Heliopsis
※死ネタ(特殊)です。苦手な方はご注意ください。
※日下部さんの情緒がぐらんぐらんします。どっぷり構えた余裕の彼が好きな方はご注意ください。
※日車さんは呪術師をやってます。
何でも許せる方、どうぞ宜しくお願いします。
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世界が壊れる瞬間がどんなものなのか、きっと多くの人間は考えた事すらないのだろう。
それがどれ程幸運な事かも知らずに。
重く垂れ込める夜の闇。
剥き出しのコンクリートを叩く激しい雨音。
何かが燻るような臭気と、立ち昇る黒煙。
肌に纏わり付く、湿度を帯びた呪力の圧。
そして、夥しい量の血。
当たり前と思えた日常が、指の隙間を滑り落ちて行く感覚。
こんな時、祈る神がいない事が悔やまれた。
*
任務の帰りだった。
地方で二級呪霊を祓うだけの比較的軽い仕事。
それは本来ならば日下部にお鉢が回ってくるような内容ではなかった。それなのに彼がわざわざ出張った理由はただ一つ。先んじて別件の呪霊祓除に挑んでいた日車が半壊させたという劇場の被害確認と、弁償交渉。
つまるところ謝罪行脚だ。
「いや、マジで……何やったら劇場半壊すんですかね」
新幹線特有のゆったりとした座席へ深く腰を沈めながら、日下部は呆れたようにぼやく。隣では日車が熱心な様子で資料へ目を通していた。取り急ぎ作成された被害報告書を、クソが付く程真面目な男は既に何度も読み返したのだろう。端正な顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。
「……ない」
「あ?」
「半壊ではない」
唐突な責任逃れに日下部は面食らったように押し黙る。
「三階席部分のみだ」
「充分だろうが」
悪びれる様子のない言い分を切り捨てると、日車が僅かに眉を寄せた。
「呪霊が観客席側へ移動したんだ。反撃される前に潰す必要があった」
「結果、劇場も潰れた訳だ」
「……否定はしない」
不貞腐れた子供のような表情に、日下部は思わず噴き出した。
日車は基本的に合理的な男だ。冷静で、慎重で、無意味な行動を嫌う。それが戦闘になると時々加減を忘れるのだから、どこか大事なネジが外れているのだろう。
“目的達成の為なら必要な損害として切り捨てる”。そんな姿を日下部はこれまで何度も目にしてきた。それこそ、自身の四肢さえも容易く。
「まぁ、人死にが出なかっただけマシかね」
日下部の見せた諦観に、小さく息を吐いた日車の顔には“これで許された”と、そう書いてある。
窓の外では焼けた空と夜の境界が曖昧に流れていた。
何事も卒なくこなす天才は、時折酷く危うく見える。
日車はまるで、研ぎ澄まされた刀のような男だった。
鋭利で、美しく、少し力を誤れば容易く折れてしまいそうな。
そんな男が任務を終えた瞬間、少しだけ力が抜けるのを知っているのは恐らくごく少数の人間に限られる。
そこに自分も含まれている。それが日下部には誇らしかった。
地方任務へ行った帰りの新幹線。疲労感。緩い沈黙。そんな風に何でもない時間が、日下部は嫌いではない。
時折資料に向かって、ここは俺が壊したんじゃない。などと呟く姿は、一見するとどこにでもいる普通のサラリーマンだろう。
そんな普遍を享受するこの時間が、たまに無性に欲しくなるのだ。
「……眠そうだな」
おもむろに資料から顔を上げた日車が呟く。
窓の外を眺めるフリをしてその横顔を眺めている内に、日下部は微睡みの縁へと立っていたようだった。
「あー……二日もろくに寝てねぇからな」
「移動中くらい寝たらいいだろ」
「折角オマエといるのに、寝るのは勿体ないだろ」
半分本気で言うと、日車が露骨に怪訝そうな顔をした。
「そういう事を平然と言う」
「だって、事実ですし」
数秒の沈黙を残し、それから諦めたように視線を逸らす。
微かに赤らんだ日車の耳を見て、日下部は口元を緩めた。
「何、照れてんの?」
「違う」
「へぇ」
「日下部……」
呆れた、と口に出しながらもその声色には明白な愛しさが滲んでいた。
日下部にはそれだけで充分だった。
付き合い始めた当初、日車はもっとお硬い人間だったように思う。
高専内での接触は必要最低限、人前でこういったやり取りをする度に眉を顰めていたのも懐かしい。初めは同性故に神経質になっているのだろうとも思っていたがどうやらそうではないらしい。日車は元来、パーソナルスペースが広いタイプの人間なのだ。それもかなり極端に。
今でも特段得意ではないらしいが、以前程露骨な拒絶もしなくなった。それは日下部が懲りずにアプローチを続けた結果だろう。
「なぁ、腹減らね?」
「いや……と言うか、さっき駅弁を食べていなかったか」
「あんなちっこいの一個じゃ全然足りねぇよ」
「燃費が悪いな」
「こちとら術式に頼れねぇ分身体が資本なもんで。食わなきゃやってられんのよ」
「理屈になってなくないか」
呆れを声に滲ませながら、日車が自身の持つコンビニ袋の中へと手を突っ込んだ。そして上から適当に菓子パンを一つ摘み上げると、日下部の方へと差し伸べる。
ずい、と差し出されるそれにはポップな字体でクリームパンと書かれていた。
それは日車が手っ取り早く糖分を補給する為の食事だった。
「くれんの?」
「どうぞ、まだいくつかある」
「優しいねぇ、最高の彼氏。惚れ直すわぁー」
「ふっ、今更だな」
その返答があまりにも自然で、日下部は一瞬口を開けたまま呆けてしまう。
一拍置いて気付いたらしい日車は、あからさまにしまったという表情を見せた。
沈黙の中、視線が絡み合う。
先に逸らしたのは日車の方だった。
「……食べないなら返せ」
「食う食う」
笑いながら受け取るついでにその指を軽く握ると、日車の肩がぴくりと揺れた。
「おい、人が……」
「誰も見てねぇって」
「見てるかもしれないだろ」
「別にいいじゃねぇか」
隠し事をささめき合う声量で、言葉を交わす。
いつ何どき命の炎が翳るとも知れない日々の中、この時間が何物にも代えがたい程に大切で、愛しく、幸福に包まれているのだという事を日下部は痛い程知っていた。
また明日。そう言葉を交わし合った大切な人が無言の帰宅を果たす。そんな事は日常だった。それが呪術師という職業だ。
自分も含めて想いを寄せる人が生きて、そこに居る事が当たり前ではないと知っているからこそ、日下部はどんな些細な想いも伝えるようにしていた。伝えて欲しかった。
そして交わされた約束はただ一つ。お互いに対して嘘をつかない事。
二人が付き合っている事を、敢えて指摘する者は誰もいなかった。
任務終わりに並んでコーヒーを飲む姿も。
互いを庇うように立つ姿も。
日下部が日車を見る視線も。
日車が日下部にだけ見せる柔らかな表情も。
全部、隠し切れていなかったというのに。それでも周囲は温かく見守ってくれていた。
のめり込んでいる自覚はあった。
互いに互いの実力を認めているからこそ安心していたのも事実だった。
慢心と言えばそれまでかもしれないが。
「君は、随分と欲張りになったな」
不意に日車が呟く。
唐突な指摘に目を瞠る日下部を置き去りにして、日車は更に言葉を続けた。
「以前はもっと、全部どうでも良さそうだっただろう」
「……失礼だな」
「違うか?」
違わない。
以前の日下部は、妹以外の他人の命にあまり執着がなかったから。
食い扶持を失くさないよう上から命じられるままに一定水準で任務をこなし、危ない橋を渡る事のないよう適当に手を抜いて、たまにわざと致命的には至らないミスもして、流されるままに生きていた。
死にたくないとは思っていたが、特別生きたいとも思っていなかった。妹の為に。そんな義務感が全ての始まりであり、以降ずっと日下部を呪術の世界に縛り続ける理由だったのかもしれない。
ただ呪術師として、適当に生き延びていただけだ。
出過ぎて打たれる杭にならないように。
責任を回避する以前に、押し付けられないように。
けれど今は違う。
生きていたかった。
帰りたい場所が出来たから。
「オマエのせいだ」
ぼそりと零す。
「俺?」
「オマエといると、何が何でも生きて帰りたくなんだよ」
日車が黙る。
そして少しだけ困ったように笑った。
「……それは、俺も同じだ」
その言葉が不意打ちのように胸に刺さった。
どうしようもなく愛しくて、公共の場にも関わらず今すぐ抱き締めて自分の恋人なのだと大声で言ってしまいたい気持ちになる。
日下部は誤魔化すように日車の肩へ頭を預けた。
「重い」
「すんませんね、寝不足なんで」
「……困った男だな、君は」
拒絶はされなかった。
そのまま貸し出された肩に凭れ掛かると、新幹線の揺れが酷く心地良かった。
この時間がずっと続けばいいと思う。
面倒事は全て夜の闇に溶けて。ただ隣に日車がいて。自分はこうして寄り掛かっているだけでいい。
他には何も要らないと、本心からそう思えた。
*
「日下部、起きろ。もう着くぞ」
肩を揺すられて目を開ける。
どうやら本気で眠っていたらしい。
固まった首を回すと油切れのブリキのようにギシギシと軋んだ。
「悪ぃ……、重かったろ」
「気にするな。それより、かなりお疲れだな」
「ん、まぁ最近忙しかったからな……」
欠伸の最中、ホームが近付くにつれて流れるアナウンスに合わせてゆっくりと立ち上がると、日車が自然に二人分の荷物を手に取った。
日下部の持物と言えば釣り竿と偽った刀とカモフラージュの為に持っている空のクーラーボックスくらいのもので、大した物はない。それでも申し訳なく感じ取り返そうと伸ばした手はあえなく叩き落とされた。
「いや、自分で持てますけど」
「迷惑を掛けたのは事実だ、これくらいはさせてくれ」
「……迷惑っつーか、役得?」
「いいから、早く下りろ」
そう言って釣り竿(偽)で日下部の腰辺りを突付いた日車の口元は確かに笑っているように見えた。
初夏の夜風はひやりとしていて気持ち良い。
高専へ戻る前、何気なく立ち寄ったコンビニで日下部は棒付きキャンディとコーヒーをカゴへ放り込み、日車はコーヒーと栄養ゼリーを入れていた。最後にミントタブレットを滑り込ませた日下部に、日車が唐突に口を開く。
「組み合わせがおかしい」
「はっ?どっちが」
「ミントを食べた後にコーヒーを飲むと苦みの中に清涼感があって変な感じがしないか…?」
「んや、別に?……え、あれ、もしかして良かれと思って食ってたミント、お嫌いでしたか」
「すまない、俺が悪かった、速やかに黙ってくれ」
即答だった。
レジにいる店員の方をチラリと気にしながら、それでも目は笑っている。
そんな日車の様子を噛み締めながら、二人揃ってコンビニを後にした。
高専へ戻る道すがら、不意に指先が触れ合った。
自然に手を繋ぐ。
掌の中に収まった温もりを離さないように、溢れる愛しさを込めてその甲をするりと撫でた。すると予想外に繋いだ手が解かれて日下部は一瞬落胆する。しかしすぐに貝殻のように指を絡め直されて、それだけで得も言われぬ多幸感に心が満たされていった。
*
簡単な報告を終えて部屋へと辿り着く頃には日付が変わろうかという時間になっていた。
鍵を開け、靴を脱ぎ、電気を点ける。室内は日中の蒸し暑さをまだ少し残していた。
いつもの部屋。
抜け出したまま放置された巣穴のようなベッド。
サイドボードには積み上がった書類。書籍。
脱ぎ散らかった服。
自身の生活の匂いが充満しているそこへ日車という異物が入り込むこの瞬間に、日下部はいつも密かな興奮を覚えていた。
「お邪魔します」
背後から律儀な挨拶が聞こえてくる。
家主である日下部は意地悪な表情を携えて振り返った。
「あー、やり直し。ここ来たら何て言うんだっけ?」
「……?あぁ……、ただいま」
照れ臭そうに呟く声に満足気に頷くと、ようやく部屋の奥へと日車を案内したのだった。
「暑いな」
そう言いながら日下部が扇風機を回し始めると、そうだなと同調した日車がネクタイを外す。
無防備に曝け出される喉元に、日下部は吸い寄せられるように近付いた。
「……何だ」
「キスしてぇ」
「突然だな」
「そうでもないな、ずっとしたかった」
日車は数秒黙り、それから勝ち誇ったようにニヤリと笑って見せた。
「……知っていた」
触れる。
軽く。
何度も。
啄む。
ミントの味がした。
「この味、嫌いなら…」
「良いから、もう何も言うな」
日車が小声で遮って日下部の唇へと噛み付いた。
額を合わせて至近距離で見つめ合うと、お互いの境界が解けて一つに混じり合うような感覚がある。
そして日下部は思う。
この男が好きだと。
どうしようもなく、自分自身の命よりも大切なのだと。
「日車」
「だから何も言うなと……」
「好きだ」
日車が目を細めた。
「……あぁ、知っている」
その声音があまりにも優しくて。
許容量を超えた幸福に溺れてしまいそうだった。
*
その任務は突然舞い込んだ。
都内に発生した特級呪霊。
本来なら複数班で対処する案件だったが、別件が重なり人員が足りなかった。緊急事態である状況を鑑みて取り急ぎ日下部と日車が先行して対処に当たり、後からもう数名、術師が合流する手筈になっていた。
「マジでさぁ……さっき東京戻って来たばっかなんだわ。人使い荒過ぎなんだよ、まったく……」
現地へ向かう車内で、日下部がぼやく。
たちまち凍り付いた気の毒な補助監督に一瞥をくれた日車は、軽口を返すような気軽さで答えた。
「俺一人で対処しろというリクエストならば可能な限り善処はするが」
「んなわけ……オマエ一人に行かせるかっちゅーの!」
「だったらどうしようもない駄々を捏ねて彼を困らせるのをやめるんだな」
叱責された日下部は面白くなさそうに窓の外へと視線を逃がした。激しく降る雨が窓ガラスの上を洗い流して行く。
日車は依然として資料へ目を落としている。その横顔はいつも通り冷静そのものだった。
だが日下部は知っている。集中している時、日車は自身の唇を指で軽く擦る癖があるのだ。それは緊張している時程強く出る。
日車の唇はうっすらと赤みを帯びていた。
「……帰ったら皆で焼肉食いに行くか」
脈絡のない日下部の発言に日車が顔を上げた。
「何だ藪から棒に」
「死地に行く前の景気付け」
「縁起でもない事を」
「じゃあ寿司?」
「日下部……」
日車の眉間に皺が寄る。
しかし日下部の表情があまりにも真剣だった為に、根負けした日車は困ったように眉尻を下げて笑った。
「……焼肉でいい」
「了解、約束な」
この時、車内にいた誰一人として後に起こる悲劇を知らずにいた。
*
戦況は最初から最悪だった。
帳の中に取り残されていた数名の一般人は既に助け出せる状態ではなく、崩壊するビルの壁面に鮮やかな赤い華を咲かせていた。
視界を埋め尽くす黒煙と充満する呪力。雨に打たれて泥濘んだ足元が余計に二人の体力を奪って行く。
身体の一部を引き千切り好き勝手に爆ぜる呪霊は、本体を叩かない限り無限に増殖しているようだった。
日下部は何度も日車の姿を見失い、その度に肝を冷やした。
「日車ァ!!」
大声をあげて恋人の名前を呼ぶ。
しかしどれだけ呼んでも返事がない。
日下部は早鐘を打つ心臓を鎮める暇もなく、瓦礫を斬り裂き、呪霊を祓い、爆風に煽られ血塗れになりながら先へと進んだ。
そして見付けた。
見付けてしまった。
崩れた瓦礫の下、鉄骨に腹を貫かれる形で押し潰されている日車の姿を。
「っ……そんな、ウソだろ……」
途端に日下部の頭は真っ白になる。
震えて、今にも崩れそうな足で必死になって駆け寄り、力なく投げ出された腕を掴んで引っ張り出そうとする。苦悶の表情を浮かべながら腹の所で引っ掛かる鉄骨に縋る姿に愕然とした。
「待ってろ……今、出してやるから」
重く覆い被さる瓦礫を持ち上げようとした所で、足が滑った日下部は無様に日車の隣へと崩れ落ちた。
雨に溶け出すように流れた血液が飛沫を上げて日下部の身体へと降り注ぐ。
粉々になるまで瓦礫を粉砕して、ようやくその腕に抱き寄せた時には既に、日車の身体は氷のように冷たくなっていた。
「日車ァ……、目ぇ開けろ……」
「……くさ……べ……」
消え入りそうな声と共に薄く目が開く。
反転術式を使っていたようだが、追いついていないのは明白だった。傷が深過ぎる。
「日車!……しっかりしろ、今、家入の所へ……」
「……むり、だ……な」
「諦めてんじゃねぇよ、治せ!オマエなら……」
「もう……呪、力が……」
震える吐息が日下部の頬へと触れる。
「……す……まな、い……」
「謝んなって、なぁ頼むよ、寛見……」
日下部は血と雨でドロドロになった日車の身体を必死で抱き締めた。
あの晩、部屋で触れた時にはあんなにも温かかった身体。
着衣を解いて重ねた素肌は、吸い寄せられる程生々しい熱を持っていたというのに。
今は、驚く程軽く、冷たい。
指の隙間から日車の命が、あの愛おしい日常が、文字通り滑り落ちていく。
「おい、待てよ……そうだ、焼肉行くんだろ。オマエが行くって言ったんじゃねえか。嘘はつかねぇって、二人で決めただろ……ッ!」
叫びが掠れる。涙が雨と混ざって、日車の青白い顔にボタボタと落ちていった。
日車は答えなかった。
ただ、力を失いかけた日車の指先が最期に何かを思い出したように、微かに日下部の頬に触れる。その指先からは、ほんのりと苦いミントの匂いがした。
「あ……」
日下部の息が止まる。
そうだ。
車内で緊張した様子の日車は、自分の唇を指で擦っていた。任務が決定する直前にも交わしたキスの名残を、日車もずっと無意識に、大切に、なぞっていたのだ。
「日車……?」
頬を撫でていた指先が、重力に従って赤い水面を叩く。
目の前に闇が落ちてきた。
何事も卒なくこなす天才。
時折酷く危うく見える、研ぎ澄まされた刀のような男。
力を誤れば、容易く折れてしまう。
そして本当に折れてしまった。
日下部の、腕の中で。
「嫌だ……、いやだ、日車、頼むから……ッ!!」
日下部が日車の冷え切った身体に顔を埋めると、慟哭が響き渡った。
もう二度と、この腕が自分の事を抱き返してくれないなんて、信じられる筈がなかった。
もうただいまと言って部屋を訪れる相手は、この世界のどこにもいない?
嫌だ。
嘘だ。
理解したくない。
無理だ。
最愛の人を亡くしたこの世界で、また一人適当に生きて行くなんて、そんな器用な真似、もう出来るわけがない。
どうして。
何で。
ぶつける先を持たない疑問が次から次へと湧いては消える。
オマエがいるから、帰りたくなったのに。
オマエがいない世界で、俺は一体どこへ帰ればいい。
あぁ、どうして。世界はこんなにも呆気なく、粉々になって壊れてしまった。
*
それからの日々を、日下部はよく覚えていない。
以前と何も変わらずに授業を受け持ち、任務を受け、呪霊を祓い、呪詛師を殺し、眠れない夜は無心で働いた。
周囲は何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。到底言葉で慰められるような喪失ではないと、知っていたから。
日下部もまた、何も言わなかった。
ただ、変わらず術師を続けた。
死ねなかった。
妹の為。──の為。
生きていたくなかった。
死にたくなかった。
死にたかった。
もう、頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
*
──がいなくなってから、日下部は喫煙を再開していた。
放って置くと震えてしまいそうな指に白い筒を持たせておけば誤魔化せる気がしたのだ。
そうして毎日、一本、また一本と数が増え、今ではすっかりお役御免となったキャンディを今朝、まとめてゴミ箱へ捨てた。
「肺癌で死にますよ」
喫煙所へ立ち寄ったからには目的は同じだろうに、見かねた家入が苦言を呈す。
「あー……、それもいい。けど、そうなったら苦しそうだしやっぱナシかな」
冗談とも本気とも取れない声色でそう返すと、彼女は本気で嫌そうな顔をした。
そうして平気で紫煙を吐きながら、灰皿を挟んで隣へ立った日下部に目もくれず、真っ直ぐに前を見据えて口を開いた。
「自棄になるなら一人で勝手にやって欲しいものですね。見てるコッチは気分が悪いんで」
「……別に、なってねぇよ。つか、後から入って来たくせにその言い草はどーなんでしょ」
「苦しみ抜いて死ぬつもりのくせに、平気で嘘つくのはどうなんですかね」
日下部は押し黙る。
反論出来なかった。
自分でも分かっていた。
今の状態はまともではないと。
高専の廊下を歩く時、ふと隣を見てしまう事も。
任務報告書を書いている時、──だったらこんな風に書くだろうかと想像する事も。
コンビニで、ミントタブレットをカゴへ放る事も。
頭では理解している。
全部、意味がないと分かっているのに。身体が覚えている。
それがどうしようもなく虚しかった。
虚しくて、悲しくて。何もしない時間を極力作らないように仕事に明け暮れていたし、眠れない夜は──が座ったままの形に窪んだクッションをぼんやりと眺めていた。
あの日から部屋は片付けられていない。
いつの間にか増えていたマグカップも、読み掛けの小難しそうな本も、サイズの合わない服も、出したばかりの歯ブラシも、全部そのままだ。
片付けたら、本当にいなくなる気がした。
「……片付け、手伝いましょうか」
「いや、いい」
即答に家入が小さく息を吐いた。
「そうですか」
それ以上は何も言わず、吸い掛けの煙草を揉み消して、家入は出て行った。
*
それから季節は二度巡り、何気なく見上げた空はすっかり夏の顔をしていた。
その男を見た瞬間、呼吸が止まった。
夕暮れの横断歩道。
スーツ姿の男が、書類鞄を片手に歩いてく。
丁寧に後ろへ撫で付けられた黒髪。
神経質そうな細い指。
高い鼻梁の鷲鼻。
疲労を孕む垂れ目がちな双眸にはその輪郭の割に控え目な黒目が収まっている。
見紛う筈がない。
あれは──。
「日車ッ!!」
それは無意識の内の行動だった。
擦れ違いざまに手を掴まれて、男がギョッとしたように振り返る。
日下部はその目を嫌という程知っている。
それは、知らない人間を見る目だった。
「……っ、何だ君は、離せ」
よく知った声で拒絶を吐いた男は、日下部の手首を掴んで引き剥がしに掛かる。
冗談だ。そう言って笑ってくれるのを期待していたのに。
足元から地面がガラガラと崩れていく感覚に襲われた日下部は、平衡感覚が侵されたかのように立っているのがやっとだった。
「……悪ぃ、人違いだ」
青褪めながらもどうにかそう口にした。
そう言うしかなかった。
それからどうやって高専へ帰ったのか、全く記憶にない。
ただ、信頼出来る窓に情報屋だか興信所だかを紹介して貰い、その日の内にあの男について調べるよう依頼を出した事だけは覚えていた。
榊原恒一、38歳。
K県Y市出身。現住所は東京都文京区。
職業は弁護士。
K県の高校を卒業後、H大学の法学部を卒業。その後大学院、司法修習と順調に進み、都内の法律事務所へと勤務。35歳で独立し、自身の個人事務所である榊原法律事務所を設立、現在に至る。
交友関係が希薄で友人知人の類が極端に少ないものの、入手できる記録には何ら不自然な点は存在しないという。
体温のない調査結果を眺めながら、日下部は自身の下唇を強く噛んだ。
別人だった。
日車寛見の顔で、日車寛見の声で存在している人間が全くの他人だったというのだ。
にわかには信じ難い結果に、日下部は神経が焼き切れて行くのを感じていた。
*
明くる日、日下部は榊原法律事務所の扉を叩いていた。
正式に依頼人という形で訪れたそこは事前調査にあった通り、三階建の雑居ビルの中にある小さな個人事務所だった。
応接セットのソファへ腰掛けて、パーテーションで区切られた向こう側、簡易的な炊事場に消えた人影を視線で追う。事務員らしき姿は見当たらず、湯沸かしポットから急須へと湯を注ぐ音だけが、静かな事務所にやけに大きく響いていた。
程なくして茶を手に戻った男に軽く会釈をすると、目の前に置かれたそれには目もくれずに日下部は姿勢を正した。
向かい合うようにして席に着いた男は、どこからどう見ても最愛の人と瓜二つだった。
「この間……」
「え?」
「すんませんでした。急に知らないオッサンに手ぇ掴まれてビビったでしょ」
「あぁ……、いや、お気になさらず。それで、今日は成年後見制度についてのご相談という事で伺っていますが」
机上へメモ用紙を広げながら、榊原は腕時計をチラリと見る。初回の相談で日下部に与えられた時間は一時間。実に事務的で、淡々とした声色だった。
恐らく目の前の人物は先日の出来事について、何ら疑問を抱いてはいないのだろう。すれ違う拍子に肩がぶつかった程度の認識しかないのかもしれない。それがかえって今の日下部にはありがたかった。
日下部が頷くのを待って、榊原は相談開始を宣言した。
「では、始めましょうか。お電話では成年後見制度についてのご相談という事でしたが。現在、妹さんは施設へ入所中なんですよね。契約関係や金銭管理は全て日下部さんが?」
久し振りにその声で名前を呼ばれて、日下部の心臓は激しく跳ねた。
どの程度会話の応酬を繰り返しただろうか、問われる事にただ無心で答える内に簡単な現状把握を済ませた榊原はトン、とボールペンの先をメモ用紙へと押し付けて顔を上げた。
「では、成年後見相当かどうかも含め、申し立ての際に必要な診断書などを一度確認したいと思います。資料が揃った段階で、改めて申立ての方向性を整理していきましょう」
「……また、来てもいいんですか」
思わず飛び出した縋るような声に驚いたのは、何も榊原だけではなかった。発言した日下部自身、そのおかしな問いに瞠目し、それから明らかにしまったといった顔で首裏を描く。
榊原は困惑した表情で自身の唇を緩く擦った。
「日下部さんに依頼継続の意思がある事を前提として……当然、来て貰わなければ先に進みませんが」
「そりゃそうだ。すみませんね、変な事言って。忘れて下さい。んじゃ、次の予約はまた電話します」
上手く誤魔化したつもりだった。
しかし今一つ納得していない様子の榊原は、穴が空く程じっと日下部の表情を眺めると、その内何かに納得したように頷いた。
「余計なお世話かもしれませんが…、あまり無理をしない事です。こういった手続きというのは申立てまでにも、その後にもかなりの時間と労力を使う。一人で抱え込む方ほど、途中で疲弊してしまう事が多い。気長に進めていきましょう」
二人でいる時によく聞いた、穏やかな口調だった。
恐らく特別な感情は何らない、弁護士が依頼人に掛ける常套句。テンプレートレベルの文言を読み上げているだけだ。
分かっている。
分かっているのに、目の前の男の一挙手一投足に日下部は恋人の名残を探してしまっていた。
しかし、目の前の男は恋人に似た別人だ。
理解する度に愛しさと罪悪感が交互に押し寄せて、諦めきれない切なさと、救われたいと願う気持ちが綯い交ぜになっていた。
会いたい。
その気持ちはもう二度と触れられない恋人に対するものなのか、手の届く所にいる男へのものなのか。
二度、三度と打ち合わせを繰り返す度に輪郭がぼやけ、曖昧模糊としていった。
*
家庭裁判所で行われる面談に向けて、想定質問の確認を行なうという事で、任務を終えた日下部は榊原の事務所を訪れていた。実質これが申し立て前の最後の打ち合わせとなる。
その日、榊原は酷く疲れているように見えた。
打ち合わせの最中も気もそぞろで、眉間を指先で揉むような仕草も散見される。
ゴミ箱の中にはゼリー飲料のパウチが捨てられていた。
「またアンタは、こんなもんばかり飲んで」
そんな小言がうっかり口を突くのは日下部にとってはごく自然な事だった。榊原は無言のまま、大きな縁取りの中に収まる漆黒の瞳を日下部へと差し向ける。
日下部は、そこでようやく何を口走ったのかを理解した。
「……いや、“また”はおかしいか。知り合いにもいたもんで、栄養補給をゼリーで済ませようとするヤツが」
「続けて」
「え?」
「気になっていたんです。ここへ来てそこへ座る度、アナタが俺を通して誰を見ているのか」
心臓に爪を立てられた心地だった。
見抜かれていたのだ。誠実に仕事をこなす相手に対し、身勝手に恋人の面影を重ねて一喜一憂している事も。心の何処かで、彼を代替品として消費している事も。
日下部は慌てて身を乗り出した。
「ちが……、悪かった、そんなつもりじゃ……」
「違う?そうだろうか。思い返せば初めて会った時も俺を誰かと間違えていましたね。恐らくそれ程似ているという事だ。その知人というのは、日下部さんの何ですか?」
「それ、は……」
榊原は顎を軽く引き、日下部をその漆黒の双眸で窺い見る。その姿は人の内側を暴こうとする時の日車そのものだった。
しどろもどろになった日下部の様子に、榊原は小さく溜息をつく。
「……失礼、依頼内容に関係のない事にまで立ち入ろうとするなんて、どうかしている。最近少し立て込んでいて、気が滅入っているようだ。申し訳ない。事前打ち合わせは以上となります。お疲れ様でした」
そう言って立ち上がった瞬間、榊原の身体がふらりと傾いた。
「おい!」
反射的に支えた身体は折れそうな程に細かった。
日車も、呪術師として働き始めた頃はこんな風に細かったろうか。今となっては思い出せないが、少なくとも最後に抱いた身体はもう少し鍛えられていたと思う。
やはり別人なのだと、思い知らされた次の瞬間、微かに香った整髪料の香りに、脳が焼けた。
「……ッ、何を…、離せ!!」
思い切り頬を殴られて、日下部は我に返る。
──今、俺は、何をした?
まだ感触の残る唇を指先でそっと撫でると、遅れて鉄錆の香りが口腔内に広がった。どうやら頬の内側の肉が歯に当たって切れたらしい。
「……悪ぃ」
「……いや、こちらも、殴って悪かった。だが、先に手を出したのはそちらだ。……悪いがこれで痛み分けという事で」
榊原は平坦な声色でそう告げると、背を向けてパーテーションの向こうへと立ち去った。
*
申立ては問題なく受理された。本人面談と調査官調査を経て数週間の後、家庭裁判所から成年後見開始の審判書が届けられる。
後見人には見知らぬ弁護士が選任されていた。
もう、これで会う事もないのだと。
理解した瞬間、世界は二度目の崩壊を始めた。
*
どれだけ心が痛もうが、世界は何も変わらず回り続ける。それだけが幾度となく繰り返し、嫌と言う程突き付けられてきたこの世の真理とも言えるだろう。
授業をこなし。任務へ赴き。呪霊を祓い。呪詛師を殺し。報告書を作る。その合間に最低限命を繋ぎ止められるだけの食事を摂り、気絶してから覚醒するまでの僅かな間、惰眠を貪る。
彼を亡くしてからの日々はその繰り返しだった。
日下部はそれで構わなかった。
少なくとも何かに没頭している間は痛みを忘れられる。他人の目があれば喪失感に咽び泣かずに済んだというのに。
そこへ突然現れた“日車に似た男”が、全部を掻き乱してしまった。
忘れかけていた感情が、日毎日下部の背中を追ってくる。
愛しさも。幸福も。
失った時の痛みまで。
全て、榊原が連れて来てしまった。
忘れたままでいられたら、この地獄を知らずにいられたのに──。
*
それは任務を終えたある夜の事。
もうすぐ雨が降ってくるのだろう。湿度が異様に高く、纏わり付くシャツが酷く鬱陶しい。日下部はすぐにでもジャケットを脱ぎ捨てたい一心で歩みを速めた。
じんわりと汗ばむ背中に不快感を背負いながら、繁華街から少し逸れて送迎の車が待つ予定の路地へと入ったその時だ。視界の端に闇を煮詰めたような重厚な黒煙が、ドロリとした呪力と共に立ち昇ったのを確認した。
日下部は弾かれたように呪力の根源へと向かって走り出す。
この呪力を知っている。
間違える筈がない。
これは、日車のジャッジマンだ。
「日車ッ!!」
角を曲がって現場を目視する。
そこには既に跡形もなく姿を消した式神の残穢と、酷く怯えた様子の榊原、それからその榊原の胸倉を掴んでいる酔っ払いが一人、呆けたように立っていた。
「テメェ、その手を離しやがれ!!」
激昂した日下部が尚も駆け寄ると、酔っ払いはヒッと短い悲鳴を上げて榊原を突き飛ばし、そのまま走り去って行った。
「おい待て!」
「やめろ……!俺は大丈夫だから、これ以上騒ぎを大きくしないで貰いたい」
勢い余ってよろけた榊原を抱き止めた日下部は、怒りに任せて暴漢の背中を追い掛けようとした所で彼の制止に従い足を止めた。
日下部は酷く混乱していた。
今、ここにいたのはジャッジマンではなかったのか?
路地は白々しい程に凪いでいた。
見間違いだったか。そんな風に日下部が自身の認識を疑い、彼が直前まで式神を背負っていたと頑なに信じられないのは、榊原から一切の呪力を感じないからだった。
当然、術式も存在しない。
日下部は、何度も確認した“別人だ”という結果をまたしても飲み込んだ。
繁華街には不釣り合いな静寂が二人を包む。
その時、乱れたスーツを正す手元を何気なく見てしまい、日下部は愕然とした。
シャツの隙間。鎖骨の上。縦に走る古い傷痕。
知っている。
その傷は、昔日車が呪術師になりたての頃、任務で瀕死の重傷を負った時の傷だった。
見苦しいからといじらしく隠す腕を跳ね除けて、丹念に唇を触れさせた感覚が昨日の事のように思い出される。
「……何で」
日下部の震える唇は、それだけ吐き出すのがやっとだった。
怪訝そうに眉を寄せた榊原は、すっかり着衣を整えて日下部へと向き直る。
「何がですか」
「その傷」
「傷……?」
「何で、それがオマエにあるんだ」
榊原は反射的にシャツの上から傷痕を隠した。
「君には関係ないだろう」
「俺は、それを知っている」
肩へと伸ばされた手を振り払って、微塵も信用していない眼差しで榊原は日下部を見据えた。
「触らないでくれ。これは二年前、交通事故に遭った時に……」
「違う!」
半ば叫ぶようにして榊原の言葉を遮ると、細い方がびくりと揺れる。
日下部は構わずに一歩、間合いを詰めた。
「オマエ……、日車だよな……?」
絞り出した言葉ごと突き飛ばすようにして、榊原は日下部の胸を突っ張った。
「……やめてくれ、もうたくさんだ。確かに俺の記憶は二年前の事故をきっかけに、それ以前の事が曖昧だ。それでも俺が、こうして今も弁護士の職に就いている事が答えだろう。俺は榊原恒一だ、君の日車じゃない。それとも何か、君の日車ではない俺はこの世には存在してはいけない異物なのか?」
「違う、待ってくれ俺は……」
「俺が何者かなんて、俺が一番知りたい」
雨粒が一筋、榊原の頬を伝う。
降り始めた雨は瞬く間に激しくアスファルトを叩き、走り去る榊原の影を茫洋とさせた。
*
高専へ帰るなり日下部は医務室の扉を乱暴に開けていた。
ラップトップに向かっていた視線を軽く持ち上げた家入は、ギョッとしたように立ち上がる。そのまま洗う予定で剥ぎ取ってあったシーツを引っ掴むと、少しの躊躇もなくそれを日下部へと押し付けた。
「何ですか、そんなずぶ濡れで……」
「なあ家入、オマエ、日車は死んだと俺に言ったな?」
ぴたり、と家入の動きが止まった。
「……そうですね」
「んじゃ、あれは何だ……誰なんだ」
受け取られる事のなかったシーツは、水分を含んで日下部の足元へと落ちる。
長い沈黙の後、家入は観念したように話し始めた。
「あの日、日車さんの心臓は確かに一度、動きを止めました。脾臓破裂、胃体部の裂傷、横隔膜裂傷……ギリギリまで反転術式を回していたようですが、出血が多過ぎました。脳に届けられる血液が途絶えた時、彼は一度死んだ。私が引き継いだ時には既にかなりの時間が経過していたので、出来る事は少なく絶望的と思われました。……しかし日車さんは矢張り天才ですね、薄れ行く意識の中で体内のあらゆる血管を自ら焼いていた。脳と、肺と、心臓だけで残った僅かな血液を循環させる経路を構築していたんです。輸血をして、人工的に心臓を動かした途端、再び反転術式が発動しました。土壇場で時間を稼ぐという判断を下し、実行したんです。……その後、奇跡的に息を吹き返しました」
淡々と語られる化け物じみた事の顛末は、実に日車らしいと感じられる。
しかし、最愛の人間が生きていたという事実を受けて日下部の中を駆け巡ったのは、喜びなどではなく煮え湯を飲まされた怒りだった。
「ふざけんなよ……、じゃあ何で、俺に言わなかった……」
握り締めた拳はしかしぶつける先がなく、声色と共に大腿の隣で小刻みに震える。
家入は、濃い隈が浮かんだ双眸を逸らす事なく答えた。
「言えるわけがないでしょう……、目を覚ました日車さんが全てを忘れてしまっていたなんて」
「なに……を、言って……」
何かの間違いだ。
そう否定したい気持ちとは裏腹に、心の何処かで妙に腑に落ちている自分に気付いていた。
煩く鳴り響く耳鳴りに、日下部は眉を寄せる。
「日車さんは自身の事も、他人の事も、呪術に関する事も全て忘れていた。それどころか彼からは呪力も消えていました。一時的な呪力の枯渇に加えて、脳に受けたダメージがそこに刻まれた呪式を損傷したんでしょう。……上の判断は早かった。幸か不幸かいつ急変があっても何ら不思議ではない状況です。全てを思い出す前に殺せと、そうお達しがありました。ただでさえ日車さんの術式は呪術界にとっての不安因子です。以前から危険視する声の多い術師だったのは日下部さんも承知している筈です。味方でいる内はそれ程心強い事はありませんが、一度敵に回れば厄介この上ない。一部の連中はこれを好機と捉えたんでしょう。くだらない保身の為に一般人と変わらない人間を殺せとは…つくづく腐ってる」
「そんな事……」
「はい、させません。あらゆるツテを辿って秘密裏に戸籍や経歴を準備しました。日車さんには、これから一般人として……」
「待て、そうじゃないだろ。何で俺に知らせなかったんだと聞いてるんだ」
「言えば快く送り出せましたか?」
「……ッ!」
頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が襲う。
そうだ。
聞けば、きっと──。
「それが答えです」
家入はこれ以上話す事はないと言わんばかりの態度で日下部に背を向けた。
*
いつも通りの朝が来た。
昨夜は比較的長く、二時間は纏めて眠れた気がする。
心なしか痛む首を回して起き上がると、視線の先には丸く窪んだクッションだけが静かにその存在を主張していた。
朝は嫌いだった。
新鮮な光に照らされて、部屋の中が生まれ変わる気がするから。
洗面を終えてゼリー飲料を流し込むと、日下部は朝イチに入っている授業の為に早速部屋を後にした。
*
午後の授業を終え、夕方から控える任務に向けて準備を始めた日下部に、耳打ちをするように来客を知らせたのは伊地知だった。
心なしか動揺しているように見えるその所作に、つられてそわそわとした気持ちになる。
「客だぁ?俺に?……誰だよ?」
「それがその……、何と言ったらいいか……」
言い淀むその姿に日下部はピンと来た。
「あー……、悪いんだけどよ、俺居ないつって帰って貰ってくんね?」
宜しく頼むな。そう言って踵を返した日下部の前に立ちはだかったのは誰あろう榊原だった。
「そうか、だったらいつなら居るのか聞いても?」
「……榊原さん、今日は何しにこんな辺鄙な場所まで?」
日下部自身が驚く程の冷淡な声に、まだ傍にいた伊地知が密かに縮み上がる。
しかし榊原は動じなかった。
「君に少し、話があって」
「俺は……特に話す事はねぇかな」
「君が夢中で追い回していた日車という人間について聞きたいんだが」
率直な物言いにギシ、と心が軋む音がする。
「あのさ、悪いんだけど帰って貰えませんかね。こう見えて俺も忙しいもんで」
榊原は一瞬押し黙って、それから一歩前へと歩み出た。
「今晩20時、××駅前の喫茶店で待っています」
「っ、おい……」
待っているから。そう念押しした榊原は日下部に背を向けて去っていった。
金縛りが解けたかのように伊地知が身動ぐ。
「日下部さん……、まさかあの人は……」
死人でも見たかのような言い草に鼻で笑った日下部は、忘れろとだけ告げて歩き出す。
しかしお節介な補助監督は今起きている問題を正しく理解し、最適解と同時に最悪の状況までを瞬時に想定したのだろう。恐縮しきった声色で日下部を引き留める。
「差し出がましいようですが……」
「わーってる、行かねぇよ……。車、頼むぜ」
そうして日下部は予定通り任務へと向かっていった。
待ち合わせというにはあまりにも一方的なそれに、日下部は端から応じるつもりがなかった。
駆け付けた先にいるのが日車なのか、榊原なのか。興味がないわけではなかったが、それでも日下部とてようやく手にした“無心で働く日常”を崩すのは憚られた。
それに、榊原にとってもようやく手に入れた人並みの生活だ。人並みに、食って、寝て、働いて、恋人を作って、いい加減に結婚でもして。年齢的にも子供を持つつもりなら余計な前世の影にうつつを抜かしている場合ではないだろう。
日下部がトリガーとなって再びこちらへ引き戻すなど、あってはならない。
もう、彼の人生に日下部が触れていい場所など存在しないのだ。
*
膠着戦となった任務は当初の想定を大幅に超えて決着し、帰路へ着く頃には日付が変わってしまっていた。そのせいで次に予定していた会議は明日へと持ち越され、恐れていた“何もしない時間”が日下部の目の前に転がっている。稀に起こりうる過密スケジュールの欠陥だ。
まだ眠れそうにない。持て余した時間を食い潰すように、日下部の足は自宅とは反対の方向へと向かっていた。
期待をしていたわけではない。
それでも、彼はそこにいた。
「何でいるかねぇ…」
日下部に気付いた榊原がガードレールから腰を浮かせて片手を上げた。
ズボンのポケットへと手を突っ込んだまま、日下部はその場で立ち止まる。
「来てくれると思っていた」
「来る気はなかったよ」
「でも、来てくれた」
榊原はどこか勝ち誇った顔をしながら日下部の傍へと歩み寄った。
手の届く距離で対峙する。
また少し痩せたらしい榊原の指先が、日下部の胸元へと軽く触れた。
「前にもこんな事があったな……、確か、その時は君が待ちぼうけをしていた」
ヒュッと息を呑む音が漏れる。
今、何と言った?
「随分待たせたろうに、君は文句一つ言わなかったな」
ダメだ。
そう分かっているのに。
自然とポケットから手が抜け出して、気付いた時にはもう目の前の男を抱き締めていた。
「ただいま、日下部」
世界は今、色鮮やかに息を吹き返した。