも面倒なので、コンビニに歩を進めることとなったのだ。


 この空腹を満たすためには、雨の中だろうが、嵐の中だろうが、財布の中が寒かろうが、コンビニに行き、飢えを凌ぐための飯を獲得しなければならないのだ。


 家にはコアちゃんを残してきたが、コアちゃんには、今日はダンジョンに入らないようしっかり言いつけてきた。


 空腹はどうするのか聞かれたが、あとでたっぷり俺の欲望を食わせてやるので問題ない。


 とりあえず、借りてきた本をすべて読み終えるまで待機を命じてきたので、おそらくきっとメイビー大丈夫。


 コアちゃんは約束を守るいい子なのだ。


 信じてるぞ! コアちゃん!


  ◇


 コンビニの弁当は何故こんなにも高いのか。


 この調子でいくと、生活費が一週間で尽きてしまう。もう少し倹約しないとな……。


 自動ドアを出て、傘を取る。


 傘を開いた、そのときだ――目の端に、なにかを捉えた。


 コンビニの向かいにある公園。

 その屋根付きの休憩所で、なにかが動いた。


 普段の俺なら、気にも留めなかったかもしれない。


 だが、俺の目に映った人物は、記憶に新しい相手だった。


 俺の気を引くには十分な理由だった。


 道路を渡り、公園の中に入る。


 芝生もない土の地面には、凹凸に沿っていくつも水たまりができていた。


 足元を選びながら、屋根付きの休憩スペースへ向かう。


 少女は、少し前に図書館で会ったときとは、明らかに様子が違っていた。

 濡れた手提げカバン。

 顔に張り付いた湿った前髪。


 激しい雨音のせいか、俺が近づいていることにも気づいていないようだった。


 というより、放心しているのだろうか。


 髪の間から覗く大きな瞳には、なにも映っていない。


 黒々とした深淵だけが、そこにあった。


「浅葱?」


 さすがにこの状態の知り合いを見て見ぬふりできるほど、俺は冷血ではない。


 いや、知り合いでなくても声をかけるかもしれない。


 俺の声に、彼女はわずかな反応を見せた。


 大きな瞳が、ゆっくりと俺のほうに動く。


「……網代、さん」


「こんなところでなにをしてるんだ? 春先とはいえ、さすがにまだ寒いだろ」


「……なんでもありません」


「なんでもないわけないだろ。家に帰ったんじゃないのか?」


「……私の家」


 何が起きたのかはわからない。


 だが、異常が起きたことは理解できた。


 図書館からの帰りの姿のまま、雨に濡れてこんなところにいる異形の少女。


 家に帰って仕事をしているはずの彼女が、この時間にこんな場所にいるのは不自然極まりなかった。


「家に帰りたくない……とかか?」


「……そう……なんでしょうか?」


 だいぶまいっているようだ。


 答えもはっきりしない。


「とりあえず、そんな格好していたら風邪をひくだろ。ちょっとこい」


 いや待て。

 これだと明らかに怪しい。


「待て。違う。そうじゃない。シャワーと着替えを貸すから、家に来てほしい。このまま置いておくと寝覚めが悪い。心配しなくていい、身体目当てじゃない。……いや、いまの言い方が一番駄目だな。家にはコアちゃんもいるし、他に女性の同居人もいる。あ、勘違いしないでほしい。恋人とかなんでもなく、ただのビジネスパートナーだ」


 怒涛の言い訳が、口から流れ出ていた。


「……こんな私を、身体目当てで連れていく人なんていないから安心していいですよ」


「いや、それはない」


 うん。

 それはない。


「いや、だから身体目当てとかじゃないんだ。とにかく来い。この町、治安が悪いのわかってるだろ」


「……でも」


「知り合いがこんな姿でいるのを放っておけるほど、俺は落ちぶれちゃいない。俺のメンツのためについてきてほしい」


 ちょっと無理やりだっただろうか。


 いや、でも、このまま放っておくと、明日には死体で発見されましたとかなっていそうな、そんな気がする。


 いやもう、素直に助けたいとか直接言ったほうが、この子には効きそうな気がしてきたな。


 暦はしばらく俺を見ていた。


 雨に濡れた前髪の奥で、大きな目が揺れる。


 それから、小さく頷いた。


「わかりました。お願いします」


 そう口にすると、彼女の大きな目から、涙がこぼれ落ちた。


 雨音で、声は聞こえなかった。


  ◇


「おお、綺麗な目の者ではないか」


 家に帰ると、コアちゃんが玄関で出迎えてくれた。


 絵本はちゃんと抱えている。


 少なくとも、俺が出ている間にダンジョンへ突撃した気配はない。


 信じていたぞ、コアちゃん。


「ただいま、コアちゃん。すまないが洗面所からタオルを持ってきてくれないか?」


「ふむ、心得た」


 コアちゃんは、ぱたぱたと洗面所へ向かっていった。


 その間も、浅葱は玄関の外に立ったままだった。


 敷居をまたぐことを、ためらっているように見える。


「入っていいぞ」


「……でも、床が濡れます」


「そんなことより、風邪をひかれるほうが困る」


「でも」


「俺の家だ。俺がいいと言っている」


 そう言うと、浅葱はようやく小さく頷いた。


 濡れた靴を脱ぐ動作まで、どこかおそるおそるだった。


「お、お帰りー。あれ? お兄さん、どしたの? ナンパしてきた? 私、一時間くらい外に出てようか?」


 奥から、ジャージ姿の金欲魔神が顔を出した。


 なお療養中である。


 ジャージには、しっかりと俺の苗字が書いてある。


 人のジャージを勝手に部屋着にしないでほしい。


 というか、人の荷物を勝手に漁らないでほしい。


 プライベートとかないんかお前には。


「ナンパじゃないし、わざわざこんな雨の中に出なくていい。というか、起きて大丈夫なのか?」


「うん、だいぶ回復したよ」


 鐘々は軽く手を振る。


 顔色、いや、目の色は今朝よりはましだ。


 だが、いつもの金の匂いがする女、というよりは、普通に体調の悪い女だった。


 いや、ジャージのせいでこいつ……俺の彼女説が浮上してないか?


 こいつが彼女に……うん、お断りだ。


 見た目はよいが、さすがに金欲魔神を彼女にする趣味はない。


 浅葱に突っ込まれた際には全力で否定させていただこう。


「で、その子は? どこから拾ってきたの?」


「犬や猫じゃないんだから拾ってきたって言い方をするな。……まあ、拾ってきたようなものではあるが」


「え、あの、すみません」


「浅葱さんが謝るところではない」


 そのとき、コアちゃんがタオルを抱えて戻ってきた。


「持ってきたぞ、主よ」


「助かる。浅葱さん、これで軽く身体を拭いたら、風呂に行って温まってきてくれ」


「あ、でも、そんな」


「風呂に入れ。命令だ」


「命令……」


「ああ。命令だ」


「気にしないで入ってきちゃいなよ。お兄さんが覗かないように私が見張っておくから」


「覗かないぞ」


「嘘つけ、さっき胸元に視線いったでしょ」


 浅葱がとっさに胸を隠す動作を取った。


 おい、ばか、やめろ。

 違う。


 鐘々も余計なことを言わないでほしい。


 いや、見ちゃうのはもう許してほしい。

 俺も男の子なのだ。

 と、そこで気付く。


「あ、そういえば風呂沸かしてないか」


「夕飯のあとに入ろうと思って沸かしておいたよ。ファインプレーだね」


「おお、ファインプレー……あ」


「え?」


「あの、どうしました?」


 俺は手元のコンビニ袋を見る。

 弁当、弁当、プリン。

 以上。


「弁当、二人分じゃ足りないよな」


「あの……私は大丈夫ですから……」


 浅葱がすぐに言った。


 その言い方が、あまりにも早かった。


 あまりにも、慣れていた。


「いや、大丈夫じゃない。食え。風呂も入れ。寝ろ」


「でも」


「いいから。浅葱さんが風呂に入っている間に、俺はもう一回コンビニに行ってくる」


「え、そんな、悪いです」


「俺の買い物ミスだ。浅葱さんのせいじゃない」


「お兄さん、ついでに私のプリンも」


「お前はさっきの袋に入っているプリンで我慢しろ」


「ちぇー」


 鐘々が軽く唇を尖らせる。


 こいつのキャラなら、ここで金の使い方についてなにか口出ししそうなものだが……今日はそこまでの勢いがない。


 やはり、まだ全快ではないな。


「浅葱さん。風呂の場所は鐘々に聞いてくれ。服は……鐘々、何か貸せるか?」


「私の服はサイズが合わないんじゃないかなあ」


 鐘々の視線が、浅葱の胸元に一瞬だけ向かう。


 俺もまた見そうになった。


 見ていない。


 ……見ていないぞ。


「じゃあ俺のシャツでいいか。ジャージもある」


「え、あの、本当に」


「いい。風邪をひかれると困る」


「どうして、そこまで……」


 浅葱が小さく呟く。


 俺は少しだけ迷ってから、肩をすくめた。


「言っただろ。寝覚めが悪いんだよ」


 それが、今の俺に言える限界だった。


  ◇


 それから、俺は急いでコンビニに戻り、一人分の夕飯を追加で買ってきた。


 帰ってくると、浅葱は風呂から上がっていた。


 濡れていた前髪はまだ重そうだったが、さっきよりは顔色が戻っている。


 着ているのは、俺のシャツだった。


 サイズが合っていない。


 当然だ。


 だが、濡れたままよりはずっとましだろう。


 鐘々は、俺のジャージを着ている。


 こちらはもう何も言うまい。


「おかえり。ちゃんと買えた? 迷子にならなかった?」


「はじめてのお使いじゃないんだぞ。ほれ、弁当と味噌汁と、あと温かいお茶」


「おお、気が利くじゃん」


「お前に褒められると、なんか損した気分になるな」


「ひどくない?」


 軽口を交わしながら、俺たちは居間に座った。


 浅葱は、壁際に正座していた。


 どう見ても、客の座り方ではない。


 叱られるのを待つ子供の座り方だった。


「浅葱さん、そこじゃなくて座布団の上に座ってくれ」


「いえ、ここで大丈夫です」


「大丈夫じゃない。俺が落ち着かない」


「……すみません」


「謝らなくていい」


 このやり取りだけで、少し胃が重くなった。


 どれだけ謝る生活をしてきたんだ、この人は。


 夕飯は、ほとんど無言で進んだ。


 コアちゃんは俺の隣で、借りてきた絵本を広げている。


 時々、浅葱を見上げては、にこにことしていた。


「暦は、忍者を知っておるか?」


「え? あ、はい。知っています」


「やはりか! では、この者は天井裏に潜むのか? ブリッジで攻撃を避けるのか? 死ぬと爆発するのか?」


「それは、作品によりますけど……」


「作品によるのか。奥が深いのう」


 コアちゃんが真剣に頷く。


 いやコアちゃん、お前はなにを読んでいるんだ?


 到底忍者とは関係ない単語が飛び出していた気がする。


 だが浅葱の口元が、ほんの少し緩んだ。


 それを見て、俺はようやく息を吐いた。


 食後、浅葱は自分から話し始めた。




 途切れ途切れに。

 順番も前後しながら。


 家に帰ったら、知らない男たちが家具を運び出していたこと。

 パソコンや画材も持っていかれたこと。

 母親がそれに同意していたこと。

 生活安全管理契約だの、一時預かりだの、よくわからない言葉を並べられたこと。

 仕事先にも連絡が行き、アシスタントの仕事を切られたこと。


 話している途中で、浅葱の声は何度も止まった。


 それでも、彼女は最後まで話した。


 鐘々は口を挟まなかった。


 コアちゃんも、絵本を抱えたまま黙って聞いていた。


 俺は、聞き終えてから、ゆっくりと言った。


「闇金と同じだな」


「闇金……ですか?」


「返済させる気があるなら、仕事道具は残す。稼ぐ手段を奪ったら、金なんて返せないからな」


 パソコン。画材。資料。


 それは、浅葱にとって飯を食うための道具だ。


 それを奪うということは、借金を返させるためではない――支配するためだ。


「一時預かりなんて言葉を使っている時点で、かなり臭い。処分じゃない。預かりだ。本人か家族の同意がある。そういう形にして、後から揉めにくくしている」


 役場時代にも、似たような書類を見たことがある。


 異形絡みの案件は、こういう隙間に落ちやすい。


 本人の権利――家族の同意――近隣の安全――生活指導。


 言葉だけは、いくらでも綺麗にできる。


「その、すみません。こんなことを話してしまって」


「謝るな。怒りにくくなる」


「え?」


「俺が怒っているのは浅葱さんに対してじゃない」


 浅葱は、目を伏せた。


「……でも、私は、迷惑を」


「迷惑かどうかは俺が決める」


 自分で言って、少し強い言い方になったと思った。


 だが、取り消す気にはならなかった。


「今日は泊まっていけ。明日のことは、明日起きてから考える」


「でも」


「一泊だけならセーフだ」


「なにが、セーフなんですか?」


 鐘々が呆れたように言った。


 俺にもわからん。


「世間体とか、倫理とか、そういうやつだ」


「その言い訳、だいぶアウト寄りだよ」


「うるさい。今はそれで押し通す」


 鐘々は小さく笑った。


 そして、浅葱のほうを見る。


「浅葱ちゃん。今日は寝よ。お兄さんに根掘り葉掘り聞かれるより、女同士で話したほうが楽なこともあるでしょ」


「でも、鐘々さんも体調が悪いのでは」


「大丈夫。だいぶ戻ったから」


 鐘々はそう言って、笑った。


 俺は試しに言ってみる。


「明日の食費、どうする?」


「んー、あとで考えよ」


 即答だった。まいったな……。


 鐘々が、金の話に、あとで。

 これは重症だ。


 金欲の魔神様であるあの鐘々なら、食費という単語を聞いた瞬間に、原価、利益率、節約、転売可能性、ポイント還元率まで一気に計算し始める。たぶん、きっとそう。


「……やっぱり全快には程遠いな」


「なにが?」


「いや、なんでもない」


 今は鐘々を問い詰める場面ではない。


 今夜は、考えるべき問題が多すぎる。


 浅葱は帰る場所がない。


 鐘々は金の話に反応しない。


 コアちゃんは忍者に夢中だ。


 俺は生活費一週間コースに怯えている。


 あまりにも頼りない布陣だ。


 だが、それでも。


 雨の中の公園に、彼女を置いてくるよりは、ずっとましだった。


「浅葱さん」


「はい」


「布団は一組しかない。俺は適当に寝るから、今日はそれを使ってくれ」


「そんな、駄目です」


「駄目じゃない。これは家主命令だ」


「また命令ですか」


「便利だろ」


「……少しだけ」


 浅葱の声に、初めてほんの少しだけ力が戻った。


 その夜、浅葱は鐘々と同じ部屋で眠ることになった。


 俺は居間で毛布にくるまった。


 コアちゃんは絵本を抱えたまま、俺の横で丸くなっている。


 部屋の隅には、浅葱の手提げカバンが置かれていた。


 手提げカバンからは濡れていない、借りた本が顔を覗かせていた。

 雨音は、まだ止まない。




 けれど少なくとも、この家の中だけは、濡れずに済んでいた。


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