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診療録05.09:安寧存在と不在の独占欲に関しての報告/Novel by sumi

診療録05.09:安寧存在と不在の独占欲に関しての報告

11,877 character(s)23 mins

【キャプション必読願います】

篤寛花吐き病パロです。
全9話の5話目になります。

原作から7年後の世界線で日車さん呪術師if。
好きな相手がいない(と思ってる)のに花吐き病を発症した日下部さんのお話。
※ラブコメです。

★捏造過多。花吐き病オリジナル設定あり。精神疾患系の話・余命・寿命などの言葉が出ます。
苦手な方は自衛をお願いします。

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 花吐き病発症から八日目。
 日下部は「そうだ、刀の手入れをしよう」と某鉄道会社のキャッチコピーのような衝動にかられていた。
 それは思考が纏まらない時の日下部のメンタルリセット手段のひとつで、ちょうど手入れの時期でもあったので現在リビングの床には愛刀と手入れ道具が広げられている。

 昨日、家入の診察を受けてからどうにも胃のモヤモヤが晴れない気がして、その不快感に思考が纏まらず日下部は若干イライラしていた。
 花でも吐きたいのだろうかと嘔吐剤も使ってみたが解消はせず、ならば『九倍』に対して不安感でも覚えているのだろうかと考えたがしっくりこないので結局発生したイライラを翌日の今日まで持ちこしてしまったのだ。
 一度日車に相談するべきかと思ったが日車に緊急招集がかかり昨晩は会えず、今朝は早朝から日下部が会議へと家を出てしまい、帰ってきたら今度は休みのはずの日車が出かけているというすれ違いっぷりを発揮していた。ので、とりあえずメンタルマネジメントだけは入れておこうと思った次第だ。

「——うし」

 必要なものの確認を終えた日下部は刀の前で正座した。この時の、しんとした空気に余計なものが削ぎ落されるような感覚は幼い頃から変わらない。
 ひとつ息を吐いてから両手で刀を持ち一礼する。鞘から刀身を抜いて目釘を外し、古い油を拭い取ってから懐紙を口に咥えた。このあとの打ち粉を打ち付ける時間を日下部が殊のほか気に入っているのは自分以外の誰かに煩わされる事がないからだ。刀の手入れ方法を知っている人間は、手入れ中の人間に話しかける事はまずないので。——と、そこで日下部はふと思いつく。

(……こういうの、日車好きそうだな)

 家入同様知識欲旺盛な日車は自分の知らない世界に対してよく興味を示していた。呪術師として無理やり引きずり込んだ時も呪術界のやり口にブチ切れながらも知識欲には勝てなかったらしく、教える事を積極的にぐんぐん吸収していくものだから日下部の教育欲が騒いだくらいだ。
 剣術に関してはまだ未履修だから一度教えてみてもいいかもしれない。と、打ち粉を打ち始めところでガチャリ、リビングの扉が開く音がして日下部は肩を跳ねさせた。
 見れば、帰ってきた日車が何かを探すように視線を巡らせながらリビングへと入って来た。
 ——げ、やべ。

「日下部、帰ってるのか?少し相談があるんだ、が……」

 言いながら日下部をみとめた日車がきょとんとした顔を見せた。
 しまった、と日下部は日車への連絡を怠った自分に内心で「ぐう」と唸る。

(あー、帰る時間確認しとけばよかった)

 これは手入れのやり直しだな、と内心でため息を吐く。
 こういう事態は多々あるので問題ないのだが日車が変に気を遣いそうだ。と日下部は懐紙を外そうと打ち粉の戻し場所に視線を落とした。が、その前に正面までやってきた日車が綺麗な動作で正座したので目を丸めた。
 口を開かず「じ」とこちらを伺う日車に目が瞬く。

「…………」
「…………」

 陽光が窓から降り注ぐ中、ふたりの間に静かな沈黙が落ちる。だけど不快ではないそれに、日下部は一度肩で息を吐いてから刀への打ち粉を再開した。
 打ち粉を拭い、新しい丁子油を引く。刀身を確かめる最中にふと日車と目が合って心地良い緊張が走った。鎺と柄を戻して目釘を差し込む。刀を鞘へ納めたところで口に咥えていた懐紙を外したが、張り詰める空気が変わっていないからだろう、日車が姿勢を正したままなので日下部は目元だけで笑った。
 刀を両手で持ち直し、一礼してから畳んだタオルで作った即席台へと置く。と、そこでやっと日車が「は」と詰めていた息を吐き出した。その様子に日下部は静かに問いかける。

「日本刀の手入れに心得が?」
「え?」
「黙って見ててくれたから」
「ああ、いや、すまない。それは勉強不足で知らなかった。ただ君が紙を……あれは懐紙か?それを咥えていたから、呼気に含まれる水分がよくないのかと思った」
「はっ、正解」

 昔ながらの手入れ方法だが、日下部は師匠からこのやり方を教わったため今日こんにちまで懐紙をくわえる流儀を貫いていた。
 しかし相変わらず日車は頭の回転が早い。普通なら「見てていい?」とその場で声をかけてしまうもので、そうされればやり直しになるし集中も切れるので手入れ自体を後回しにした事も少なくなかった。——第三者を前にしながら最後まで手入れを終えられたのは、今回が初めてだ。
 その刀を、当の日車は熱心に見つめている。

「なんだかすごくいいものを見させてもらった。ありがとう」
「興味あんなら触ってみる?」
「いや、これは日下部の命を守るものだから。そう易々と触れない」
「——ふうん」

 命を狩る道具ではなく守る道具とは。
 日車らしいものの見方に何だかソワっとした気持ちになって、何かを誤魔化すように日下部はいつもの飴の包み紙を剥した。
 そこでふと、胃に巣食っていたムカつきがなくなっている事に気付く。

(——ん?)

 いつの間に。日下部は胃のあたりを思わず手のひらで撫でつける。無事手入れを終えられたからだろうか、メンタルリセットどころか少し浮足立っている気もしてきた。
 気分がいいので今日の晩飯は日車のリクエストを聞いてやろうかと視線を移して、ここでまたある事に気付く。

(……なんか珍しい恰好してんな)

 いまだ日下部の刀に視線を送る日車は白のケーブルニットにブルーグレーのタイトジーンズと日下部があまり見た事のない服を着ていた。普段は休日でも襟付きの服を着ているからだろうか、露わになっている首元が何だか頼りない気がしていつもより幼く見える。
 日下部の視線に気付いたのだろう、「なんだ?」と日車が日下部と視線を合わせてきた。

「いや、なんか珍しいカッコしてんなって思って。そんな服持ってたんだ?」
「ああ。そうだ、その相談をしたくて」
「相談?」
「花吐き病患者のカウセリング要請が入ってしまって、このあとダイニングを使ってもいいだろうか?」

 聞けば今着ている服は日車のカウンセリング時用の物とのこと。いつものシャツにスラックスでは堅苦しすぎて患者が緊張してしまうそうだ。
 なるほど、と日下部は許諾の意を返す。

「別に構わねぇよ。ちゅーかこの部屋元々そのためのもんなんだろ?わざわざ俺に許可取らんでもいーのに」
「そういうわけにもいかない、今は君が住む家でもある」

 真っ直ぐ返された言葉に「うぐ」と思わず日下部の上体が後ろに下がった。
 日車のこういった剥きだしの言葉選びはこの七年の付き合いの中でもいまだ慣れない。
 他のメンツは何とも思わないのだろうかと考えてしまうが、今はそのタイミングではないので意識を切り替える。 

「じゃあ俺、外に出てた方がいいか?」
「日下部が構わないなら家にいてくれて大丈夫だ。ただ、守秘義務があるのと今から来るのが十六歳の女の子だから」
「知らないおっさんがいるとやべぇわけだな。了解、そしたら部屋にいるわ」
「すまない」

 改めて寄こされた謝罪に「いーって」と言いながら日下部はやっぱり珍しい日車の姿を凝視してしまう。
 いつもカチっとした服ばかり着るこの男が少しオーバーサイズなカジュアル系も着こなせるとは知らなかった。
 今回のサマーニットは清潔感を考慮しているのか白色だが、初夏らしい若緑や薄藍なんかも似合いそうだ。と思っていると、うろ、と日車が一度視線を彷徨わせてから日下部を見上げた。

「……そんなにおかしいか?」
「ん?」
「服、すごく見てくるから」

 居心地悪そうにニットの袖を指先で持つ日車に、不躾にガン見していた事に気付いた日下部は「やべ」と口を開いた。

「ああいや悪い、そうじゃ」
「虎杖には『似合う』と言われたんだが、やはり社交辞令だったか」
「——あ?」

 急にすこん、血圧が上がったのか下がったのか分からないような感覚が起きて思わず日下部の喉から低い声が出た。
 ——は、なんでここで虎杖?ていうか。

「その服で虎杖と会った事あんの?」
「この服で会ったというより、虎杖がこの服を選んでくれたんだ」
「あ?」

 今度は間髪入れずに喉から低い音が出た。
 そんな日下部の様子には気付かない日車が「服を探しに行った時に偶然会ってな。俺じゃこういう服は選べないから、正直助かった」と『パヤパヤ』みたいな擬音が飛ぶ表情で説明を続ける。その『パヤパヤ』に日下部は何だかイラっとした。
 ——服くらい俺だって選べますけども。
 
「——日車、次の休みっていつ」
「次か?緊急要請が入らなければ三日後だな」
「三日後な。……ああ、俺その日は夜勤明けだ。よし、ひと眠りしたら服買いに行くから付き合って」
「服?」

 ぽかん、日車が珍しい顔をして日下部を見上げた。

「俺に君の服を選ぶセンスはないぞ」
「おっさんひとりで服買いに行くのが嫌ってだけだから選ぶまではいーよ。でも良さそうなのあったら提案してくれ。あとお前も、来週にはその服暑くなるだろうしカウンセリング用の新しいの買ったら?」
「ああ、それなら」

 頷いた日車に日下部は「よし」と何に対してか分からないが溜飲を下げた。若緑か薄藍の夏服探したろ。
 気付けば日車と外出する流れになったので、ならば、とスマホを取り出す。

「じゃあ帰りは外で食うか」
「外……」

 テレビの特集を見ていた時に日車が興味を持った居酒屋が近場にあったはずだ、と検索をかけていると微妙な声が届いたので日下部は視線を戻した。

「ん?なんか食いたいのある?」
「いや、日下部が昼から空いているなら料理を教えてもらおうかと思ったんだが」
「は、」
「でもせっかくの半休だ、食事は外ですませよう」
「いやいや待て待て」

 無用な気遣いを見せる日車に慌ててスマホをポケットに押し込む。

「教えるから家で食おう。なに作りたいんだよ」
「いや、また今度で」
「俺の気が変わったから家に変更」

 同居開始時に「この機会に料理を覚えろ」と言った事を日車は覚えていたようで、それを実行しようと思っていた事に日下部の機嫌が上がる。日車にやる気があるのならこの機を逃す手はないと決定事項として告げれば「……じゃあよろしく頼む」と日車が目元を緩ませた。
 この世界に入ったばかりの頃は食に欠片も興味を示していなかったので作る事に積極的になる事はいい傾向だ。

「で、なに作りたいの」
「作りたいものまで考えてなかったな……カニクリームコロッケとか」
「俺今までカニクリームコロッケ作れるような腕前お前に見せてたっけ?それは買うもの。初心者はカレーかシチューからだ」
「……初心者が作るのに適した料理があるならどうして聞いたんだ」
「初心者がそんな王道から外れたメニュー言ってくるとは思わなかったんだよっ」

 「ギリ許せてコロッケだろ」「じゃあコロッケで」「やだ、面倒くさい」「君な(怒)」なんてやり取りを繰り広げていたら『ピンポン』と集合玄関からの呼び出し音が聞こえて日下部は日車と揃ってモニターへと顔を向けた。
 見ればモニター越しにピンク色のワンピースを着た十代くらいの女の子が立っている。

「あ、患者か?」
「そうだ。約束の時間までまだ大分あるんだが……」
「それだけ早くお前に話聞いて欲しかったって事じゃねぇの?」
「本当はあまりよくないんだが……」
 
 ううん、と少し困った様子の日車が眉尻を下げながら日下部を見上げた。日車の言わんとする事は分かっているので日下部はささっと手入れ道具をまとめる。 

「日下部、すまないんだが」
「だからいいっちゅーに。リビングはこのままでいいのか?ちょいごちゃついてるけど」
「カウンセリングはダイニングでやるからリビング側はパーテンションで隠す」
「ん、じゃあそれは俺がやっとく。カウンセリング終わったら呼んでくれ」
「ありがとう。分かった」

 こくり頷いた日車がドアホンモニターの応答ボタンを押して「どうぞ」と呼び掛けながらオートロックのカギを開けた。
 この部屋は五階にあるのでほどなく患者が上がってくるだろう。日車が患者を迎えに玄関へと向かったので日下部は備え付けのパーテンションを広げてリビングの目隠しをしてから自室へと足を向けた。リビングと地続きになっている部屋のドアを閉める直前に「いらっしゃい」と日車の声と玄関扉が開く音が届く。間一髪。

(なんか、十六にしては大分幼い感じだったな)

 とりあえず、と部屋の扉に背中を預けて新しい飴の包み紙を開けながら、日下部はモニターに映っていた少女の姿を思い出す。
 十六歳といえば日下部が見ている生徒たちと同じ年齢だが、彼ら彼女らよりずっと儚げに見えたのは関わる世界の違いだろうか。

(——あんな、子供みてぇな子でも花吐くような片想いしてんのか)

 日下部は自覚している限り、それほど情熱的な恋をした事はなかった。
 過去に「いいな」と思う女性はいたように思う。だけど、教職と呪術師と妹に関するあれやこれやの日々の中で恋愛ごとにまで割こうとする情熱は湧かなかったのだ。日下部にとっての『恋』とは、人生においてそれだけ優先度の低いものだった。
 それなのに恋の病が具現化したような病気にかかってしまうだなんて人生何が起こるか分からない。

(なんつーか、日車がカウンセラーっつーのにすげぇ現実味が出たな)

 咥えた飴の棒を上下に動かしながら、日下部は先ほど聞こえた日車の声を脳内で反芻する。いつもより柔らかさを意識したようなその声は初めて聞くもので、患者相手にはそういう話し方をしているのかと思うと何故だか心臓がザワっと騒いだ。胃に巣食う不快感とは少し違う、焦燥に近い感覚だ。
 この感情の出所は探った方がいい——直感的にそう思って、飴の棒を口先で弄びながら無意識に思考を巡らせる。が、そこでふと周囲の違和に気付いて日下部は意識を戻した。
 ——なんか、声が……。

『ごめんなさいヒロくん、早く来ちゃって』
『いや、よく来てくれた』

「————っ!?」

 自室に籠っているのにリビングからの声がしっかりと聞こえて日下部は「え!?」と見えないリビングへと身体を向けた。
 扉は閉まっているのに「お茶とオレンジジュースがあるがどちらがいい?」とやはり日車の声が正しく聞こえておおいに焦る。これでは患者のプライバシーが盗聴し放題だ。あと患者には飲み物の選択肢が豪華だなこのやろう。
 しかしなんでまたこんなにもリビングの音が拾えるのだと考えて、そういえばファミリータイプのマンションでは子供の異変に気付けるように部屋同士を繋ぐスピーカーが内蔵された作りのものがあったと日下部は思い出す。

(おいおい、まさかそれかよ!?)

 きょろり、日下部は部屋全体を見渡すが内蔵型であろうスピーカーは当然見当たらない。複数人で住んでいれば気付けるシステムなのだろうが、元々は日車ひとりで住んでいた家なので日車自身も知らない事だったのだろう。
 スマホから音楽でも流してリビングの会話を聞こえないようにする手もあったが、あちらへも日下部側の音が聞こえる可能性があるので得策ではなかった。

(~~~~~っ、悪ぃ日車っ)

 葛藤すること約五秒。あ゛~、と考えて、日下部はもう開き直って日車のカウンセリングを盗み聞きする事にした。だって不可抗力だから仕方ない。考えても仕方ない事は考えないのが日下部の元々の戦闘スタイルだ。
 ならば、と日下部は扉を背にしたまま座り込んだ。開き直った男の盗み聞きスタイルである。

(つーか日車、『ヒロくん』って呼ばれてんのか)

 扉を閉める直前にも一瞬聞こえたが、日車は患者から『ヒロくん』と呼ばれているらしい。
 日車は初見取っつきにくそうな印象を受けるのに、その内面を知られてしまうと関わった人間から最終的に懐かれる傾向があった。きっとカウンセラーとして有能になってしまったのも、日車のそれが知られてしまったが所以なのだろう。

(——個人情報は忘れるから、ちっとだけ)

 届く声に集中できるように日下部は目を瞑って耳をすませる。
 今回日車を訪ねた患者は『カナ』という名前の高校二年生の女の子だった。
 カナが発症したのは約一年前。相手は幼馴染の男子なのだが、どうやらカナはここ五日ほど花を吐かなくなっているらしい。

『嘔吐剤を使っても吐かないのか?』
『————うん』

 ゆるりと優しく、意図を持って響かせられる声。その音階で日下部は察する。事実確認のような声色に見せかけて日車は今、頭をフル回転させてカナの不安の原因を探っている。
 『嘔吐剤を使っても花を吐かなくなった』というのは寛解に向かっているという事だ。日下部からしたらそれは喜ばしい事だと思うのに、日車からしたら「そうではない」と考える何かの要因があったのだろう。
 「カウンセリングに来たからといって、誰もが本心を話してくれるわけじゃないんだ」と以前日下部は日車からカウンセリングの難しさを聞いていた。——それは、弁護士時代も同じだったという事も。
 だからカナの表情から、口調から、日車はカナが本心を話せるための言葉を探っている。

『花を吐かなくなって悲しい?』
『……………』
『では、怖い?』
『っ、』

 びくり、カナが身体を強張らせる気配がした。
 少しの間を空けて、また日車の声が聞こえる。

『——誰か、他に気になる人が出来た?』
『……………うん』
『————そうか』

 ゆったりゆったり、カナの取る『間』に合わせて日車が返事をする。これは技術ではなく日車の心配りだ。相手に合わせて、相手の流す時間に寄り添って会話を促す。
 日下部にとっては長く感じる『間』が空いたあと、先に口を開いたのはカナだった。
 この『間』を待つのか、待たないかがきっと、カナが本心を言い出せる分岐点だったのだろう。

『————私がシュンにずっと片想いしてたの、知ってる子なの』
『————ああ』
『——私はその子のこと、最初は何とも思ってなくて、でも、私がいつもシュンの事で泣いてたから言ってくれたの、『私にしなよ』って。『ずっとカナのこと好きだったんだ』って』
『——ああ』

 ————うん?
 今一瞬何かに引っ掛かって、だけど何に引っ掛かったのかが分からず日下部は首を傾けた。
 日車は何も引っ掛からなかったのだろうか。カナの『間』に合わせる日車の相槌に違和感はなかった。

『最初は無理だって思ったの。だって、シュン以外を好きになれるなんて思わなかったから。だけどあの子がずっと、ずっと私のそばにいてくれて、好きだよっていつも言ってくれて、私、少しずつそれが嬉しいって思うようになって』
『ああ』
『気付いたら花を吐かない日が出るようになって』
『ああ』
『——お薬を飲んでも、もう花を吐けなくなったの』
『——そうか』

 カナの最後の声は掠れているようだった。
 内容が起点に戻ったからだろう。ここでやっと、日車が相槌以外の言葉を返す。

『その子の事を、好きになるのが怖い?』

(え、そうなの?)

 話を聞いていて、日下部はカナの悩みが『花吐き病の相手とは違う誰かを好きになれる自分に不安を感じている』のだと思っていた。花を吐くほどの恋をしていたのだ、対処法を実行している患者にはそういった悩みを持つ者もいると日車自身が言っていたから。
 しかし日車は「その子の事を」と言った。カナの悩みが『他の誰かに恋をした自分への不安』ではなく『相手を好きになること自体への恐怖』なのだと判断したのだ。
 それこそが花吐き病の解決法であるはずなのに、カナの恐怖が日下部には分からなくて日車には分かっている。それはカウンセラーとしての経験の差なのか、それとも、花吐き病患者としての経験の差なのか。
 また『間』が空いているが今度は日車は喋らない。おそらく、ここで促してしまっては駄目なのだろう。せっかちな日下部には出来ない芸当だ。

『——だれにも』
『——うん』
『——誰にも言わないって約束して。田中先生にも』
『大丈夫だ、約束する』

 田中先生とはカナの花吐き病の担当医師の事だろう。秘匿義務がある花吐き病は医師の選別も限られており、各地方にひとりずつしか配属できていないと聞いている。確か日下部が最初に紹介された関東地方担当の医師の名前は林だったはずだ。
 担当医が林ではないという事は、カナは近くても中部地方か東北地方から日車を訪ねて来ているという事になる。それだけ日車が花吐き病に関して重要なポジションにいるのだと実感して、日下部は何だか軽い疎外感を覚えた。
 最後のひと言が必要だと判断したのだろう、カナの『間』を待つ前に日車の声が聞こえる。

『君の悩みは恐らく俺と一緒だ。だから、ふたりだけの秘密にしないか?』
『っ、ほんと!?ヒロくんの好きなひと、男の人なの!?』

(————は?)

 高らかに響いたカナの声に、日下部は弾かれたように身体を起こし見えもしないリビングへ顔を向けた。

————日車の好きな相手が、男?

『ああ。君の好きな子は高校の友人か?』
『——うん、中学の時から一緒の子なの』

 聞こえ続ける会話に連動して日下部の心臓がどくどくと波を打つ。——カナの言葉に抱いた引っ掛かりはこれだったのだ。
 カナは相手の一人称を『私』と言っていた。男でも『私』と一人称を使う者はいるが、十六歳というカナの年代の友人で『私』を使う男はまず少ないだろう。
 それに気付いていたから、日車は情報開示をする事でカナの心を開かせた。女性は特に共感性の高い生き物だから、『同じ』である事を打ち明けたのだ。

 日下部は特に同性愛について意見も批判的感情も持っていなかった。ジェンダーレスの時代だし、誰が誰を好きでも、想い合っていても、当人同士が幸せならそれでいいと思っている。
 だからカナの新しい想い人が同性である事に驚きはあれど特に何も思わない。思わない、のに、日車の想い人が男であるという事実に日下部は衝撃を受けていた。
 嫌悪とかではない。批判とか、男同士で気持ち悪いとか、日車に対してそんな事は一ミリだって思わない。なのに。

(うわなんだコレ、すげぇムカつく……っ)

 どくどくと、ずっと波打っている心臓のざわめきは不快感がゆえのそれに近い。
 胃に不定期に訪れているものよりずっと強い不快さに、どこかで感じた覚えがあるのにどこで感じたかが思い出せなくて更にイライラが募る。

『その子もね、私に好きっていうの、ずっと悩んでたって言ってた』
『そうか』
『でも私がいつも泣いてるから、決心してくれたんだって』

 扉の向こうからは少しだけ明るくなったカナの声と、ずっと変わらない柔らかな日車の声が続いている。
 カナは、新しく芽生えた恋心を日車に肯定してもらいたかったのだろうか。
 LGBTQが受け入れられるようになった昨今とはいえ、まだ差別意識は強く当事者は家族にも打ち明けられない者がほとんどと聞く。
 特にカナの元々の恋の相手は異性だったようなので、次の恋の相手が同性になった事でより混乱を生んだのかもしれない。
 その不安を、日車が上手に掬い取っている。

『世界平均だが、同性が恋愛対象になる人は百人中約八人という統計が出ている。日本にいる左利きの人数と同じくらいの数だ』
『私の友達にもひとり、左利きいる』
『ああ。八パーセントというのは一生のうちに出会えない確率じゃない。だが、同じ『八パーセント』の人が想い合える確率はきっと、もっとずっと低い。異性相手でも好き同士にはなれない事で溢れてるから』
『…………うん』
『君と君の友人は、そのとても低い確率の中で惹かれ合った。それはとても奇跡的な事で、大事にしてほしいものだと俺は思う』

 淡々と、だけど温度の乗った日車の声が届く。その声に伴う日車の言葉には他者の自己承認感を上げる力があるが、本人はそれを自覚していない事を日下部は知っている。

『———でも私、好きって言ってもらえたから好きになったかもしれなくて』
『少しも好意がなければ、好きだと言われたくらいじゃ人は誰かを好きにはならない。だから気にしなくていい。それに、切っ掛けなんて何でもいいんだ。大事なのはそのあとだから』
『そのあと?』
『君がその子にひとりの人間として「寄り添いたい」と願ったのなら、それはすでに君の「恋」であって、「愛」に近付いてるということだ』
『っ、』

 カナの息を飲む気配と同時に日下部の呼吸も一瞬止まった。
 だって、伝わってしまったから。
 日車の恋が『相手に寄り添いたい』と願ったものであるという事が。

『君はその友人を、幸せにしたいと願ってしまったんだな』
『———うん』

 そうか、とあえて『間』を開けなかった日車の声が聞こえる。
 「分かる」と同調するかのような音に日下部の心臓がまたザワリと騒いだ。

『シュンにはそう思った事ないの。好きになってほしいって、ただ、それだけずっと願ってた。でも、あの子は違うの。私が好きよって言ったら笑ってくれるのかなって考えちゃうの。いつも、私に好きって言ってくれる時、泣きそうにしてるの隠して笑ってくれるから、嬉しそうに笑ってほしいの』
『ああ』
『——っ、私に、それが出来るなら、私がそうしたいって、思ったの』
『ああ』

 カナの言葉はもう、最後は嗚咽に紛れて聞き取りにくくなっていた。だけど、心を決めた声色だった。
 同性を好きになった葛藤や恐怖を乗り越えて、『相手との幸せを選びたい』という願いがとうとう彼女から吐き出されたのだ。

 同性同士だからこそ発生する課題がある。今後の不安だってあるだろう。その恐怖を抱えながらカナはここに来た。
 でも本当はカナは、背中を押してもらいたかったのだ。日車に「大丈夫」「君は間違ってない」と背中を押してもらって、次の恋に進みたかった。
 きっとカナがまだ迷っている段階であれば、日車は彼女の背を押す事はしなかっただろう。同性愛に理解を示したうえでカナの意向に合わせた意見を伝えたに違いない。カナが傷付かないように。カナの友人が、不必要に傷付かないように。
 『日車寛見』とはそういう男だ。

 日車が自身の恋の相手が同性である事を話したのは、カナの共感を得るためではなかった。
 カナの恐怖よわさを理解して、カナの最後の一歩を後押しするためだった。

 自分の恋ですら、日車は誰かが前へ進むための手段にしてしまえるのだ。

『提案なんだが、いま君が俺に教えてくれた事を友人にそのまま話してみたらどうだろう。きっと喜んでくれる』
『——怖いって思ってることも?』
『怖いと思ってる事も。君の恋はもうひとりで解決するものではなく、友人と考えていくものになっている。花吐き病の事は言ってはいけないが、怖いと思っている事も不安に感じている事も友人と、——好きな人と共有したらいい。もちろん、一緒にいたいと思っている事も、全部』
『っ、——うん、言う』
『ああ』

 応援してる、と柔らかく告げた日車は、きっと日下部にしか分からないような微かな喜色を浮かべている。カナが『叶う恋』へ踏み出そうとしている事を、本気で喜んでいるのだ。
 ——せめてそれを、羨ましいとでも思ってくれれば。
 そうすれば、日車も自分の恋を終わらせる事ができるのに。

『あと、友人の事は言わなくても大丈夫だから田中先生にも吐かなくなった事を報告してあげてほしい。彼も喜んでくれるから』
『うん』
『だが友人の事を知っても、田中先生はきっと祝ってくれる』
『——うん。ありがとう、ヒロくん』

 話が終わりを迎えたのだろう、人が立ち上がるような気配がしたかと思えばガチャリ、リビングの扉が開く音がした。
 距離が開いた事でふたりの声が聞こえ辛くなっていく中、来訪時よりずっと明るくなったカナの声が届く。

『ね、ヒロくんも好きな人に気付いた時は怖かったの?』
『さあ、どうだろうな。内緒だ』

 「あまりおじさんを揶揄うんじゃない」と苦笑するような声に無邪気な声が続く。

『じゃあ、ヒロくんの好きな人ってどんな人?』

 叶う恋に心が軽くなった、屈託のない少女の問いかけだった。
 どくり、日下部の心臓がひときわ大きく音を立てる。
 聞きたいような、知りたくないような葛藤が生まれたが、全神経が日車の声に集中している事は確かだった。
 少しの間を置いて、遠くにあるはずの日車の声が鮮明に響く。


『……強くて眩しくて、ずっと見ていたいと思う人、だな』
 

 その表情すら容易に想像出来る。


 その人が愛おしいのだと、全身で恋をしている男の声だった。


Comments

  • nanao
    May 21st
  • Ask

    元々花吐き病は大好きなんですがこちらのお話は本当にどんどん引き込まれて続き、続きを…!!となる素晴らしい構成でもう何と言うか…本当に大好きです!!完結までしっかりとこの目に焼き付けたいです!!ありがとうございます!!

    May 10th
  • narrプロフ必読1\1加筆。

    うあぁぁあ……!!! この篤と寛くっつきますよね?! くっついてくれ……( ; ; )!!! それにしても目の前で寛が笑っていてそれを篤が息を飲んで見守っているのが分かるような文章でしたわ……すごい(語彙力)。 ありがとうございますm(_ _)m

    May 10th
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