診療録05.03:潜在恋情と一生に一度の恋に関しての報告
【キャプション必読願います】
篤寛花吐き病パロです。
全9話の3話目になります。
原作から7年後の世界線で日車さん呪術師if。
好きな相手がいない(と思ってる)のに花吐き病を発症した日下部さんのお話。
※ラブコメです。
★捏造過多。花吐き病オリジナル設定あり。精神疾患系の話・余命・寿命などの言葉が出ます。
苦手な方は自衛をお願いします。
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花吐き病発症から二日目。
日下部はまだ勝手の分からないシステムキッチンで朝食作りに勤しんでいた。
三口コンロの便利さに感嘆しつつも、その眉間に深い皺が寄っているのは胃に巣食っている不快感のせいだ。
ムカムカと鬱陶しいそれは昨日、日車の病を知った時から発生していた。
(……今日はぜってぇ聞き出す)
これからの予定を組み立てながらフライパンに入れた卵液をくるくると丸める日下部には本日、珍しく自らに課したミッションがあった。——それは『日車の口を割らせる』こと。
しかしさすがに元弁護士の頑固者の口を割らせるのは日下部でも骨が折れるので、考えた結果出たのが『胃袋を掴んで気を緩ませる』作戦だった。
なので現在日下部は岩手出身のくせになぜか明太子入りの卵焼きしか食べた事がないという日車の希望を聞いて出汁巻き卵を作っている。昨晩から出汁を取る徹底ぶりだ。
変にムキになっている気もしたが、まあ、引っ越し作業で結局昨日の夜はコンビニ飯になったので初手としてはこれくらいしてもいいだろう。
と思っていたところでがちゃり、リビングの扉が開いた音がしたので日下部は振り返った。
少し眠たげな目をしたまま顔を覗かせたのはこの家の主——日車だ。
「おはよう、日下部」
「おう、はよ。——ふ、全然目ぇ開いてねぇじゃん。もう出来るから先に顔洗って来いよ」
「ありがとう。……すごいな、うちからおいしいにおいがしてる」
「朝ごはんたのしみだ」と半分ひらがな言葉で落とした日車にすとん、日下部の胃のムカムカが何故か霧散した。
「そういうわけでフェニルエチルアミンの分泌を促す食べ物は極力控えてほしい。チョコレートとチーズと赤ワインなんだが」
「…………」
時刻は午前八時三十分。
昨日とは打って変わった曇り空を映すダイニングの窓を横目に、日下部は日車から花吐き病の追加説明を受けていた。今日はふたりとも午後から別々に仕事が入っているため、今の内に昨日の話の続きをしておこうという流れだ。
「まずは花吐き病の他の対策法から」と、手作り資料(ピンク色のウサギ付き)を使いながら説明を続ける日車を日下部は眉間に皺を寄せた状態でじいと見つめる。
(——問題はどう話を切り出すか、だ)
真面目な患者を装って両手を膝に置きながら説明を受けていた日下部だったが、その実、脳が考えているのは別の事だった。
それは日車が発症している花吐き病についてのこと。
日車が自身の花吐き病の事を何でもない事のように告げた時、日下部は過去イチかというほど内心憤っていた。花吐き病患者の末路を聞いたばかりだったのだ、当然の事と言える。
日車は「フェニルエチルアミンが少ないから希死念慮は起こらない」と言ったが「初症例」だとも言っていた。
前例がないという事は、フェニルエチルアミンによる『反動』がこれから先の日車に起こらない保証もないという事だ。つまり、日車はいつ抑うつ症状が起こってもおかしくない爆弾を抱えている状態になっている。
だから日下部はその場で問い質そうとした。
フェニルエチルアミンが少ないのになぜ花吐き病を発症しているのか。その原因は研究されているのか。フェニルエチルアミンの数値は低値であると定期的に確認されているのか。確認されているならどの頻度なのか。そもそもいつ発症したのか。――日車が花を吐いている、その想い人とは誰なのか。
聞きたい事が次から次へと日下部の脳内を巡って、しかしそのタイムロスがあったのがいけなかった。
日下部が言及のための口を開く前に日車が「日下部、俺は明太子入りの卵焼きしか食べた事がないんだが出し巻き卵は作れるか?」とツッコミどころ満載な発言をかましてきたので問い質す切っ掛けを失ってしまったのだ。
(……あれは確実にはぐらかされた)
という事は日車は自身の花吐き病について言及されたくないという事だ。
まんまと日車の手のひらの上で転がされた事に悔しさを感じるが、日車に本気でかかられたら日下部といえど舌戦で勝つことは難しい。
なのでとりあえず今日の夕飯も日車のリクエストに応えて全力で肉じゃがを作っておいた。朝食の出汁巻き卵は大変好評で、「明日の朝も同じものを」と再リクエストが入ったので肉じゃがもいい仕事をしてくれるだろう。ちなみに肉じゃがの肉は東は豚肉、西は牛肉が一般的だが、日車の家は鶏肉だったらしいので鶏肉にしておいた。だからなんでそう王道から外れた食文化なんだというツッコミはしないでおいた。
(聞き方を間違えるとアウト)
日車は頑固なので「言わない」「しない」と決めた事は梃子を使ってもガチで動かないが、一部チョロいところがあるので虎杖や伊地知などが本気で訴えたりすると自分の意見を折る事もあった。それが日下部にはほぼ適用されないのが厄介で、しかし、七年かけて折れさせた事もあるのでやり方次第では日車の病状について聞き出す事も不可能ではないはずだと日下部は考えている。。
しかし、花吐き病だなんてファンシーな病名はついているが恋愛ごとは大小問わず心の柔らかい所に触れるものだとも日下部は思っている。——こと、花を吐くほどの想いであるなら、尚更。
だから日下部は日車への問い質しに慎重になっていた。日車の柔らかい所を傷付けないように、だけど、日車の花吐き病を治す手段を知るために、話の糸口をずっと探っているのだ。
これが日車であれば相手の様子に寄り添いながら上手く話を聞き出すのだろうが。
(つかコイツ、やっぱ声めっちゃいいな)
お行儀の良い姿勢に疲れてテーブルに右肘をついて口元を隠すように顎を預けた日下部は、やっぱりじいと日車を見つめる。
少し低めなのに聞き取りやすい日車の声は、不思議な透明感を伴っているので聞いていてとても心地が良い。
加飾のない言葉と相手と真正面から向き合う姿勢にこの声が合わさる事で花吐き病患者の心も開かせているのだろう。
(ああでも、寝起きの声は初めて聞いたな)
今朝の日車の様子を思い出して日下部は口の中だけでふ、と笑う。
意外と朝が弱かったらしい日車の朝一番の挨拶は、少し掠れてひらがな言葉になっていた。常に朝からシャキっとしていた死滅回游のあの時は気を張っていたのだろう。
今回の事がなければ聞けなかったその声色は、日車の想い人だけが聞ける声だったのかもしれない。
(————ん?)
ふと、なんだかモヤリ。また胃の中にムカムカが発生した気がして日下部は眉間を寄せる。と。
「——かべ、日下部、聞いてるか?」
「っ、は、あ゛!?」
急に名前を呼ばれて日下部はバっと顔を上げた。
見れば少し不服そうな、しかし若干の心配の気配を乗せた顔をした日車が日下部を覗き込んでいる。
——やべ、日車の話から意識外してた。
日下部は慌てて姿勢を正す。
「お、おお、聞いてる聞いてる。チョコとチーズと赤ワイン食えばいいんだな」
「逆だな。食べるのを控えてほしいという話だ」
「…………」
「やっぱり聞いてなかったな」と眉を顰めた日車に、日下部は「悪い」と素直に頭を下げた。
このカウンセリングは日車の仕事のひとつで日下部のために行われているものだ、時間を割かせている身分で取っていい態度ではなかった。
しかもこれから聞き取りをしようと目論んでいる相手の機嫌を損なわせてしまうとはとんだ失態だ、と日下部が内省していると、ぽつりと落とすような声で日車が話しかけてきた。
「やはりショックだったか?」
「——ん?あ?ショック?」
「?、違うのか?花吐き病になった患者は最初の頃は花を吐く事にショックを受ける人が多いんだ。だから日下部も上の空になっていたのかと思ったんだが」
「花?——ああ」
一瞬、日車の花吐き病を気にしている事がバレたのかと日下部は焦ったが、どうやら日車は日下部を気にかけているらしい。
日下部は昨日、嘔吐剤を使って二度目の花を吐いた。
これは元々花吐き病を発症した患者の義務らしく、嘔吐剤を使っても花を吐かなければ寛解扱いとなるので、その確認も兼ねているとのこと。
「花吐き病に『寛解』があんの?」と驚いた日下部に、日車はまたウサギのイラスト付き資料を出して説明をした。
「片想いの相手に告白をして気持ちの区切りをつけたり、第三者からのアプローチに心が揺れるようになると花は吐かなくなるから、それを寛解扱いとされているんだ」
でも『完治』ではないので、新しく拗らせる恋をしてしまうとまた発症する可能性はあるとのこと。
抑制剤なしに一週間花を吐かず、かつ、嘔吐剤を飲んでも花を吐かなければ寛解認定となり、以後はまた花を吐く事があるまで定期診断の対象から外されるらしい。
ちなみに片想いの自覚がない日下部は嘔吐剤で花を吐かなければ寛解扱いでこの病気から解放されるのではないかと期待して日車立ち合いのもと服薬に挑んだのだが、飲んだ瞬間に「え、こんなにゲロる事ってある?」ってなくらいゲロゲロと大量の薔薇の花を吐き出した。
あまりにゲロゲロ吐きすぎて、床一面を埋めた真っ赤な薔薇の花びらに「無料で薔薇風呂できんじゃん」と現実逃避してしまい、日車からは「君と薔薇風呂は解釈違いだな。伏黒か、ギリギリ東堂までだ」と返された。
解釈違いってなんだ。あと伏黒と東堂に対するお前の評価はどうなってるんだ。
ともあれ、そんなこんなで日下部が花吐き病を発症している事が改めて証明されたわけなのだが、日下部的に衝撃だったのは自身が花を吐いた事よりそのあとの日車の行動だった。
花を吐いた日下部のために水(軟水)を渡した日車が、そのまま流れるように日下部の吐いた花を両手で掬い上げたのだ。素手で。
「は!?バッカお前何やってんの!?」
「何って花を拾ってるだけだが……。ああ、すまない、説明不足だったな。花吐き病患者が吐いた花は管理機関に送らないといけないんだ。不用意に捨てて、拾った誰かに感染させるわけにはいかないから」
「いやそうじゃなくて!俺が吐いたやつだぞ、汚ねぇだろ!?」
どういう仕組みか分からないが、床一面に広がる薔薇は胃液や唾液の付着が一切なく、それこそ薔薇風呂にそのまま使えるくらい綺麗なものだった。しかしその薔薇は日下部が吐いたもので日車だってその目で見ていたはずだ。
なのになんの躊躇もなく触れられて「せめて箒とちりとり使ってくれ」と日下部は嘆いたが、しかし日車はきょとんとしたあと言ったのだ、「なにを言ってる」と。
「汚くはない、君の大事なものだ」
「しかし日下部が気になるならこれからは触らないようにする」と、そう言ってのけた日車にこそ日下部はショックを受けた。
日下部の吐いた、自覚のない恋の残骸を日車はとても尊いものを触るように扱った。
それはつまり、日車自身が自分の恋心をそのように扱っているという事だ。
大事に大事に、ひと欠片だって崩れないように、破棄される物だと分かっているのに手から離れる瞬間まで日車はその『恋心』を大事に抱えている。
日車の恋の重さの片鱗が見えた気がして、その『六年』の質量を思い知らされた気がして、日下部は何故だか分からないけどそんな日車の様子にショックを受けた。
だから、その衝撃の方が強いので日下部は自分が花を吐いた事にあまりショックは受けなかったのだ。
「——いや、別件でちょい頭取られてた。花吐いた事にそんなショックは受けてねぇよ」
「そうか?……ならいいが」
とりあえず怪訝げな日車のフォローをすべく日下部は否定をもって返答したが、納得したようにみせて日車はまだ疑っていそうな、ともすれば心配そうな表情を見せている。
日車のこういう所がよくないと、日下部は常々思っている。
(ほんっと、弁護士にも呪術師にも向いてねぇやつ)
日車はどちらも能力はズバ抜けて高いのにその気質が伴っていない。もっとドライに、自分本位になれれば弁護士としても呪術師としても勝ち組の人生を送れるだろうに、本人はその真反対を貫く性格をしているので真反対の人生を送っている。それを「もったいない」と、日下部はいつも思っている。
——望めばもっと、この男は幸せな生き方が出来るはずなのに。
でもまあこれが『日車』なんだしなぁ、とうーんと思考を逸らした所でピコーンと日下部は思いついた。
今が話の切り出し時なのでは。
「——なぁ、日車も最初はショックだったのか?」
「うん?ああ、いや。俺は感染してから発症までかなり時間があったんだ。『いつかあるかもしれない』と心の準備が出来ていたから、さほどショックはなかった」
意気揚々と問うてみたものの、よくよく考えればこの聞き方では日車に取り繕わせてしまうと気付いて日下部は瞬時に後悔した。
予想通り、患者の不安を煽らないような、嘘か本当か分からない模範解答を返されて日下部はがくりと項垂れる。
が、まだ流れはこちらのままなので的外れにならない内容を選んで質問を続けた。
「『時間があった』って、日車はいつ感染したんだよ」
「中学に上がってすぐの頃だ。五歳上の再従姉が花吐き病発症患者で、法事で集まった時にタイミングの悪さがあって感染してしまった。今思えば他の家族に知られなくて本当によかった」
「……まじか」
予想外の近しい関係者からの感染に日下部は虚を突かれた。日下部の発生源となった女性とはもう縁もなくなっているが、日車はその相手の経過を追えているという事だ。
聞いていいのか悪いのかを迷う日下部に気付いたのだろう、先に日車が口を開いた。
「大丈夫だ、彼女は今も元気にしていてご主人も子供さんもいる。花吐き病を発症していた時の相手ではないらしいが、幸せにしている」
「『寛解状態』ってやつか。つか、花吐き病になっても別の相手とって、そういう事もあるんだな」
「ああ。というか、花吐き病の一番多い解決法が『次の恋に進ませる』ことなんだ。花吐き病患者に『恋の寿命』はないが、恋をする相手を移行させて、その『恋』を拗れたものにならなくすれば花を吐く事はなくなるから」
うん?ならば。と日下部は思いつく。
「なら片想い相手に適当に理由つけて両想いになったふりしてもらうってのもアリなんじゃねぇの?」
「それは過去に実験されていて失敗に終わっている。花吐き病は相手と両想いになると白銀の百合を吐いて完治するらしいんだが、『ふり』では無理だったらしい」
「白銀の百合って、まだメルヘンな設定あんのかよ……」
うんざり、日下部が天井を仰ぐと日車から笑った気配が届く。
日車の笑い方は許容の気配をいつも多分に含ませるので、それが見たくて虎杖なんかは会うたびに日車を笑わせようとしている事を日下部は知っている。
「『ふり』は駄目なのに『移行』はOKって矛盾してねぇか」
「そうでもない。人は多かれ少なかれ自己是認欲求があるから」
自己是認欲求。他者に認められたいと求める、呪いもなれる人間の本能のひとつだ。恋愛に絡めるならば『愛されたい』『相手と繋がっていたい』と願う原動力。
もしくは、
「『叶わない恋より叶う恋を選びたい』という防衛本能を逆手に取った対処法だな。自分に好意を持っている相手を好きになれれば一番楽だし、少しでも心が揺れればひとまず花は吐かなくなる。だから担当医からマッチングアプリやお見合いを勧められる患者も多い」
「とことんシステマチック」
「『両想いになったら完治』というのも文献に記載されてるだけで、実際そうなった人の症例は管理機関が出来た以降の分はまだないそうだ」
「叶わないから拗らせてる、なら、まぁ、そうなるわな」
——あ、いい流れかもしれない。
この流れなら不自然なく日車に話を振れる。と、日下部は一度だけ息を飲んでから口を開いた。
「日車も好きなやつ移行させるって対処法やってんの?」
日車の花吐き病を知ってからずっと気になっていた事。
例え日車に花吐き病の『余命』がなかったとしても、それでも、六年間ものあいだ拗らせた恋を抱えるというのはそれだけで心が消耗してしまうのではないだろうか。ただただ抑制と嘔吐を繰り返すだけの日々に、日車の心が侵される事だって無きにしも非ずだ。
だから日車に少しでも花吐き病を解決する手段があって、それが実行されているのなら日下部は安心する事が出来る。
——ただ、しかし何故だろう。日車が次の恋に進もうとしている姿を想像すると、日下部の胃にまた原因不明のムカつきが起きた気がした。
「いや、俺はその方法は『やっても無駄』らしいからしなかった」
「え、——は?なんで?」
あっけらかんと何でもない事のように言ってのけた日車に日下部はぎょっとする。不意にやってきた胃のムカつきも一気に霧散した。
『やっても無駄』とはどういう事だ。
「俺が恋にならないフェニルエチルアミンの数値で発症している事は脳にとっては『例外』で、この状態では『他の誰かを好きになる』というのは考えにくいというのが研究機関の見解なんだ」
「なっ、……つっても、試してみねぇと分かんねぇだろ」
「それが、そもそも俺は恋愛における自己是認欲求も低いようで『お見合いとか試してみてもいいけど十中八九無駄に終わる』と言われた」
まあ、「できる」と言われても試すつもりはなかったが。とぽつり呟かれた言葉は日下部に聞かせるつもりはなかったのだろう。
しかしばっちりしっかり聞こえてしまった日下部は眉間の皺を深くした。
それは過去の罪から日車が自身に幸せになる資格はないと思っているからか、それとも、その『恋』を手離したくないと願っているからなのか。
どちらにせよけったくそ悪い話である。
「……じゃあ、さっき言ってた『告って気持ちに区切りつけて寛解状態にする』ってーのは」
「俺はすでに失恋済みなんだが特に変化はなかったな。そもそもフェニルエチルアミンが低値だから『気持ちの区切り』の境界線がないらしい」
「はあ!?おまっ、それじゃ実質対処法なしって事になるじゃねぇか!」
「いや、これはあくまで俺の場合に限りだ。基本は今言った対処法のどれかで解決できるものだし、日下部の場合は相手がまだ分かっていないから完治の可能性だってある。心配しなくても大丈夫だ」
「全然大丈夫じゃねぇし何でそこで俺の話になんだよ!」
思わず「ぐわっ」っと叫べばきょとんとした日車に日下部はやるせない気分になる。
日車の花吐き病について知った時、日下部が憤りを感じた理由が今分かった。日車からは自身の花吐き病を治そうとする姿勢が欠片も感じられないのだ。
どの対処法も当てはまらない事に諦めている訳ではない。どの対処法も当てはまらない事に、日車が喜んでいるようにすら見えるのだ。
それが日下部の焦燥感をこれでもかってほど煽っている。
他の誰かを好きになれない、気持ちに区切りをつけて終わらせる事も出来ないその恋は『一生に一度の恋』と呼ばれるものだ。
なら、それじゃあ——。
「……なるほど、日下部はずっと俺の話をしていたのか」
「っ、」
思考が逸れていたところに静かな日車の声が落されて日下部は肩を跳ねさせた。
日車に意識を戻せば困ったような、でも何かを思案しているような瞳と目が合って、日下部は「ああ、今日はこれでもう終わりだな」と察知する。
日下部の思惑に気付いた日車はもう、取り繕う言葉しか選ばなくなるだろう。
「心配をかけさせてすまない。でも俺の件は解決してる事だから、日下部が気に掛けるほどのものじゃないんだ」
そらきたやっぱりだ。
日車は自分の事で他者を煩わせる事をよしとしない。適材適所で人を使うのは上手だが、自身のスペックが高いので自分の事は自分で解決できるというスタンスを貫いている。それこそが他者を心配させているのだと、ここ最近やっと理解した姿勢も見せてきたが、状況が変わると結局こうやってポンコツな結果に辿り着くのだ。
しかしこうやってバレてしまったのは日下部の落ち度である。
ならもういいや。と開き直った日下部はぐでんと背もたれに体重を預けるように上体を倒した。
「——日車の好きな相手ってだれ」
「いきなり突っ込んできたな?歯に衣着せたりしなくていいのか先生」
「もうバレたんならいいだろ」
「言っても分からないと思うぞ。弁護士時代に知り合った人だから」
相手の事を思い浮かべているのだろうか。叶わない恋をしているとは思えないくらい優しい音でふ、と日車が笑う。
その音にまた胃に不快感が宿った。
(……弁護士時代の知り合い、か)
それはつまり、日下部との付き合い以上の期間をかけて日車は恋をしてきたという事だ。
何だかそれがとてつもなく面白くないと日下部は感じるが、何に対して『面白くない』と感じるかが分からなくてぐう、と喉から不服の音が出る。
その音に何を勘違いしたのか日車がまた気遣いを見せた。
「大丈夫だ、発症したのは呪術界に来てからだが抑制剤でコントロール出来ているから任務に支障をきたした事はないし今後もきたすつもりはない。これからも仕事は遠慮なく振ってくれて構わない」
「それはお前が呪術師になった時に縛りをかけた事だから俺がどうこうは言えねぇよ。つーかまだ任務に支障あったって言われた方がよかったわ。だったら反転術式ありきで無茶打ってたのに理由がつく」
「最近は怪我しなくなっただろう」
「俺が再三注意してやっとね。七年かかりましたけどね」
(——でも、そうか、日車は俺たちといる時に相手への気持ちを拗らせたのか)
そう思うと何だかまた胃がムカムカしてきて日下部はやっぱりぐううと唸る。
それなりに親しくしていた相手の知らない一面にショックでも受けているのだろうか。
そう思うとあまりにも思考がガキくさくて逆にショックを受けてしまう。
「俺の事よりも君の好きな人だ、日下部。本当に思い当たる人はいないのか?」
ちょい、と右腕をくすぐられる感覚があって視線をやれば、上体を倒したままの日下部の気を引くように日車の指先が触れていた。
しゃーねーなと上体を起こせば指先が戻されて、なんとなく目がその動きを追った。
「——いねぇな。マジで何で発症したんだってくれー思いつかねぇ」
「『昔付き合ってた人の事が忘れられない』とかはないのか?」
「十になる前から呪術界に関わっててそこまで引きずる恋愛する暇なかったっつーの」
「……しかし、先日会いに行ったんだろう?」
「あ?誰に」
「君の元恋人に。俺が呪専に来てから一年したくらいの時に応援でこっちに来ていた、京都校所属の準一級術師の女性だったと記憶しているが」
そこまで言われて日下部はふと思い出す。
ちょうど六年前の今頃の事だ。この時の日本は世界規模で起こったパンデミックの不安から呪霊が大量に湧き、それが渋谷事変の影響で東京に集中したものだから京都高専から派遣が入ったのだが。
(なんかそういうやついたな)
派遣メンバーにひとりだけ女性がいて、おそらくその術師が日車のいう『元恋人』だろうと日下部は当たりをつける。といっても日下部はその女性と恋人関係にあった事実はなかった。当時の日下部はシン・陰流当主と東京校校長代理という肩書を持っていたため、出世欲の強い彼女に目をつけられて気付いた時には恋人を名乗られていたのだ。
彼女は日下部の恋人を名乗るだけあって日下部を彼氏扱いしていたが、日下部はこの時二足の草鞋に加えて二年生担任の仕事と呪術師一歳児のくせに一級を与えられて反転術式ありきで無茶をする新人を追いかけるのに本当に忙しくしていたため対処する暇がなく、まあそのうち飽きるだろうと放っておいたら気付いたら応援期間を終えた彼女が京都へと帰って行っていた。
伊地知や新田が日下部のその状況に同情してくれていたので、誰もが彼女の独り相撲だと認識していたと思っていたのだが。
(——は、え?日車は俺とあいつが付き合ってたって思ってるって事か!?)
そうと気付いた日下部はガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。
「待て、ちがっ、あれはあいつが勝手に言ってただけで彼女だったわけじゃねぇ!」
「そうなのか?先日の京都遠征は珍しく日下部が率先して請け負っていたから、その元恋人と寄りを戻す目的を兼ねていたという噂が流れていたんだが」
「それは……っ」
確かに先月京都校からヘルプ要請が来ていた。が、それには日車が指名されており、裏で日車の京都校引き抜きが画策されている事に気付いた日下部が諸々のスケジュールを押してその任を請け負ったのだ。日車本人を派遣できない事はもちろん、他の誰かに任せて下手を打たれてはたまったものじゃないので。
しかしそれを言うのは何だか憚られて日下部が口籠ってしまうと、伺うような視線を向けた日車が「秘匿情報の範囲なら無理して言わなくて大丈夫だ」と先に口を開いた。
全然秘匿じゃないのだが日車がそれで納得してくれたので日下部はそのまま口を噤む事にする。
「しかし日下部が復縁できるかどうかに秤主催でベッドが集められていたんだが、徒労だったんだな」
「あ!ここ最近秤がやたら俺に彼女出来たかどうか聞いてきてたのってそれか!?」
「そこそこの参加人数だったようだから、秤も張り切っていた」
「いい歳して何やってんだあのガキどもっ。……おい、まさかお前までノッてねぇよな?」
「元弁護士だぞ、必要以上に法を犯す事はしたくない。見てただけだ」
「見てたんなら止めてくんない……?」
見てるだけでも何かの法に引っかかってなかったけ?と思いながら座り直すと、席についた日下部に向かって日車がほっとしたかのように目尻を下げたので日下部の心臓がどきりと跳ねた。
「そうか、でも違ったんならよかった」
「——は?」
安心を隠しもしないその音に跳ねた日下部の心臓がそのままドクドクと脈を打つ。
今のこの流れで「よかった」なんて、どういうつもりでそんなことを。
「日車、それは」
「実は彼女はその……、評判があまり良くなくてな。日下部が選んだ人なら大丈夫だとは言ったんだが、三輪くんが『日下部さんの奥さんってだけならどうでもいいんですけどシン陰当主の奥さんって事でもあるじゃないですか!いやですよ私あの人がウチに関わってくるのぉ!』と嘆いていたから。日下部から誤情報だと言ってやるといい、きっと喜ぶ」
「三輪……っ」
一瞬何かに行き着きそうになって、しかし瞬間で霧散した脈動と一緒に日下部は三輪への不満を露わにした。
あいつは何年経っても俺のこと舐めくさりやがって、と青筋を立てる日下部に日車が追い打ちをかける。
「しかし京都の女性術師と復縁できなくて日下部は片想いを拗らせたのではと思っていたんだが、そもそも彼女が恋人でないのなら話が変わってくるな」
いたって真面目に考察を始める日車に日下部はなんだかモヤっとした気持ちを覚えた。
京都遠征後、やたら好奇の目を向けられている気がしていたのは気のせいじゃないようで、その目を日車からも向けられていたのかと思うとモヤモヤがムカムカに変わった気がした。
そもそも件の女性術師の事で六年前から日車が誤解していた事も、日車に過去の恋人について指摘される事も、日車がこの話題に関して平然としている事もなんだかとにかく気に食わない。
「恋人ではなかったとしても、当時彼女からアプローチされていたのは確かだったよな?彼女みたいな人はタイプではなかったのか?」
「——なぁ日車、その話題なんかすげぇ嫌だから触れないでほしい。あと少なくともあいつは俺の好みのタイプではない」
「そうなのか?……分かった。では日下部の好みのタイプはどんな人だ?」
「…………、」
なんだかこれはこれで気に食わない感じがするな、と日下部は思うが、元々自分の花吐き病を治すためのカウンセリングだった事を思い出して意識を改める。理由も分からない不快感に日車を振り回すわけにもいかないだろう。
「あんま考えた事ねぇけど……、あえて言うなら『危なっかしくて放っておけないやつ』とか?」
んん、と何とか絞り出すようにして、だけど何処からかスラっと頭に浮かんだ単語を口に出せば、日車が「……意外だな」と目を丸めた。
「例の彼女もそうだが、君は冥冥のような自立した大人の女性がタイプなのかと思っていた」
「なに怖い事言ってんの?例えに冥冥上げるってもはや悪意だろ」
「冥冥が相手なら報酬次第でどうにかならないかと考えていたんだが」
「さすがに来世の生涯年収使っても無理だと思う」
というか金銭でやり取りできる『恋』で花吐き病が治るなら苦労はないだろう。まあ冥冥の場合ならありえそうな気もするが、元より日下部の相手は冥冥ではないので検討するだけ無駄である。
「そもそも日下部の好みのタイプは一致する対象が多すぎるんだ。家入も庵くんも新田くん真希くんも三輪くんも釘崎くんも全員そうだろう」
「お前にはあの猛獣どもがウサギにでも見えてんの?どいつもこいつも放っておいたって死なねぇよ。あと後半は犯罪だろうが、なんで候補に入れた?」
「高専関係以外の君の交友関係を知らないからな。プライベートで当てはまる人はいないのか」
「プライベートで片想い拗らせるレベルに親しいやつがまずいない」
「シン陰の門下生は」
「シン陰の門弟で一番歳が近いのが三輪だな」
「——おい、ちゃんと考える気あるか?」
だんだんおざなりになってきた日下部の返答に日車が気が付いたように苦言を呈する。しかしやはり思い付かないのだから仕方ないのだ。
そもそも日車は「一致する対象が多すぎる」と言ったがそうでもないと日下部は思う。
フィジカルもメンタルも強固でなければやっていられないこの世界で、それを備えた上で『完全一致』している人間なんて日下部は今の所ひとりしか思い当たらないのだから。
「しかし冥冥を悪意で家入たちを猛獣とは。君、もしやかなり理想が高いな?」
「むしろ日車はなんであいつらの評価がそんなに高ぇの」
「セクハラになるから当人たちには言えないが、みんなとても魅力的な女性だと思う。誰が日下部の相手でも驚きはしない」
「……せめて禪院、ああもう乙骨か。そっから下の歳のやつは外してくれ。成人過ぎてるとしても歳が離れすぎだっつの」
「この歳になれば伴侶が二十歳年下でもそうおかしい事じゃないと思うが」
「というか日下部、どんどんやる気が落ちていないか?」と日車が怪訝げに首を傾げたがその通りだった。
自分の好きなタイプの話になってから日下部のテンションはなんだかどんどんと落ちている。
同僚に恋バナを根掘り葉掘りされる状況に羞恥でも覚えているのだろうか、と考えるが、すでにこの歳で愛だの恋だのの議論をせざるを得なくなくなった時点で諦めはつけたのでそれはないだろう。
——ではこの胃の不快感を伴う無気力感はどこからきているのか。
自分の行動原理を振り返ってみても思い当たる事がなく、考えれば考えるだけなんだかムカムカが増長してくる気さえする。
ならばこれは今考えても意味のない事だと日下部は切り替えた。
時計を見ればもうかれこれ一時間が経っている、潮時にしてもいいだろう。
「なぁ日車、今日はこれでいったん終いにしねぇか?思い当たらねぇもん今考えても仕方ねーし、あとは自分で考えるからさ」
「え?……ああ、うん。そうだな。そうしよう」
日下部の提案に日車が一瞬きょとんとしたあと、一拍の間を置いてから表情を取り繕った。その顔に日下部はなんだか違和を感じてふと気付く。
今の言い方ではカウンセラーとしての日車を『不要』として扱ったように受け取られたのではないだろうか。
そしてそれは責任感の強い日車にとって『否定』と同義のものだ。弁護士時代に、何度も経験していたはずのもの。
瞬間がたりっ、今度は椅子を蹴倒す勢いで日下部は立ち上がった。
「待て、勘違いするなよ日車」
「うわ、……どうした急に」
大きな音を立てて倒れた椅子に驚いた表情をしながら日車が日下部を見上げる。
この些細な表情筋の動きの違いを日下部は七年かけて全て分かるようになったのだ。
「マジで好きな相手の心当たりがねぇから、それでこれ以上お前の時間使わせんのも何か違うなって思ってだな。俺もあんま真剣に考えてなかったし。でもちゃんと考えるし、来週血液検査の結果も出るんだろ?それで何か分かるかもしれねぇし、たがらだな」
「?、——ああ。うん、——ふ。大丈夫だ、問題ない」
急に慌て出した日下部からその理由を察したのだろう、「なんだそんなこと」と日車が困ったように笑う。その顔に日下部の眉尻が下がった。
日車の察しの良さは長所であり、短所でもあると日下部は思う。
「君は面倒くさがりに見せて結局のところ善い人だな。それこそ俺に気を遣う必要なんてないんだが」
「……俺が善い人なら世の中全員善人で呪霊も湧かなくなるっつの」
「ふ。そしたら俺たちは晴れて全員失業だ」
緩やかな笑い方に促されて日下部は倒れた椅子を戻して日車の前へと座り直した。
失業したらどうしようか、とあえて関係のない話を振ってきた日車に、手のひらの上でまた転がされる事を受け入れて日下部は話に乗る。
「そうなったら田舎に引っ込んでダラダラしてぇな」
「老後のスローライフに憧れる都会人の典型だな。言っておくが諸々の便利さに慣れた都民に田舎の不便さは酷だぞ」
「岩手ってそんな田舎?」
「田舎の定義によるが、俺の実家がある地域はバスが一時間に二本で最寄り駅まで三十分かかる」
それは確かに三分に一本電車が来るような東京住みからすると不便ではある。でも高専はむしろ車がないと不便な立地にあるので日下部にはさほど苦痛とは感じなかった。
そういえば日車も早くに両親を亡くしたと言っていたなと思い出す。
「実家って残してんだっけ?」
「ああ。売るにしても貸すにしても手続きが面倒で放置してしまっている。一応年に一度は帰って掃除してるんだが」
便利な東京を経験してもなお岩手に戻って弁護士事務所を開いた日車は、死滅回游を経て呪術師として東京に縛り付けられる事になった。
もう七年も経つが、故郷を懐かしく思う日を彼はどんな気持ちで過ごしているのだろうか。
ふと、この男がどんな場所で育ったのか見てみたくなった。
「ふうん。じゃあ次帰る時は連れてけよ」
「——は?」
「老後のスローライフの参考にしたい」
珍しく分かりやすく驚く顔を見せた日車に、意表を突けた優越感も相俟って日下部はうっそりと笑った。
冗談と取られても構わない。どうせ帰省する時は日下部に届けが出されるのだから合わせて休みを取ればいいだけの話だ。
「——じゃあ、次の冬だな。雪かき手伝ってくれ」
「え、めんどくせ」
「ここより上の田舎に引っ込むつもりなら宿命だと思った方がいい。ちなみにウチのピーク時は雪かきした一時間後にまた雪かきだからそのつもりで」
心なしか楽しそうにしている日車に日下部の口角もつられて上がる。
呪術師をやっていてそんな穏やかな老後を迎えられるだなんて本気で思ってはいないが、例えば、そうやって故郷を懐かしみながら会話できる誰かがいる人生というのも、きっといいものなんだろうなと思った。