ホラー短編小説「木目」Part.11
第11話「増殖する傷」
ドアが開かなくなったことで
室内は完全な密室になっていた。
逃げ場のない絶望が
二人を包み込んだ。
ジャーーーーッ!
静まり返った部屋の奥から、
激しい水音が響き渡った。
ユニットバスのすりガラスの向こう、
誰もいないはずのバスルームで、
突然シャワーが勢いよく噴き出したのだ。
「いやあっ!」
鈴木が両耳を塞いで悲鳴を上げる。
「鈴木、離れてろ!」
山田は床に落ちていたカッターナイフを拾い上げ、
バスルームのドアを蹴り開けた。
ピタッ。
開けた瞬間、
あれほど激しかったシャワーの音が、
嘘のように鳴り止んだ。
バスタブの中は
完全に乾ききっており、
水滴ひとつ落ちていない。
誰もいなかった。
「……錯覚……?」
山田が呆然とカッターを下ろしかけた、その時。
ゴボボボボボボッ!!
今度は背後にあるトイレから、
勢いよく水が流される音がした。
「きゃあああっ!」
鈴木が腰を抜かし、
床にへたり込む。
「クソッ!」
山田は血走った目で振り返り、
トイレのドアノブを
乱暴に回して引き開けた。
ドアを開けた瞬間、
音は消え失せた。
便器の中の水は、
波紋一つ立てずに静まり返っている。
誰もいない。
どこにも隠れる場所などない。
山田は、カッターを握ったまま、
震える肩で荒い息を吐いた。
この部屋の「空間そのもの」が、
見えない怪異に侵食されている。
どこから何が来るかわからない。
いや、すべては
あの「模様」が引き寄せているのだ。
ならば――。
カチカチカチッ。
カッターの刃が突き出される金属音が、
静まり返った室内に響いた。
「山田さん……やめて!」
鈴木がヘッドボードに背を押しつけ、
怯えた声を上げる。
山田は片膝をついてベッドに乗り上げ、
鈴木の膝元のシーツに、刃を這わせた。
「ほら、綺麗にしてやる。
真っ白に、するんだ」
狂ったように刃の腹でシーツを撫でつけ、
皺を伸ばしていく。
鋭い刃先が、
鈴木の太ももの、
ほんの数センチ横をかすめる。
「ひっ……」
鈴木は目をギュッと閉じ、
顔を背けた。
「……次は、君の髪だ」
山田の焦点の合わない視線が、
鈴木の乱れた前髪に向く。
「その髪の、カーブ……複雑すぎる。
何かの形に、なりそうだ。
真っ直ぐに、しないと」
カッターを握った右手が、
ゆっくりと、鈴木の顔へ伸びてくる。
「やめ……いやッ!」
刃が顔に触れそうになった瞬間、
鈴木は生存本能の力で、
山田の胸を両手で突き飛ばした。
「ぐわっ」
不意を突かれた山田はバランスを崩し、
ベッドから後方へよろめいた。
もつれた足がパイプ椅子に引っかかり、
その体が、無防備に真っ白な壁へ激突する。
ズバァンッ。
鈍い衝突音とともに、
山田の右手のカッターが、
白い壁紙を、斜めに深く切り裂いた。
石膏ボードまで達する、深い傷。
真っ白で無機質だった壁に、
長さ数十センチの、
黒々とした「裂け目」が口を開けた。
山田は、壁に背を打ちつけた痛みよりも、
目の前にできたその「黒い線」に、
全神経を奪われた。
「違う、俺じゃない……
こんな模様、あってはならない……!」
四つん這いになり、
震える指で裂け目を塞ごうとする。
しかし、めくれた壁紙は元には戻らない。
押さえつければつけるほど皺が寄り、
影の形が、いびつに変化していく。
――見える。
壁の傷と皺が、
誰かの輪郭に。
見開かれた目に。
苦痛に歪んだ口元に。
「消えろ!
消えろ消えろ消えろっ!」
山田は発狂したように叫び、
床のカッターを拾い上げた。
模様を消さなければ。
このままでは、予言が結像する。
鈴木が、死ぬ。
壁の裂け目へ向かって、
めちゃくちゃに刃を突き立てた。
ガリッ、ズバッ、バリバリッ。
壁紙が剥がれ落ち、
石膏ボードが削れ、
白い粉が宙を舞う。
だが、削れば削るほど傷口は広がり、
断面はより複雑で、
グロテスクな陰影を生み出していく。
「ああああっ!
なぜだ!
なぜ増える!」
山田の狂乱は止まらない。
壁から振り返れば、
ベッドの上の鈴木が目に入る。
彼女が恐怖で身を縮めているせいで、
真っ白だったシーツに、
無数の皺が寄っている。
「そこにもある!
皺だ、模様だ!」
山田はベッドに飛びかかり、
鈴木を避けて、
シーツに刃を突き立てた。
ビリィッ。
布が引き裂かれ、
斑のマットレスが顔を出す。
山田は完全に理性を失い、
部屋中の「模様に見えそうなもの」を、
次々と破壊し始めた。
カーテンを切り裂き、
枕の中身をぶちまけ、
カーペットを引っ掻き回す。
飛び交う羽毛。
舞い上がる白い粉。
引き裂かれる布の音。
そして、山田の獣のような喘ぎ。
――数十分後。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
息も絶え絶えになった山田は、
カッターを取り落とし、
部屋の中央で膝をついた。
鈴木は部屋の隅でうずくまり、
両耳を塞いで震えながら、
恐る恐る目を開けた。
そして、絶望で
目の前が真っ暗になった。
あんなに無機質で
清潔だった真っ白な密室は、
見る影もなかった。
部屋中のあらゆる表面が、
無数の切り傷、
剥がれた壁紙、
裂けた布の切れ端で、
覆い尽くされている。
それはもはや――
一つの、巨大な「模様」だった。
「あ……ああ……」
山田もまた、
自分が作り出した惨状を、
呆然と見回していた。
無数の傷跡が折り重なり、影を作り、
山田の目に、
いくつもの「顔」となって迫ってくる。
模様から逃げるために、
山田は、部屋いっぱいの模様を、
自らの手で生み出してしまったのだ。
「……朝だ」
山田が、虚ろな声で呟いた。
ズタズタに引き裂かれた遮光カーテンの隙間から、
薄青い夜明けの光が、部屋の中へ差し込み始めていた。



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