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新宿決戦後、日車寛見は半月ほど高専での療養を半ば強制的にさせられ、その後自首をした。二十三日間の勾留期間を経て嫌疑不十分で不起訴処分とされたが、事前に日車は事務所の元部下である清水に、不起訴となった場合は遺族の代理人となって検察への異議申し立てを行うよう頼んでいた。
「遺族の代理人として日車さんをぶち込んでみせます!」
そう言って右の拳を掲げた清水の目には涙が溜まっていたが、彼女はそれをすぐに拭い、赤い鼻を啜って「頑張りますから」と笑った。
日車は東京にいる間、ありとあらゆるメディアに触れず、スマートフォンの電源もいれていなかった。故に、清水から聞くまで知る由もなかったのだか、彼の勾留に先立ち、大江圭太の再審が行われていた。
それも日車から引き継ぐことを余儀なくされていた清水は見事無罪を勝ち取ることとなる。母子殺害の真犯人が見つかったのだ。大江と同じNPO法人に勤めていたが事件発生後行方不明となっていた男が他県で発見され、彼が身を潜めていたホテルの一室からは、被害者宅から盗んだ現金やアクセサリー類が発見された。故に、差し戻しではなく、二審の再審となった。再審自体が非常に稀であり、また今回は二審判決から再審までが約二ヶ月、かつ、公判が計二回、初公判から判決まで僅か一ヶ月となった異例であったため、大々的にニュースとなった。
さらに日車の不起訴が確定し、釈放から三日が経過した頃、彼が手をかけた検察官と裁判官の間に贈収賄が発覚した。それも単発ではなく、過去に複数回あったことが明らかだった。中には無期懲役と死刑判決のものも含まれており、いずれも一審の無罪判決を二審で覆していた。その情報はやはり大ニュースとなり、釈放後の日車の耳にもすぐに入ってきた。
世論は一変して彼をヒーローに仕立て上げた。彼の事務所には何百通と手紙が届き、電話はひっきりなしに鳴り響いていたが、彼にはそのどれもが異国の地で起きたことのように感じられていた。
◆◇◆
「ご遺族は今後、起訴も民事訴訟も示談も望まないとのことでした」
清水は静かに遺族の意向を告げた。告げられた日車は彼女をじっと見つめ、そうか、と短く返事をする。
日車の釈放から一週間が経過した日の午後、彼らは事務所のソファ席でテーブルを挟んで向かい合っていた。
彼の荷物が全て片され、かつて彼が昼夜問わず仕事をしていた事務所はやたらと広く見えた。何も置かれていない日車のデスクとは対照的に、清水のデスクはブックスタンドだけでは支えきれなくなった書類やファイルが山積みになっている。遺族代理人として検察審査会へ異議申し立てを行うには、それ相応に時間と労力がかかる。同時に複数件の仕事を並行処理していた清水の目にはさすがに疲れが滲んでいた。
「窶れたな」
「日車さんほどじゃないですよ」
清水は眉を下げて力なく笑うと、手元のファイルから水色の封筒を取り出した。
「大江さんから手紙を預かってます」
封筒には丁寧な文字で、日車寛見先生へ、と書かれており、封筒の端には水を数滴垂らしたような跡があった。
「先生は勘弁してくれと言ったはずなんだがな」
日車が手元の封筒から再び正面に座る清水に視線を戻すと、彼女は何か言おうとしたが言葉には出さず、代わりに唇を震わせ、それが、きゅ、と結ばれた次の瞬間には大粒の涙が頬を伝った。
「ひぐっ…ひっ………ひぐるまざん…っ」
日車はスーツのポケットから几帳面に折りたたまれたハンカチを出し、清水に手渡す。清水はしゃくりあげながらハンカチを受け取って両手で目を強く抑えたが、涙はとめどなく流れ出て、一向にハンカチを日車に返せなかった。
泣きじゃくる清水を見つめながら、日車は彼女が初めてここを訪れた日のことを思い出していた。
◆◇◆
「本日はご多忙中お時間をいただき、ありがとうございます」
そう言って腰を折った、真新しいグレーのスーツに身を包んだ彼女は、普段はもう少し明るい髪色なのだろうと想像できる黒い髪をひとつに纏めていた。パンプスも下ろしたてだったのか、彼女の踵にはすでに靴擦れができており血が滲んでいた。日車が事務所の客用ソファに案内すると同時に大判の絆創膏を渡してやると、清水は大きく頭を下げて礼を言い、その拍子に彼女の髪についていたのであろう桜の花弁がはらりと落ちた。さらに絆創膏をその場で貼っても良いものかと非常に分かりやすく悩んでいたため、日車は少し笑ってしまった。
「初めての裁判傍聴が、日車先生の弁護だったんです」
彼女は通されたソファ席でそう言った。結局、左右の踵には日車にもらった絆創膏が一枚ずつ貼られていた。
「大学で噂には聞いていました。先生方からの評判も。でも実際に目の当たりにして衝撃を受けたんです。こんなにも、このバッジに恥じない弁護士がいるんだと」
日車の胸元につけられた、向日葵を模した記章を見つめながら清水は語った。日車がどの裁判のことだろうかと尋ねると、彼女は裁判の概要と、最終的に無罪を勝ち取るに至った日車の陳述を述べた。日車はすぐにあれか、と合点がいった。
清水の口からは既に予備試験は通っており、次の七月に司法試験を受験する予定だとも付け加えられた。
「雑用でもなんでもします。来年度から日車先生と一緒に働かせていただきたいです」
日車は話を一通り聞き終えてから提出された履歴書をファイリングし、もうニ枚予備の絆創膏を差し出しながらこう言った。
「就職したら先生は勘弁してくれ。日車でいい」
◆◇◆
死滅回遊後、それまで公にはされていなかった呪術師の存在は明るみに出ざるを得なかった。全国のコロニーは何百万人もの目撃情報があり、都市部の建物の損壊なども誤魔化しようがなかったのだ。加えて、どこから流出したのか、新宿決戦の動画の一部は今ではSNS上に出回っている。もちろんそこには参戦していた日車も映っており、故に彼は身の回りの人間への説明がある程度省け、嘘をつくことをせずに済んだ。
事務所の中が夕陽に照らされる頃、ようやく落ち着いた清水が「もう戻ってこないんですか」と、ぽつりと呟いた。泣き腫らした目は瞼が浮腫み、アイラインが目尻に滲んでいる。日車は、すまないな、と謝る。
「私の台詞です」
「君が謝ることは何もない。現行の法制度では、裁ききれない罪がいくつもある。俺の罪も含めてだ」
日車は胸ポケットから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。日車が開けるように目で促すと、清水はそっとその小箱を開く。
「君は俺みたいになるなよ」
中にはくすんだ小さな向日葵が咲いており、橙色に輝きながら彼女を見つめていた。
◆◇◆
日車寛見先生へ
日車先生、お元気ですか。時候の挨拶を書きたかったのですが、僕に教養がないばかりに書けませんでした。ごめんなさい。
僕は日車先生と清水先生のお陰でなんとかやっています。今は青森にある祖母の宅にお世話になっています。猫も一緒です。
この手紙は、日車先生に謝りたくて書きました。
僕は、先生に初めて会った時に、少し先生のことが怖かったです。僕の人生で犯してきたいくつもの過ちを、全て知っていそうに見えたから。小学生の頃、野球をしていて近所の家の窓ガラスを割ってしまったのに走って逃げたことや、好きだった女の子の消しゴムをこっそり盗んだことや、学校のトイレに小さく落書きをしたこと、その他にも、全てを知っていそうな気がしました。先生の目は全てを暴いてきそうな迫力がありました。
でもあれは、全てを知っている訳ではなくて、知ろうとしてくれていたんだと後から気付きました。僕のことを知ろうとしてくれて、その上で信じてくれたんだと。
なのに僕は、二審で判決が覆った時に勝手に先生に裏切られたような気持ちになりました。先生はずっと僕を信じてくれていたのに。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。
僕は一生、先生のことを忘れません。
でも先生が、僕のことを思い出して辛くなるようなら、忘れてください。
これは僕の勝手なお願いですが、どうか元気でいてください。
大江圭太