噂の真相  岸家・安倍家と朝鮮の闇

平安時代に「とりかえばや物語」という王朝物語があったが、安倍晋三の父・晋太郎は、李王朝王世子の李晋だという現代の「とりかえばや物語」があるらしい。この話は、友人から岸も安倍も朝鮮系だから統一教会と深い関係になったとの雑談で知った。ネットで検索すると田布施システムと呼ぶ怪しげな陰謀説が飛び回っていた。友人によれば、安倍晋太郎は、実は大韓帝国最後の皇太子の李垠(り ぎん、イ・ウン)と日本の皇族・梨本宮方子(まさこ)妃に生まれた高貴な皇子の李晋だというのである。李晋は朝鮮で毒殺されたとされるが、密かに陸軍特務機関により救出され、安倍晋太郎として育てられたと言うのである。

出生の秘密を知る岸信介は、安倍晋太郎を婿同然に迎え入れ、長女・洋子と嫁がせた。岸には、京都帝大出の信和という立派な長男がいたが政治の後継者にはせず、地元の宇部興産に入社させ、後に宇部興産関連の西部石油の会長となる。岸信介の政治遺産は、娘婿の安倍晋太郎に引き継き継がせたのである。

安倍晋太郎が李晋だって・・・・・そんなバカな話と思ったが、念のためチェックしてみると・・・・どうも・・・・きな臭さが漂うのである。それは流言飛語というものでなく、火のないところに煙は立たずといった匂いである。

旧日本陸軍の「特務機関」と軍閥は、満州国樹立と日韓併合の原動力になっていた。岸信介は、商務省官僚から東条英機内閣の大臣まで務めたが、満州の関東軍幹部・軍閥と結託し、満州経営の名目の下で、アヘンを含めた巨額の闇資金を動かした妖怪の一人とされる。この岸信介の長女・洋子が安倍晋太郎に嫁ぎ、晋三が生まれる。晋太郎と洋子の結婚そのものが、そもそも怪しいのである。

なぜなら岸信介と晋太郎の父の安倍は衆議院議員だったが、国粋主義者の岸信介に対して、安倍寛は立憲民主主義のリベラリストで戦争反対を貫く政治的信条が真逆だったからである。晋太郎が東京帝大在学中の1946年(昭和21年)129日父の寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には育ての親ともいえる大伯母ヨシが死去している。安倍家は大庄屋の名門だが、晋太郎には後ろ盾もなく、毎日新聞の記者となっていた。東大法学部卒と言えば。高級官僚か司法の道か、末は大臣か学者かのエリートの登竜門である。新聞記者になる東大法学部卒は極めて珍しい。安倍晋太郎が権力を監視する新聞記者を志した動機は、多分に父のリベラル志向が影響していたのではないだろうか。

また岸信介の娘ともなれば、政治家を目指すエリート官僚が山ほどいたはずである。新聞記者の安倍晋太郎
に嫁がせる意図がわからない。岸家と安倍家は同じ長州とはいえ、政治信条が異なる安倍寛の息子に、なぜ洋子を嫁がせたのか?は疑問が残る。

しかし岸信介は、国家機密である晋太郎が李王朝と、日本の皇室の血を受け継ぐ高貴な李晋だと知りうる立場にあった。晋太郎と洋子の婚姻により、岸家は旧皇族の梨本宮家、朝鮮王朝家、旧鍋島侯爵家と閨閥関係が出来るからである。晋太郎は、岸信介の娘婿となってから、リベラルから国粋主義者に変身する。岸信介から出生の秘密を明かされて変身したのだとすれば、国粋主義への転向は分かりやすい。

安倍晋太郎は、岸信介の跡目を担う政界のプリンスと呼ばれたが、実父のリベラル派ではなく、岳父信介の国粋主義と、朝鮮由来の統一教会・勝共連合のパイプ役を継承している。晋太郎は反共独裁体制だった韓国政界とも太いパイプを持ち、親韓派と言われていた。また晋太郎の福岡事務所は、パチンコで成功を収めた在日コリアンが経営する本社のビルにあり、その在日コリアンとの癒着に疑惑がもたれていた。晋太郎が親韓派となったことも、DNAの半分が朝鮮李王家だとすれば理解できる。

このように安倍晋三の父・晋太郎の出生には、隠された秘密が見え隠れする。詳細は後述するが、晋太郎の生みの親の旧姓本堂静子は、晋太郎を生んだ8か月後に離縁されたが、静子の祖父は、長州軍閥の陸軍大将・大島義昌で、日韓併合と李王朝にも深く関与していた。

私が到達した結論から言えば、李晋と晋太郎の出生の秘密を解くカギは、晋太郎の生母とされる本堂静子が握っている。当時の皇族は自分では子育てをしない。生後8か月で、李晋は毒殺され、期せずして晋太郎は母を失った。8か月と言えば母乳から離乳食に代わる時期で、母乳がなくても子は育てられる。静子は、長州閥軍人のトップの陸軍大将大島義昌男爵を祖父にし、陸軍軍医監(少将)本堂恒次郎を父とする。静子は、梨本宮家から李方子(まさこ)妃の侍女として李王家に派遣され、李晋の御守役を担ったとすれば、李晋と晋太郎はむずびつく。出産・子育ては、母系が担うのが日本の習慣だった。方子妃の母の梨本宮伊都子(いつこ)妃は、旧佐賀藩主・鍋島直大侯爵令嬢だった。そして、なぜか安倍晋太郎を生んだ安倍静子は、生後8か月の晋太郎を残し離縁される。離縁後、40歳以上も年の離れた鍋島家の家令の西村謙三の後妻として佐賀で暮らすことになる。鍋島伯爵家は終生、鈴子の面倒を見たのである。このように静子は李晋と晋太郎の出生の秘密の一部始終をを知る生き証人だった…とすれば、鍋島伯爵家が静子を幽閉同然に佐賀に連れ去るのも合点がいく。

詳述する前に、私は朝鮮系民族の排斥や差別観は持っていない。国立遺伝学研究所による縄文人の核DNA解析によれば、縄文人のDNAはホモ・サピエンスの集団の中でも最古級の系統に属する。きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だった。しかし現代の関東の日本人は、遺伝情報の約12%しか縄文人のDNAを受け継いでおらず、西日本は縄文人の影響がさらに少ない。私を含めた日本人は、古墳時代までさかのぼれば、ほぼ朝鮮系渡来人といっても過言ではない。故に岸・安倍家が朝鮮系だとしても、それが統一教会と清和会の結びつきに繋がる根拠にはならないことを前提に、噂の真相を分析してみたい。以下の記載は、ほとんどウイキペディアの引用によるもので、根拠となるファクト・チェックはしていない。丹念に探しても証拠は隠滅され、公文書では残されていないだろう。従って真偽は不明で、私の妄想の類と疑っていただきたい。

1,        岸家のルーツ

岸信介と佐藤栄作は実の兄弟で、岸信介は実父が佐藤家に婿入りしたため実父の岸家に養子に出された。この岸家の由来は、朝鮮の李王朝の「李」→(上下に分解して)「木」「子」→キシ→岸に転化したというものである。キシの由来は、5世紀に新羅(現在の北朝鮮地域)の渡来系氏族が、難波周辺を本拠としていた難波吉士(きし)の一族とされる。そうだとしても1600年も昔のことで、岸信介の政治信条に影響を与えたとは考えられない。

岸は東京帝大時代に国粋主義者の北一輝と大川周明の思想に感化され、商務省入省後、1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任した。この間に満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関(関東軍傘下の甘粕正彦と共に諜報、宣伝、宣撫の活動を担当する民間機関)の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築くとともに、山口県同郷の鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」を結んだ。この間に、岸はアヘン密売などの裏金を得て財を成したと言われる。政治家になってからも<政治はカネ>を信条とし、満州時代に築いた人脈をもとに、潤沢な政治資金で政治を操作した。

2,        安倍晋太郎は李王朝の末裔?

安倍晋三の父親の晋太郎は、李王朝の末裔の李晋だとの噂の真相を探ってみたい。そもそも、李晋とは何者なのか。安倍の父も祖父も晋の付く名前はなく、なぜ晋太郎・晋三と晋を受け継いたのか。李晋と関係ないのか。など晋太郎の出生に関係する親族の来歴から、晋太郎と李晋が接点を持つものかどうか検証してみたい。

2-1  李晋は、最後の朝鮮李王朝の王世子

李 晋(り しん)は、李王朝皇帝の李垠の第一子である。母は日本の皇族・梨本宮方子(まさこ)妃である。李垠は、李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した1897(光武元年)に初代大韓帝国皇帝(李氏朝鮮26国王高宗の皇太子である。1910年(隆熙4年、明治43年)に行われた日韓併合によって、李晋は高宗、純宗、純貞孝皇后とともに日本の皇族に準じる王族となり、李王(純宗)の王世子となった。

李王朝の皇太子・李垠は、幼い時から人質同然に日本に留学させられ、1915年(大正4年)65日、士官学校卒業後に近衛歩兵第2連隊に配属され日本陸軍将校となった。1916年(大正5年)8月に皇族の梨本宮守正王・伊都子妃(鍋島伯爵娘)の第1女子、方子女王と婚約する。1921年(大正10年)818日に第1男子の李晋が誕生した。

1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻が生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮に里帰りした際、晋は急逝する。晋の急死には、当時より陰謀毒殺説が流れた。

李晋は、朝鮮の王族と日本の皇族の間に生まれたため、「日鮮融合」の象徴として注目されたが、李王朝内部には日本人の血が混じることに拒否反応があった。朝鮮王朝では、韓流歴史ドラマに見られるように、王族内部で皇嗣を巡る数々の毒殺の歴史が残されていた。

1922年(大正11年)423日、李王世子夫妻は生後8か月の晋を連れて東京を発ち、朝鮮を訪問する。これは、晋と李王(純宗)との対面が目的だった。2週間の滞在が終了し、帰国前日の58日の夜、別離の晩餐会が開かれた。晩餐会を終え、大漢門を通過して石造殿に到着する車が停車しきらないうちに、桜井御用取扱が半狂乱の状態で「若宮さまのご容態が!」と晋の急病を報告した。二人が晩餐会へ出発する直前まで機嫌よくニコニコとしていた赤ん坊の晋が、苦し気な息遣いで青緑色の液を吐き続けていた。随行の小山善侍医、総督府から志賀潔医院長、小児科医官科長も呼び寄せて応急処置がとられたが、夜が明けても茶褐色の固形物を吐き、容態はどんどん悪化し、懸命な手当てもむなしく三日後の5111512分に、晋は薨去した。死後、方子妃が晋を産んだことにより、李王朝の純血に日本人の血が入ることを拒む毒殺ではないかと陰部説がささやかれた。李王家の赤坂の邸宅は、かつての「赤坂プリンスホテル」、現在の「東京ガーデンテラス紀尾井町」の敷地の一画に、昭和51930)年築の李王家東京邸が保存されている。

2-3  李晋は安倍晋太郎か?

ところで李晋は、実は毒殺を恐れた日本軍部が密かに救出し、安倍家で安倍晋太郎として育てられたとする田布施システム説があるという。安倍晋太郎は生前、自分は朝鮮人だと明かしたというが物証は残されていない。ただ晋太郎の出生については、腑に落ちない点があり、もしかすると日本陸軍が、朝鮮での暗殺を恐れ暗躍し、李晋を救出した可能性を全否定できない気がする。当時の陸軍特務機関では、やりかねないからである。では安倍晋太郎の出生を検証してみたい。

2―3   安倍晋太郎は、生後8か月で母と離別

安倍晋太郎は、1924429日(大正13年) 安倍寛、静子夫妻の長男として東京市四谷区に生まれる。四谷と言えば、李王家の赤坂邸と目と鼻の先である。李晋が生まれた1921年(大正10年)818日の28か月後に、晋太郎は誕生したことになっている。不思議なことに晋太郎は、父親の寛と誕生日が同じである。生後間もなく四谷から郷里の山口に戻り、幼少から旧制中学までを過ごす。しかし生後8か月の乳飲み子を残し、母の静子は離別させられた。それ以来、晋太郎は母と会うことはなかった。母の静子は、陸軍軍医監(少将)本堂恒次郎の長女で、長州軍閥の陸軍大将大島義昌の孫娘という名門の娘だった。もしも李王家と静子に関係があったとすれば、静子は李晋の乳母だった可能性も考えられる。当時の皇族は、自分で子育てをする習慣がないからである。

2-4   静子の祖父の大島義昌

大島義昌は、長州藩士・大島慶三郎の長男として生まれる。戊辰戦争に従軍。明治3年(1870年)4月に大坂青年学舎生徒となり、明治4年(1871年)8月、陸軍少尉心得に任官され、歩兵第4連隊付を命ぜられる。同年中に中尉心得・大尉と進み、明治6年(1873年)5月、歩兵第1連隊大隊長を経て明治10年(1877年)の西南戦争では陸軍少佐・歩兵第8連隊第1大隊長として出征する。

西南戦後、中部監軍部参謀、仙台鎮台歩兵第5連隊長・同鎮台参謀長心得等の後、明治19年(1886年)4月、陸軍大佐に進級する。明治20年(1887年)6月、東京鎮台参謀長に就任し、明治21年(1888年)5月に東京鎮台が第1師団に改編されるとそのまま第1師団参謀長に就任する。明治24年(1891年)6月には陸軍少将に進み歩兵第9旅団長に任命される。

明治271894年)6月、東学党の乱が発端となる朝鮮出兵に派遣され、続く日清戦争では第1軍隷下に移り参戦する。この時の功により明治28年(1895年)8月、男爵を授けられ華族に列せられる。対馬警備隊司令官の後、明治31年(1898年)2月、陸軍中将に進み第3師団長に親補される。

3師団長のとき日露戦争が起こり出征する。戦後、陸軍大将に進み新設の関東総督に就任する。明治40年(1907年)9月には子爵に陞爵し、明治44年(1911年)9月から軍事参議官を兼ねた。明治45年(1912年)4月に関東都督を福島安正と代わり、改めて軍事参議官に補される。同6月勲一等旭日桐花大綬章受章。大正4年(1915年)815日、後備役に編入され、大正9年(1920年)4月、退役する。

没年:大正15.4.10(1926)である。このように静子の祖父の大島義昌は、長州軍閥の頂点に到達した名門で、静子によほどの問題がない限り、安倍家から離縁できるとは考えられない。大島義昌は孫娘静子が生んだ安倍晋太郎が生まれた1924429日(大正13年)には存命しており、長州陸軍閥の重鎮だったからである。

2-5     大島義昌と朝鮮

明治27年、1894723日、大鳥圭介駐朝鮮公使は、大島義昌陸軍少将に師団を率いて漢城に入ることを指示した。大鳥は護衛兵を率いて朝鮮王宮の景福宮へ向かった。景福宮に到着すると朝鮮軍からの発砲を受けたが、日本軍の反撃を受けると朝鮮兵は相次いで逃走し、朝鮮軍は1時間ほどで霧散した。

戦闘終了後、朝鮮王朝の臣下は多くが逃走し、国王の高宗は身を潜めていたところを日本軍に保護された]。大鳥義昌は宮廷に参内して、高宗から「(国王である自分は)日本の改革案に賛同していたが、袁世凱の意向を受けた閔氏一族によって阻まれていた」と釈明し、改革を実現するために興宣大院君に国政と改革の全権を委任する提案に同意した。

中國の清軍を朝鮮から退去させる攻撃の名分を得た日本軍は、戦争の開戦準備を始める。1894725日、朝鮮の豊島沖で日清間の武力衝突(豊島沖海戦)を契機に日清戦争が勃発し、勝利した日本は清国と下関条約を締結し、朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮半島における清国の影響を排することに成功した。この時の功績で、大島義昌は男爵に列する。

2―6   静子の父の本堂恒次郎

本堂恒次郎は、慶応元年9月生まれ。陸奥(むつ)盛岡の人。陸軍に入り、軍医として日清・日露戦争に出征。東京第一衛戍病院長,陸軍軍医学校長をへて大正2年陸軍軍医監(少将)となり,近衛師団軍医部長をかねた。大正4213日に51歳で死去しているので、静子と安倍寛との結婚は祖父の長州閥の誰かが縁を取り持ったものと思われる。

2―7   安倍晋太郎の父、安倍 寛

安倍 寛は、1894年、山口県大津郡日置村蔵小田(現・長門市油谷蔵小田渡場の庄屋だった安倍彪助・タメの長男として生まれる。4歳までに両親が相次いで死去したため、伯母のヨシに育てられる。山口県立萩中学校、金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。帝大卒業後は東京で自転車製造会社 三平商会を経営していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産してしまう。30歳を超えて本堂静子と結婚し、関東大震災の翌年に長男晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らした。当時の結婚適齢期を考えれば、静子はおそらく10代後半か、遅くても20代前半だったのではないか。

安倍 寛は、1937年(昭和12年)の第20回総選挙にて「厳正中立」を唱えて山口県一区から無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。

安倍 寛の政治信条は、平和と不戦だった。十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場を貫き、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛選挙)に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。大政党の金権腐敗を糾弾するなど、清廉潔白な人格者として知られ、地元で「大津聖人」、「今松陰(昭和の吉田松陰)」などと呼ばれ人気が高かったという。安倍 寛の主義・主張を追うと、軍人の娘に生まれた静子には相応しい相手とは思われない。静子との結婚と離婚の真相は不明である。

2-8  静子は離縁後、旧鍋島藩の西村謙三の後妻に

離婚後の静子は、教育者の西村謙三の後妻に入る。安倍晋太郎が生まれた大正13年(1924年)、西村謙三は63歳であり、、13年後に76歳で亡くなる。少なくて40歳は離れた老人との再婚である。

西村謙三は、初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である朝鮮渡来人の洪浩然の子孫、洪安襲の三男として肥前国(現・佐賀県佐賀市西田代町)に生まれ、西村家を継いだ。

東京帝国大学文学部哲学科卒業。東大卒業後、佐賀中学を振り出しに、岐阜中学、大分中学、豊津中学の教諭を経て、武生中学、滋賀中学、修猷館中学、長崎中学の旧制中学校長を歴任する。郷里に帰り、佐賀県成美高等女学校校長を最後に教職生活を終える。1914年、鍋島家が創立した佐賀図書館の館長に就任。1927年、鍋島家が創立した博物館である徴古館の初代館長となり肥前史談会を創立した。『鍋島直正公一代記』『古賀穀堂先生小伝』などを著す。

静子が、どのような縁で歳の離れた西村謙三の後妻に入ったのだろうか。晩年の西村謙三は鍋島伯爵家の執事役(教育顧問)であり、そのころに静子は西村健三の後妻に入った。旧鍋島藩士西村謙三と静子の結婚を橋渡ししたのは誰なのか?

そこに登場するのが、梨本宮方子(まさこ)の母、李晋の祖母の梨本 伊都子(なしもと いつこ)である。伊都子は、鍋島直大侯爵令嬢に生まれる。

鍋島直大侯爵令嬢伊都子に生まれた梨本宮方子、方子の息子の李晋、安倍晋太郎を生んだ安倍静子、静子の再婚相手の西村謙三とは、鍋島伯爵家でつながっていた。晩年の西村謙三は、旧佐賀藩主鍋島家の家令として仕え、そこに縁もゆかりもなく、40も歳の離れた静子が後妻に入った。後妻というより養女の年の差である。これはあくまで仮定の話だが、李晋と安倍晋太郎は、朝鮮帰国時の毒殺を恐れダミ―として入れ替えられ、毒殺されたのが安倍晋太郎で、李晋は安倍晋太郎として育てられた。生母の静子は実の子を失い、失意の中で李晋を育てることが出来なかった。入れ替えた事実の発覚を恐れた軍部と李方子の母の伊都子は、生家の佐賀の地に。いわば幽閉同然に静子を匿ったのではないか。それには鍋島家に実直な西村謙三が最適だった。西村謙三の初代は、初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である朝鮮渡来人の洪浩然だった。洪浩然は鍋島勝茂の死去に殉死した忠臣の一人だった。佐賀鍋島藩の武士道「葉隠」の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の儒学思想に洪浩然は多大の影響を与えた。

2―9 梨本宮方子の母 伊都子(いつこ)は鍋島伯爵家の令嬢

梨本宮 伊都子は、明治15年(188222日)に鍋島直大侯爵令嬢に生まれる。1882年(明治15年)22日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保伯爵の五女・榮子。「イタリア(伊太利亜)の都の子」の意味で伊都子(いつこ)と命名される。生後7か月目に一家は帰国し、東京府麹町区永田町二丁目1番地(現在の東京都千代田区永田町)の鍋島本邸で育てられた。

1896年(明治29年)1013日に明治天皇の裁可を得て梨本宮守正王との婚約が決まり、1017日に結納。1900年(明治33年)1128日に守正王と結婚し、守正王妃伊都子(梨本宮妃伊都子)となる。

1947年(昭和22年)1014日、皇籍離脱して梨本伊都子(なしもといつこ)となる。皇籍離脱後も旧皇族として矜持を保ち続け、最後の貴婦人と呼ばれた。

1958年(昭和33年)、皇太子明仁親王と民間人の正田美智子の婚約には、香淳皇后(昭和天皇の皇后)や、伊都子の妹で常磐会会長の松平信子、姪の秩父宮妃勢津子らと共に強く反発した。発表が行われた1127日付けの日記には、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」と記している。1976年(昭和51年)819日、94歳逝去した。

3、  安倍晋太郎は李晋なのか。

安倍晋太郎は、李晋より2年も後の1924年〈大正13年〉429日生れである。しかし当時の出生の真偽は確かめようもなく、安倍晋太郎は、朝鮮に帰省する李晋の毒殺を恐れた軍部により、李晋の影武者(替え玉)に安倍晋太郎を朝鮮に同行させたと考えても不自然ではない。無事、日本に帰国した暁には、また取り換えれば済む話だからである。だが軍部の予感通り、李晋こと替え玉の安倍晋太郎は朝鮮で毒殺されてしまった。いまさら替え玉だと公表する訳にもいかず、李晋は安倍家の晋太郎として育てられたのではないか。生母の静子は、実の子が毒殺され、赤の他人を育てることに耐えきれず安倍家を飛び出した・・・・とすれば乳飲み子と8か月で別れた理由もわかる。

或いは、李晋の御守役だった静子は、8か月で毒殺された李晋と同じ8か月の晋太郎を重な合わせ、自責の念から子育て放棄し離縁されたとも考えられる。不憫に思った鍋島家が佐賀に養生させたとも考えられる。いずれにせよ、静子が佐賀で再婚する理由は他に見当たらない。

日本政府は、事実を公表すれば、朝鮮の対日感情をさらに悪化させることを恐れ、国家最高機密として封印することにした。これを知る軍部のトップが静子の祖父の大島義昌(陸軍大将)であり、長州閥の岸信介らごく一部だったのではないか。岸信介が安倍晋太郎を娘婿に迎え入れ、我が子を差し置いてまで、政治の後継者に育てた意図はそこにあったのではないだろうか。

4、  政治家としての安倍晋太郎

1951年(昭和26年)5月、岸信介の長女・洋子と結婚。1956年(昭和31年)1223日、石橋湛山内閣が成立。岸が外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となった。岸内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていた。

1958年(昭和33年)郷里の旧山口1区(定数4)から自民党公認を得て立候補。安倍が出馬したことにより、地元の旧日置村では、父の安倍寛の地盤を継いだ周東英雄を推す主流派と、安倍派に分裂したが、2位で初当選する。

1963年(昭和38年)総選挙では落選。義父である岸信介元首相、佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の周東英雄の後援会長を務めていた山口県下関市水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えた。藤本万次郎は、幼少時は対岸の熊毛郡田布施町の岸信介と共に「熊毛の神童」と呼ばれた。

1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲く。

1969年(昭和44年)の総選挙は、周東の後継者として元通産省職員の林義郎が立候補。林の父親で、サンデン交通社長の林佳介は安倍の後援会長を、母親も安倍の婦人部の会長を務めていた。しかし林義郎が出馬したことから林家傘下の山口合同ガスなど下関市の有力企業のほとんどは林の支援に早変わりした。苦戦を強いられるもトップで当選を果たす。

下関市では「異端者」であった安倍は幅広い層からの支持や支援を必要とした。そこで同市に多い在日コリアン系の人々がその一翼を担うこととなった。山口県在日本朝鮮人商工会会長などを務めた朝鮮総聯系の呂成根、パチンコ業界大手の七洋物産創業者の吉本章治などからの支援を受けた。安倍の第六高等学校時代の同級生に、釜山日報、KBSなどの社長を務めた崔世卿がおり、安倍は在日コリアンに対する偏見はなかったと言われている。

「国際勝共連合」・「統一教会」と協力関係を持っていた岸信介のパイプを継承し、「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた[」と言われている。1999年(平成11年)には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じている。統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援し、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。

5.    李王世子垠と妃・方子女王の第二子の李 玖  

李晋の死後10年目に、李王世子垠と妃・方子女王の第二子の李 玖(り きゅう、イ グ、 、)が生まれている。王公族としての身位は王世子、敬称は殿下。上皇とは久邇宮朝彦親王を曾祖父とする又従弟に当たる。第二次世界大戦後、日本国憲法施行に伴い王公族の地位を喪失し、日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した。

もし、安倍晋太郎が李晋だとすれば、実弟となるが、顔は似ていない。李 玖の詳細は、李玖 - Wikipedia を参照ください。

という訳で、世にも不思議な物語は終わります。昭和の妖怪と呼ばれた岸信介。満州国の愛新覚羅 溥儀、朝鮮王朝の李家、日本の天皇家は時代に翻弄され数奇な運命を辿った。皇室を権力の道具に使った陸軍長州閥。関東軍の特務工作を担った甘粕正彦。魑魅魍魎、権謀術策がうごめく妖怪が跋扈する時代だったことは間違いない。