欠如なく満たされ切った観客席。暗転からの、凄まじき白光、大音量。五色のライトとポップなハーモニーで幕を開けた舞台が大歓声で包まれる。銀髪のショートカットの美少女ヒロインがステージに現れた瞬間、一層湧き上がる歓声。新入生の少女リリィは歴史ある名門校の内部で戸惑いと期待を胸に抱きながら、これより如何なる学園生活が待ち受けているのかと呟いた。少女の可憐な声がマイクに吸い込まれ、スピーカーから放たれていた、その直後。一層激しい火花が舞い上がる。アップテンポのテーマ曲。青一色のライトが無数に放たれたことで、会場の熱量が一層質量を上げた。
迫り上がりステージから、青を基調とした服装、黒髪の美青年が登場した途端。爆発的な熱狂が巻き起こった。
「跪けよ庶民共。俺こそが学園の頂点、アーサー・ブラウン様だ」
国内有数の大貴族の御曹司、聖アリアンナ学園の学級委員長。作品内人気トップを誇る主人公アーサーを演じるのは、子役時代から天才と謳われ続ける美形若手俳優、伏黒恵であった。
事務所の会議室内で日車は冥冥から直接的に出演依頼を持ちかけられていた。フリーとなる前に同事務所に所属していたこともあり、彼女は現在も時折内部に足を踏み入れていた。冥冥がこの日、持ち運んできた案件とは、現在連載中の少女漫画『純潔な乙女』の実写化舞台のメインキャストであった。
名のある高家な貴族の子孫が集う国内有数の名門校。平凡な庶民でありながらも新たな生活に憧れ、勉学の成績と努力のみで門を潜った少女リリィ。そして校内でもトップクラスの美青年と謳われる四人の男子生徒、アーサー、レオンハルト、チェイス、ファウストと様々な恋愛体験を重ねてゆくという、王道ラブコメディーである。
「君にはファウストというキャラクターを演じて欲しいんだ。彼はなかなかに特徴的な設定でね、暗殺を生業として代々王族に仕えてきた一族の嫡男なんだ」
「何故入学出来たんだ?」
「暗殺の腕は一族内でも随一と言われていてね、最もナイフの扱いに長けているから常に携帯している」
「銃刀法違反では?」
全身イラストが印刷された紙面がテーブルに置かれる。荊をモチーフとした、所々にベルトが巻き付けられた黒衣。紫色の、癖のある長髪を片側に無造作に垂らし、襟足と側頭部の数本をドレッド状に束ねている。中でも特徴的であったのは、服装と同じく荊模様が刻まれた、顎から鼻まで広範囲を覆う黒マスクであった。
「ファウストは幼い頃に左頬に大きな裂傷を負ってね。後遺症で口を上手く動かせなくなり、綺麗に言葉を発せられなくなった。以来彼はこのようなマスクを着用し、他人と話さなくなったんだ」
「ほう」
ビジュアルを見下ろす日車の瞳に明瞭な好奇心が宿った気配を、冥冥は見逃さなかった。
「そそられるだろう? 少々前に声だけで演技をする体験を得たようだが、声を用いずに演技をした経験はないはずだ」
「その通りだ」
「話せない、目元以外に表情を見せられない、この条件下で他三名の美貌溢れる美青年と張り合わないといけない訳だ。非常に高等な演技力が試される、なので君以外の適役が見つけられず困っているんだ。協力してくれるかい?」
「引き受けよう」
冥冥の美しき表情に笑みが滲む。
「ふふ、即決とは。こちらとしては実に有難いが、そう易々と引き受けてもいいのかい? 原作にすら目を通していないというのに」
「君の采配であれば異論はない」
「そこまで信頼されていたとは、嬉しいよ」
早速テーブル上に大きく膨らんだ紙袋を置いた。
「現在まで販売されている単行本全巻だ。台本も明日までに届くように手配しておく。君の活躍に期待しているよ」
「その期待に応えられるよう努力しよう。宜しく頼む」
女監督と役者が卓上で握手を交わし合った。
自宅に戻り早速単行本に目を通していた日車の元にコーヒーを運んできた日下部が口を開く。
「また冥冥の依頼受けたのか? お前も随分と気に入られてんなぁー」
「『TETRAGON』の続編を虎杖も待望しているからな、彼女とは友好な関係を築いておきたい」
「まぁーた虎杖かよ、口開いたらすぐそれだよ」
「役柄に興味を引かれたのもある。大体、冥冥の優秀さに関しては君の方が良く知っているだろう」
「俺は誰が監督だろうが2.5次元なんざ絶対にごめんだね」
『純潔な乙女』は多数の女性ファンを獲得している人気作品である。特に四人のイケメンキャラクターが人気を集めており、既に彼らを中心とした数々のグッズ展開が為されている。その舞台となれば膨大な収入が得られるだろうが、一方で失敗した際の批評が凄まじい。演者にとってもハイリスクハイリターンな案件である。日下部が忌避するのも無理はなかった。
ソファに腰かける日車に並ぶように腰を降ろした直後。日下部の携帯から通知音が鳴り響き、画面を開き確認する。
「おっ、寛見。冥冥から俺にも依頼が来たぜ」
「君にもか?」
「演技指導やってくれってよ。よーし、舞台に上がらなくていいし冥冥にも借りを返せる、引き受けない手はねーな」
おそらく冥冥も、日下部であればこうした反応をすると見越した上で依頼を持ちかけたのだろう。即座にメッセージを送り。
「よろしくな」
「こちらこそ」
互いに拳を軽くぶつけ合う。テーブルに広げられた単行本全巻のうち、第一巻を手に取って、口の中でコロコロと飴玉を動かしながら内容を確認し始める。
「俺に頼むってことは、アクションも結構あるってことか? 絵柄的にあんまそんな雰囲気ねぇけど……にしても全体的に細くてほわほわしてんなぁー、俺とは縁の遠い世界だぜ」
日下部が序盤を読んでいた隣で、最後の巻まで読み終わった日車が勢いよく本を閉ざして。
「減量!」
不意にそう宣言してきたのである。
「ん?」
「俺はファウストを演じる予定になっているんだ。ここに描かれている」
「こいつ?」
「他のキャラクターデザインと比較しても明らかに体の細さが強調されている。先程ネット上での評価も軽く確認したが、特にウエストの細さを賞賛する声が多かった」
「はぁ……」
「今の俺の体型では話にならない。よって本日より減量生活を開始する」
真剣な表情で、ずびりと意気込むように日下部の顔を指差す。
「マイナス20キロ!」
「却下」
「……25キロ?」
「なんで更に下に行こうとするんだよ……バカかお前は……っ」
眉を顰めながら呟いてくる日車の顔を、歯を食い縛りながらギロリと睨みつける日下部。
「公演はいつくらいなんだよ」
「四カ月後を目標にしていると……」
「15キロ。それが限度だ」
「……18キロ」
「ダメ!」
「17キロ!」
「ビタ一文まけねぇからな!」
腕を組みながら本格的な説教モードに移行してゆく。
「お前全然分かってねーだろ、舞台やるキツさを。宿儺の時みたいに一回だけじゃねーんだよ、だいたい一ヶ月間ぶっ通しでやり続けんだぞ? 無茶なダイエットして体力削られた状態じゃ無理だろ。お前みたいに一回一回全力投球しちゃうような奴は特に!」
「むぅ……」
「そんな無茶しなくても体のラインなんて衣装に一工夫したりコルセット巻くとかしたら多少なんとかなるんだよ。だから減らすなら15キロまでな。食事管理と運動メニューの設定は俺がしてやるから」
日車の瞼が意外そうに持ち上がる。
「出来るのか?」
「役作り上何かと必要だったからよ。若い頃に色々勉強して、偶に弟子のトレーナー役になったりしてな」
「君は……本当に頼りになるな……!」
「伊達に長くこの業界で経験積んでねーんだよ」
得意げに呟く日下部の隣で目を輝かせる日車。また一つ恋人兼相棒への尊敬を深めることとなった。
「じゃあ今日の晩飯から始めとくか?」
「ぜひ頼む」
「その間俺はお前と飯食わねぇようにするからな」
「そこまで俺に気を遣わなくてもいい」
「やり始めたら結構キツイんだぞ、自分が腹減ってるのに他人が食ってるの見せつけられるのは。いいから言う通りにしとけ」
「……了解した」
「なんでちょっと不服そうなんだよ……」
「別に」
ふい、と軽く目線と顔を逸らす日車の様子を眺めつつ、こいつも随分と分かりやすい反応するようになったなぁ……と感想を抱く日下部であった。
明るく負けん気が強い性格ながらも、誰よりも深く他者を思いやる純粋な心を持つヒロイン、リリィ。
王族と血の繋がりを持つ大貴族の御曹司であり、全分野において首位の成績を収めるも、非常に高慢で性格に難ありとされる主人公、アーサー。
近年より平民から貴族に成り上がった一族の長男であり、裏表の無い力自慢のお人好し、出自についてリリィにも深い共感を示す好青年、レオンハルト。
国内で最も古き歴史と伝統を持つ大貴族の嫡男であり、品性と博識に溢れ、その大人びた人格から多くの人望を集める美青年、チェイス。
古くより王族に仕え国政を影より支え続けてきた暗殺一族の跡継ぎであり、何人もその素顔を目の当たりにしたことはなく、深い謎に包まれたミステリアスな青年、ファウスト。
「仕事で会うのは『東京事変』以来ですね。宜しくお願いします、日車さん」
ヒロインのリリィに連なるもう一人の主人公であるアーサー役に抜擢されていたのは、虎杖悠仁と共に五条悟の下についていた、あの伏黒恵であった。日車が会議室内に入ると伏黒の姿が真っ先に視界に入り、伏黒もこちらの存在に気付くと自ら歩み寄ってきたのだ。
「こちらこそ宜しく頼む。君程の実力者が居てくれると実に心強い」
「はぁ……あんたにそう言われるのはどうも歯痒い心地がするんですが……一応受け取っときます」
ガチャリ、と日車が閉ざしたばかりの扉が控えめに開かれて。
「えっと、すみませーん……遅れちゃいました?」
カールのかかった金髪の少女が現れる。大きくつぶらな瞳に整った顔立ち。白いネックセーターが実に似合う、清楚を絵に描いたような女性であった。
「問題ない、俺もたった今訪れたばかりだ」
「よかったー。来栖華っていいます、よろしくお願いしますね」
「日車だ、よろしく頼む」
綺麗に微笑みながら、来栖の眼差しが、ちらりと伏黒の方へと向けられて。
「あの……よろしくね、恵君」
「ああ、よろしく」
少しだけ、声質が変わったように思えた。気の所為かもしれない、と思える程の些末な変化である。少なくとも伏黒は何も察していない様子である。
伏黒の背後に立った人物が軽くその肩を叩いてきた。
「おーい俺も混ぜてくれよー伏黒ちゃーん。ども、チェイス役の猪野琢真って言います! よろしくお願いしまーす」
黒いニット帽を被った、伏黒と比較すると地味な顔立ちの男が、にかりと愛想の良い笑顔を浮かべながら挨拶を交わしてきた。日車にとっても初対面であったが、おそらく伏黒の先輩に当たるのだろう。
「七海さんから話は聞いてますよー日車さぁん! 今度俺も飲みに混ぜて下さいよぉー」
「俺も君の話は彼から聞いている。七海の後輩らしいな」
「その通り! 七海さんチョー尊敬してるんで! 七海さんのカッコいい話めちゃくちゃ持ってるんでいくらでも聞いて下さい!」
七海の名が出た途端、一層笑顔を明るくさせイキイキと話し始める辺り、どうやらよほど七海に心酔しているらしい。彼を慕いたくなる心境は確かに、痛い程によく分かる。
「で、あそこに座ってんのがレオン役の新藤。おーい何してんだよ、お前も日車さんに挨拶しろよ」
猪野の指の延長戦へ視線を巡らせると、短い銀髪に、複数のピアスを付けた青年が椅子に腰かけていた。年齢は伏黒と同程度だろうか、系統は異なるものの顔立ちも同等に整っていた。彼はこちらに一瞬だけ、鋭利な眼差しを寄せたかと思えば、舌打ちを一度吐いたのみで速やかに視線を逸らした。
「おい! 何だお前感じ悪いな、日車さんの方が年上なんだぞ!」
「芸歴は俺の方が上ですけど」
「あのなぁ!」
「構わない。俺はこの中では最も歴の浅い新参者だ、彼の発言に間違いはない」
「いや、でも……」
両面宿儺に認められた二人目の人間という肩書をお持ちになりながら“新参者”というのは流石に無理があるのでは……という心の声が猪野の顔にありありと書かれていた。伏黒もまさにその通りだと思ったが敢えて口を閉ざしていた。
なんとなくぎこちない空気になりながらも各々の席に座す。伏黒と新藤の間に座った来栖が、ちら、ちら、と妙に伏黒に視線を寄せているのが日車の視界に入っていたのだが。とんとん、と隣の猪野に肩をつつかれたので反対方向へと向いた。
「日車さん、2.5次元の舞台って初なんですよね?」
「ああ」
「俺がチェイスの役だって聞いて、正直どう思いました?」
「どう、というのは?」
「“こんな平凡な面した人間にチェイスみたいな美形役なんて務まんのかー?”って思ったでしょう」
ニヤリ、と面白そうな笑みを浮かべながら自分の顔を親指で差してくる猪野の意図が分からず、内心首を傾げる。
「役柄との乖離の大きさについては、俺も人のことを言える立場にないのでどうとも言えんが……」
「いやー流石日車さん! コメントが大人ですねぇー。でも安心して下さい! 2.5次元は何よりも、キャラの再現度が重大となりますが! 逆に言えばキャラに寄せる為ならモリモリに盛ったって大丈夫ってことなんですよ! ちょっと見てもらいたい画像があってですねー」
意気揚々としながら自分の携帯フォルダを漁り始めた猪野の声を聞きながら、また始まったよ……と内心うんざりしていた伏黒。
「じゃーん! これ、俺のコスプレ画像です」
猪野のスマートフォン画面に、二次元から現実にやって来たとしか思えない程に美貌溢れた美青年が映り込んでいたので、日車は大いに仰天した。
「これが、君なのか……?」
「その通り! ちなみにこれが美少女キャラに変身した俺」
「なっ……本当に同一人物か!?」
「最近のコスプレ技術はマジですごいんですよー! ウィッグもメイクグッズも高性能だし技術さえあればやりたい放題できます! 実は伏黒みたいに最初から顔整ってる奴より、俺みたいに地味な顔の方が弄りやすかったりするんですよねー」
「俺の顔もファウストに似せられるか?」
「そうですねー、俺は舞台だったら覆面キャラが結構多いんですけど、似せるなら覆面の方が断然楽ですよ。日車さんは鼻筋が特徴的だけどマスクで隠せるし……ちょっと目元以外隠した状態で表情作ってもらえます?」
「ああ」
指示された通り、片手で鼻から口元までを覆い隠す。その状態で一度瞼を下ろし、人格をファウストのものに数秒間だけ切り替え、瞼を持ち上げる。
「…………」
「どうだ」
「あー……これなら、ツケマとカラコンだけで、どうにかなるかも……あとはファンデで肌を白くして、暗めのアイシャドウとか……」
「ほう……助言に感謝する。漫画作品のキャラクターを演じるのは初めてでな、君のような経験者が居てくれると非常に助かる」
「あははー、どーもどーも……」
いやー……無加工でこんだけ顔寄せられる方が、寧ろすごくないか……? 七海さんも言ってたけど、やっぱすげーわこの人……才能だけなら五条さんと同レベって、ガセじゃなくてマジだったんだ……
キャストが全員集った会議室内に監督冥冥が現れる。高価なヒールの音を鳴らしながら、二人の従者を連れ、優雅に席に腰かける。
「さて。諸君、私の下にこうして集ってくれた事に心から感謝しよう。知っての通りだが、私が監督の冥冥だ。そしてこの子が私の弟の」
「あのー……冥冥さぁーん……?」
その優美な声を遮るように。何故か冥冥の隣に腰かける羽目になっていた日下部が額に汗を流しながら発言してきた。
「俺がここの席に座ってるのは、おかしくね……?」
「何もおかしくはない。君には副監督の役割も担ってもらうことにしている」
「は?」
「と言う訳だ。こちらが私の右腕として働く副監督兼演技指導役の日下部だ、仲良くしてやってくれ」
「待てや。一言も聞いてねーぞそんな話」
「何か問題が?」
「問題しかねーわ、何言っちゃってんだよお前は」
「お姉様に口答えするおつもりですか?」
「ガキは黙ってろ」
「喧嘩はいけないよ、憂憂。なぁ日下部、私は君にとってこれ以上とない程に適したポストを与えたつもりだよ?」
「馬鹿いえ、俺に副監督なんざ務まるわけねーだろ」
「またまた、ご謙遜を……」
「いやいやいやいやいやいやいやいや」
「いやいやいやいやいやいやいやいや」
二人が揃って首を横に振り合っているのを眺めつつ、同期特有の空気感を味わうギャラリー。
うっわー……! 百人斬りの伝説を持つ『孤狼の刃』の日下部篤也に『黒鴉』の冥冥が揃っちゃったよー……! まともに共演した回数少ないくせにひと昔前まで黄金ペアって言われてた二人じゃねーか……激熱ー……! 隣には『五条悟に並ぶ才能の原石』までいるし、とんでもねぇ現場だわ……すっげー所に来ちゃったわ俺……!
「俺からも推薦しよう。きっちりと業務をこなしたまえ日下部副監督」
「うるっせーわ、お前は俺の味方であれよ」
内心でえげつない動揺を抱える猪野の隣から日車が野次を飛ばし、そのまた隣に座る伏黒が『大丈夫か、これ……』と冷めた心地で状況を俯瞰していた。
早速全体での打ち合わせが行われたが。シナリオへの議題に差し掛かった時、いち早く日車が挙手をした。
「シーンの変更を提案したいんだが、構わないだろうか」
原作内においてリリィとファウストが初めて心を交わし合ったシーン。その内容とは、アーサーと親しい仲であるリリィを誘拐するため学園内に送り込まれた刺客から、ファウストが身を挺して守り、その最中に敵が投擲したナイフでマスクが破損し取れてしまうというものだった。左の口角から頬まで深く裂けた傷口が露呈され、酷く動揺し、逃げ去ろうとするファウストをリリィが引き止め、守ってくれたことへの感謝を告げる。己の醜い顔を前にしながら優しく微笑むリリィを前に、ファウストが涙を流し、初めて他者に心を開くのだ。
しかし演劇用のシナリオではマスクが剥がれる部分が省略されていた。
「ファウストがリリィに心を開く上で、あの演出はなくてはならないものだ。どうにかして組み入れてくれないか」
「私としてもそこは悩みどころでねぇ……原作者と話し合った結果、泣く泣く削除した部分なんだが、まずあれ程に醜い傷を作ることに君は抵抗がないのかい?」
「俺は全く構わない。優れた特殊メイクの技術者がいれば可能だと考えているんだが、どうだろうか猪野」
「え? あー、はい、その手のプロに任せれば、イケるとは思いますけど……」
「マスクが剥がれる演出はどうするつもりなんだ」
「刺客役の人間がナイフを投げ、俺がその軌道に合わせて動けばいいだけだろう。偽物のナイフで上手く剥がれるか不安であれば本物でも構わない」
平然とした様子で発した日車のこの発言に、監督と副監督以外の全ての人間が仰天し、表情を強張らせた。
「却下だ却下。ふざけてんのかお前は」
「む、何故だ」
「理由を教えてやろうか? この場にいる全員が引いちゃってるからだよ」
それはそれはもう重い溜息が日下部の口から溢れ出した。
「お前がやろうと思えば出来ちゃう人間だってのは俺もよく知ってる。だけど毎回毎回お前の顔面に向けて獲物投げなきゃならん奴の心境も考えてやれよ……マスクに細工をして、ワンタッチするだけで留め具が外れる仕様にする。攻撃食らった時の動作でマスクに触れるなんて造作もねぇことだろ?」
「それなら私も採用しよう」
「ふむ……承知した」
日車が冗談などではなく本気で先程の提案を投げかけたという事実が、伏黒の胸中に静かな、長い動揺の余韻を響かせていた。
翌日より早速演技練習が開始された。『純潔な乙女』では国内の貴族が多く集う名門学園であるが、中でも王族の血を引く学級委員長アーサーの失脚を目論む人間は数多く存在し、故にシナリオ内でも幾度か刺客が送り込まれる。劇中最大の見処は終盤で、四人の美青年が類まれなる身体能力で大勢の刺客からリリィを守るシーンであった。
肉弾戦で挑むアーサー、レオンハルト、チェイスに対し、ファウストのみがナイフでの戦闘を行う。その差異が日車に第一の難関を課していた。
アクションの指導役である日下部の声が稽古場に響き渡る。
「やめやめ。伏黒は問題ないがお前だよお前、テンポ遅れてんぞ」
各所で演者達が体を動かしている中、満遍なく視線を巡らせ的確な指示を与えてゆく日下部の存在が、全体を上手く流動させていた。今も刺客役のキャストに倒れ方の指導を与えており、その様を、額に浮かんだ汗を腕で拭いながら静観する伏黒。
「お前が主役のこいつを上手く引き立てねーと全体が白けちまうんだ、気合入れてやれよ」
「はい!」
「日下部先生、俺はどうですか」
「お前に関しては何も言うことねーよ。よくもまぁ毎回毎回そつなくこなしちゃうよなーお前は」
「はぁ……」
「別に大したことないですって顔に書いてあんぞ、たっく……まぁ俺としても仕事が楽に出来て助かるわ、この調子で頼むぜ」
ぽん、と肩に手を乗せながら遠ざかってゆく日下部の背中を、視線で追いかけて。その延長に見える、遠く距離を隔てた先でナイフを回転させている日車の姿を、数秒間視界に留めていた。組手相手に声を掛けられるまで。
日車は二本のナイフを持ちながら、タブレットに映り込んだアニメーション映像と、険しい表情で睨めっこをしていた。
「どうしたよ」
「丁度いい所に来てくれた。これを見てくれ」
床に置いていたタブレット画面を、歩み寄って来た日下部の方へと向ける。過去に放送されたアニメ番組内で、刺客と敵対するファウストが巧みに二本のナイフを両手で回転させながら戦闘態勢に入るシーンだ。
「これを再現したいんだが、どうだ」
「んんー……? いやぁ……二次元の動きは現実と勝手が違うからよぉ……」
「君でも難しいか」
「まぁ、試してはみるけどよ……」
こういう細い獲物は慣れてねぇんだよな、と独り言ちながら二本のナイフを両手に所持する。くるくる、と片手ずつ、緩慢な速度で動かし始め、何度か落下させるのを繰り返しながら、少しずつ要領を掴んでゆく。五分程経過した頃には、難なく二本同時回転を熟してみせた日下部の様子を観察しながら、その芸当の巧みさに感心を深めていた。
「君は本当に芸達者だな……」
「見直したか?」
「素晴らしい」
惚れ直したと発言しそうになり、寸前の所で別の台詞に置換した。
「これでー……? ああ、こうか」
ループ再生される映像を目を細め注視していた日下部が、回転させていたナイフを頭上に放り投げる。宙で交叉するように入れ替わり、回転しながら落下するナイフを、両腕をクロスした状態でキャッチした。
「あとは適当にポーズつけて……っとぉ」
再び両手での同時回転を開始しつつ緩慢な歩調で前進し、足を止めぬまま同様にナイフを宙に舞い上がらせ、キャッチ。同時に構えのポーズを取った。まさにファウストが映像内で行っていたモーションの再現である。
しかし日車は眉間に皺を寄せ顎に手を押し当て深く首を傾げていた。
「なんだその反応」
「……なんともいえない違和感が……」
「は?」
「いや、凄いとは思ったぞ。凄くはあるんだが……上手く言語化出来ないな……」
そこで日車は少し離れた場所で練習をしていた猪野を呼びつけた。愛用のニット帽を脱いだ状態ですぐさま駆け付けてくる猪野。
「何ですか?」
「ファウストの動きの再現を日下部にしてもらっているんだが……君の意見も聞かせてくれないだろうか」
「俺でいいなら、いいですけど……」
なんだか嫌な心地を抱えながらも、先程と同じ動きを見せる日下部。
案の定、日車と猪野が揃って似たような表情で似たように首を傾げてきたので大いに口端を引き攣らせた。
「なんか文句あるなら言えや……」
「いや……なんていうんですかね……動きがいまいちファウストらしくないというか……スタイリッシュさが足りない……?」
「筋肉が邪魔……?」
「筋肉が邪魔?」
今まで言われたことのないタイプの批判を浴びたことで困惑を深める日下部。
「普通に悪口じゃん……人が折角苦労してコピーしたってのに、なにこの仕打ち……」
「どうにか、その……できないか?」
「できないかって何を? この流れで言われるとすげー怖いんだけど。削ぎ落せと?」
男性三人が揃って渋面を浮かべていたぎこちない空間の中へと、様子を察していた伏黒が歩み寄ってきた。
「あの。軽い獲物の扱いなら、得意な人が知り合いにいますけど」
細い指先でナイフを高速回転させ。軽やかに頭上に放り上げ、キャッチ。一発で見事に成功させポーズまで完璧に決めてみせた眼鏡系女子が得意げな笑みを湛えた。
「どうよ」
「おおー……!」
「これだ! これこれ!」
「流石っすね真希さん」
「まぁな! これくらい朝飯前だっつーの、動きも見た目も武骨な日下部より私の方が適任なのは当然だろ」
「悪かったな、武骨なオッサンでよぉ……」
日車と猪野からの拍手を浴びながら一層笑みを深める禪院真希と、更に複雑そうに表情を渋らせてゆく日下部が何とも対照的であった。
「悪いな、急に呼び出してしまって。君も多忙の身だろうに」
「水臭ぇこと言ってんじゃねーよ日車、ていうか混ぜろ。本業よりこっちの方が面白そうだ」
「……これ程に身体能力が優れているのであれば、俳優業の方が天職なのでは……?」
「それ、真希さんにはタブーですよ」
「そのとーり! 次言ったらぶっ飛ばす!」
「あっはい、申し訳ありません」
「なんでやたら畏まってんのお前?」
こうして強力な助っ人が日車に与えられた。その光景を、嫌悪感の入り混じる新藤の眼が、視界に留め、強く網膜に焼き付けていた。
二次元の動きを再現した真希の動きを模倣することで、日車は想定以上の速度で技術を習得していった。アクションは相対的に不得手だと自己評価しているが、されど天才。五条に並ぶ天賦の才にかかれば何のこれしき。常人を遥かに圧倒する成長速度により、僅かな修練で完全な模倣へと至った。同じ速度と回転数でナイフを操る日車の技術には真希もすっかり感心しきっていた。
「マジですげーんだなあんた。ナイフアクションは初めてなんだろ?」
「ああ、銃を扱うことは何度かあったんだが……己の肉体以外の物を操作するのは未だに慣れない。君さえ良ければ今後も指導をしてくれないだろうか」
「おう。元よりそのつもりだぜ」
「恩に着る。早速頼みがあるんだが」
造り物のナイフを片手でくるりと、軽く回しながら、真希の方へ投げ渡して。
「回転数を上げたいんだ、一秒間に五回転。出来そうか?」
表情も声色も変えないまま呟いた日車の前で、真希は数拍分、呆気に取られて、そしてニヤリとなんとも物騒な闘争心に満ちた笑みを浮かべてみせたのだ。
「いいねぇ……! 模倣できるってんならしてみろよ、出来たらの話だけどなぁ……!」
このバケモノを自分好みに仕立て上げるまで絶対に降りてやるものか、と。強く心に決めた瞬間である。
数日後。突如稽古場に出現した美青年の姿に、誰もが仰天した。
「はいどーもぉー! チェイスでーす!」
口調とテンションは大違いだが、外見だけは完璧なチェイスが登場したのである。膝まで伸びたライトグリーンの長髪。最高学年の制服に、成績優秀者のみに許された金のバッジ。胸元には一族代々伝わる家紋を宿した美しいペンダント。温厚さと気品に満ちた双眸と顔貌。長く整った睫毛に、翠色の瞳。身長を補う為に靴底が厚めになっている程度で、その他の全ての要素がチェイスそのものであった。
「わー! すごぉーい! 本物みたーい!」
「い、猪野……? 本当に、猪野なのか!?」
「へっへーん! 今日はこっちで練習してみようと思って頑張っちゃいましたー! どうですか! 最新技術の力は!」
「おぉ……! これなら、俺でもどうにかなる気がしてきたな……!」
「私も……!」
日車と来栖からの尊敬の眼差しを浴び、存分に気分を高揚させるドヤ顔の猪野を、やや遠くから伏黒が『まただよ……』と言わんばかりの眼差しを注ぎ込んでいる。黙々とアクション練習を行う新藤もさほど関心を示していない様子であった。
「あれ? 日車さん、なんか痩せました?」
改めて日車の方へ視線を寄せた猪野が、不意に気付きを得て呟いた。
「ああ、役作りの為に減量中でな。今の所順調に進んでいる」
「えらいなー。私も減らした方がいいですかね?」
「君は今のままで十分だろう」
「いや、にしても……やけに変化が急のような……結構無理してません?」
「そんなことはない」
「そうですか……じゃあ飲みに行くのも難しいです?」
「そうだな……食事制限中なので遠慮させてもらおう。すまないな」
「いえいえ、打ち上げまでの楽しみにとっておきましょう!」
チェイスの風貌から猪野の声で猪野らしい台詞が飛び出てくることへの違和感を抱かされながらも、彼からの厚意を有難く受け取ることとした。
そして猪野はすすす、と日下部の方へ接近してゆく。
「日下部さーん、明日飲みにいきませーん? 七海さんも空いてるらしいんですよー」
「あ? 俺はいいよ、日車の奴がダイエット中だしよ」
「え、日下部さんもなんかやってんです?」
「そういう訳じゃねーけど、普通嫌だろ。自分が我慢してるってのに同居人が外で好き放題酒飲んで帰ってくるなんてよ」
「へぇー……」
正直、日下部の口からこんな発言が出てくることが意外であった。外面や態度はぶっきらぼうな割に案外気も回るし面倒見のいい先輩だという印象はあったが、まさかここまで日車に親身であるとは。
「残念だなー、日下部さんと冥冥さんの色恋話とか聞きたかったのに」
軽率な発言が飛び出した直後、日下部のヘッドロックが炸裂した。
「いだだだだだだ!」
「んなもんねーよ!」
「いやいやいや、過去に付き合ってたことあるんでしょ!? 冥冥さんと!」
「一回もねーよ!」
「ウソだぁー! 昔めちゃくちゃ噂になってたじゃないですかー!」
「周りが好き勝手ほざいてただけだっつーの! いいか!? 俺の名誉にかけて言うけどな!? あいつとは一切、なんっにもねーからな! 覚えとけ!」
「そうなのか?」
「お前も何で意外そうなんだよ!?」
いつの間にか近付いてきていた日車がぽつりと呟いてきた。
「気の置けない者同士の独特の雰囲気が漂っていたので、過去に一度二度くらいそういう流れがあってもおかしくなさそうだと思っていたんだが」
「でしょ!? ほらー! 日車さんだってこう言ってますよ!? あんなとんでもない美人とデビュー当時から一緒に働いてて何も起こらないはずないでしょ! 付き合うまではいかなくともワンナイトくらいあるでしょ! じゃないとあんだけ噂にならないっすよぉー!」
「だぁーれがあんな恐ろしい女とイチャコラするかってんだぁ! するわけねーだろ! これ以上言ったら殺すぞ!」
「猪野、その噂について後日詳細を教えてくれ」
「お前も興味持っちゃってんじゃねーよ!」
更に距離を置いた伏黒の『うるせぇな……』と言わんばかりの眼差しが注がれていた。
その翌日から、本番の状況と近い条件にする為という目的で、日車はマスクを着用した状態で稽古場に現れるようになった。
さらに数日後。自宅マンション内で体重推移の折れ線グラフを表示したスマートフォンを片手に掲げ怒りの形相で見下ろしてくる日下部の前で大人しく正座をしている日車。
「これはどーゆーことか説明してもらえますかねぇー……?」
「……つい……欲が……出てしまって……」
「罰として明日の自宅トレーニングは禁止! 食事は500キロカロリー増量!」
「それだけは、どうにか……」
「ダメ!」
「うぐぅ……」
「しっかりと反省するよーに!」
「はい……」
全体での演技練習も滞りなく進んでいた頃。最後まで稽古場に残り個人練習に取り組んでいた伏黒と日車が並んで更衣室へと向かっていた。
「虎杖と釘崎、初日と最終日のチケットゲットしたらしいですよ」
「そうか。君が主役ということもあって競争率が高いと聞いていたが、それは良かった」
「あんたが出るってことの方が大きいでしょう……」
「そんなことはない。読者は若年女性の層が多いのだろう? それなら君の方がウケがいい」
ガチャリ、と無人の更衣室の扉を開く。
「少なくとも虎杖はあんた目当てですよ」
「ふ、そうか」
「あと釘崎はファウスト推しなんで。“下手な芝居こいたらぶっ殺す”とか言ってましたよ」
「そうか……それは、精進しなければ……」
「まぁあんたなら問題ないんでしょうけど……」
「君の同期は実に個性豊かだな。退屈しないだろう」
「うんざりさせられることの方が多いですよ……いつまでもガキみたいに好き勝手はしゃぎやがるし」
「ふふ」
虎杖が話題に出ている時だけやたらと表情が緩んで柔らかくなる。マスクを付けていても容易く変化が分かる程に。案外分かりやすいんだな、とこの数日で抱いた感想を改めて、胸中にて深めていた。
「しっかり者の君がまとめ役を受け持ってくれているからだろう。虎杖も君のことを頼りになると賞賛していた」
「いやいや、誰もそんな面倒臭いもん受け持った覚えないですよ。ていうか、虎杖の奴俺のこと変な風に言ってませんか? あいつ発言がマジでいい加減だから……」
ロッカーを開いたまま制止している日車の口が止まっている。その視線の先を覗いてしまって、すぐに動揺を抱いた。ハンガーに掛けられていたスーツとカッターシャツから水滴が零れ落ちている。鞄まで水で濡れ切っていた。意図的でなければ、説明がつかない程に。
「は? これ」
「問題ない。汚水でなく水道水であれば乾かすだけで再利用できる。財布などの貴重品は手元に保管しておいたしな」
全く変動しない表情と声色のままスマートフォンを操作し、耳元に当てる日車。
「日下部、急ですまないが建物の近くにいればタオルを貸してくれないか? 誤って服も鞄もびしょ濡れにしてしまった」
「…………」
「……そうか。いや引き返さなくてもいい、このまま帰ることにする……確かに車で迎えに来て貰えると助かるな。ついでに伏黒も送ってくれるか? ……ああ、悪いな」
通話を切る。
「聞こえていたと思うが、日下部が車で迎えに来るそうだ。君の住所はどの辺りだ」
「……俺もタオル、持ってますけど」
「いいのか? 有難くはあるが……」
「いや、逆に、嫌がる理由あります……?」
「そうか。では有難く使わせて頂こう」
伏黒の手からタオルを受け取り、鞄の中に溜まった水分を吸収させてゆく日車を見下ろしながら、未だに表情を強張らせている。
「……これで何回目なんですか」
「今回の件では初回だ」
「明らかに問題あるでしょう、これ」
「そうか? 演劇における支障はないと思うが。君も気にしないでくれ、他のキャストに余計な心障も与えたくないので黙秘してくれると助かる」
「だけど」
「これが人として当然の反応だ、寧ろこれまでが恵まれ過ぎていた。それに学生時代にも似通った体験はあったので対応には慣れている」
機械的に言葉を紡ぐ日車の横顔を、ただ、見上げていることしか出来なかった。確かな動揺に身を包まれながら。
気に食わない。
日車寛見という男に向けた感情を一言で要約するならば、その一言に尽きた。
何が天才だ。何が『五条悟に並ぶ才能の原石』だ。
芸歴も圧倒的に短い癖に。まともな経験も無い癖に。自分の方がよほど長く経験を積んで苦労も重ねてきたというのに何故あの男ばかりが賞賛されなければならない。
弁護士としても優秀であったのならばそのままそこで生涯を尽くしておけばよかったというのに。土足で自分達の業界に踏み込んで。好き勝手に踏み荒らして。
消し去ってやりたい。縄張りから追い出したい。役者として当然の反応だろう。自分は何もおかしくない、間違ってなんかいない。
あんな中年が両面宿儺になんか認められる訳がない。どうせヤラセだろう。今までの成功だって全部、何らかの裏の力が働いていたとしか思えない。でないと説明がつかない。過去に演技の経験もない元弁護士が、たった二年で、世界的栄誉を獲得するなんて、フィクションの世界でなければ有り得ない。
そんなズルをして偉そうに芸能界の上位でのさばっているあの男が憎くて堪らない。表面的には謙虚な大人として振る舞っているがその裏では自分以外の全てを見下し嘲笑っているに違いない。
ふざけるな。
お前のような身分不相応な部外者がいるから自分はいつまで経っても正当な評価を与えてもらえないんだ。
「新藤」
伏黒恵の声が背後から聞こえてきた。自分だけが存在していた更衣室内に、影のように潜り込んできて。
ああ、鬱陶しいことこの上ない。
「お前だろ、日車さんに嫌がらせしてるのは」
「はぁ? 何だそれ、なんで俺がそんな面倒臭ぇことしなきゃならねぇんだよ」
どこにも証拠は無い。あんなクソ野郎を恨む人間なんてそこら中にいるはずだ。だから自分だけが断罪される理由も必要性も何処にもない、はずだった。
追加の証言を付けてやろうとしていた喉が、振動した。胸倉を強くわし掴まれロッカーに背中を強く叩きつけられた音が暗室に鳴り響いた。
「つまらねぇことしてんじゃねぇぞ」
その眼に、睨まれただけで。全身が凍り付いた。
恐ろしい程に、冷徹で、獰猛な、黒い双眸。一度も見た事がない、伏黒恵の顔。
「次邪魔したら只じゃ済まさねぇからな」
処刑宣告のように、そう吐き捨て。全身から凄まじい濃度の敵意を迸らせながら室外へと出て行く。伏黒の姿が消え去った後も、しばらく、悪寒が拭えなかった。震える息を吐き出し、冷たい汗を額から垂らしながら、ただ、凍えた心臓を震わせていた。ほんの数秒間で、絶対的な恐怖を、叩きつけられたのだ。
同時刻。険しい表情のまま廊下を進んでゆく伏黒の背中を、曲り角に身を隠すようにして眺めていた男が一人。
……俺が余計な茶々入れなくてもよかったみたいだな。
日下部は静かにその場から立ち去り、何にも気付かず、何も知らない振りに徹することに決めたのである。
Comments
- zmmMay 20, 2024